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April 09, 2005

一年に一度の  1/22

1/42

っていうミスチルのアルバムがあった。ライブのアルバムだ。
42回のツアーの1回分をアルバムにしたものだった。

1/22

22年分の1年間。
ああ、去年から一年たった。早いのか遅いのかそれは分からない。
昨年は22年間の1年間をアルバムにしたものだった。

相変わらず思う。去年もいろいろなことがありすぎた。
昨年の今頃、今回のような長ったらしい文章を書いているときにはまったく、想像しなかったこと。そんなことがいくつも起こった。やはり、今年も、そして来年も想像もつかないことが起こるのだろう。想像がつかないことが起こるというよりは、去年このような文章を書いているときは自分で想像もしなかったことを、自分の意思で決定して行っている。すなわち、今まで知らなかったさまざまな情報や経験を偶発的に行ってきた事によって、さらに私の思考回路が変化し、想像もつかなかった意思決定を当たり前のように行ってきた。なんとも、不思議な話だ。やはり、「経験から生まれる志」とはまさにこのことだ。まあ、来年の今頃はまた、今では想像もつかないことをしているのだろう。想像もつかないような意思決定をしているのだろう。それが、楽しいのだ。大体人生がどうなるか分かるとつまらなく感じる性格で、まったくどうなるか分からないから楽しめる。1年後の将来が大体予想できる世の中はいやだ。だから、独占的な職業とかが嫌いだ。だって、将来どうなるか決まっている。決まらない人もいるが、人間はだいたい、資格をもつと守りに入って、それにすがっていきていこうとする。あえて、リスクをとらなくても普通の生活が出来るからだ。こんなことを言っている私も、来年はどんなことを言っているか分からないし、年齢を重ねるうちに、このような考え方で生活していくのはつらくなるかもしれない。しかし、そんなこと今の私のしったこっちゃない。で、答えのないことをまた考えるわけだが、私は何をベースに生きているのか。ベースにいきている表現が正しいかどうかはしらないが、他の表現方法を知らない。で、何がいい対価というと、ベースとなるものそれが考えであれば宗教である場合もある。熱心なイスラム教徒とかはそうなんだろう。自分の最もベースとなる重要な価値基準が宗教の考えとなる。私もインドに行ってから自分は文化的な意味を含めた文化的仏教徒であるといっている。ただ、仏教というものを私は自分勝手にとらえていて、何か唯一絶対の規範がないものが仏教だと思っている。その人その人が持っている考え、それを大枠で認めるものが仏教だと思っている。だから、仏教というものが私の中で絶対的なベースとならない。


私は瞬発的な脳の力は多少ある。何か言われたり、何かあったらそれに対してある程度的確に考え、答えを導き出せる。しかし、私はその答えを意識的に脳にストックし、考えを発展させるという能力が欠けていると私は思っている。

感覚、すなわち何か感じるときのほうが考えているときよりも脳が働いているという研究成果を聞いたことがある。たぶん、そんな感じがあると思う。

私は完全なプラス思考だと思う。自分のいいように解釈する。自分が好きだし、自分を信じている。確か、中学のときの国語の授業で私が先生に当てられて、漢字を黒板に書いた。私はあっていると思っていた。しかし、周りの友達がみんな違うといった。先生に、あってる?間違っている?今なら書き直してもいいよと言われた。そのとき私は、「己を信ずること」だ。と先生に言った。しかし、周りの意見に流され漢字を書き換えた。そうしたら、実は書き直したほうが間違っていたのだ。そうしたら、先生に己を信ずることって言ったじゃない。見たいなことを言われた。その時は、よくありそうな授業の一こまだが、今もその状況は鮮明に覚えている。黒板のどの位置に書いたかも覚えている。それ以来私は己を信ずることをいきる基本とし始めた。なんでもない授業だったのだ、そのときに絶対この経験を忘れないとか、そのときに己を信ずることを座右の銘のようにしようとも思わなかった。しかし、その場面を今でも覚えている。人間の記憶や感じ方というものはなんと不思議なのであろうか。

まあ、小学生のときから物の見方がひねくれていたようだ。それも小学1年生のときから。君は批判的なものの見方をするといわれたらしい。そんなときから、批判的な見方をする奴って憎たらしい。教師から見たら、ウザイ奴だ。たぶん、自分で認識しているよりもウザイ奴なんだろう。まあ、それはいいとして、私が何かを見るときの視点や何かを面白いとか心躍る、ワクワクすることといえば、「今しか出来ないこと、新しいこと、今後さらに変化・発展していき大きなインパクトをあたえそうなもの、常識とは違った考えだけど、論理的に証明されているもの、みんなはやりたいけど出来ないような馬鹿なこと、無邪気なこと」、こんなことを面白いと感じるんじゃないかな。じゃあ、なんでこれらを面白いと感じるのだろう。

で、それはいいとして21歳という一年間はどんなことがあったのか、なぜそのような行動にいたったのか、を今一度振り返ってみたいと思う。自分が行った意思決定を、その時の脳を自らの脳で再現してみたい。実はブログにいろいろ書いているために、その時の心境というものは分かる。まあ、皆さんが読んで感じた印象、イメージとはまったく違う、もっとリアルなものが私だけにはよみがえってくる。そうなのだ。大学の校舎が変わった。それは、いいとして私は人生における選択に関して非常に重要な教訓を得た。それは、私が選択においてミスをしたから分かった教訓だ。昨日、芸大の授業で「布施さんが養老孟司先生の一言を引用されていた。「人生の分岐点で、先が見える選択肢と、どうなるか判らない選択肢の二つがあったら、不確実な方を選びなさい」と。まさにこれに近いことを昨年の春に実感したのだ。なんだかんだ理由をつけて、楽な選択肢を取る。その時はイイと思っていた。最善の選択だと思っていた。最善というか選択肢があるという時点で人間は選ぶということができ、豊かなのである。選択が迫られたときに、どの選択肢をとっても良い悪いはないと思う。なぜなら、たらればというものは世の中にないからだ。だから、選択したらその選択肢を選んだということしか実際に起こらない。だから、どんな選択をしようとそれはそれで正しいのだ。でも、その選択をする際の基準がある。私はまず、冷静になって選択する必要があると考える。というのは選択肢が実際に選択できるようになる前に、選択肢となりうるものを全て並べ、いくつかの観点から選択肢となりうるものを評価するのである。それで、様々な観点から、指標を元にするとどれを選択すべきかをあらかじめ決めておく。そのあと、実際に選択できるものが出揃ったらまた、同じことをする。観点ごとに選択肢を評価するのである。それで、どれを選択するかを決める。その後に、自分のことを知っている人にたずねてみる。選択肢に関することと自分の過程を知っている人と、選択肢が出てきた過程はまったく知らないが私のことをよく知っている人に尋ねて、どの選択肢が私にあっているかを聞く。今まであげてきたものはただ参考にするだけだ。そして、次、選択肢の中で一番つらい物を選ぶ。困難なものを選ぶ。一番やさしいものを何だかんだと理由をつけて選択すると、後から絶対に後悔する。で、一番困難なものを選んだ。選ぶというか、どれが一番困難かを認識したのだ。この部分が養老先生の不確実なほうを選べというものに似ていると思う。それで最後に、これで選択肢を選ぶ。直感だ。これだと思ったものを選ぶのだ。ただそれだけ。そうすれば、納得いく決断が出来るはずだ。これが、春に学んだこと。

なんか、いろいろあった。春は山にも登った。山というものがこんなにも美しいものかと知った。大学ではレポートが多かったが何とかみんなの助けもあって乗り切った。いろいろな人に出会った。そして、いろいろなことを話した、今まで考えなかったこともいろいろ考えた。いい写真にもたくさんであった。面白い話もたくさん聞いた。なんか、自分というものは寝たら死んでいて、朝起きると新しい自分になっているかのようにも感じた。そんな話をしみったれた居酒屋に行き、某氏と良く語り合った。たぶん、多くの学生が話していることを僕は話したことがないと思う。多くの人がどんなことを話しているのか知らない。たぶん、私の周りの人は私と話すときは政治や経済の話や人間の意識の問題と普通の人と話さないことを話していたのだと思う。まあ、そんなこんなで夏が来た。この夏は人間というものが何たるかを考えた。それは、夏休みに入る直前の出来事も含め、永遠はないことを知った。し、時は流れ、しかし時は止まることを知った。もちろんインドに行き、人々を見て人間について考えたし、ネパールのがけ崩れでは本当に死にそうになり自ら生きるということも考えた。思い出したがインドという地。1年生の頃から友達が行ったという理由で気になっていた。気になっていたというか大学生の間に絶対行くと決めていた。行かなきゃ分からない。

で、ナンなんだ。何が言いたいのかまったく分からない。多分、それでもイイから今脳にあることをただただ出しておく。書き残しておくことが重要なのだと思う。

まあ、私の生きるベースというものが一番問題で、あと何年いきるか分からないがそれを出来るだけ明確にしたい。明確に一生ならないものなのかもしれないし、常に変化し続けるものなのかもしれない。しかし、多分年を重ねるごとに人間は体の衰えなどを脳が自然に感じ何かにすがりたくなる、しっかりとした、動かないもの、それがいきるベースだと思うのだが、それを欲しくなるのだと思う。今の私がそれを欲しいかといえば分からない。

多分、来年という年、もっと言えば、今の私は、私の人生を右にも左にも後ろにも、前にも、上にも、下にも、斜めにも、違う次元の世界にも導ける。しかし、それで人生が固定されるとは思わない。この私の人生はミガルであることをモットーとしているので、固定はない。しかし、人生が大きな局面に来ているのも確かだ。

絶対に、予想通り行かないのだが、人生設計をしてみるのもいいかもしれない。10年後何をしている、何をしているのではなく、何をしていたいか、20年後、30年後・・・も同様に、もっと短いスパンで、5年後3年後、1年後も何をしたいのか。そしてそれをするためには今何をするべきなのか。多分、究極の目的があって、それがないと難しいのかもしれない。だんだん逆算をするだろうから。

で、私は禅問答のような答えのない話が好きだ。まあ、結果的に答えが出るのも好きだ。そして、日本の教育を変えたいとも思う、さらに、雄大な自然の田舎で暮らしたいし、世界中の雄大な自然の場所に行きたいし、僧侶や料理人やゲージツかというものになるんじゃないかなとも思う。じゃあ、それらが夢なのか?それらを達成するためにいきるのか?何をするのか?たぶん、有名になりたいとか、みんなにすごいと言われたいとか、すごいお金が欲しいとかはない。

結局は何をしても満足しない性格で、新たなものを求める。多分そんな性格、自分の能力の可能性を無限であると思っている性格。だから、頑張ったことは?ときかれてもないという。あえて言えば、ネパールのがけ崩れぐらいだ。なんで頑張ってないかというと、力を入れたことはある。しかし、頑張ったと自分で認めると、それが限界のように感じる。私はガンバリズムがどうのこうので、自分らしい生き方をといいたいわけではない。頑張ったと自分で認めると、それ以上頑張れないのかということになると思う。私の考える頑張ったは一つだけ。過労死だ。死ぬまで頑張ってこそ、頑張ったといえると思う。そう簡単に、やすやすと頑張ったということは出来ない。


今年22のテーマを一つ決めよう。
「日々続けること」
「継続して体系的に学ぶ、行動する。」
「休むことはさび付くことだ」byエジソン

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