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May 30, 2005

メールが不通になります

一週間ほど瀬戸内海の島へ行ってきます。
そのため、メールもブログも使えなくなります。

モブログはするかもしれません。

ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。

自分で話したことから気づきを得る

自分で意識的に今まで考えていなかったこと。自分の中にもともとあったものだが、ひとりではその考えや思いに気がつかない。自分ひとりでは生まれてこないものがある。

他者との会話(たとえほとんど自分が話していたとしても)で、生まれてくる、見つけることができる自分の考えがある。考えというか、点と点が線になるようなこと。

コミュニケーションって胡散臭いけど、偉大ですなぁ。

そんな自分の奥底にあるものを引き出すきっかけをくれる会話をできる人はいるものです。そんな人と話していると途轍もなく面白いです。そんなことを静岡の夜中に思いました。


あと、自分の基礎となる地道な地味な作業・行動・仕事は非常に重要でないがしろにしてはいけないな。そんな作業を有名になろうと、どうなろうとやり続けることが重要なんだな。
俗物化しちゃならんと自分に言い聞かせたいです。

May 28, 2005

野茂という生き方

以前にも書いたが、野茂英雄という男は本物だと思う。

彼の実績、大リーグで2度のノーヒットノーラン、大リーグで10年以上プレーし、日米通通算200勝まであと一勝。これらはいうまでもないが、それ以外の部分もすごい。

野茂という男を始めて知ったのは、彼が大リーグへ行ったときだったと思う。ロサンジェルスドジャースへ行ったときだ。その時、かっこいいと思った。なんか、金や日本での地位を投げ捨て自らの望む世界へ飛び込んだ。彼の一貫した自分の思いには脱帽する。有名になろうと、金をたくさんもらおうと、実績を残そうと、流されない感がある。まったく俗物化しない。そういえばあの時、野茂のファイルノートみたいなのを買って使った記憶があるなー。

そういえば、スポーツ雑誌を読んだことがなかったが、先月ぐらい大学の生協で立ち止まって読んだ。野茂が表紙だった。野茂の記事を一字一句読みこぼさず読んだ。細かいことに動じない。メジャーから落ちても淡々と自分のすべきことをする。軸がぶれずに、一歩一歩足を進める。

たぶん、本人も悩むことがあると思う、どうしようもなく答えが出ないこともあるんだろう。でも、彼は彼なりの答えを出して、周りの答えではない。そこが、野茂という生き方なんだろうと思う。

イチローの振り子打法、野茂のトルネード投法。両方とも野球の常識や科学的にはよくない手法なのかもしれない。でも、論理的だからとか科学的だからといって、その人個人にベストだとは限らない。論理的とか科学的は平均的なものに対して適していたりすることもあるし、個人には当てはまらないこともある。それに、論理的だからベストというわけではないと思う。その人個人が納得しなかったら、どんなに論理的に正しくても、その人個人にとってはなんの価値も持たないのだ。そんな両氏の独自の手法。二人にとっては自分にあっていたのだろう。周りの意見に流されず(周りの意見を聞かないということではない)、その自分なりのやり方を貫く。独立リーグの経営もこの顕著な例だろう。

こんな生き方はすごいと思う。俺みたいなちゃんちゃらな人間にはわからない部分もある、俺も自分の道を歩んで生きたいと思う。

このときも、野本イチローは特別と書いてるなぁー。
http://www.teratown.com/blog/archives/000923.html

May 27, 2005

耳で食べる

耳で食事すると言うと変に聞こえるかもしれない。

先日、特に何も考えずヘッドフォンをつけて食事をしようとした。というか、食べ始めた。すると、いつもの味と違う。何か違う。いつもより無味な感じがする。ふと思って、ヘッドフォンをとるといつもの味のような気がした。

食事のときの音といえば、そばを食べる音、油で揚げる音などいろいろあるが、これらはおいしさの大きな要素なんだと思う。食事は目で楽しむというが、食事は耳でも楽しんでいるのだな。

これはいいと思う瞬間

話をしていて、「それいいね」と猛烈に思うことがある。

もともと、「それ」相手が話した内容をいいと思っていたわけでなく、話相手が突発的に思いついたアイディアに対して、自分も瞬間で「いいな。」と思うことがある。

これはどういうことなのだろうか。なんで瞬間で良いと感じれるのか判断できるのか。判断する際のよりどころとなるものは何なんだろうか?

やるべきでないことをやるべきであるということ

じっくり考えるとやるべきではないこと、そうあるべきではない状況になったほうがいいこともあると思う。

われを失って、何かに没頭してしまう。周りが見えなくなって、周りに迷惑をかける。やるべきではないかも知れないが、一度こういったことを経験するのは意味があるんだろう。

自分とその他のもの

自分とその他のものに対する意識の違い。

なぜ自分のものは汚くなくて、自分以外のものは汚いと思うのか。


そういえば自分(身体的な意味で)は、小さいころはイマイチ明確でないようだ。成長する段階で、自分の意思で手が動くことや物に触れる過程を通して自分の腕を自分の一部であると認識するようになるらしい。


:後から追加:
脳と魂という本で玄侑宗久さんが「」自己っていうものを形成していくときに、自己と清潔ってどうかかわるかっていうと、清潔は自己なんですよね。不清潔って根拠は何かっていったら、自己外なんですよね」といっていて、ああ、俺の感覚と一緒だと思った。


May 25, 2005

製品サービスにあいまいさを持たせる

飽きないロボットが現在のロボット作りのコンセプトだと聞いた。すごく面白い発想だと感じた。

人間は鮮明に記憶できないから創造性が生まれる。ということは商品やサービスにもあいまいさを持たせると面白いのだろうなとふと思った。

これかなりのポイントだな。

口に出してしか読めなかったはず

今、ビル・ゲイツ未来を語るを読んでいる。結構長い本で時間がかかっている。しかし、読み続けられるのは面白いからだ。正直ビルゲイツという男のことをなめていた。もちろん、世界中の人がみんな使う商品・サービスを作り上げ、そしてあそこまでの企業を作り上げ、社会の変化を先導してきたのだからすごいとは思っていた。だが、「そうはいってもね」みたいな感情がどこかにあった。

約10年前に書かれたこの本を読んで、すいませんという感じになりました。そりゃ、ここまでの企業になるよと純粋に思った。抜群にすごい。情熱的であり冷静沈着である。すごい。

まあ、それはいいとして、本を読んでいてふと思った。小さいころは黙読なるものができなかった。目で読むことができなかった。目に字が入ってきて読もうとすると自然と文字を口で読み上げてしまっていた。これは黙読の練習をするうちに、口で話さなくなった。練習は文字を読むと口でも読み上げたくなるのを我慢して、口を無理やり閉じて本を読んだ記憶がある。あの、話したいのに「ぐっと」こらえるような感じで。

僕は完全に話しながら考えるタイプだと思う。だからかもしれないが、ちょっとなぜか考えてみた。そもそも、日本語というか言葉を身につける過程として、一番最初にやったことというか、まあ自然になんだけど、実際に大人が話している言葉を聴いて身に着けた。子供は文字なんか書けないけど、話せる。それは大人の話を聞いてなんとなく身につけていったからだ。ということは、もともと人間の脳には言葉というものが音声として記憶されている。音声があってその上で文字があるという記憶なんだろう。だから、小さいころ本を読むと(文字を見ると)、音声の記憶とリンクして、口からも発したくなってしまう。ということなのだろう。

しかし、大人になると口に出して本を読んでしまう人は少ない。ということは、脳の中で音声と文字のリンクが弱まったと考えられる。となると、人間にとっての言葉の意味合いも、捉え方も必然的に変わってくるのだろう。どのように変わるかとか、気になる。

あと、言葉なんてのは本当に話したり、文字になっているものよりも、抑揚とか顔の表情などの文脈から意味を理解しているのだな。だから、外国語を学ぶのも音声だけよりも映像、映像だけよりも生の現場のほうがよい。話している状況を感じ、顔の表情や抑揚、その場の空気から読み取って、現地の人の思考パターンを感覚的に理解したり、文脈と言葉の関係性を理解することによって言語を習得できるのだろう。そのトライアルアンドエラーの繰り返しによって言葉は習得できるのだと実感。

だから、古典とか苦手なんだろう。私が電話が苦手な理由(以前のエントリー)も文字からよりもその場の状況から意味を理解するタイプなので、古典のように完全に文字しかないものから理解することが難しいのだと思う。

窓越しの暖かさ

最近暖かくなってきた。そりゃ五月も下旬になれば暖かくなる。
部屋に光が差し込んでいた。青い空と真っ白な雲の隙間からまぶしすぎる太陽が降り注いでいた。窓を閉めていると風が入ってこないので、温室のように暖かさだけ部屋に伝わる。窓際でふと立ち止まると、太陽の暖かさを感じた。

ふと思い出した。岐阜の自分の部屋を。あの時も窓を閉めて太陽の暖かさを感じていた。この暖かさはほっとする。なんだろう、心が穏やかになる感じがする。

不思議に思った。まどぎわの暖かさを感じることなんてどこでもあるはずだ。普段の生活でも何度もあるなんでもないことだ。しかし、この感覚は一人でいるときにしか湧き上がってこない。

思い出すのは岐阜の感覚だけ。脳によみがえってくる感覚は岐阜の自分の部屋の窓際の暖かさだけだ。不思議な話だ。

思い出される記憶というのは、一番初めに味わったものなのだろうか、一番回数の多いものなのだろうか、一番印象に残っているものが正しいのかもしれない。が、違う気もする。そのとき求めている状態に一番近いものが呼び起こされるのだろうか。子供のころ一番記憶に残っているものなのだろうか。

まあ、人間が状況・状態などを抽象的に記憶する、その記憶の仕方やどのような分類わけをして記憶するかにかかわってくるんだろう。

それにしても夏というのは無邪気さがある。

バリンク

バリンクという言葉はさっき作られたばかりの言葉。

どんな意味かといえば、value drinkの略です。

valueといえばマクドナルドのバリューセットにもあるようにお得とか価値があるという感じの意味です。drinkといえば飲む、酒を飲むという意味です。

まさにこの二つの単語をあわせた意味です。お得に酒を飲もうということです。

バリンクの条件
・つまみと酒合わせて500円以内
・腹が満たされる
・集合するときはみんな500円玉を握り締めて

これです。面白そうじゃないですか?バリンク参加者募集中です。メールでもください。

セレンゲティーでヒヒ

テレビのメモ

ストレスが病気を起こすか否かはストレスホルモンを測ることによってわかる。 
人々の性格によってストレスが病気になるかが決定する。

人間で言うAタイプのヒヒはストレスによって病気になりやすい。
努力して、Aタイプの性格を変えると病気になりにくくなる。
って、当たり前ジャンとか思いました。でも、もっといろいろ考えると面白そうな内容。

アフリカのセレンゲティーでヒヒの行動をみて研究。
瞑想にはストレスによって起こる体への悪影響を除去する作用がある。ハーバード大学教授

戦うか逃げるかと反対の作用リラクゼーション

リラクゼーション
言葉、音、動きを繰り返す
反復に集中して頭の中から考えを排除

反復運動:脳の検査によりわかる
10分間脳から雑念を取り払う。呼吸に集中する。すると頭の心配事は消えリラックスできる。
脳の活動は低下、しかし一部だけ活発化。それは呼吸と覚醒、決断、感情をつかさどる部分。

BBC world

現状維持を望み変化を望む

人間は現状維持を望む説きもあれば、変化を望む事もある。この割合は人によって違うだろうが、おそらくすべての人が両方の面を持っている。どのようなことに関しては現状維持を望み、またどのようなことに関しては変革を望むのかわからない、人には共通の傾向があるのだろうか。それともまったくばらばらなのだろうか。

なんで人間は相反することを望むのだろうか?!不思議である。人間は生き延びようと思っている。そのためには安全が安定的に保証されることが重要である。言ってしまえばぬくぬくした生活が一番いいのかもしれない。だから現状維持を求める。将来の変化のリスクは大体推測できると入っても不確定な要素が絶対に残るのである。もし、リスクが害が発生することもある。これを人は避けたいと思う。

しかし、人間はなぜか刺激を求める。なぜかといえば、安定していてもそれが一生安定しているとは限らない。周りの環境変化により安定していたものが安定していられなくなる。変化しなければ新しい環境では安定でいられなくなることもある。さらに、このようになることを先読みして大きなメリットを得ようと変化することもある。そこで、何か変化を起こす。

さらに、現状で満足している場合は現状維持だろう。少しの不満があるが、変化を起こすことによって起こる問題のリスクが大きいと思えば現状維持、現状に著しく不満があって変えればよくなると高確率で思えば変化だろう。そんなの当たり前だ。これは当たり前のことなんだろう。

キになるのは、このような意思決定はすべての物事に適用されるのか、もしくは一部のものに適用されるのか。人による現状維持と変化を望む思考は何によって起こるのかなどが気になる。

自分のことだけしかわからないので自分も考えてみることしかできないが。
自分に直接関係あること、もし変化を起こせば自分の生活に支障をきたす時などは現状維持になり、外部のものに関しては変化を望むのだろうか。これはなんとも安っぽい考えだ。でも、この考えをすると最終的に自分にとってマイナスなのではないか。それなのに、このような思考を行うのはなぜか。なぜなら、外部に対しては変化を働きかける。外部が変われば自分も変わることが求められるだろう。そうすると変化するリスクに自らがさらされることになるのだ。最終的に自分にもリスクが降りかかってくることをなぜするのか。さらに、外部のものを先に変化させ、後に自分が変化するということは、変化に遅れている。変化に遅れるということはメリットを享受できなくなる。問題が多いのではないか。まあ、後から自分が変化するということは、リスクヘッジにもなる。外部の変化を見届けてから変化することによって、誤った変化をするリスクがなくなるからだ。とか考えていたら眠たくなったので寝る。


話は変わるが、PCを再インストールした。PCというのは個人個人カスタマイズされていて、固有の使い方があると思う。そのカスタマイズされていたPCは再インストールによって標準に戻った。だいぶ自分色に染まってきたが、依然とは違う使い方を始めた部分もある。それによってライフスタイルの変化、というかパソコンライフは変化した。偶然起こった(自らやったかも)インストールがスタイルを変えた。

May 24, 2005

インターネットでの検索自体が情報漏えい

インターネットでの検索自体が情報漏えいになってしまうかもしれないと思った。検索エンジンでキーワードを入力し、検索結果として表示されたウェブサイトへ飛ぶ。飛んできたウェブサイトがアクセス解析をしていて、細かくそのアクセス解析をチェックしていたら検索した人の情報漏えいが起こる。

もっと細かく例を言うと、ある企業(官公庁でも)がA社のB取締役をヘッドハンティングしようと思う。ヘッドハンティングまでいかなくても、候補の一人として考えたとする。するとある企業の社員はB取締役の名前で検索をする。そして結果としてでてきたページに飛ぶ。すると、とんできたページのアクセス解析にはどこのドメイン(会社名)から、どんな単語(B取締役の名前)で検索してきたかがわかる。

個人のページが検索で上位に来ることがよくあるこの時代、個人がアクセス解析していたら情報が漏えいしてしまう。企業の今後の戦略の情報が断片的にだが個人に漏洩してしまうリスクがある。さらに、断片的な情報が個人に入れば、ありえない噂だけ一人歩きしてしまうかもしれない。これは企業にとって大きなリスクとなりかねない。

企業は自分のところにストックしている個人情報やその発信だけ心配して対処しているかもしれないが、インターネットという性質をもっと理解して何気ない動作の情報漏洩にも気をつけるべきなんだろう。

時報ストレッチ

昨日、話をしていて思いついた。時報ストレッチ。まったく価値はないかもしれないが、なんか面白い。

人間同じ姿勢で長い間いると疲れる。伸び(ストレッチ)をしたくなるものだ。で、定期的にストレッチをすると体にもよいキがする。ということで、たとえば九時になれば、時計の長針と短針が9時をさす方向に手を伸ばしてストレッチ。そうすれば、周りの人は時間がわかってしまうという優れもの。とかいいながら大体の時間だし。まあ、まあ。

人類の進化とは

人間は昔と比べると苦味を感じなくなったらしい。この記事は非常に興味深かった。安全なものばかり食べるからこうなってきたのだろう。ということは、苦くても体に害のないものをさらに見つけて食べるようになるのかな。

人間の進化は不思議だ。先日読んだのだが、人間は環境を変えるようになったので人間自体の生物学的進化が止まった。というようなことを以前のエントリーで書いた。ある程度こても真実であり、やはり人間は生物学的な変化をしているというのも事実なんだろう。

で、人間の変化は面白い。たとえば、この苦味の話。かなり極端な例になっている。ひいじいちゃん世代は危険なものも多くあって、そのような状況で食べていた。しかし、じいちゃん世代は比較的安全なものを食べた。すると、おやじ世代からは苦味遺伝子が減りはじめる。そして自分の世代は著しく苦味遺伝子が減っている。実際に苦味遺伝子を食べなくなった世代の遺伝子は変わっていないのに、その次の世代の遺伝子は変わっている。なんか不思議だ。そんな経験による変化は遺伝子に刻み込まれ次の世代はそれに対応した遺伝子を持つようになっている。そうやって変化が遂げられる。たぶん、一歩進んで二歩下がる的な変化をしているのかもしれないが、全体として前の世代の習慣の変化が
遺伝子にのっかり、次の世代には遺伝子が変化する。

あと、全体の平均というのもすごく面白い。平均を取るとある傾向が見られるのは当たり前なのかもしれないが、ばらばらなものが集合することにより傾向が生まれてくるというのはなんか面白い感じがする。


苦味感じる遺伝子、人類進化で急速に退化
 苦味を感じる遺伝子は人類進化の道のりで急速に退化したことを、総合研究大学院大学(神奈川県葉山町)の郷康広研究員らが突き止めた。
 苦味への感受性は、毒を体内に取り入れないよう備えられたとされているが、人類は、発達した脳で毒を学習し、実際に食べなくても見分けられるようになったことが急な退化の原因らしい。この成果は米遺伝学会誌の今月号に発表された。
 苦味を感じるセンサーを作り出す遺伝子は人類では25個が働いている。ほかに機能を失った残がいのような遺伝子が11個ある。
 研究チームがチンパンジーやゴリラ、マカクザルなど12種の霊長類の苦味遺伝子を調べたところ、これらが持つ残がいの遺伝子は人類よりも少なかった。さらに、1個の苦味遺伝子が機能しなくなるのにこれらの霊長類では平均して約780万年かかっていたのに対し、人類は約200万年と退化が3・9倍も速かった。
(読売新聞) - 5月23日3時7分

未来を語る

ここ二日ぐらい面白いことを考えていたんだけどなんか、メモするのも、記憶していることもできなくて忘れた。擬似旅を提供するサービスとか面白そう。

それはいいとして、未来を語る。ビルゲイツさんが10年ほど前に書いた本。去年ぐらいに100円で買った。新しさが命のカテゴリーの本で微妙に出版された時期が古い本を買うのが好きで、なんでかっていうとその本を今読むからこそ面白さが伝わることがあるから。

このビルゲイツ未来を語るは面白い。まだ50ページしかよんでいないけど、面白い。おもしろい。

先日のiモード事件簿。も面白かった。と思ったら、友達も同じ本を100円で買い読んでいた。それも時期はずれな本なのに同じ時期に。iモードも未来を語るも。

まあ、それもいいとして、まじめに未来を語る予測する会があったら面白い。少人数で定期的に。コアな人は5から8人ぐらい固定で3人から5人毎回ゲストが来る感じ。それで分野ごとにテーマを決めて毎回語る。アカデミーオリンピアみたいな感じ。ああ、こんなのやりたいなー。

May 23, 2005

さすがなんだろう。

海を超える想像力―東京ディズニーリゾート誕生の物語を読んだ。

ディズニーランドには行ったことがないし、興味もあまりなかった。ただ、あれだけ人をひきつけるのはすごいと思っていた。相当な戦略また努力があってこそだろうと思っていた。

で、この本を読んだらやっぱりすごいな。徹底している。それはオリエンタルランドもそうだし、ディズニー社も。ここまでやると人はひきつけられるんだな。

こんど、ディズニーランドへ行っていかほどかこの目で確かめようと思う。

今月なら携帯が3500円引きだから・・・

持ったものと持たざるものの心境の違いはすごいものだ。なんで、ここまで違うのだろうか。いったいその根本は何なのか。

「今月なら携帯が3500円引きだから・・・」
道を歩いていたら、携帯ショップの前で中学生か高校生ぐらいの少年が友達の携帯電話を借りて親に電話をしていた(と思う)

そのときの彼の顔からは切実さが伝わってきた。携帯持ったことがない彼にとってはとどうしても欲しい大きな問題なんだろう。一回持ったら解約しても、持ったことの無いときのような欲しいという感情はこみあげて来ない。不思議だ。一回持って解約したら携帯は所有していない。今までまったく所有したことがない状態と携帯を持っていないということでは同じだ。同じ状況であるが、以前に携帯を持っていたというだけで、そのときの気持ちはまったく違う。

持つ前は、夢だけ広がる。携帯があればこんな生活があるのではないか。そうしたらこんなに面白そう。それと、携帯を持ったことがないと周りから馬鹿にされる。しかし、一度もって解約したということは、持つという選択肢もとれるがあえて持っていないということを回りに知らしめることができる。自分の目で何でも確かめないと気がすまない。

こんな気持ちになるのは社会で生きている人間だからなのだろうか。しかし、このたいしたことないように思える感情が、そのときの本人にとっては最も大切なことだったりする。そんな人間の感情は不思議だ。何がそうさせているのか。人間の感情や、人間のしぐさから感じられる感情を明確な形で知りたい。

携帯だけではなく、何かほしいものを持つ前後、何かやりたいことをやる前と後でも基本的に同じかな。でも、ものに関してのほうがより近い感覚。

イチローの言葉

何かをなりたい、したいだけでは子供と同じ。資格(しっかりとした準備)が必要。したいという

目標のための準備へのこだわり。

よい結果ならば満足すればいい。そうしないと終わっちゃう。その満足感があるからその次もがんばろうと思える。うれしさがわからなければ、次もうれしいことをやろうと思えない。

4月は見極めの時期である。5月に照準を合わせる。

Get sportsのイチローインタビュー

再インストール

先日PCを再インストール。データをバックアップ取っておいて再インストールしました。いやー、想定外の問題が起こり予定より時間がかかってしまった。

でも、動作がかなり速くなったのと、ごちゃごちゃになっていたファイルもいっそうされた。しかし、ソフトを入れたり設定を変えたりといろいろやることがある。

でも、たまには再インストールもいいもんだ。

May 20, 2005

建設費

アクアライン1兆4000億円
六本木ヒルズ2800億円
東京都庁1560億円
レインボーブリッジ1280億円
丸ビル580億円
東京ドーム350億円
大江戸温泉50億円
東京タワー28億円

TBSの企画工房なりあがり という番組から
まあ、どれほど正確か知りませんが、参考までにメモ。

結局は権威とか組織とか

結局は権威とか巨大組織とか社会的評価そういうものなのかなぁ。個人的に、こういった類のものはあまり好きではない。なんかに群れて、群れることによって力を持ってそれで南下しようとしているのが好きじゃない。そういったものをぶっ潰すのが面白いという感覚がある。

しかし、この社会と言うものは多くの人が持たれ合いながら、支えあいながら成り立っている。その時点で、組織と言うものが力を持つのは当たり前で、どうしようもないことなのかもしれない。それはでかい組織だったり、強いつながりを持ったもの、権威を作り上げたものが力を持つのは必然なのであろう。

さらに、このようなエスタブリッシュされたものをつぶすのは面白いと自分で言ってみたが、もしつぶした時点で、つぶした側がエスタブリッシュされたものになってしまうのだろう。

まあ、それでもなんか権威とかに盲目的に寄り添ったりするのは全く好きになれない。

なんか、この中間のような状態はありえないのだろうか。ありえないのだろうかと自分で書いておきながら、これからの世の中はそんな、中間のような世の中になりそうな気がする。感覚的に。いろいろ考えていないし、他のものをからめて考えていないので、また考える必要があるな。今後の社会がどうなるかを含めて。

ブログを書くときの2パターン

何か衝撃を感じ猛烈に文章を書くというか叩く時。

なんとなく書き始めて、いろいろ感じながら考えながら書いていくとき。

ブログを書くときは大きく分けて2パターンかな。

距離と制御可能範囲

距離といってもいろいろな距離がある。物理的(地理的)な距離もあれば精神的な距離もある。自分が近いと思うか遠いと思うか。

また、その距離によって自分がコントローラブル(制御可能)かどうかが気になる。制御可能と思っているかどうかと言うことだ。では、なぜその距離を制御可能と思ったのだろうか。

何かを思いついてから、面白いと思うまで

なんか、いろいろやっていたり、いろいろ考えていると、こんなことどうだろうか、これをやってみたいとか思いつくことがある。それは、Aというものがきっかけで、Bという記憶が呼び起こされ、AとBの一部が偶然つながって新たなものが生まれるからだろう。これ以外にも、新たなアイデアが創造されることがあるが、今回はそれが問題ではない。

その思いついたアイデアを自分の脳が面白いと思う不思議なのだ。面白いと思うまでにタイムラグがあるときがある。それは、そのタイムラグの間に思いついたアイデアに肉をつけていき、さらによいアイデアになったから面白いと思ったとか言うのではない。思いついたアイデアそのままなのだが、ちょっと時間がたつとなんか面白そう。これをやってみたい、やろうと思うのである。このちょっとの時間と言うのは本当にちょっとの時間のことだ。10分とかそういう単位ではない。1秒もないかもしれない、それくらいのことを言っている。普通、何か考えるときはどんどん考えが進み、そのような空白の時間はあまりない。空白の時間があってもそれは考えている時間だ。このちょっとの時間(1秒ぐらい?)は、感覚的には空白の時間、宇宙が、世界の時間が止まった感じの時間のことを言っている。

このときは脳がどうなっているのだろう。このような感覚はあまり経験することがない。このような空白の時間を感じたときはだいたい良いことがおこる。このときの脳波とか見てみると何か新しい発見でもないのだろうか。ただ、この状態は意図的に作り出そうと思っても感嘆には作り出せないので、研究は難しそうであろう。こういう感覚はみんなするのだろうか?

読みやすい本の不思議

iモード事件簿という本をよんだ。確か岐阜のブックオフで100円で買った。

この本は読みやすかった。さらっと読めた。どんどん次へ次へと進んでいきあっという間だった。まあ、スグ読めるほうが、考えないからダメとかよいとか言う話はここでは関係ない。読みやすい本とはナンなのか。なぜなのか。角田光代さんとか重松清さん、茂木さんの本も読みやすい。さらさら読めてどんどん次のページへといきいつの間にか読み終わっている。自分の使っている文体だとか、自分がいつも考えていることについて書かれていると、脳が理解しやすいのであろうか。

あと、外へ出かけるときだいたい本をカバンに入れて出かける。そのとき本を選択する前にパラパラと見る。なんか、体に入ってきやすい本と入ってきにくい本がある。それは時と場合による。Aという本が昨日は読む気にならなかったけど、次の日になるとすんなり入ってきて、手にとって一気に読んでしまうことがある。これはその時の興味とかが関係するのかもしれない。でも、今これに興味があるからこの本というふうに選択するわけではない。感覚的に取捨選択する。自分の脳では意識的にどんな本を読みたいとかないけど、なんとなく感覚的にこれは読みたいとか読みたくないとかあるのだろう。それは、適当に本を手に取ってから、これ読みたいとか分かる。ある本を手に取るまでは顕在化しない感覚なのだ。それに、意識的に読みたいか読みたくないかは分からないのに、手がそれを分かっていて選んでいる。不思議なもんだ。

日常会話で単語を気にしていない

ちょっと英語を聞く機会があった。で、まあ聞いていたんですけど意味が全て分からないのです。まあ、それは仕方がないとする。が、単語は大体分かる。単語は耳から入り、脳が認識している。が意味を持った言葉として理解できていない。

日本語は全ての単語を聞き分けているわけではない。文章としてざっくり耳に入り、抽象的な意味として理解している。

ということは、英語は単語で理解してしまっている。一連の文章として認識できていない。それは単語から勉強したからかもしれない。日本語は単語を勉強することなく文章で耳からなれた。この違いかも。

まあ、英語も聞きまくって文章として分かるようになることが大切なんだなと、改めて思いました。

May 18, 2005

曖昧な記憶からしか産まれない感情や感覚

曖昧な記憶からしか産まれない感情や感覚はあるのか。曖昧な記憶と言うのは、ここでは脳にだけに保存された記憶ということにする。何かあったときに記録として文字にしたり、写真にしたりそのようにしていなくて、脳にだけに記憶されているものだ。

この場合に呼び起こされる感情と言うのは、文字として記録したものによって呼び起こされる感情と異なるのだろうか。言ってしまえば、文字を認識するときに使う脳の部位と、写真を見るときに使う脳の部位、脳にある情報を参照するときに使う脳の部位が違う。よって、生まれてくる感情も違うといえばそうなんだろう。

でも、電車の中でふと思ったことはそういうことじゃなくて、どちらのほうがリアリティを持つのか。どちらのほうがわくわくするのか。写真の記録、文字の記録、脳の記憶、絵の記録それぞれどんな感情を呼び覚ますのだろうか。なにか傾向はあるのだろうか。気になるところである。

あっつ

今日、図書館に行って本を借りた。これはいつもの行動だ。で、一冊の本をとり、借りて家に帰った。その電車で本を開いた。「DATE DUE」という返却日のハンコが打ってあるところには、一つしか押されていない。それもだいたい一年前。ああ、一人しか借りていないんだと思った。

で、パラパラめくっていた。すると一枚の紙切れが入っていた。そこに書いてあったものが目に飛び込んできた。まさに、目に飛び込んできた。ハッとした。何でかって、自分の名前が書かれていたからだ。その紙はご利用控えというものだ。借りた人の名前や返却日が書いてある。まさに、一年前の日付が書かれていた。一年たって借りたのは私だけだったのだ。おどろいた。それもこの本を以前にも借りたことを知っていて今回借りたわけではない。このご利用控えを見て以前にも借りたことを思い出した。以前は読まずに返したのだった。

それにしても面白い。人間は同じ本を面白そうと思って借りたのだ。人間のなんとなくよいと思う感覚は変わらないし。同じような行動にいたるのだ。これは面白い人間の行動だ。

May 16, 2005

失敗知識データベース

失敗知識データベースなるものがある。科学技術振興機構という硬い感じのところがやっているのに、意外と視点が面白い。失敗まんだらとかも。

失敗した場合はこのサイトを見て、自らの失敗を分析してみるのも面白いかも。事例ごとの失敗例があるのでそれを見るのも面白い。

失敗を教訓にしようということらしい。

http://shippai.jst.go.jp/fkd/Search 

同じことを書かない、書けない

同じことを書かないし、書けない。同じ私という人間なのに、そのときによって出てくる言葉が違う。決して、同じ文章を書くことはないし、またかけないであろう。(極端に短い文章は別)

それって、当たり前のようでいて不思議なことである。なんか、一瞬ふっと思って不思議で仕方がない。当たり前すぎて、どこから考えればいいのか、考えるきっかけすら思いつかない。

一回性という言葉がある。厳密に言えば同じ状況というのはおとずれない。それは時間が過ぎ去っているということもそうだし、脳が同じ状態ということは絶対にないからであるのかもしれない。ということは、言葉というものでの表現では本当に思っていることを伝えることが出来ないと思うことも多々あるが、その表現はその時しか生まれなかった、そのときだからこそ生まれた言葉なのだろう。ということは、その自然に生まれてきた言葉がもっとも思いを表した適当な表現なのかも知れない。

なんで、こんなことを思ったかというと、昔の自分の文章を読んで「あ、同じようなことを思っている。でも、こうは書かないな」と思ったから。正確にはこのように考えたわけではないが、そんな感じがした。いきなりパッと思ったので、どのような思考回路をたどったのかがイマイチ分からない。こう、一瞬のひらめきを自分でたどることは出来ないのかなー。

で、同じことを書けないということは大変なことだと思うのです。同じ人間が、同じようなことを思っているのに、生まれてくる言葉が違う。当たり前なんだけど、なんか不思議で仕方がない。これは大変なことだと思うんだよなー。

空が逆さに見えた

家から歩いて2,30分のところに荒川がある。今日は天気が非常によかったので、ふと思いついて荒川の土手を歩いてみた。平日ということもあり人がいなくて心地よかった。で、野球ボールが落ちていたので、ネットに向かって投げていた。あんまり同じ事を続けることが苦手な性格なので、左手でも投げてみた。すると、予想通り投げにくい。右利きだからだ。しかし、なんで左の場合だと投げにくいのか。右の場合と手を変えただけなんだから、右と同じことを左で行えばイイだけである。しかし、人間の脳はそれに対応できていない。

両利きのメリットとデメリット<右利きのメリットデメリット なのであろうか。だから、人間は生まれもって右利きが多い。でも、左利きも相当いるしなー。よく分からない。でも、利き手というものはナンなのだろう。体の各部位に対して脳が働く場所は、生まれてから決まるらしい。利き手というのは脳の問題であると思う。ということは、利き手は生まれてから決まるのか?そもそも利き手と利き手じゃないのの違いってナンなんだ?

過去の関連エントリー

それと思ったのが、野球ボール一つあれば特に何も考えていなくても新しい遊び方をするもんだなーと思った。人間の脳は物を与えられるとそれを使っている無意識のうちに特性をつかみ、自ら勝手なルールを作って遊ぶものなんだなと思った。ものがあるということは人間の創造性のきっかけになるのだと改めて感じた。もしボールがなかったら生まれなかったものが、ボールがあったからこそ生まれるものがある。これは当たり前なんだけど、すごいことだよなー。

あと、芝生に寝転がって逆さに見たら、空というか地面もなんだけど楕円に見えた。何でだろう。普通に見るよりも明らかに丸かった。

結果としての実際の行動はどんな意味を持つのか

結果としての実際の行動はどんな意味を持つのかが気になります。この表現は遠回りで分かりにくいのですが、ようは、実際に行った行動は本人に対してどんな意味合いを持つのかということが気になるのです。このとき、前提条件として行動を行う場合に選択肢があることとします。やるかやらないか、AをとるかBをとるかなどの選択肢があることです。


それは、その本人の意思決定過程と、その意思決定を行ったことによる本人への影響、最終的にある行動をとったということは、本人の意識下における意思決定過程を通り越えた本人の本心が存在するのか。また、その行動をとったことによる本人への影響です。

一番気になるのは、「最終的にある行動をとったということは、本人の意識下における意思決定過程を通り越えた本人の本心が存在するのか。」ということです。これは人それぞれ、かつ状況によって変わるといってしまえばそれまでです。

でも考えて見ます。私がAとBという選択肢で意思決定できない状況であるとします。で、結局どちらかを選択できないとします。この場合における選択できないとは、項目を作りメリットデメリットを比較しても、論理的に考えても選択肢を決定できないということです。で、この場合に直感で、なんとなくBを選んだとします。こうした場合に、自らの意識による(論理的に)判断は出来なかったが、それを通り越した本心が選択肢を決定しているのかが気になるのです。

これは個人の主観であり、世の中に「たられば」というものがないために比較しようがないので答えが出ないのかもしれないんですけど、気になるところです。

自分の性格はややこしいと思うのです。

自分の性格はややこしいと思うのです。
たぶん、これは事実です。
天邪鬼だからかもしれないのですが、それだけではナイキがするのです。
難しい性格です。

May 15, 2005

風呂ってすげー

確かあれは大学2年の夏だったと思う。北海道へ18きっぷで行った。そのとき、夜中の駅でいろいろな人と話をした。サークルで来ている人、18切符で来た人、フェリーで来た人、自転車で来た人、歩いてきた人、いろいろな旅人が来ていた。

そんな人たちと朝まで話していた。北海道は駅で泊まる人がたくさんいるのだ。で、自転車で来ていた人と歩いてきた人が言っていた。風呂に入った火と入らない日では足の疲れ具合が全く違うと。風呂はすごい大切だと。

今日実感した。先日の山登りによる筋肉痛。けっこうひどくてぎこちない歩き方だった。しかし、今日ゆっくり風呂に入ったらかなり筋肉痛が和らいだ。いやーすごい。これからも、風呂をしっかりと利用しよう。

筋肉痛って血流が悪くなることなのかな?だから、風呂に入ると暖かい湯によって血流がよくなって筋肉痛が解消されるのか?それとも、水圧によってマッサージされるからなのか?まあ、マッサージも血流をよくするんだよな?

繰り返すとよく感じるようになる?

なんとなくいいなと思った曲、これを聴き続ける傾向にある。

で、今日はLie Fu 「Life is like a boat」をざっと50回聞た。はじめからいい曲だとは思ったのだが、聞き続けて50回ぐらいになったら、極に対する印象が変わった。

語学でも何回も練習し、繰り返し繰り返しなれることが基本だ。そもそも、論理というものの基礎にのっとったもの以外は繰り返しによる慣れが重要なのかもしれない。芸術や言葉はそれに当たるだろう。繰り返しだ。繰り返すことによってなんとなく分かる。これが重要なのだ。これがこうだから、結果としてこうなるといったものは、あまり繰り返す必要はない。それは論理というものの支えによって理解できるからだ。しかし、そうでないものは慣れによって理解する。こうだっ、と分からなくても分かっているものが数多くあると思う。「インターネット」って何といわれても分からないかも知れないが、日々使っていればなんとなくこんなものとイメージが想像できる。論理というものの基礎となる言葉や芸術は感覚的に理解するしかない。そのためには、何回も何回もそのものに触れるしかない。触れるうちになんか分かってくる。それは明確に分かるのではないかもしれない。だが、このなんとなく分かるということが重要ナンだと思う。

聞きなれるということは、脳をあまり使わなくてもよいということなのだろうか?だから何かするときのBGMによいのかもしれない。

よく歩きなれた場所を歩きながら考え事をすると、なんか創造的になる感じがする。それはなぜか。そもそも、音楽を聴いたり、歩きながら考えるということは、考えるほかに音楽を聴くことや歩くことに脳を使わないといけない。もちろん、初めて聴く音楽や初めて歩く道と比べれば脳を使わなくていいと思う。がしかし、何かを考えるならば、BGMなしで、歩かないで考えたほうが脳をフルに使えるはずである。では、なぜBGMがあったほうが、歩いていたほうが考えが進むのであろうか。

まず、歩くことや音楽を聴くことに使う脳が一部分違うのかもしれない。もし脳の使う部分が完全に違っているなら、初めての音楽でも初めての道でも、聴きなれた音楽や歩きなれた道と同じ状態のはずである。聴きなれた音楽や歩きなれた道のほうが考えが進むということは、考えることに必要な脳の部分が一部かぶっていて、一部異なっているからだと思う。一方で、全く一緒ならば考える能力に影響を与えすぎてしまう。一部分脳の仕様部分がかぶることによって、考えていることに新たな情報(刺激)が与えられ、新たなものが創造されるということなのだろうか。

話が脱線した。繰り返し聞くとさらによい曲に聞こえるのはなぜだろうか?繰り返し聞くということは、脳に安心感を与えるのではなかろうか。初めてやることには恐怖感が伴う。くつろいだ状態ではないということだ。繰り返すことによって、そのものやことは安全という状態で安定していると高確率で考えられる。すなわち自分にとって害がないから、安心。ということになるんじゃないかな。安心ということはよいと思っていたものをプラスの方向に誘導する材料になると思う。

また、繰り返し過ぎると飽きるということもある。これは、同じもので安定しているが、安定失すぎると不安定になるということではないか。同じものの繰り返しでリスクはないが、リスクがないところに進歩はない。すなわち人間は環境変化に対して変化しなければ生存していけない。だから変化を求める。その安定と変化の瀬戸際で心地よさというものは存在しているのだと思う。厄介なものだ。まあ、恒常的に心地よいものはないということなのだろう。

May 14, 2005

生きる喜び

最近どうもこの写真が気になる。
これは、インドのバラナシというところの細い路地で撮った写真だ。

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このおっさんの顔が非常にいい。
確か、写真を撮ろうとしたら照れくさそうに笑ったんだと思う。
なんか、人間の本質に迫る、原点を感じる。

たぶん、生きる喜びなんだと思う。
世の中、カッコイイことはいくらでもある。人から注目されること、なんか大掛かりなこと。頭を使って必死に考えて答えを導くこと、ごちゃごちゃした数字を駆使したこと、大きなお金が関係すること、多くの人に影響を与えること、それはそれの面白さがあると思う。僕もそういうものに面白さを感じる。

その一方でこのおっさんの顔。なんか超越してる。何を超越してるかって何もかも超越している。

人の成長は止まったのか

生物は気候の変化で絶滅した。
疫病がはやり多くの生き物が死んだ。
飢饉があり多くの人が死んでいた。

生き物は環境の変化で死ぬものであった。
だからこそ、人はその環境変化に対応するように、進化していった。
完璧な仕組みは何かあったら弱い、だから曖昧な部分を残し変化する。
突然変異も生命が生き延びる基本だ。
このように生き物は生物学的に進歩成長(変化)してきた。

しかし、現代の人は医療の発達で生き延びることが出来る。
人間が環境を変えた、そのために人間自体の生物学的な成長は止まった。
このような考え方が本に書かれていた。
うなずいた。
けっこう面白い考え方だ。

これは地球が始まって以来の大きな出来事であったんだと思った。この人間の行為自体が単に悪いとは思わない。この人が環境を変えるということは多かれ少なかれ今後も続く。だから、このことを踏まえて物事を考える必要があるんだろうと思う。

まあ、疑問なのがな生物は生き延びようとするのか、子孫を残そうとするのか。だいたいの問題の終着点として、生物が生き延びるためにとか、自らの種のDNAをのこすためという答えにいたるのがつまらない。なんで、生き延びようと、DNAを残そうとするのかが不思議でたまらん。

旅と散歩と移動の違い

今日、散歩した。
ケイタイを家に置いて。
ケイタイなる物とは、高校一年生の頃からだから7年目の付き合いになる。
たぶん、眼鏡の次に長い付き合いであると思う。

たまに、家に忘れて出かけることはあった。
でも、ほぼ毎日一緒にいた。

初めて長期間離れたのはトルコへ行ったときであったであろうか。
あの時、少し違和感があった。物足りなさといったほうがよいのかもしれない。
ポケット