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April 24, 2005

PCメール一週間普通になります

PCメール一週間普通になります。

ちょっと、PCの調子が悪く修理に出します。
ということで、PCが一週間ほど使えません。
この時期でよかった。

ということで、メールなども使えません。
すいませんが、よろしくおねがいします。

April 23, 2005

友達が取った写真は身近に感じる

友達が取った写真だと、身近に感じる。

友達が南米に行ってきた。先日南米の話をいろいろ聞いて面白そうだなと思ったのです。そして、写真をCDRでもらった。エクアドルとペルーの写真が200枚ぐらいだろうか。その写真を見ていた。ガラパゴスやマチュピチュ、ナスカなどの写真がたくさんあった。その写真はとてつもなく美しかった。特に空がきれいだった。あの空の青はめったに見ることが出来ない青色だと思う。嘘のない青とでも言えばいいのか、なんかこれ以上の青はないというほどの美しさ。濃い青もあれば淡い青もあるのだが、澄み切っている。空気がきれいなところはあんなにも空の青が美しくなるのだろうか。

で、そんな写真をいろいろ見ていた。食事の写真も写っていた。はっきり言ってうまそうだった。日本人の口に合うといっていた理由がわかる。街の写真も写っていたし、なんか南米という国が少し分かった気がした。その中でも、マチュピチュの写真を見たときにふと不思議な親近感を感じた。

マチュピチュの写真や映像はテレビや雑誌、インターネットなどでよく見る。あれだけ有名なので、もう見慣れたといってもいいほどであるだろう。しかしだ、友達が取ったマチュピチュの写真を見たときに、いつも見るマチュピチュの写真とは明らかに違う感情を持った。何か、マチュピチュが自分に近く感じた。手に取れる感情とでも言おうか。友達が取った写真はなぜ身近に感じるのか。

つい先日その写真を撮った彼と直接会っていた。だから、そんな身近な友達、実際に自分のそばにいた人がペルーまで行ったというのが身近に感じている理由だろう。その友達がペルーと日本を行き来した。そして、実際に行った人が自分のそばにいる。友達という物体は実際にペルーと日本を行き来して俺のそばにもいる。というのでリアリティが沸いたのだろう。それと、その友達からマチュピチュの話を聞いていたので、話と写真がシンクロしたからかもしれない。さらに、その友達がどんな気持ちでマチュピチュに行き、何を感じたかをだいたい推測できる。写真を取った気持ちが分かるから身近に感じたのだろうか。

まあ、人間の感情というものは不思議なものだ。

信頼と喜び

世の中、本当に信頼できる奴は少ない。
この人なら信じれるって思う人は数えるほどしかいない。

信頼って言うのは、お互い約束をして守ることによって生まれるものだと依然誰かが言っていた。しかし、これだけじゃないと思う。日々の会話で嘘をつかないってのが重要じゃないかな。まあ嘘だけじゃなくて、話していて信頼できるって何か感じるものがある。無駄な隠し事はしない。率直に話しているように感じる。まあ、その人の顔を見れば分かるんだとおもう。本物の人間の顔は本物の顔をしている。

なんか、分からんがこの人は信じれるという人がいる。お互いの心を分かっているなという人がいる。毎日あっているからとか、なんかのプロジェクトをやって成功したとかだけじゃない。よくわからんが、信頼できると感じている人がいる。その人の考え方や行動も信頼できるというか、尊敬できる。その考えや行動を自分もその人がなぜとるのか分かる。また、その逆もしかりなんだろう。

そうやって、信頼できる人の行動や成果は自分のことのようにうれしい。別に自分が何かを成し遂げたわけでもないのに、うれしい。その人の考えや行動がある程度自分でも分かっているからうれしいのだろうか。こんな友達がいてうれしいと思いました。

本当におめでとう。今の気持ちを忘れないで、やって欲しい。そして、そこがどんなところであろうと、俺がどんな忙しかろうと、実際に行き、またその成果を目で見て喜びあいたい。

もちろん、俺も今の気持ちは忘れないし、精一杯やって日本を日本の一人一人を面白くしていたいと思う。

たぶん、十年後とかに話しをしてお互いのことを面白いと思える状態がベストな将来像なんじゃないかな。そんな日を楽しみにして。

April 22, 2005

カルロスゴーン

そういえば、この本も猛烈に良かった。なんだかんだ言っても、一流と呼ばれる人は違うな。

かなり前に書いた文章より

有名人には何かがある。これは有名人だからすごいといっているわけではありません。有名人だから偉いとも思っていません。しかし有名になるためには、何か理由があったはずです。その人の能力なのか外的な要因なのかはいろいろだと思いますが。これもなんとなく書いてみただけ。2002/12/4

カルロスゴーンさんがたいしたことないといっている訳ではまったくないです。有名になるにはそれなりの理由がある。と再びただ思っただけ。

それにしても、この本も良かったな。

ルネッサンス ― 再生への挑戦
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a great vantage point

a great vantage pointとはどこだろうか?

今一度考えてみたい。

生ぬるい性格なので、一回根性を入れられるのもいいと思うんだよね。

iichiko design

iichiko design展に行ってきた。
これに行く予定で行ったのではなく、アクシデントな感じで。

企業のデザイン展ということで「いいちこ」の広告やボトルデザインなどが展示されていた。正直「いいちこ」がこんなにデザインとかにこだわっているとはしりませんでした。地方の酒造メーカーがこの商品のブランド戦略で成功して全国的に有名になったみたい。

なんか、広告は写真と短いフレーズが書かれたものが多かった。なんか、ゆったりとあいたゆとりのある広告が多くて落ち着いた。

いいちこの広告ギャラリー

いいちこパーソンのボトルが欲しくなった。このボトルいいんだよなー。たまらんくらいいいはー。本当に欲しい。値段も441円と安くていいねえ。
000009l.jpg

いいちこスーパーのボトルもいいかんじだ。でも、パーソンのほうがいいな。

スーパーはいいというか、こんなボトルの焼酎が合ったんだと驚いたというのが正しいだろうか。いいちこパーソンは普通のスーパーとか酒屋さんに売っているのだろうか?

iichiko design project なるものがある。

iichiko.jpg


関係ないが、スペイン語を話せるようになりたい。
スペイン語勉強しよう。

April 21, 2005

で、どうしたいんだ?

で、どうしたいんだ?
って自分に言ってみました。
あのですね、もうすぐ一年に一度人生について考える日ですよ。

そう、だからいろいろ考えたこと、もとい思うことをつらつら書こうと思う。
今まであったことはいくらでも書いてきた、だから未来について書こうと思う。己が将来に対して何を考え、何を思い、どうしていきたいのか。また、それはなぜか?将来のためになにをするべきか?それを書いていきたい。

ある種、吾人の任務のようなものだ。

甘いと思っていると甘さは増幅する

(無意識に)甘いと思っていると甘さは増幅するのかな。

何かを食べるとき、その何かを食べたことあったら事前にある程度の味を推測する。意識的にではなくても、食べたという経験があれば、無意識的に味が脳の中で想像される。食べたことなくても、テレビで見たり、似たような食べ物から味を想像している。

そうすると、実際の甘さよりも甘く感じる。のではないかと思ったのです。ただ、意識的に過剰に甘いだろうと意識しすぎると、その期待が大きすぎて実際の甘さよりもあまり甘く感じられないかもしれないです。

これは、ところてんをはじめて食べたとき、くずきりと思って食べたらものすごくすっぱかったという話を聞いて思った。

このエピソードから分かることは、脳が事前に甘いものが口に入ると認識していて、甘いという状態が脳で作られているからこそ、想像以上にすっぱいと感じる。こう思ったのです。となると、甘いという状態が脳で作られているプラス実際の甘さで、甘さが増幅しているのではないかと思ったのです。

アランブラ

あ、今NHKの世界遺産の番組でアランブラ宮殿をやっている。

アランブラ、アルハンブラ宮殿といえば、スペインの南にあるグラナダだ。まさに、あの町だ。
あの、スペインで最も安い宿に泊まったグラナダだ。

夜中まで知り合った日本人とアランブラ宮殿を見ながら語ったグラナダだ。
バルサやマドリッドとは違って夜店がすぐに閉まってしまったグラナダだ。
グラナダビールがうまかった。

夕食は、デパートで買い物をしてみんなで食べたグラナダだ。
このとき生ハムにはまってしまったグラナダだ。
みんなで夜中まで飲みながら話していたグラナダだ。

あ、そうだ。
あそこの町を離れるときは笑った。

パスポートがないって一人の奴が騒いで、バスに乗り遅れそうになった。
が、そもそも、乗るバスなんて確定しているわけじゃないので困らない。
そこで、みんなばらばらに散っていった。
一人はグラナダに残り、後にモロッコへ行ったらしい。
一人はマドリッドに行き、
一人はマラガへ行き、
俺はあるへシラスへ行った。

そんな町だ。
この町で食べた最後のものは、トルティーヤだった。
一番最初に食べたのはバーガーっぽいやつ。
なんか、おばちゃんが変な花を売りつけてきた町だ。

熱かったなー。

でも、一番思い出に残っているのは、夜ライトアップされたアランブラ宮殿だ。
きれいだった。美しかった。光によって浮かび上がっていた。
そんな、アランブラを見ながらみんなで話していた。

あ、いい町だった。グラナダ。

なぜ感じる心は共通するか

CRM

アマゾンのこれを買った人は、こっちも買ってますみたいなの。
これは、イマイチなこともある。

しかし、ブログなんかをよんでいると、この人の感性とあうなーって人がいる。
さらに、なにかをしたときに感じること、何を良いと思うか、世の中的にはレアなものをいきなり持ちだしたり、レアな同じ行動をとる。

まあ、何個か重なっただけで、過剰に重なっていると感じてしまっているだけかもしれない。

みかん

みかん。
みかんといえば、愛媛。
手軽に食べられて、ビタミンCもたっぷり摂取できる優れもの。

そのみかんの愛媛。愛媛のみかんが一意転落。
和歌山さんに一位をとられたみたい。

小学校でテストを作っていた先生、順位変わりましたよ。
テストの採点のときは、和歌山で正解ですよ。
気をつけてくださいねー。
と、まったく意味のないアドバイス。

みかんには1年ごとに収穫量が多い年と少ない年を繰り返すという傾向があるみたい。初めて知った。

朝日新聞 2005年04月20日20時08分
「ミカン王国」愛媛県が、1970年から守り続けてきた収穫量日本一の座から滑り落ちた。農水省が20日発表した04年産ミカンの収穫量調査で1位になったのは18万300トンの和歌山県。愛媛は17万200トンで69年以来の2位。両県の台風被害の違いが影響した。

 ミカンは1年ごとに収穫量が多い年と少ない年を繰り返す。04年産は収穫量が少ない「裏年」。

なんか昨日、飛行機でインディアのマックから新宿へ飛んだ気分

なんか昨日、飛行機でインディアのマックから新宿へ飛んだ気分。

でした。

えっと、昨日インドで会った友達に新宿であった。
彼はなんかいい味を出している。
ネパールで話して、インドのマックで会う約束をして会って話して以来だった。

なんで、あったかというと彼が今年の春に南米に行ってきたので話を聞いたのだ。基本的に、年下の人と少人数でいることすらままならない私なんですけど、彼とはかなり楽しく話せるのです。

まあ、一人旅している人なら年下でも年上でも、どんな人でも話したら面白いと思います。

で、南米はやはり面白いみたい。あと、一人旅をしていて気をつけなければならないところを知っていれば危険はないみたい。そんでもって、ペリーのナスカとかマチュピチュは観光地化していてテンション下がるみたい。

で、彼はエクアドルとペルーに行ったんだけど、エクアドルで行ったガラパゴスの船ツアーは最高に良かったらしい。しかし、2泊3日で10万。星が無茶苦茶きれいらしい。そりゃそうだろう。船しかなくて、周りはジャングルの中の川だから。周りは真っ暗らしい。そこから見る星は抜群みたいだ。もちろん日本人は一人だったから寂しいみたい。

あ、スペイン語を話せると南米旅行は楽しめるみたいだ。やっぱり、言葉は出来たほうがいい。それと物価はインドより少し高いくらいみたい。食事は100円で食えるみたいだし、宿も500円ぐらいみたいだ。一日1000円でいけるみたい。さらに、食事も日本人の口に合うみたいだ。

南米はやっぱりいいところなんだなー。

あと、エクアドルであった韓国人が日本語を一つだけ知っているといって、話しかけてきたらしい。その日本語は「スゲー、スゲー」。なんとウユニ塩湖で日本人が一緒だったらしく、そこで覚えたみたい。韓国人が覚えるほど日本人はウユニでスゲーと連呼していたのだろう。まあ、それだけウユニはすごいのだろうな。

あ、ナスカの地上絵を飛行機で見るのは30ドルぐらいみたい。

写真をCDRに焼いてもらうので楽しみだ。

April 19, 2005

感覚が変わる

人間は感覚が変わる。当たり前といえば当たり前だが不思議だ。

たとえば、小さい頃はテレビでやっているアニメにかぶりついてみていた人も、それから10年20年たてば見ていないだろう。ニュースを見たくなったりするものだ。

小さい頃、お菓子や甘いものを好きで好きで、それしか食べたくないと思っていた人が、年をとると塩辛とかいわゆる大人の味を好きになる。味覚が変化しているのだ。

これって、当たり前かもしれないが不思議だ。例えば食べ物で考えると人間の舌は昔も今も一緒だ。(正確には細胞は日々変わっているから違うのだろうけど。)なのに、人間が感じ取るうまさというものは変わる。舌も食べ物も基本的に変わっていない。すると、それをおいしいと感じる脳だけが変化していることになる。

さあて、ではなぜ脳が変化するのか?

過去の感覚経験で成長した?いろいろな経験をしていくうちに、感覚が成長していった。スポーツ選手が練習してスポーツがうまくなり、グローブの良し悪しが分かるようになったりするのと同じだ。毎日の食事は練習で、鍛えられていった。

体が欲している栄養分などを無意識のうちに脳が判断し、それが含まれる食べ物をおいしいと感じている。

周りの趣向が変化して、大人っぽいと言われるものを好きになっているのに自分だけ子供の頃と一緒だと恥ずかしいから、大人っぽいことを真似るうちに感覚が変わっていった。

よー分からん。

関係ないが、
なんかCMで人間は輝くために生まれてきたといっていた。なんか、うれしかった。

素朴な疑問

日々生活をしていると疑問だらけである。

本当に、当たり前の光景が不思議で仕方がなくなるときがある。

昨日もカラスがビルの上に止まった時に、不思議で仕方がなくなった。カラスは頭がいいと聞く。それを踏まえてよんで欲しい。カラスはビルの上の看板に止まったのだ。その看板は正方形のような形。だったら、一番安全な奥に止まればいい。なのに、一番角で一番落ちそうなところに止まった。人間なら、一番怖いと思おうところだ。なんで、頭のいいカラスがそんな危険なところにあえて止まるのか。

で、思ったのはカラスは空が飛べるから、上から落ちるという怖さがないのかもしれない。上から落ちても飛ばば良くて死なないから、高い危険なところに止まることはまったく怖くない。これは、海に入ると死んでしまう動物は海が怖いが、海へ入っても死なない動物は怖くないのと同じなのだろう。

それと、角に止まったほうが地上を見やすい。地上にはえさがたくさんある。だから、地上のえさを監視してすぐにとりにいける。こんな理由じゃないかな。

まあ、カラスの低空飛行は怖いです。って関係ないな 笑

変な感じ

BBC worldを見ていました。
といっても、多重音声で日本語同時通訳で。

そこで、小泉首相のインタビューが流れて声が聞こえてきた。
すると、英語を話す人用のテレビなので小泉さんのインタビューを英語にしてイギリス人通訳の人が話しているわけです。それをまた、日本人の通訳が日本語にしている。

という不思議な現象でした。

日本語→英語→日本語
小泉さん→イギリス人通訳→日本人通訳
こんな感じです

April 16, 2005

で、何だ?→デナーダ

で、何だ?と言葉を発したら、デナーダという言葉を思い出した。
思い出したのだと思う。

たぶん、どっかの国で良くつかったっきがする。
スペイン?ポルトガル?そのあたりかなと思った。

ネットで調べたら、「De Nada デナーダ (どういたしまして)」だった。
じゃあ、ありがとうってナンだっただろう?

オーラは良く使った。Hi!のような感じだ。どこでもかしこでもオーラと言っていた。
うーん、思い出せなかった。
で、調べた。グラシアスだ。

ああ、そういえばそうだ。
思い出せないと、えもいえぬ気持ちになるが、分かってしまうとあっそうかぁ。という感じ。
たいした喜びもない。
マジックの謎解きもそう。
どうしても分からなくて、いろいろ考える。あのときの感情はなんともいえないくらいもどかしい。意地でも謎解きをしてやると思う。
しかし、どうしても解けず答えを聞く。あっそうか。という気持ちになる。謎解きをして考えている最中はあれだけ、脳に負荷をかけ、真剣に考えているんだから、答えが分かったらもっと喜んでもいい気がする。

なんでだろう。自分で解いたとしても、答えを聞いたときよりも少し喜びは大きいが、そこまでの感動はないと思う。なぜだろう。
あれだけ脳に負荷がかかっていることをして、その負荷がとかれるはずなのになんであんなにも喜びが少ないんだろう。不思議だ。

April 15, 2005

one-shot learning

one-shot learningが気になりすぎです。aha体験とも言うらしい。0.1秒の同期発火

まあ、科学的にはACC→DLPFCということらしいのですが、科学的にも気になるが、何か引っかかる。

たぶん、人間は脳が全てといっても良くて、さらに言えば脳の動きが全てといってもいいと思うのですが、その中で、重要なのは記憶と考えるということだと思うのです。で、パッと思いつくのがone-shot learningのような感じがするのですが。

でね、脳って不思議すぎるのです。自分の脳の思考過程を自分の脳で見る、メタ認知といいますかホムンクルスといいますか。

自分の脳のことで、昔から俺が言っている。2003年12月17日にこんなことを私は書いている。

思いつきでも、何か頭の中でスイッチが入るとそれを実現に向けて行動する。
同じように頭の中でポカーンと思っていただけなのに、何が違うのか?
自分の中でのプライオリティーが上がった?
そんなもんじゃないよな。
これは、スイッチとしか言いようがない。

たとえば、あと24時間後には行こうと思えばタンザニアにもいければイグアスの滝にもマチュピチュにも、しかし私は日吉にいるだろう。
なんなのかねー。

October 30, 2003にも同様のことを書いている。

で、言いたいことは
たとえば、私が24時間後ぐらいにはにベネズエラに行こうとしたら飛行機を乗り継ぎいくことができる。
しかし、実際は私は行かないだろう。ベネズエラにはいないだろう。なぜだろう?

私が意識の中でそう思っていないから。
そう、意思決定しなかったから。

このように、私にとってこの問題は気になることだったのだ。なんというか、こんなことを書いているとは覚えていなかったというか、one-shot learningを聞いたときに、過去に書いてことを思い出さなかった。でも、なんかすごく気になった。何でかしらないけど、気になった。で、家に帰って少し考えてみると、昔も同じようなことを考えたぞと思い出した。そして、過去のブログを検索したら、あった。それも2回もエントリーしている。ということは、やはり気になることなのだ。どんな思考回路をたどって気になっているのかは分からない。しかし、この問題を気になるという事実は変わらない。私の脳の中にはこのような問題を気になる思考回路が備わっているのだろうか。それにしてもなんで、このような類の問題が気になるのだろうか?無意識的にこの問題に反応する自分の脳の仕組みが気になる。これもone-shot learning
的でなんか一瞬気になると思ったのだ。

もっといえば、2個目(October 30, 2003)は偶然見つかった。なんとなく、大学にあった昔のブログを新しいブログに移行しようとした。そのときに、前以降作業の途中で終わったと思い出し、どこまで移行したかを確認しようとした。そして、 October 2003をクリックしてみた、そうしたら一番上に2個目(October 30, 2003)があったのだ。まさに、セレンディピティですか?幸運が偶然起こる。たぶん、このone-shot learningについて考えていなかったら、そのまま気にしずにながすだろう。しかし、one-shot learningについて考えていたので、このエントリーが気になった。それで、すごくいろいろ頭の中で考えた。ワクワクしてきた。セレンディピティを感じるにはある物事について事前に考えている必要があるのだろう。これは、一生懸命に研究者が数学の難問をといていてちょっと一休みしたときに良い開放が思いついたという話や、夢で見てそれが開放につながったという話に似ている。では、なぜ、そのようなときに良い開放が思いついたのだろう?その時の脳の動きはどうなんだろう?

意思決定の瞬間とかもそうなのだと思う。ここで書いているスイッチがone-shot learningナンだと思う。で、なぜこのようになるかというと、なんか面白そうと思っていて、それを一押しする情報が入ったり、脳の思考回路が何かを感じ取ったのだ。そう思うのはセレンディピティも関連してくると思ってみたり。

aha 体験 でググッテ思い出した。私のaha!体験は不等号の計算だな。なんか、あれがぜんぜん分からなかったんだけど、一瞬でぴカーンときて概念を理解できた。たぶん、ウユニもイイと思ったのはaha!体験だと思うのです。どーのこーのという理由はないけど、なんか感じた。

aha!体験による記憶や自分への影響は非常に大きい気がする。それは何でだろうと考えてみたり。

人生を二回生きたいわけで

人生を二回生きたいわけで、でもそれは無理なわけで。

いろいろな意味からして無理ですね。

本質的に「人生を二回生きたいわけで」に含んでいる意味は、一回この世の中で生きてみて、一回目は実験、そして二回目はそれを踏まえて人生を生きてみたい。この時点で、脳のデータが受け継がれているので人生を二回生きたことにはなりません。

さらに、現実的な意味としては二回いきることは不可能です。一回死んでしまったら、再び生まれてくることは出来ない。

しかし、二回いきてみたい。とてつもなく面白そう。面白そうというのは絶対出来ないと脳が認識しているから、道のものに対するワクワク感と、希少性のようなものにワクワクしているのだと思う。

某先生が、生きている理由は死んだら生き返れないからといいますが、これは究極を言えば正しいと思うのです。

なんで、こんなこと思ったかというと、いけてる人って本当にいけてる。おもろい。最近の私の言葉で言いますとファンキーなのです。痛快なのです。そんな人生を送っている人はたくさんいるわけです。その人たちの年齢は私と変わらないぐらい。で、この人たちは年をとってからも痛快な人生を送るのだろうなと思った。で、現実に目を向けると痛快な人生を送っている大人はほとんどいないと思う。じゃあ、私の周りにいる痛快な人も年を取れば痛快じゃなくなるのか?気になる。で、痛快な人が痛快なままならば、それはすごく希少性をもった人たち。その人たちを小さいところから見てみたい。まあ、これだとタイムスリップしたいのかとも捉えられますが、まあ、それでもいいです。

歌のタイトルも歌手名も知らない

歌のタイトルも歌手名も知らない。

私は、歌をけっこう聞くほうだと思う。雅楽から邦楽から洋楽からCM曲からなにからなんまで。

それは、小学生の終わりからだったと思う。
昔は、なんちゃらという歌手のなんちゃらという曲という認識を持って、そして実際に歌手名もタイトルも覚えていた。知った上で歌を聞いていた。

しかし、最近といえば、歌手名もタイトルも知らない。いいなと思った曲でタイトルおよび歌手名を知っている歌なんてほとんどないのではないか。だから、人に○○○って歌いいねとか○○って歌手いいねといわれても分からない。歌を聴いて初めてああ、この歌好きと分かる。

でも、連続で100回くらい聞いてしまうくらい好きな曲もたくさんある。しかし、タイトルも歌手名も知らない。別にどうでもいい。歌手が誰であろうと、タイトルがナンであろうと、チャートでトップ10だろうと、売れていようと、売れていまいと、関係ない。ただ、聞いて心地よければいい。それ以外に私は興味がなくなったのだ。

これは大学に入ってからだろう。昔はタイトルや歌手名というものに価値を感じていたから覚えていたのだろう。しかし、今は歌そのものにしか興味がない。

たぶん、これは歌だけじゃなくて、社会の見方とか様々なものに対する考え方も変化したのだろう。昔から、権威とかそういった類のものは嫌いだった。それは嫌いだったのだ。しかし、権威というものにすがるというか、知名度のあるものやみんなが良いとするものに頼っていた部分があった。しかし、自分は自分、良いものは良いという性格、それだけ自分に自信を持ったというか、ずうずうしくなったというか。まあ、社会不適合度が上がっているとも言う。名前を覚えなければコミュニケーションもとりづらくなるのだから。

新橋のど真ん中でタイムスリップした

先日、新橋を歩いておりました。
すると、信号が赤になり交差点で待っていました。
すると、後ろから声が聞こえてきた。

年は70ぐらいのおじいさん二人がなにやらしゃべっている。

A:ライブドアフェニックスはどうなったんかなぁ?
B:ああ、ライブドアフェニックスはダメで、楽天が入ったはぁ。
A:そうか、じゃあ、6チームと7チームやな
B:近鉄がなくなったがな

って話だった。おじいさんの口からライブドアフェニックスというなんとも不釣合いな言葉が出てきて驚いたのもつかの間、おいらの脳は昔へ戻っていた。

そのおじいさんたちと俺だけ少し前にタイムスリップしているようだった。ライブドアと楽天どちらが新規参入するかのニュースが毎日のように報道されていたまさに、あの頃に。

なぜだろう、自分の頭からほかのことが抜け、目から入ってくる周りのものからの情報もなくなっていた。なんか、そのおじいさんの話しかアタマに入ってきていない感じ。

その当時の他の記憶も思い出し、現在というものが存在しているのかもあやふやになった。まさに、今がライブドアと楽天が参入を争っている、まさにそのときであるかのような感覚。

そして、ふとカトマンズを思い出した。カトマンズの町を夕方歩いた。完全に、あれはタイムスリップだった。今回のおじいさん現象が町中で起きていた。町中が過去だった。なんか、ドラえもんのタイムスリップみたいな感じ。

April 12, 2005

ドラえもんが

ドラえもんがドラえもんじゃなくなっていた。

ドラえもんの番組宣伝を見た。

なんか、違和感を覚えるな。声とキャラクター(見た目)が共通のものとして認識しているからなんだろう。

まあ、時は流れ、生きている物(人)も流れるが、情報(コンテンツ)は生き延びていくのだな。
ある意味情報(コンテンツ)は常に死に続けているということなんだろう。

人間の気持ちと行動

いやー、人間のなんとなく感じる気持ちと、論理的というか客観的な数値による分析がずれたとする。
例えばAとBの選択肢があったとする。感覚的にはAがいいとする。しかし、客観的データなどをもとに評価するとBがいいとする。

すると、私はなんとなく感じる気持ちを重要視して客観的に出てきた優位な数字をいじりたくなる。
すなわちBの評価を何とかして下げようとして、BよりもAを客観的にも勝っているようにしたくなる。というか、そのような行動に出る。

すなわち、自分のなんとなく感じる気持ち、感性のようなものを一番重視している、重視したい、気持ちに客観的裏づけを無理やり合わせる。

このような行動を私が取るということは、数字を信じるというよりも自分の感覚を重視する人間というものなのだろう。そういう性格と分かったなら感覚を重視するべきなんだろう。そうしたほうが、自分にあっているのだから。

選択肢があって、自ら納得して決めていれば後悔はないはず。あとから、ああしとけばと思わないくらいやれるだけのことをやればいいのだ。

噛めば味の出る奴らしい

最後になって、第一印象は軟弱な奴だと思ったといわれた。
しかし、時間がたって話をして噛めば味の出る奴だといわれた。

うん、そうなのかもしれない。

なんか、ややこしい性格だし。
一言であらわせといわれても、あらわせない。
何か一つの経験であらわせといっても表せない。
なんかいろいろ話しているうちに私というものが見えてくるのだと思う。
さらに、私の考えをまったく理解できない人がいる。
そのような人には、

でも、噛めば味が出る奴っておっさんになって言われることだよなと思いつつ。

まあ、見た目の性格や考えやってきたことが違うんだろう。

軟弱に見えるらしいけれど、いわゆるスマートな人間でも洗練された人間でもない。
泥臭くて一気にやるときはやる、意地とか根性とか気合とか、そんなキャラだったりするのです。

あと、このブログだけを見て私の性格を想像している人は、いろいろ考えてマイナスのスパイラルに陥る無口で暗いキャラだと創造している人がいるんですけど、まったく違いますから。うるさすぎて、運と勢いと乗りでいきていて死ななきゃなんとかなると思っている楽観主義者ですから。


身の回りの出来事をコントロールする要素

自己65%
運命21%
他者14%

基本的に自分が全ての性格なんです。笑

もし世の中に、

もし世の中に、偶然があるとするならば全ては偶然なのかもしれない。
もし世の中に、必然があるとするならば全ては必然なのかもしれない。

もし世の中に、「もし」があったなら。

だが、世の中に「もし」はない。

April 11, 2005

他人が気になる?!

私は、あんまり他人のことは気にならない。他人は他人俺は俺と思っているから。

でも、世の中の多くの人はそうではないらしい。
特に他人の学歴とか職業、年収、とか社会的な評価などが気になるらしい。

一方で他人の夢とかそんなもんは気にならないらしい。

数字で現れたり、目で見てすぐ分かるもの。それらが気になるらしい。それらは比較的どっちが上でどっちが下かというものが現れやすいもののようだ。

他人の夢とか、評価しづらかったり、優劣のつけにくいものにたいする興味はないみたいだ。

なんでなのだろうか?

私は、比較的他人の目に見える学歴とかどーでもいい。正確にはどうでもよくはないときもある。しかし、どんなところにもすごい奴はいて、学歴がどうのこうのとは思わない。それよりも、キャラが面白かったり、その人の夢とか哲学とかを重視する。

だって、他人がどんな学歴もってようと俺には関係ない。おれの人生を左右しない。けれど、夢とかなら共感できたり、刺激されたり、その人の考えを利用して自分の考えを発展できる。

他人の学歴とかを知りたい人ってのは、なんでそうなったんだろう。自分に自信がないのかな。あんたはあんたでいいじゃん。その境地に達するには、そうとう考え抜いたり、経験したりして自分を持った人か、いわゆる学歴を一度持った人でそれに興味がなくなった人なのかもしれない。

私についてあれこれ詮索する人がいるが、私はそういう人には教えたくない。そういう類の人が嫌いだからだ。一方で、詮索しない人にはオープンに話す。表面上の私で評価しない姿勢が感じられるからだ。そんな人には好感を持つ。詮索したい人はもう少し考えたほうがいいよ。

不確定要素

不確定要素、まあそうだ。
未来のことは神のみぞ知る。という。

だから、最も不確定要素の強いものを選ぶ。
周りの視線を無視する。
自分が納得したり、感覚的にあったものを選ぶ。
未来のことだからこそ、過去を見る。

ということで、毎年一回書いている、読みにくいたらたら思いついたことを書いた文章を書く日が近づいてきた。

なんか、厳しい世界で働いてきて、能力をつけ、かつ金に流されない人は自分の信念を持っているんだな。

モヤイ像

今日はなんとなくモヤイ像。
渋谷に突っ立ているモヤイ像。
行ったわけでもないが、モヤイ像。

なんかワクワクすること、
今しか出来ないこと、
やったことないこと、
ちょっと変なこと、
新しいこと、

April 09, 2005

一年に一度の  1/22

1/42

っていうミスチルのアルバムがあった。ライブのアルバムだ。
42回のツアーの1回分をアルバムにしたものだった。

1/22

22年分の1年間。
ああ、去年から一年たった。早いのか遅いのかそれは分からない。
昨年は22年間の1年間をアルバムにしたものだった。

相変わらず思う。去年もいろいろなことがありすぎた。
昨年の今頃、今回のような長ったらしい文章を書いているときにはまったく、想像しなかったこと。そんなことがいくつも起こった。やはり、今年も、そして来年も想像もつかないことが起こるのだろう。想像がつかないことが起こるというよりは、去年このような文章を書いているときは自分で想像もしなかったことを、自分の意思で決定して行っている。すなわち、今まで知らなかったさまざまな情報や経験を偶発的に行ってきた事によって、さらに私の思考回路が変化し、想像もつかなかった意思決定を当たり前のように行ってきた。なんとも、不思議な話だ。やはり、「経験から生まれる志」とはまさにこのことだ。まあ、来年の今頃はまた、今では想像もつかないことをしているのだろう。想像もつかないような意思決定をしているのだろう。それが、楽しいのだ。大体人生がどうなるか分かるとつまらなく感じる性格で、まったくどうなるか分からないから楽しめる。1年後の将来が大体予想できる世の中はいやだ。だから、独占的な職業とかが嫌いだ。だって、将来どうなるか決まっている。決まらない人もいるが、人間はだいたい、資格をもつと守りに入って、それにすがっていきていこうとする。あえて、リスクをとらなくても普通の生活が出来るからだ。こんなことを言っている私も、来年はどんなことを言っているか分からないし、年齢を重ねるうちに、このような考え方で生活していくのはつらくなるかもしれない。しかし、そんなこと今の私のしったこっちゃない。で、答えのないことをまた考えるわけだが、私は何をベースに生きているのか。ベースにいきている表現が正しいかどうかはしらないが、他の表現方法を知らない。で、何がいい対価というと、ベースとなるものそれが考えであれば宗教である場合もある。熱心なイスラム教徒とかはそうなんだろう。自分の最もベースとなる重要な価値基準が宗教の考えとなる。私もインドに行ってから自分は文化的な意味を含めた文化的仏教徒であるといっている。ただ、仏教というものを私は自分勝手にとらえていて、何か唯一絶対の規範がないものが仏教だと思っている。その人その人が持っている考え、それを大枠で認めるものが仏教だと思っている。だから、仏教というものが私の中で絶対的なベースとならない。


私は瞬発的な脳の力は多少ある。何か言われたり、何かあったらそれに対してある程度的確に考え、答えを導き出せる。しかし、私はその答えを意識的に脳にストックし、考えを発展させるという能力が欠けていると私は思っている。

感覚、すなわち何か感じるときのほうが考えているときよりも脳が働いているという研究成果を聞いたことがある。たぶん、そんな感じがあると思う。

私は完全なプラス思考だと思う。自分のいいように解釈する。自分が好きだし、自分を信じている。確か、中学のときの国語の授業で私が先生に当てられて、漢字を黒板に書いた。私はあっていると思っていた。しかし、周りの友達がみんな違うといった。先生に、あってる?間違っている?今なら書き直してもいいよと言われた。そのとき私は、「己を信ずること」だ。と先生に言った。しかし、周りの意見に流され漢字を書き換えた。そうしたら、実は書き直したほうが間違っていたのだ。そうしたら、先生に己を信ずることって言ったじゃない。見たいなことを言われた。その時は、よくありそうな授業の一こまだが、今もその状況は鮮明に覚えている。黒板のどの位置に書いたかも覚えている。それ以来私は己を信ずることをいきる基本とし始めた。なんでもない授業だったのだ、そのときに絶対この経験を忘れないとか、そのときに己を信ずることを座右の銘のようにしようとも思わなかった。しかし、その場面を今でも覚えている。人間の記憶や感じ方というものはなんと不思議なのであろうか。

まあ、小学生のときから物の見方がひねくれていたようだ。それも小学1年生のときから。君は批判的なものの見方をするといわれたらしい。そんなときから、批判的な見方をする奴って憎たらしい。教師から見たら、ウザイ奴だ。たぶん、自分で認識しているよりもウザイ奴なんだろう。まあ、それはいいとして、私が何かを見るときの視点や何かを面白いとか心躍る、ワクワクすることといえば、「今しか出来ないこと、新しいこと、今後さらに変化・発展していき大きなインパクトをあたえそうなもの、常識とは違った考えだけど、論理的に証明されているもの、みんなはやりたいけど出来ないような馬鹿なこと、無邪気なこと」、こんなことを面白いと感じるんじゃないかな。じゃあ、なんでこれらを面白いと感じるのだろう。

で、それはいいとして21歳という一年間はどんなことがあったのか、なぜそのような行動にいたったのか、を今一度振り返ってみたいと思う。自分が行った意思決定を、その時の脳を自らの脳で再現してみたい。実はブログにいろいろ書いているために、その時の心境というものは分かる。まあ、皆さんが読んで感じた印象、イメージとはまったく違う、もっとリアルなものが私だけにはよみがえってくる。そうなのだ。大学の校舎が変わった。それは、いいとして私は人生における選択に関して非常に重要な教訓を得た。それは、私が選択においてミスをしたから分かった教訓だ。昨日、芸大の授業で「布施さんが養老孟司先生の一言を引用されていた。「人生の分岐点で、先が見える選択肢と、どうなるか判らない選択肢の二つがあったら、不確実な方を選びなさい」と。まさにこれに近いことを昨年の春に実感したのだ。なんだかんだ理由をつけて、楽な選択肢を取る。その時はイイと思っていた。最善の選択だと思っていた。最善というか選択肢があるという時点で人間は選ぶということができ、豊かなのである。選択が迫られたときに、どの選択肢をとっても良い悪いはないと思う。なぜなら、たらればというものは世の中にないからだ。だから、選択したらその選択肢を選んだということしか実際に起こらない。だから、どんな選択をしようとそれはそれで正しいのだ。でも、その選択をする際の基準がある。私はまず、冷静になって選択する必要があると考える。というのは選択肢が実際に選択できるようになる前に、選択肢となりうるものを全て並べ、いくつかの観点から選択肢となりうるものを評価するのである。それで、様々な観点から、指標を元にするとどれを選択すべきかをあらかじめ決めておく。そのあと、実際に選択できるものが出揃ったらまた、同じことをする。観点ごとに選択肢を評価するのである。それで、どれを選択するかを決める。その後に、自分のことを知っている人にたずねてみる。選択肢に関することと自分の過程を知っている人と、選択肢が出てきた過程はまったく知らないが私のことをよく知っている人に尋ねて、どの選択肢が私にあっているかを聞く。今まであげてきたものはただ参考にするだけだ。そして、次、選択肢の中で一番つらい物を選ぶ。困難なものを選ぶ。一番やさしいものを何だかんだと理由をつけて選択すると、後から絶対に後悔する。で、一番困難なものを選んだ。選ぶというか、どれが一番困難かを認識したのだ。この部分が養老先生の不確実なほうを選べというものに似ていると思う。それで最後に、これで選択肢を選ぶ。直感だ。これだと思ったものを選ぶのだ。ただそれだけ。そうすれば、納得いく決断が出来るはずだ。これが、春に学んだこと。

なんか、いろいろあった。春は山にも登った。山というものがこんなにも美しいものかと知った。大学ではレポートが多かったが何とかみんなの助けもあって乗り切った。いろいろな人に出会った。そして、いろいろなことを話した、今まで考えなかったこともいろいろ考えた。いい写真にもたくさんであった。面白い話もたくさん聞いた。なんか、自分というものは寝たら死んでいて、朝起きると新しい自分になっているかのようにも感じた。そんな話をしみったれた居酒屋に行き、某氏と良く語り合った。たぶん、多くの学生が話していることを僕は話したことがないと思う。多くの人がどんなことを話しているのか知らない。たぶん、私の周りの人は私と話すときは政治や経済の話や人間の意識の問題と普通の人と話さないことを話していたのだと思う。まあ、そんなこんなで夏が来た。この夏は人間というものが何たるかを考えた。それは、夏休みに入る直前の出来事も含め、永遠はないことを知った。し、時は流れ、しかし時は止まることを知った。もちろんインドに行き、人々を見て人間について考えたし、ネパールのがけ崩れでは本当に死にそうになり自ら生きるということも考えた。思い出したがインドという地。1年生の頃から友達が行ったという理由で気になっていた。気になっていたというか大学生の間に絶対行くと決めていた。行かなきゃ分からない。

で、ナンなんだ。何が言いたいのかまったく分からない。多分、それでもイイから今脳にあることをただただ出しておく。書き残しておくことが重要なのだと思う。

まあ、私の生きるベースというものが一番問題で、あと何年いきるか分からないがそれを出来るだけ明確にしたい。明確に一生ならないものなのかもしれないし、常に変化し続けるものなのかもしれない。しかし、多分年を重ねるごとに人間は体の衰えなどを脳が自然に感じ何かにすがりたくなる、しっかりとした、動かないもの、それがいきるベースだと思うのだが、それを欲しくなるのだと思う。今の私がそれを欲しいかといえば分からない。

多分、来年という年、もっと言えば、今の私は、私の人生を右にも左にも後ろにも、前にも、上にも、下にも、斜めにも、違う次元の世界にも導ける。しかし、それで人生が固定されるとは思わない。この私の人生はミガルであることをモットーとしているので、固定はない。しかし、人生が大きな局面に来ているのも確かだ。

絶対に、予想通り行かないのだが、人生設計をしてみるのもいいかもしれない。10年後何をしている、何をしているのではなく、何をしていたいか、20年後、30年後・・・も同様に、もっと短いスパンで、5年後3年後、1年後も何をしたいのか。そしてそれをするためには今何をするべきなのか。多分、究極の目的があって、それがないと難しいのかもしれない。だんだん逆算をするだろうから。

で、私は禅問答のような答えのない話が好きだ。まあ、結果的に答えが出るのも好きだ。そして、日本の教育を変えたいとも思う、さらに、雄大な自然の田舎で暮らしたいし、世界中の雄大な自然の場所に行きたいし、僧侶や料理人やゲージツかというものになるんじゃないかなとも思う。じゃあ、それらが夢なのか?それらを達成するためにいきるのか?何をするのか?たぶん、有名になりたいとか、みんなにすごいと言われたいとか、すごいお金が欲しいとかはない。

結局は何をしても満足しない性格で、新たなものを求める。多分そんな性格、自分の能力の可能性を無限であると思っている性格。だから、頑張ったことは?ときかれてもないという。あえて言えば、ネパールのがけ崩れぐらいだ。なんで頑張ってないかというと、力を入れたことはある。しかし、頑張ったと自分で認めると、それが限界のように感じる。私はガンバリズムがどうのこうので、自分らしい生き方をといいたいわけではない。頑張ったと自分で認めると、それ以上頑張れないのかということになると思う。私の考える頑張ったは一つだけ。過労死だ。死ぬまで頑張ってこそ、頑張ったといえると思う。そう簡単に、やすやすと頑張ったということは出来ない。


今年22のテーマを一つ決めよう。
「日々続けること」
「継続して体系的に学ぶ、行動する。」
「休むことはさび付くことだ」byエジソン

24

24って数字をみてどう思いますか?


この数字に何か深い意味があるのか?

とあるものの誕生日の例は24日ばかりなのだ。

それは私が24日生まれだから気がつくのかもしれない。

年、月はときによって違うときもあるが24日だけは変わらない。

どうしてだ24日。

響きがいいのか?

さくら

さくらってきれいだな。

きれいっていうよりも。

心がやさしさでつつまれる。

なんか、そんな感じ。

見渡す限りさくらが咲いているところにいれたらな。
もちろん、そこに人がいなければいいんだけど。

ゆっくりさくらを見ながらねっころがりたい。

さくらさく

April 08, 2005

空港ランキング

空港のランキング 

関空が5位らしい。ケッコウ驚き。そういえば、前も書いたけど松下を再建した人が関空に移っていろいろやっているらしいしね。

2位のチャンギ(シンガポール)は何度か行ったことあって、広いしきれいだと思っていたんだけどやっぱり世界的に見てもそうなんだなぁ。

The World's Top 10 Airports - 2005

1 Hong Kong International Airport
2 Singapore Changi Airpor
3 Seoul Incheon Airport
4 Munich Airport
5 Kansai International Airport
6 Dubai International Airport
7 KLIA Kuala Lumpur
8 Amsterdam Schiphol Airport
9 Copenhagen Airport
10 Sydney Airport

In Japan, Osaka's Kansai International was named 5th Best airport in the world - being specifically praised for high standards of cleanliness, and quality of airport staff service across all front-line functions.

だって。きれいでスタッフがいいみたいねぇ。

http://www.airlinequality.com/2005/airport-05-press.htm

脳年齢

http://homepage2.nifty.com/shimicha/brain/brain3.html

あなたの脳は現在34 歳です。
あなたの脳は全盛期とはいえませんが、かなり活発に働いています。

でも、油断をすると急速に脳は衰えるので、今の状態を維持するよう心がけましょう。

実際の年齢とは13 歳差があります。

ということは、実際の年齢と比べてあなたの脳は少し老けています。

もっともっと脳を刺激して、脳を使わないといけません。

もしかしたら、部分的に使えない脳がいくつかあるかもしれません。

ちょっとリハビリを考えてみてはいかがでしょうか。

あなたの脳機能が停止するまでの年数: 46 年です。

作り笑顔から考える

ちょっと、状況を説明するのが難しい。
まあ、以下のような状況を見てふと思いました。

ある人がトイレへ入るために、ドアを開けた。すると場所が狭く、トイレのドアが座っている人のいすにゴツンとあたった。すると、トイレに行く人がすいません、という。それに対して座っていた人が笑顔で頭を下げた。

と、これを見ていたのです。いつでもどこでもありそうな光景。でも、これを見たときなんか変な感じを覚えた。人間は面白いと思っていないのに笑顔が作れるんだと。そんなもん当たり前だ。多くの人がいる社会では作り笑顔も必要で、心の底から面白いとおもっていなくても笑顔がでるのだ。作れるのだ。

動物もこの能力を持っているのか。動物も作り笑顔をつくれるのか?もし動物がこの能力を持っていなかったら、人間はいつこの能力をつけたのか?それに、どんな理由から作り笑顔の能力をつけたのだろう?

人はしらない間に心の底からの笑顔の時に、どの筋肉を使うかを脳が判断しストックして作り笑いをする。 笑顔が他人にどんな影響を与えるか人は本能的に分かっているからこそ、作り笑いをする。しかし感情そのままの顔をするときと作り笑いをする時、人は戦略的な判断してる 。作り笑いがうまい人は繊細で敏感な人なんだろう、したたかでいやらしい人でもあるかもしれないが。他人の笑顔の要素を分析し、自分の笑顔造りに意識的・無意識的に応用している。 

人は人の顔の表情からウソかどうかを判断できる。話を聞かなくても顔だけでもなんとなく嘘と感じることもある。 無意識のうちに嘘の顔の要素をしり判断しする能力をもっているようだ。数値化されないし、脳がどう処理しているかもかなり不思議だ。

書き途中、考え途中、何もまとまってないけど、いいや。

April 06, 2005

春がきーたー

春がきーたー、春がきーたーと電車で子供が叫んでいた。

たぶん、3歳と4歳ぐらいの兄弟だった。あの子供の高い特徴的な声で春がき〜た〜春がき〜た〜と連呼。

まじ、のりのりだった。母親は、電車だからやめなさい。と、何度も何度も怒っていた。

で、ふと思った。春がきーたーという言葉は本質的に美しい響きを持っているのだろうか?言葉というものは、人それぞれの経験によってとらえ方がかなり違う。それを超えた美しさはあるのだろうか。たぶん、3歳の子供はほとんど経験がない、さらに春という意味や、桜が春に咲く、とか分かっていないんじゃないかな?

でも、すでに記憶があるからこそ、春がきたと叫べるわけであるから、春が来たという言葉に何かしらの意味を感じているのだろうか。それとも「音」だけを真似して連呼しているのだろうか?音だけ真似して連呼しているのなら、他の言葉ではなくなぜ春が来たという言葉をその子供は選択し連呼したのか。気になるな。

まあ、桜っていいですね。あの淡いいろがいいです。まさに春。私の生まれた春です。

April 05, 2005

理想は理想であるからこそ理想である

理想は理想であるからこそ理想である。
と当たり前のことを言ってみました。

何かを得れば、さらに今までは知らなかったもの欲しくなる。
それと一緒で、理想という完璧なものはない。

青い鳥を追い続けることもいいが、それは本質的には存在しない。
心の中にのみ存在するのである。

April 04, 2005

雨のち晴れの日は脳が疲れる

雨のち晴れの日は脳が疲れる。

私は意外とタフであまり疲れたとか感じない。鈍くて感じないのかもしれない。大学に入るまで疲れるという感覚とか分からなかったし。。。まあ、海外行ったときでもケッコウタフだし、長時間頭使っていてもあんまり疲れない。まあ、めったに使うことがないからかも知れないが。

疲れると感じるのは、何が起こると脳がそう認識して、疲れるという言葉が脳に浮かぶかは知らないが、その一連の流れのどこかが故障しているのかもしれない。まあ、こんなことを考えてしまう時点で、故障していると言われればそれまでだ。

で、なんで雨のち晴れの日は脳が疲れるのかってこと。

雨のち晴れという前提を説明する必要がある。まず雨が降っている。これは、家を出ているとき雨が降っていると考えてもらいたい。すなわち、家を出るときに傘を持って出ると。しかし、のち晴れだ。用事がすむと雨がやんでいる。ということは、傘はいらない。しかし、持ち帰る必要がある。(金があって、物を大切にしない人は、放置するのかも。そういう人だったら脳は疲れない)そのためには、傘を常にもって移動しなければならない。家に帰るまでには、用事のあった場所から出て、歩き、信号で止まり、切符を買い、電車に乗りとまあ、たくさんのことをする。その間に傘を置き忘れてはいけない。だから、傘を持っていないとと常に考えておかなければならない。それを記憶しておくために脳を使わないといけない。普通の人なら、ほとんど脳を活動させずに、傘を持ち帰るということを記憶出来るのかもしれないが、私はこのような記憶に人以上に脳を使わないといけないように感じる。だから、常に脳を活動させていないといけない。だから疲れるし、周りの変化だとかにも気がつきにくくなる。ってことだ。前にも書いたが、私は小学生のころに、体育の服装の袋を落としてきた。家に帰って、親に言われるまで気がつかなかった。道を戻ると、何の変哲もない、何か止まる要素など何もない道のど真ん中に落としていた。というように、物を持っているということが苦手である。カバンも手提げを嫌っていた。その理由は忘れるから。そういうと、何度か馬鹿にされ子供じゃないからといわれたが、忘れてしまう。このような能力が著しく欠如しているようだ。いつも同じものをもって習慣化すれば、忘れない。だから、同じカバンをいつも持つ。みんなハイカラな人は良くカバンを服に合わせて変えるが、私はそんなことしたらカバンを忘れてしまう可能性が高い。まあ、カバンはファッションとか気にしないから変えないって理由でもあるな。

あと、足らない能力は演劇や映画(特に外国の)を見ること。正確には見ることは出来るが、理解するのが厳しい。演劇や映画は出てくる人が多い。名前が一気におぼわらないから、ついていけなくなる。さらに、場面がころころ変わるともう記憶していられない。そうなのだ、多分小学生とか幼稚園のころに漫画も読まなければ物語もまったく読まなかったためだと考えられる。そのような思考回路というか、脳の働きが活性化されていないのだ。こういうと、人の気持ちが分からないとか思われるのだが、人の気持ちはある程度分かると思います。物語とかはよんでいないけど、人の心を読むという行動は小さい頃からずっとしていたから。まあ、子供は漫画も物語りも読む必要があるな。事実が書いてないから読む必要はないと言う小学生はよくなかったな。でも生活で支障があるかというと特にない。演劇や映画、漫画、ゲームという娯楽を楽しむことが出来ないと言うぐらいかな。まあ、それなりの楽しみ方はあるんだけどね。あと、ひとつ。テレビドラマや小説は何とかいけます。ドラマは1週間置きなので、みんな前の回をケッコウ忘れているので、それを踏まえて作ってあるから。私でもついていけるレベル。小説も自分の速度で読めるからなんとかいける。しかし、場面が変わりすぎるややこしいのは無理。


転寝(うたたね)という、現実と夢のハザマのような脳の働きが不思議で興味がある。ノンレムとレムなんだろうか。なんか、転寝の状態は不思議だ。非常に興味深い。

あの青い空を飛ぶ日まで

それは、小学生のころからのあこがれ。
家族でよくテレビで見ていた。
なんか、大学生がばっかみたいに、魂込めて、マジになってやっていた。
でも、ものすごく楽しそうだった。

そう、人間が生まれてからずっとあこがれ続けている、飛ぶということ。

鳥人間コンテストだ。

去年、インドへ行った。そのとき、ドミトリーで会った彼は東北大学工学部、鳥人間のサークルに入り、パイロットとして2度出場し上位に入っていた。

彼は、大学院に入学が決まり、入学式に出ないで休学届けを出して、初めての海外旅行で、世界一周に飛び出した男だった。

そんな彼と、あの、暑苦しく、寝づらいインドで朝まで語り明かした。今でも、あの状況を思い出すと心が躍る。

東北は試験飛行の場所を借りることもままならない。もちろんスポンサーもつかない。メンバーで積み立てたかねで部品を買い、みんなで朝から晩までつくり、みんなの思いとともにそらへ飛び立つ。

そんな、鳥人間コンテスト、今年の締め切りが3月10日だった。もう今年でることはない。

空が好きです。

パリダカ、鳥人間、ロボコン、男の夢。

彼の世界一周は無事に終わり、今春はれて大学院入学となったのだろうか。

旅人は群れない。

旅人はひと時の身分なんだから。

それは、彼自身しか知らないのだ。

April 02, 2005

脳とか

立ち読みで、池谷 裕二進化しすぎた脳をよんだ。海馬も面白かった

おもしろそう。茂木さんの脳と創造性も売っていた。暇になったら読もう。

暗記メモリー
経験メモリー
whatの記憶
howの記憶

脳 心 ゲノム 意識 芸術 経済 記憶

子供の時間は大人の数倍

今日、松屋へ行った。
あの、ガッツリ系ファーストフードな松屋だ。
あの、メニューがたくさんある松屋だ。

ここは、ボリュームあるを食事を、安く、短時間で食べたいという人向けの店だ。
このような人は基本的に、若くて金のない男、ガテン系の仕事をしている人だと思う。
基本的に、腹にものを入れることを主目的としているため、殺伐と食事をする。
そんな店だ。

そんな店に今日行った。まあ、良く行くのだが。
で、偶然、私が食べ始めようとしたら、子供の声が。
子供3人と両親という家族が松屋に来た。
持ち帰りかなと思ったが、ところがどっこい、席について店で食うみたいだ。
子供は、「僕が選ぶぅ」とか、「やっぱこれがいい」とか「えーん」と泣き出したり。
店の殺伐と雰囲気とは程遠い。
ここに普通、来ている人はそんな幸せな家族を見たいとは思わない。
ここに普通来る人はそんな幸せな人が多くないのだから。
だから、ある意味殺伐というか、冷たい視線が家族にとんだ。

まあ、私もはじめは冷たい視線を送ったわけだが、そんな気分で飯を食べても面白くない。
天邪鬼な俺は、ふと気がつく。そして、面白くなった。
子供って、時間感覚が大人の数倍だなと感じたのだ。
それは、姉と弟の会話だった。
弟「えーん、えーん。食べたくない。あれが食べたい」
姉→弟「●●、うるさい。静かにしてよ」
弟「だって、だって、えーん。」
姉「早く食べなよ」
弟「食べ始める。(静かになる)」

2分後ぐらい。親と姉が何か会話

姉「いやだぁ。いやだぁ。(だだをこね始める)」

弟も姉も切り替え早すぎ。感情の変化が激しいな。
といっても、精神の状態が不安定とかではないように感じる。
この、感情(気持ち)の切り替えと精神の不安定って何が違うんだろう?

実際の行動を見ると同じように感じるんですけど。まあ、専門家に言わせるとぜんぜん違うといわれそう。知っている人教えてください。

で、どうして子供は気持ちの切り替えが早いのか?
記憶力が極端に悪いから、前のことを記憶していないのか?
大人よりも時間の進むスピード感が早いから、もう、すっかり前のことのように感じるのか?
経験が少ないから、新たらしいことが子供に与える衝撃が強すぎて、前のことなんか吹っ飛んでしまうのか?
実は、大人も同じくらい感情(気持ち)の変化は起こっているが、社会性(社会的な立場)のために押さえているだけ?それが、習慣化し気持ちの変化を感じなくなった?

どうなんだろうな?

まあ、親が子供を育てるって大変だなと思ったけど、人間が人間の脳が進化していく過程を見れることと、実験できることが楽しそうと、無責任な発言してみたり。

ニュートラル

neutralって本を見ました。
この本いいです。

月がテーマだったんですけど、いい月うつってました。

毎度毎度のウユニ塩湖&満月とか最高でした。

なんか、ウユニ塩湖に少し水が張っていると空に浮いている感じらしい。

この本に載っていた、角田光代さんの文章やっぱ良かったです。角田さんは、情熱大陸見てエントリーした人ね。やっぱ、本読もう。

まあ、ウェブは微妙ですけどね。。
http://www.neutralmag.com/index.html