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November 29, 2004

写真

綺麗な写真を見ることが好きです。

その対象物は、山だったり空だったり海だったり、基本的に自然の写真です。

今日、なんとなく天空の旅人というサイトに行き着いて、あらためて写真の美しさに感動。
自分でも綺麗な写真がとりたくなりました。

そのためには一眼レフカメラをもってどっかいく、コレでしょうな。

実は、お気に入りが増えすぎてパンクしているので、自分のためのリンク確認エントリーでした。

好きなサイト

天空の旅人(ココのギャラリー)
たびそら(以前写真展に行きました)
花もて語れ(SFCの学生さんみたい)
Wandering the world(壁紙のコーナーにあります)

November 28, 2004

朝焼け 

日の出、日の入り見たことない 小中学生がケッコウいるらしい。
自分も振り返ると、なかったわけではないがあっても数回だな。その数回がないんだろうけど。

ちょいまて、日の入りも見たことないのか?これ本当か?

まあ、調査結果の信憑性はほかっといて、あの太陽ってやつはなんてくせモンなんだろうね。
いやあ、本当に思うよ。

太陽って奴はどこまでも人間をひきつけるのだろうか。

朝の太陽の神々しさと、夕日の淋しさ。

あの感覚を小さい頃に味わえるってものすごいことだよ。その思いでは、まさに一生の宝ものですよ。

思い出に残っている、日の出と日の入り。

日の出

今年の夏に登った富士山の頂上から見た日の出だな。すさまじかったよ。本当に。あれを見なかったら日本人としてだいぶ損をしてるぞ。そのときの写真はここそれに関するエントリーは大量にある。ここ、とか、こことか。

日の入り

フェリーでモロッコへ行くときに見たのかな。あの時の不安と沈む太陽が心と目に焼きついている。

P9110044.JPG
大西洋に沈む夕日(2003/09/10)


関係ないが、国立科学博物館と、日本科学未来間に行きたい。けっこう猛烈に行きたい。よし、行こう。


日の出、日の入り見たことない 小中学生の過半数 乏しい自然体験

「親が連れ出して」
 自然体験の調査に、「生まれてから一度も日の出、日の入りを見たことがない」と答えた小・中学生が過半数にのぼることが、川村学園女子大の斎藤哲瑯教授(教育社会学)の調査で分かった。「海や川で魚釣りをした」「身長よりも高い木に登った」ことのない子供も四割強。いずれも前回調査(平成十二年)より未経験者が増え、過去最多。斎藤教授は「親が自然の中に子供を引っ張り出さなければ、太陽の動きを追う経験もできない」と危惧(きぐ)を抱いている。
 調査は今年六月、関東・東北の小中学生三千二百八十八人を対象に実施。その結果、日の出や日の入りを見たことがない子供が、市部の子供で52・6%、郡部でも45・9%にのぼった。
 ほかにも「木の実や野草をとって食べたことがない」子供は市部で60・7%、郡部でも49・4%▽「わき水を飲んだことがない」子供は市部55・3%、郡部48・8%−など、自然体験の貧困さが目立つ。
 体験の貧困さは自然の中だけにとどまらず、日常生活でも「生まれたばかりの赤ちゃんを見たことがない」49・8%▽「自分の服を洗濯したり干したことがない」43・6%▽「包丁やナイフで果物の皮をむいたことがない」21・5%−と続く。
 年齢の違う人と触れ合う機会がなかったり、お手伝いもしないなど、衣食住すべてで日常体験が不足している、今の子供像が浮き彫りになった。
 一方で、自然体験が多い子供は、生活経験も豊かな上に「家にいるのが楽しい」「学校が楽しい」と答える割合が高い傾向にあり、多様な経験と生活の満足度に関連性が見られるという。
 斎藤教授は「旅行やキャンプといった“行事”ではなく、日常の中でちょっとした自然現象に目を配ることが大切。生活体験についても同様で、お手伝いをさせたり、地域の人と触れ合ったりして、日常の中で経験できるよう、親が配慮すべきだ」と訴えている。
(産経新聞) - 11月28日2時44分更新

友達と出来事

たまに、友達と出来事で自分の人生を振り返ることがある。

そして、つくづく思うことがある。
僕は仲間に本当に恵まれていた。
仲間に育ててもらった。感謝の念でいっぱいである。

そして、要所でいろいろな出来事が起こったり、自らやったり。
その出来事を通しても学ばせてもらった。

それで思うことは、本当にやりたいことは、実はすべてやっている。ああ、これいいなぁレベルのことはやっていないことがたくさんある。これは、その時意識的にとった行為ではないと思う。結果的に本当にやりたいことは、自然に体が動いてやっていた。自分の意識の外でも、本当にやりたいことのためにさまざまな基礎を固めていたりした。と思う。人間とはこういうものなのかとも思う。

過去を美化しているだけなのかもしれないが。

November 27, 2004

広告

タニタという会社のヘルスメーターの広告が面白かった。

なんと、電車の床に実寸大のヘルスメーターの広告があるのだ。
ケッコウインパクトあるよな。

体重が量れるはずないけど、体重をみんなの前で量るのがいやな人はなんとなく広告の上に乗るのはいやなんだろうな。

November 26, 2004

バルセロナでの日々を思い出す。

あ、NHK教育で 世界美術館紀行 「スペイン・奇才ダリの不思議な愛の迷宮」

をやっていた。で、見た。

マドリッドのソフィア王妃美術館で見たダリの絵を思い出した。ピカソとかミロとかダリとか置いてあった。僕は、絵の分類も知らなければ、技法も知らない、歴史的背景も知らない。ただ見るだけだ。それが、果たして良いのか悪いのかは知らない。でも、まあ、今まで見たものはそういったことナシに見たことだけは事実である。

で、ダリを見て、その時の日記と写真を見た。こんなこと書いてたんだと思う。(ちなみに、海外へ行ったら大学ノート一冊は日記書きます。)ソフィア王妃ではミロの絵が一番好きだった。プラド美術館はでかすぎて疲れた。

ああ、一番スペインで好きなのはガウディの「カサバトリョ」と「グエル公園」です。グエル公園からサグラダファミリアを見たときは泣きそうになりました。

テレビの「おまけ」のコーナーとか言って、レストラン紹介してる。実に懐かしい。カタルーニャの海の幸とかいって、マジで食いたくなった。ああー、バルセロナで食ったあの飯がー、食いたい。

僕が今まで行った中で1年とか、それ以上のスパンで住んでも良いと思う町はバルセロナとイスタンブールです。


スペイン好きの人いないですか?特にバルセロナ。いたら、思い出を語らいたいもんです。

僕の人生と、親友と

僕の人生と、親友と

僕のことを一回でも心にとめてくれたひと
あなたのその心で僕は今の僕となれました
難しいこと抜きにして、心のそこから 
ありがとう


やりたいように、やりたいだけやってこいよ。
自分の聴きたい音を自分で奏でられるまで。
そして、お前のあの笑顔を、楽しみにしている。

俺も、そうするから。


お互い、爺さんになったら、
あの、でっかい餃子を食いながら、
懐かしい日々を語れる日を心待ちにしているよ


さっき書いた5000字以上の文章よりも、伝わるものがあると思うから。

November 25, 2004

「1000年後に残したい宝もの」とは何ですか?

宝もの(宝の上に「たから」とふりがな)

国立博物館の常設展示の端でこんな言葉を見つけたのだ。

この文字を見て、なんかこの言葉を久しぶりに聞いた気がした。宝ものって響きを久しぶりに感じた。宝ものって普段の会話であまり出てこない気がする。考えない気がする。でも、昔(幼稚園・小学生)は宝ものってあった気がするし、すごく大切にしまってあった気がする。僕は、何かのダンボールの空き箱にいくつものガラクタ(大人の表現で言えば)を入れていた気がする。ただの木の切れ端、ミニカー、きれいな色のビー球、今は覚えていないいくつもの宝ものがあった。

そんなことを思い出し「宝もの」という言葉にドキッとして、テクテク歩く。すると、壁に「1000年後に残したい宝物」と書いてあり、机の上には「宝ものの名前」と「選んだ理由」が書けるポストカードがおいてあった。そして、何人もの子が書いたポストカードが壁に貼られていた。

僕も、紙を取って書こうとするが、その瞬間、頭に宝ものが思い浮かばなかった。正直その瞬間ショックだった。その後、いくつかのものが浮かんだが、コレじゃないな、なんか違うと、理由をつけて考えていた。宝ものに細かい理由付けなんていらないんだろう。もっと、純粋に宝ものを、宝ものだと言いたいもんだなと思った。

皆さんにとって、「1000年後に残したい宝もの」とは何ですか?

大変な時代だな

インターネットをみんなが使うようになった時代。
うかうかしていられない。大変だ。

ブログの普及で簡単に自分の意見を公開できるようになりトラックバックなどでそれがつながりやすくなった。これって、相当なパワーを持つなと一連の事件(ブログの規約等)を見て再認識。

運営者として、ちょっとでもあまい考えを持っていると足元をすくわれる。自分(運営者)の中の気持ちは始めた頃と変わらなくても、一気に規模がでかくなっていて、そこで何か問題が起こると、ついついはじめた頃の気持ちで対応してしまう。しかし、それじゃダメなんだな。規模がでかくなっていたらそれなりの対応が必要なんだから。でも、インターネットにおけるユーザーの増加や情報の広まりはまさにマルチプルである。だから、運営者自体がそれだけ大きいものを運営しているという認識に欠けることが多々ある。刻一刻と変化していくものしっかりととらえ、それを運営者であるがユーザーの視点からも見て、対応していかなければならない。当たり前だけど、書きながらもう一度かみ締める。

ユーザーを敵にするような行動をとると大変だけど、味方につけてやっていけばスゴイ力になることも事実。ファイヤーフォックスとかも。それを感じる。

私は今ケニアにいます。

前のエントリーの続き。

僕の分身はケニアに行ったらしい。

お前、とうとう頭いかれたかと思われるので説明。


あなたの分身が、世界中を旅行して、旅行先からあなたにメッセージを送ってくる仮想旅行システムです。ユーザ登録を行うと、あなたの分身を旅行に出発させる事が出来ます。

分身は自分の意思で世界中を旅行します。そのため、旅に出しても、どこへ旅行するかは、分身が自分で決めます。ユーザーが決めることは出来ません。

分身は旅行先で体験した事や旅先で撮した写真をあなたにメールで送ります。

とまあ、こんな感じのものをやっていて、メールがくるのです。

アフリカのケニアのナイロビに到着しました。 

 アフリカ、ケニア、サバンナ....広大な大自然が私を呼んでい
ます!!が、まずは準備が肝心です。

 今日はこれから書いてもらった処方せんを使ってマラリアの予
防薬を買ってきます。とにかくケニアでは蚊に注意!!既に体に
は虫除けスプレーを塗布済みです。もちろん夜のために蚊取り線
香ももってきています。

 今日は薬を手に入れたらまっすぐ宿に行ってこれからの予定を
吟味したいと思います。

あ〜、蚊、蚊、蚊にくわれた〜。カヤもつって蚊取り線香も3つも たいたのに〜、どうしてどうして〜。予防薬だってすぐに効かない のに〜、どどどどどど〜ぢよ〜。

 ま、まてよ、この食われた後は血を吸われた跡が二つ、それも食
われたあとが列を作っている.........って事は、あんぎゃー、
南京虫じゃ〜!!!!!!!!!!!!!殺虫剤殺虫剤!!!
あ〜南京虫に食われた〜、か、かゆいよ〜。

 はぁ〜、しょうがないっすね。もう虫は無視して寝ます(^_^;)、でも、
かゆくて寝られないかも!。

ジャンボ!!健さん。ジャンボっていうのはスワヒリ語 での挨拶の言葉です。

 結局昨夜はかゆくてろくすっぽ眠れませんでした。まだ強烈にか
ゆいです(南京虫にさされると、1ケ月位かゆみが止まらないそうで
す...どーしよ〜(ToT))。

 何ともはや、アフリカの大地に強力な洗礼をうけたような気がしま
す、まあ正確にはアフリカの虫にですね(^_^;)。おっと、そうそう、昨
夜いろいろと情報を仕入れた結果、最初のサファリはサンブル国立
保護区に行く事にしました。ところで健さんはサファリの
意味をしってますか?サファリとはスワヒリ語で「旅」の意味だそうで
す。う〜ん勉強になるな〜この旅は(^○^)。

写真ナイロビ市内で見た野生動物です(鳥)。いくらケニアとは いえ、街中では鳥位しか野生動物はいません。でもこの鳥、スズ メによく似ているのが気にかかります。

 何で鳥の写真を撮っているかというと、サンブル行きのバスが出
発しないためです。もう出発の予定時間から1時間22分が経過し
ていますが、一向に動きだす気配がありません。う〜どーなってる
んでしょうか(T_T)。

 お、ようやく出発するようです。それじゃ、次のメールは明日出し
ます。


とまあ、こんな感じです。ケッコウリアルっぽい内容です。&スワヒリ語の勉強になったり、息抜きになったりします。

実はケニア旅行の宣伝だったりして。(笑)でも、この分身が旅行終わってケニアのツアー勧誘メールが来ても行く人少ないだろうな。それよりも、なんか、なんというか、イメージアップとかにこのメール手法は使えるんじゃないかな?短期的な売り上げではなくて、長期的なイメージアップや認知度アップに。

November 24, 2004

たった一言でも

別に、長けりゃいいてことでもない。

たった一言でも、1,2行の言葉でも、いや、たった一言でも、1,2行の言葉だからこそなのかも知れないが。

まさに本質を言い当てていることや、美しいことがある。

それは、こういうことだからですかね↓。

Imagination is more important than knowledge.
                         Albert Einstein

メールが届くのが楽しみ

といってもPCによって自動生成されるメールだ。
出会い系とかそういう類の迷惑メールと基本的に同じ手法で作られていると思う。

でも、そんなメールが速く来ないかと楽しみにしている自分がいる。

もちろん、スパムとかウイルスが付いているメール、出会い系などのウザイメールではありません。
どんな内容かというと、自分の分身が世界中を飛び回って旅行記をメールで送ってくるというサービスだ。その旅行記メール。数日前、僕の分身を出発させた。といっても、メアドを登録して「出発」ってところをクリックしただけ。

すると、


ごきげん最高で〜す。旅行先も決まりました。さ
っそく出発といきたいところですが、旅行前に英語で書かれた薬
の処方せんが必要なんですよ。今回の旅行先は国内では購入
できない薬が必要な所なんです。その薬がないと命の危険もあ
るかもしれないのでちょっと時間はかかるけど、きっちり用意して
から出発します。

 それじゃ、用意が出来たらまたメールします。

こんなメールが来た。面白そう。

で、また数日たったら

処方せんも書いてもらってきました。これで準備OK!!チケットの
手配も完了したし、あとは荷物のチェックを残すのみです。そうそう、あ
れもっていかなくては、ぐるぐる渦巻いた緑色の物体を!!。よし、準
備完了、それではいってきま〜っす。

 行き先ですか、それは行き先は着いたときに知らせます(^_^)。それま
で待っててね〜と言おうと思ったのですが、ばらしちゃいます。行き先
はアフリカ大陸!!


テンプレートがあって、それにあわせて送っているんだけど、面白いねこれ。それも、行く場所がアフリカですよ。それが僕をさらにワクワクさせる。

自動生成メールでもこんなにも僕にとっての価値が違う。不思議なもんだ。ものは使いようですな。そう、今は全く意味がないような技術でもちょっと頭をつかって使い方を変えてやればスゴイ良いサービスとかができるのかもね。

「ら」

なんか、ギターを持って歌っている人がいた。
たいしてうまくもなく、誰も聞いていない。

しかし、ふと気になる。

「らー、ら、らーー、らい」とか歌っている。そんな歌きいたこともなければ、きれいなメロディーラインでもない。何が気になったかというと「ら」という音。

歌では、この「ら」がよく使われ、繰り返されることがある。大黒マキにしろミスチルにしろ。じゃあ何でだ?

発音しやすいのか?確かに、A Ka Sa Ta Na Ha Ma Ya Ra Wa は口の開け方が構造上楽でってのはあるというものがあると思う。

「ら」が他のことばでどのように使われているか、そしてその使われ方からくる「ら」の感覚からか?

「ら」という言葉がらららと繋がりが良いからか。ラ行はルンルンとか、リンリンとか、明るいイメージでつながるからか。

何かしら文化的、歴史的背景があるのか?

「ら」は声帯いためないから、歌の途中に入れるとのどを休められる?

「ら」
1 五十音図ラ行の第一音。歯茎弾き音の有声子音[r]と母音[a]とから成る音節。[ra]

2 平仮名「ら」は「良」の草体から。片仮名「ラ」は「良」の初二画から。
大辞泉

これをみると、「良」という感じからきており、良いイメージであることは確かだが、果たしていかなる理由があってらと歌うのか?


と、意味のない妄想を繰り広げるのでありました。

視点

先日、電車の先頭に乗って気がつく。

おお、かっこいい。かっこいいというか、なんか「すげぇーーー」ってな感じ。たぶん、幼稚園児のころの新しいものを知ったり、見たりしたときの感覚。幼稚園児が動物園で叫んでる感覚です。

僕は、昔、おもしれーとか、ワクワクどきどきすることがない人間なのかと思っていたけど、普通の人よりそんなことが多いらしい。簡単に言うと、子どもらしいです。はい。成長していないだけですね。まあ、一生子どもでいると宣言しているから問題ナッシング。

で、話は戻って、モブログに僕はこんなことを書いた。

「電車の先頭から見る喜び。普段見ない視点か、電車というものを全体としてとらえる感覚、いったい何が心をワクワクさせるのか。」

それに思ったのは、目の前に迫ってくる電車が、そして京浜東北は新幹線も横切るから、わくわく。

新幹線、飛行機、これってなんかわくわくする。たぶん、小学生とかそういう小さい頃に、新幹線乗ったことある?とか飛行機乗ったことある?という会話からも想像されるように、電車や車とは違う乗り物なのだ。違うレベルの乗り物なのだ。そうやって、脳にうえつけられた部分もあるだろう。

もちろん、電車と同じようなもので新幹線はスピードが速い。この現在あるものの中では最高のスピードに喜びを感じるのかもしれない。飛行機も空をあんなに速いスピードですすむ、その感じに。

こんなこと書いていると、僕は昔書いたブログというものを思い出す。ああ、あれと微妙に関連しているなと。それを感じると俺が文章を書いたんだと感じ、俺って人間は常に変わっているんだけどベースでは
同じなんだと再認識する。

たぶん、読んでいる人には決して伝わらないこの感覚が僕にブログを書かせている。

http://www.teratown.com/moblog/archives/001151.html

2003/12/2 テレビうつり

夜はNHKでスペインのトレドをやっていた。
こっちは、今年の9月に行った。

普通はテレビで見るとよい部分しか映さないので、よく見えることが多い。
カメラワークによってほんのちょっとしかない、小さな範囲しかきれいでなくても、その美しさが永遠に続いているかのように写す。今朝のズームインはその典型だ。

しかし、NHKのトレドはテレビを通したほうがしょぼかった。まあ、テレビで見たほうが価値が下がっていた
。あの町は、これだっと、いうものがない。まあ、あるといえばカテドラルとかいろいろあるんだけどね。あそこは、町全体として美。和みがある。落ち着く。そういう、雰囲気とか・人々の生活している時間の流れ、カメラでは吸い上げることができないものがある。その吸い上げることができないものによさを感じる。だからテレビではよさが半減する。


November 22, 2004

お金が気持ちをなえさせる。

思うこと。

「たいしたことでない、些細なことでも、それに価値が生まれることがある。その人のためだけなもの。他の人には意味がないかもしれない。その感動に意義がある。03/07/01 」

こんなことを昔記した。これをまた感じることが多い。
別にお金がかかっていなくてもいいんですよ。いわゆるマスターカードですよ。あのCMですよ。お金で買えない価値があるんですよ。

たとえば、尊敬する人に自分の名前を呼ばれる。「おい、寺町っ」と。これなんともいえないほどうれしいことですよね。認められたというか。覚えてもらえたというか。別に金を払ったわけでも何でもないんですよ。両者ともコストも払っていないし。でも、とんでもなくうれしいのです。

逆に、尊敬する人にお金を払って、(これは本人でも、裏で協力者などの他の人でもいいんですけど)名前を呼ばれても、うれしくも何でもないですよね。お金払ったことによってその価値は下がってしまうんですよね。金は人間の感情(ワクワク。どきどき。感動。うれしさ。)を取り去ってしまっているのです。

トイレットペーパを使うのを躊躇する

トイレットペーパを使うのを躊躇する。
ってまじかよ!?

インドに行って左手に慣れたからか?トイレットペーパーがいらなくなったのか?!

そうじゃないです。
この前、トイレットペーパーを買ったんです。スーパーで一番安い奴が、香りつきのトイレットペーパだった。まあ何でもいいやと思って買った。家に帰って使ってみるとホントに花の香り。まあ、それはいい。

問題なのはトイレットペーパーに花の絵とその花に関する言葉が書かれている。
その言葉が、また心に響くことが書いてあったりする。

そうするとですね、じっくり読んで見とれてしまう。ココまでは良いのだけど、なぜかそれで尻を拭くのをためらう。ためらうというか、何か悪いことをしているような、なにやら綺麗なものを汚すような感情を持つ。

もとはといえばただの紙ですよ。無地のトイレットペーパーなら何にも感じていませんよ。しかしそこに絵と言葉が書かれただけで全く人間の感情は変わるのです。それだけ、文字と絵には人間の感情に与える力がある。そう実感したわけです。

問題じゃないんだけど、この気持ちはなんだろうか。

ちなみに好きな花はひまわり、桜、コスモスとかです。
まあ、スペインで一面のひまわり畑を見るという夢は達成されなかったのですが。。。

BGMはミスチルの「花言葉」
ミスチル歴はかなり長いけど、やっぱいいわー。落ち着く。

1122

ブックオフの帰り、
カフェの前のミニ黒板に「1122の日」って書いてあった。

いい夫婦らしい。

あ、なんか心が和らいだ。

ゆめ

「夢」ということばがある。

将来の夢

というときの「夢」の意味

昨日の夜、怖い夢をみた

というときの夜寝ているときにみる「夢」


違う意味であるのに同じ言葉。
現実離れした空想という繋がりの中で、なんかうれしい気持ちになる。

キター

ちょいと前、こんなエントリーを書いた。

「理想の家と近くにあると良いもの」

そう、家の近くにブックオフがオープン。やりましたよ。

いやーーホントうれしい。

あそこの100円コーナーはたまんないです。
距離的にも散歩コースに最適です!

では、行ってきます。

たぶん、たぶん

人間は曖昧なものを想像することが得意な時と得意でないときがある。少ない情報から特徴を読み取り、それが何であるかを判断する。

たとえば、人間の後姿。これは服も新しかったりしたら分かるのは背の高さとか髪形ぐらいか。歩き方とか。しかし人間はそれが友達であればだいたい判断できる。しかし、普段自分が見慣れていないもの、太郎というカモシカと二郎というカモシカは区別が付かないだろう。たぶんカモシカ君たちは区別が付くはず。それはいつも見ているから。

同じもの、同じ種類のものを見続けていればそれに付いて何か分かってくる。特に人間みたいに動いたり笑ったり、変化しながらあるものを見続ける。すると、それについて何かしらの判断能力が付くはず。

たぶん、いたって当たり前のことを書いているんです。世界中のほとんどの人が知っています。しかし、このことを応用している人は少ないかも。自然にやっている人はたくさんいそうだけどね。

なんかについて詳しく知りたかったり、感覚をつかみたかったらひたすら見てやるとか。どうしても、ひまわりの花の違いを判断したい人は、ひまわりをひたすら見てやる。右から見たり、左から見たり、上から下から。斜めから。時にはひまわり畑に埋もれてみるとか。食べてみたり、


なんか最近ブログのランキングがはやっているらしい、じゃあ、オレは

なんか最近ブログがはやっているらしい。

特にランキングとか。某野球参入で有名になった会社のランキングとか、その他のランキングで。

上位を争くらいなら、ほぼ毎日更新しているのにほとんど誰も見に来ないブログを達成してやるぞ。

前から言っているようにこのブログは自分のメモ。誰も見なくてもいいです。
じゃあ、公開するなって突っ込む奴がいるかもしれないけど、自分が外部から見るの便利だし。それに、公開するなって文句言うくらいなら見に来なくていいんじゃないのかと思うのです。

ランキング上位とか争うのなんてやってらんねー。このページのアクセス数下がるように意味不明なこと書いてやる。

もっと見に来るやつ減ってくれーーー。

よーし、もっと意味不明なこと書いてやるぞ。

と天邪鬼道をゆくのでした。ちゃんちゃん。

環境変化→心理変化-偶然を必然にする方法-

今日は朝から早い。最近、日曜日の朝が早い。ちょいと辛いが、すがすがしい。(夕方になると疲れるのだが)なんか、方向性とか、課題とかスムーズに話が進む。こんなにきれいにまとまっていいものなのかとも思う。たぶん見逃しているところがあるのかも。それから新宿で少し頭を使う。頭を使ったのは久しぶりかも。

ココから本題。

たぶん、若いうち(青年期かな?)には大きな環境変化と精神・心理的変化がある。大きなものは一人暮らし、経済的独立、結婚、親の死ではなかろうか。まず、一人暮らし。これは親から離れるという環境的変化。今までには全くない環境である。それによって精神的に自由が増える。経済的独立。自分で稼いで自分で食う。他人にどうのこうのほとんどいわれなくなります。さらに精神的自由が増える。結婚。これは精神的自由が減ると思われます。親の死は自分の支え、そして親の目がなくなります。

一概にこうとは言えないかもしれないが、こうではないかと。
で、こういう心理的な変化によってそれが行動という形で現れる。これの積み重ね。

で、問題は偶然を必然にしてしまう人。
そういう人は、環境変化が起こる前にその後の状態をイメージし、そのときの精神の変化を予測し、そのときに何をしたいかを具体的にリストアップしている。

大きな心理的変化がおこる前に、心理的変化後の状態をいかにイメージし、何をもとめゴールをみすえいかなる行動をとるかを列挙する 具体的行動を直接行わなくてもそのイメージしたものが日々の生活をとおして達成される可能性が高い 将来を映像としてイメージし夢をみるそして落とし込み これで人生の大まかな方向性がきまる それは一つ一つの行動が短期的意味を持っていなくても長期的にはつながる これが偶然を必然にする秘訣

これは、「環境変化の前」というのが重要で、その前にイメージする必要がある。

一人暮らし 親から離れる物理的に 自分で稼ぐ 金銭的に独立 精神面でのさらなる自由 結婚あらたな結び付き ここを期に人は大きな変化をとげる 物理的変化から精神変化になり行動という物理変化になる。それの積み重ねが精神信念をうみだす 東京には男が多く地方には女が多い マッチング 大学入学後10年計画 気付き共有仕事でスキル地元 大きな方向性を決めるのが得意 

一人暮らし、物理的に親から離れる
社会に出る 自分で稼ぎ経済的自立
結婚 家族が出来て、家族への責任感、どこに住むか子育てはどこでするか、どんな育て方かなど
親の死 親の目がなくなる。魂の中には届くかもしれないが。介護が必要になった時に自分はどうするか

これらの時は、人生の転機だな。

追記

結婚と親の死、さらには子供が生まれる。この三つをセットにして家族の増減とまとめることも出来る。転職とかも大きな変化だが、

これらの人生における大きな変化において結婚だけコントローラブル、自ら選ぶことが出来ることだ。だから、結婚は大いに悩むのだろう。

November 21, 2004

国立博物館

昨日行った三田祭はまだ続くらしい。でも、行かない予定。

で、国立博物館へ行こうかなとおもう。実は行ったことないし。

誰か一緒に行く人いますか?いたらメールでもください。

November 20, 2004

吉野家問題

吉野家さんが「角煮きのこ丼」販売終了するらしいですよ。

そんでもって、12月上旬に牛焼肉丼が420円で始まるらしいですよ。

ああ、吉野家の売上不振はニュースになるので、こんな無理なタイトルでニュースが出ていましたよ「吉野家が牛丼首位転落、売上高17%減…9月中間決」。そもそも今牛丼売っていないから牛丼首位じゃない(笑)じつは、ゼンショー(すき家)という会社に業界首位を明け渡したと。しかし、すき家はゼンショーの中で売り上げの3割しか占めてないです。でも、まあ、吉野家の売り上げが下がっているのは事実だと思います。

そんでもって、吉野家が牛丼を復活しても大して客は増えないですよ。吉野家&牛丼復活でニュース性があるので一時的な売り上げアップはあると思いますが、少なくとも前と同じレベルには戻らないとおもう。みんな、牛丼がなくなるときのフィーバーが頭に残っていて、みんながみんな牛丼を欲していると勘違いしているかもしれないんですけど、牛丼がなくなるときはイベント的要素で駆け込み需要があっただけですから。本質的に牛丼をそこまで求めているわけではないです。僕はそう思います。

雨の日と利き足-特にメッシュのスニーカー-そんなんで考える

今日は雨だったんですよ。
そんで、出かけた。
帰り駅からとぼとぼ帰る。そうしたら、俺のきき足は右だと分かる。というのも、地面が濡れているところをメッシュのスニーカーで歩くと、右足だけ濡れる。靴のつま先あたりね。多分、僕は手も足も右利きである。だからだ。ってコレではいまいちかも知れないので。ちょいと詳しく。僕は手が右利きである。意識がある頃から右で字を書いていたし、右手で飯を食っていた。力も右の方がある。コレを踏まえて足を考える。歩いていてスニーカーが右の方が濡れている。ということは右足の方が力が強い。けり返しとかが強い。だから、水がはねて右のつま先の方が濡れる。

この、右足の方が濡れるのを見てきき足は右だと気がつきました。

そもそも、利き手・聞き足って何だろう。
多分、生まれたときから右利きの人は右利きなんだろう。ということは、遺伝子にその情報が組み込まれているのだろうか。劣性遺伝とか優性遺伝ってあるのかな?

見た目は、右も左も同じなんですよね。指が五本あって。同じような色で、同じような動きをして。じゃあ、遺伝子に入っている情報の何が違うんですか?そもそも右も左も利き手・利き足の人はいないんですか?さらに言えば、なにをもって利き手・利き足が右とか左とかいうんですか?

利き手ってなんだろう。なんで利き手が生まれるんだろう。

僕は、生まれたときから右利きだったとおもわれる。でも、中学のときに左利きに変えようと試みた。それで飯は今でも左で食べる。箸は左手で使うということだ。中学までは右で飯を食っていたが今は左で飯を食う。初めはマメとかとりにくかったけど、今は左の方が端の持ち方がうまいといわれるほどだ。そのころ字も左で書く練習をした。しかし、字は左手で書くのが難しかった。うまく書けないし、さらに時間がかかって不便すぎた。それでも、左手で日記を2,3年書いたがそこまで上達せずにいつの間にか終わった。こう考えると、利き手というのは強制使用とおもってもそう簡単に出来るものではないことが分かる。習慣でも強制できないものであることが分かる。では、利き手・利き足とは何だろうとさらに分からなくなる。

たぶん、利き手利き足を考えると相当おくが深いし幅が広いことです。うーん、遺伝子の問題か?生まれたときに親がどちらのてに箸を持たせたかによって決まるのか?利き利き足がある意味って何だ?
誰かコレについて考えている人いないかな?


ついでに、今考えれば、左手で飯を食べ始めたことも、ケンダマをしたことも僕の人生を大きく方向付けているのだとおもう。ちなみに、小学校二年生の頃からケンダマやってます。今でも東京の家にケンダマがあってたまにやります。あれは、いいです。面白い、楽しい、という次元を超えていいです。

疑問のまま終わるブログでした。

November 19, 2004

ピタット一致する

まだ21年しか生きていないわけですが、ピタット一致することがある。
曖昧な、ぼやっとした2つのものが、だんだん輪郭がはっきりとしてきて、それがかさんる瞬間がある。無数の点が線になる時の感覚と似ている。

僕という人間は外部のものとの関係で生きている。僕の心とその外部の物の心が一致するのである。それは、音楽であっても、組織であっても、人であっても、学問であっても何でもなんですけど。前に書いたエントリーで書いたコレだって時の感覚です。

そういう時は、本当にワクワクする。心躍るって奴ですよ。そうすると、イメージがわく。そうなったらもう突き進むしかないんですよ。

そういう時を僕は探すために、そのことを楽しむために生きているのかもなぁ。

ガラポン

なつかしい、ガラポン。
これは昔土曜日の午前中にやっていた大前研一氏の番組だ。

高校のときにこの番組を見ていた。(今はやってません)土曜日に家にいるとき、偶然テレビを見ていたらこの番組がやっていて面白いとおもい見たのがきっかけだ。そのとき、テレビに映っている態度のでかいおっさんが大前さんだなんて知らなかった。(少したって何者か少し知った)

で、この番組ビデオにもとってあって東京にも持ってきているのです。なんか偉そうな発言になってしまいますけど、なかなかいいことを言っているんです。純粋に情報量も多いし、それを踏まえた予測も鋭い。さらに、行動一つ一つに考え抜いた感がある。

でも、大学に入って、大前さんのことを一時期うさんくさいなーとおもって遠ざけていた。

でも、最近また、その評価が変わりつつある。
本を読んだのが理由なんだけど。確か、彼は僕が高校のときにエブリデイドットコムという事業を始めた。その時テレビで、オンラインショッピングが伸びないのは操作が難しいからといっていた。消費をする主婦には難しいと。それで、バーコード付きパンフレットを配って、ほしい商品のバーコードを読み取って購入できるようにすれば売れる。みたいなことを。このとき僕はこれはあんまり売れないだろうとおもった。

で、まだその事業は続いている。成功しているのかしていないのかは知らないが、まあ大成功はしていないだろう。個人的には失敗の部類に入るのではとおもっているのです。調べてなくて詳しく知らずに発言してます。

彼はマッキンゼーという会社の社長もしていた人です。マッキンゼーが本当にすごいのかは知らないけれど、多分マッキンゼーの人たちは世界でもトップ集団であると自負しているとおもう。そんじょそこらのプライドじゃないとおもう。経営の世界では右にでるものはいないプロだと。僕の勝手な想像なんですけど。

ここをふまえてですよ、で、ここからです。今までは前説です。
彼はこう書いていたのです。自分のやってきたことには成功も失敗もあると。「失敗なんてして当たり前、失敗して強くなる。失敗という経験はありがたいとおもう、恥ずかしくない」と言い切っていた。失敗だと自分の中ではおもったとしても、公言するってのはまた意味が違うとおもう。すごいな、本物だなとおもった。そして、その公言するという行為によって自らを引き締めている。

みんな失敗は怖いし、できるだけ避けたい、認めるのに抵抗があるものだと思う。僕もそうだ。でも、失敗してこそ人間は強くなり、失敗するからこそ成長できるし、失敗を恐れてばかりいたら挑戦できないと僕もおもう。失敗を受け入れ、自分の欠点を受け入れ、それを分析して、次の行動に生かす。これだよな。心がけよう。

それにしても、プライドが相当高いとおもう人が負けを認めてそれを糧に挑戦するといえるのはスゴイ。社会的な名声と地位を得た人が、失敗を認める。純粋に尊敬するなぁ。まあ、プライドが高いって言う認識が僕の偏見だったりとかするのかもしれません。

November 18, 2004

大学名って

大学、いまや行きたいと思えばどっかには引っかかる。昔の大学の価値(希少性)は今の大学院といわれるが、個人にとって、社会にとって大学名って今の世の中でどれほどの意味を持つのか?

最近、全然ばらばらなところで大学名というものが話題に出た。そこで、どうなんかなーと。

まず、先日、日経にたくさんの大学名がのっていた広告があった。それは何の広告かというと結婚斡旋会社。なにやら8月から10月の間に斡旋会社を通して結婚した人の男女それぞれの大学名と現職の業種が書かれていた。確かに、一般に有名とされる大学名の人しかのっていなかった。有名大学といわれるところを卒業した人しかターゲットにしていないのかな?

まあ、受験という勝負にかぎっては(これをやりたいといって大学を選んだり、この地方がいいといって選んだ人意外)東大に受かった人が勝ちだと思う。でも、東大だから一概にすごいとも思わないし、ボーダーフリーだからしょぼいとも思わない。単に受験という勝負だけの話。

金沢工業大学、はこだて未来大学、会津大学、多摩大学、高知工科大学とメジャーではないけれど面白い大学ってあると思うのに。。。

で、この話をしたら、大学名より現職だろといわれた。現在が三流大学と言われるところを出ていても電通だった、そっちの方がいいのではないかと?

そのほかにも、

学歴社会に疑問を感じたから、東大にいったという人も。

本を読んでいて、ペンシルベニアで投資家から金をもらおうという人はペンシルベニア大学を出ているだけで、投資家に信用されやすいとか書いてあったり。まあ、日本でも開業医を地元でやるなら地元の医学部にとかいうしなぁ。

アエラを読んでいたら、東大卒40歳の現在みたいな記事が。

たくさんの大学の人が集まっているところで、私の大学は・・・だけど有名大学の人ばかりで。。。っていっていた。

などなど。

高校の頃から言っていたのは、本当に何かをやりたいと思ったら大学なんて関係ない。本気でやればどんなことでもできると。大学を言い訳にするのはただの逃げだと。

自分の大学がいわゆる有名大学じゃない人の意識と有名大学の人の意識は違うんだろうなとも思う。

で、特に明確な理由があって大学を選ぶ人意外にとっては、有名大学か有名でない大学どっちがいいかといえば、有名な方がいいと思う。まあ、大学にも会社にも社風はある。その影響を多少受けているのは確か。初めて会ったときの話の種や、イメージ、信頼(表面的な)というものでは意味がある。逆にその大学のイメージで個人の性格まで想像されて誤解をよぶこともあるが。

結局のところ、あまり僕にとってはどうでもいいことなので、大学がどうであろうと気にしないので大きな問題として考えることが出来なかったと。そういうわけで、なんとも生ぬるいエントリー。

November 17, 2004

タイプ別性格診断

某ページで紹介されていたのでやってみる。
さあ、どうだろうこの結果?

みなさんは、本物の僕と結果をみてどう思いますかね。


INTP型:問題を解決したがる
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 考えにふけってうわの空の大学教授を絵に描いたようなタイプがINTP型である。
頭の中でじっくり考える(I型)なので、N型の想像力がいろいろな可能性を思いつく。

客観的(T型)なので、その新しいデータを分析し、際限なく融通がきく(P型)ので、どんなデータもさっそく取り入れてしまう。


 論文、図面、計画、企画、提案、理論などなんであろうと、こまごました情報を一つにまとめた完成図を作りあげようとするが、たえず新しいデータを発見するので、その完成図がどんどん膨らんでしまう。

その結果、考えや構想や計画がどんなに最終的なものに見えても、土壇場になって「新しいデータ」が手に入ると変えてしまうのである。

これはINTP型にとってはわくわくするほど楽しいが、ほかの人、とくにJ型の性向を持つ人にはフラストレーションになる。


 完璧に見えても満足しないので、みずからが最大の批評家となり、あら探しをする。

完璧、有能、優秀であろうとするあまり、それが極端になると、かえって負担になり、うんざりしたり自分を責めたりする。


 このタイプは女性の場合に葛藤を生む。

考えにふける大学教授というのは従来、女性のイメージというよりは男性のイメージで、頭だけで理屈をこねる資質は、男性の場合は大目に見られるが、女性の場合あまり受け入れられない。

そこで少なくとも三つの問題が生じる。


 第一に、女性は昔から、家庭や家族のこと以外では設計能力があるとは見られてこなかった。

だから、人生を頭で考えた理屈にあわせたいと思うのは、INTP型にとっては当たり前なのだが、従来の女性の役割には真っ向から反する。


 第二に、独創的に考えるのも従来の女性の気質とは見られていない。

たとえば、時間を聞かれると、INTP型は時間の哲学的な意味について述べたくなる。

そうした風変わりな面も男性ならば頭がよすぎるせいだと見られるが、女性だと「鈍感」とか、ときには「頭が鈍い」というレッテルをはられてしまう。


 第三に、T型の面が、従順、優しい、気配りといった女らしさに反する形で表れる。

INTP型の女性が感情を表にあらわした場合、悪くすると、しばしば極端に表現しすぎて、本人もほかの人もぎょっとしてしまう。

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親子関係

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 INTP型は、親というのは子どもの未熟な頭を伸ばしてやるものだと思っている。
一人ひとりの子どもの違いを辛抱強く受けとめ、子どもには自分の考えをもって生きていけるように育ってほしいと願う。

自分の進むべき道を模索する子どもを驚くほど寛大に支えてやる。

子どもの発達にあまり口をはさまない。

どんな考え方や行動をしたらよいか、いくつか選択できる道を示唆するだけで、けっして押しつけずに、新しい可能性を示してやる。

その助言が受け入れられなかったら、「ちょっといってみただけ」と答えるのがふつうである。

だが、ときには、反抗的だったり無関心に見えるときでさえ、子どもは親が別の考え方を押しつけてくれるのを待っていることもあるのだ。

そういう子どもにとっては、「無理やり」とか「押しつけ」といった言葉とは無縁のINTP型の親を持ったら不運である。


 INTP型の子どもは、人とのつきあいで内気と見られるか、逆に、やたらに理屈っぽくつっかかってくるかのどちらかで、その中間は少ない。

学校では、一つのことに集中せず、授業とは関係ないことをあれこれ追求しすぎると見られたり、場違いなときに場違いな質問をすると見られる。

そうした行動は、とくに女の子の場合、人騒がせと取られる。

必然的に、INTP型は学校生活に耐えて生き抜いていくために、誰よりもよく勉強することになる。


http://www32.ocn.ne.jp/~emina/

東京通信工業株式会社設立趣意書

よく、東通工の設立趣意書の「自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場」だけ引用されるが、この文章はそのほかの部分も非常に価値のある文章だと思います。

漢字とカタカナで読みにくいのですが、きにならないくらいです。

すごい、思いが伝わってきます。
HPのフィオリーナ社長は大勢の前でも一人一人に話しかけるように話すと聞いたことがあるが、文章でもコレが重要なんだろうな。

カタカナ言葉を使ってなんとなく分かった気にさせる安っぽさではなく、本質を見抜いた含蓄のあるものです。


東京通信工業株式会社設立趣意書 - 井深 大

 戦時中、私ガ在任セル日本測定器株式会社ニ於テ、私ト共ニ新兵器ノ試作、製作ニ文字通リ寝食ヲ忘レテ努力シタ、技術者数名ヲ中心ニ、真面目ナ実践力ニ富ンデイル約二十名ノ人達ガ、終戦ニ依リ日本測定器ガ解散スルト同時ニ集マッテ、東京通信研究所ト云フ名称デ、通信機器ノ研究製作ヲ開始シタ。

コレハ技術者達ニ技術スル事ニ深イ喜ビヲ感ジ、ソノ社会的使命ヲ自覚シテ思イキリ働ケル安定シタ職場ヲコシラエルノガ第一ノ目的デアッタ。戦時中、総テノ悪条件ノ基ニコレ等ノ人達ガ孜々トシテ、使命達成ニ努メ大イナル意義ト興味ヲ有スル技術的主題ニ対シテ驚クベキ情熱ト能力ヲ発揮スル事ヲ実地ニ経験シ、又、何ガコレ等ノ真剣ナル気持ヲ鈍ラスモノデアルカト云フ事ヲ審ニ知ル事ガ出来タ。

ソレデコレ等ノ人達ガ、真ニ人格的ニ結合シ、堅キ協同精神ヲ以テ思フ存分技術能力ヲ発揮出来ル様ナ状態ニ置ク事ガ出来タラ、例ヘ其ノ人員ハ僅カデ、其ノ施設ハ乏シクトモ其ノ運営ハ如何ニ楽シキモノデアリ、其ノ成果ハ如何ニ大デアルカヲ考ヘ、コノ理想ヲ実現出来ル構想ヲ種々心ノ内ニ書イテ来タ。

トコロガハカラザル終戦ハ、之ノ夢ノ実現ヲ速進シテ呉レタ。誰レ誘フトモナク志ヲ同ジクスル者ガ自然ニ集リ、新シキ日本ノ発足ト軌ヲ同ジウシテ我々ノ発足ガ始マッタ。発足ニ対スル心構ヘヲ今更喋々スル要モナク、永イ間皆ンナノ間ニ自然ニ培レテイタ共通ノ意志ニ基イテ全ク自然ニ滑リ出シタノデアル。

最初ハ、日本測定器カラ譲渡シテ貰ッタ僅カナ試験器ト材料部品ト小遣ヒ程度ノ僅カナ資金ヲ以テ出来ルダケ小サナ形態デ何トカ切抜ケテ行ク計画ヲ建テタ。

各人ハ、其ノ規模ガ如何ニ小サクトモ其ノ人的結合ノ緊密サト確固タル技術ヲ持ッテ行バ如何ナル荒波ヲモ押シ切レル自信ヲ持ッテ大キナ希望ヲ以テ出発シタ。斯様ナ小サナ規模デ出発シタ所以ハ、コノ国家的大転換期ニ於ケル社会情勢ノ見透シガ出来ズ、又我々ノ仕事ガ社会ニ理解サレ利用価値ヲ見出サレル迄ニハ、相当ノ期間ヲ要スルト考ヘタカラデアル。然ルニ実際ニ動キ出シテ見ルト我々ノ持ツ様ナ技術精神ヤ経営方針ガ如何ニ現下ノ日本ニトッテ緊急カクベカラザル存在デアッタカヲ各方面カラノ需要ノ声ヲ通ジテハッキリ自覚セシメラレタノデアッタ。

其レハ先ヅ逓信院、運輸省等ノ通信ニ関係アル官庁ノ活溌ナ動キニ見出サレタ。即チ全波受信機ノ一般ヘノ許可民間放送局ノ自由開始、テレヴィジョン試験放送或ハ戦災通信網ノ急速ナル復興、意図トソノ綿密厖大ナル諸計画ノ発表等他ノ低迷困惑セル諸官庁ノ中ニアッテ一人水際立ッタ指導性ヲ示シ一般業者側ガ逆ニ牽引サレタカノ感ヲ呈シタノデアツタ。

斯ル動キハ特ニ過去ニオイテ逓信院ト関係ノ深カッタ我々ニ対シ直接ノ影響ヲ及ボシ、早クモ真空管電圧計等ノ多量註文ヲ見ル結果トナリ。

 其ノ他短時日ノ間ニコノ方面ヨリ提案サレタ新製品ノ研究、試作依頼ノ種目ハ相当量ニノボル状態デアル。又間接的面カラ云ヘバ全波受信機ノ一般許可ニ依ル影響ハ終戦後ノ「ラヂオプログラム」ニ対スル新シイ興味ト共ニラヂオセット其ノ物ニ対スル一般ノ関心ヲ急激ニ喚起シ戦災ニ依ル「セット」電気蓄音機類ノ大量焼損モ相待ッテ我ガ社ノラヂオサービス部二対スル需要ヲ日ヲ追ッテ増加セシメタノデアル。其ノ他諸大学、研究所ノ学究、同ジ志ヲ有スル良心的企業家等ト特ニ深イ相互扶助的連繋ヲ持ツ我々ハコノ方面ヨリノ優秀部品類ニ対スル多種多彩ナ要求ニ当面シツツアルノデアル。

 以上ノ如キ各方面ヨリノ需要ノ増大ハ我々ニ新シイ決意ヲ促シタノデアル。即チ資本ト設備ヲ拡充スル事ノ必要ト意義ヲ痛感シタノデアル。

 我々ノ心カラナル試ミガ、カクモ社会ノ宏般ナ層ニ反響ヲ呼ビ起シ、発足ヨリ旬日ヲ経ズシテ新会社設立ノ気運ニ向ッタ事ニ対シ、我々ハ云ヒ知レヌ感動ヲ覚ヘル。ソレハ単ニ我ガ社ノ前途ニ赫々タル発展飛躍ヲ約束スルバカリデナク我々ノ真摯ナル理想ガ再建日本ノ企業ノ在リ方トハカラズモ一致シタ事ニ対スル大ナル喜ビカラデアル。



会社設立ノ目的 一、 真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設
一、 日本再建、文化向上ニ対スル技術面、生産面ヨリノ活発ナル活動
一、 戦時中、各方面ニ非常ニ進歩シタル技術ノ国民生活内ヘノ即事応用
一、 諸大学、研究所等ノ研究成果ノ内最モ国民生活ニ応用価値ヲ有スル優秀ナルモノノ迅速ナル製品、商品化
一、 無線通信機類ノ日常生活ヘノ浸透化並ビニ家庭電化ノ促進
一、 戦災通信網ノ復旧作業ニ対スル積極的参加並ビニ必要ナル技術ノ提供
一、 新時代ニフサワシキ優秀ラジオセットノ製作普及並ビニラジオサービスノ徹底化
一、 国民科学知識ノ実際的啓蒙活動


経営方針 一、 不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ
一、 経営規模トシテハ寧ロ小ナルヲ望ミ大経営企業ノ大経営ナルガ為ニ、進ミ得ザル分野ニ技術ノ進路ト経営活動ヲ期スル
一、 極力製品ノ選択ニ努メ技術上ノ困難ハ寧ロ之ヲ歓迎、量ノ多少ニ関セズ最モ社会的ニ利用度ノ高イ高級技術製品ヲ対象トス、又単ニ電気、機械等ノ形式的分類ハサケ、其ノ両者ヲ統合セルガ如キ他社ノ追随ヲ絶対許サザル境地ニ独自ナル製品化ヲ行フ。
一、 技術界業界ニ多クノ知己関係ト絶大ナル信用ヲ有スル我ガ社ノ特長ヲ最高度ニ活用以テ大資本ニ充分匹敵スルニ足ル生産活動販路ノ開拓資材ノ獲得等ヲ相互扶助的ニ行フ
一、 従来ノ下請工場ヲ独立自主的経営ノ方向ヘ指導育成シ、相互扶助ノ陣営ノ拡大強化ヲ計ル
一、 従業員ハ厳選サレタル可成小員数ヲ以ッテ構成シ、形式的職階制ヲサケ、一切ノ秩序ヲ実力本位、人格主義ノ上ニ置キ個人ノ技能ヲ最大限ニ発揮セシム。
一、 会社ノ余剰利益ハ適切ナル方法ヲモッテ全従業員ニ配分、又、生活安定ノ道モ実質的面ヨリ充分考慮援助シ、会社ノ仕事即チ自己ノ仕事ノ観念ヲ徹底セシム。


経営部門 一、 サービス部
 全波受信機ノ普及、家庭電化、テレヴィジョン受信機ノ現出等ヲ考エレバ今後コノ部門ノ活動ハ質量共ニ其ノ重要度ヲ加ヘル事ハ必至ノ事実デアル。従来我ガ国ニオイテハ「ラヂオサービス」ト云ヒ得ル程ノモノ皆無ニシテ只技術程度ノ低イラヂオ業者ノ片手間仕事ニ堕シテイタ現状デアルガ将来ハ高級受信機ノ出現ト共ニ斯カル業者ハ当然影ヲ消サザルヲ得ル運命ニアリ逆ニ其ノ需要面ノ広サト起業意義ノ大キサノ為一流セットメーカートタイアップセルサービス専門ノ大会社ノ出現スラ充分予想サレル所デアル。
 当社モソノ自覚ニ基ヅイテ技術ト測定機ヲ思フ様、駆使シ徹底シタサービス活動ヲ行フ計画デアル。其ノ一例トシテサービス専用ノ小形自動車設置案ガアル。即チ電気蓄音機ハ云フ迄モナク高級受信機テレヴィジョン受信機等ハ重量容積等ガ相当大ニナル事実ニ鑑ミ一切ノ測定修理サービス用具ヲ完備セル小形自動車ヲ常備シ電話一本ニヨッテ縦横自在ニ走セ廻リ迅速ニ己ガ任務ヲ遂行セントスルモノデアル。カクスレバ仕事ノ能率ハ元ヨリサービスニ従事スル技術者ノ数モサービス要具モ少クテ済ミ一般ノ便宜ニ利スル点大ナルモノガアルト信ズル。
 又地方ノ需要ニ関シテハ目下近接他府県ヨリ運搬ノ困難ヲ犯シテ当所ニ持チ込マレル高級セットノ数ノ少クナイ点ヲ考慮シ将来ハ地方ノ特定ラヂオ商ト契約期日ヲ定メテ一括修理ヲ行フ予定デアル。
 政府ニヨル全波受信機ノ一般許可ハ大小ノ無線会社ヲ刺激シ目下全波受信機ノ製造ガ盛ンニ行ハレツツアル現状デアルガ資材其ノ他ノ関係上尚コレ等ノ製品ガ市場ニ出廻ル迄ニハ相当ナ日月ヲ要スルモノト考ヘラレ、コノ時間的空隙ニ於ケル一般需要ニ応ヘテ当社ニ於イテハ目下従来ノ手持受信機ニ付加装置ヲ附スル事ニ依ッテ簡単ニ全波受信機ニ改造出来ル方法ヲ工夫創案シ鋭意製作中ナルモコノ付加装置ハ使用資材ガ少ク技術的ニ高級性能優秀ナル為既ニ一般及ビラヂオ商方面ヨリ予約申込ヲ続々見ツツアリ。当社ニ於イテハ大体明年六月迄ニ五◯◯台(価格四◯万円)ヲ製作スル予定ニテ以後ハ全波受信機ノ市場出廻リ状況如何ニ依リ態度ヲ決スル予定デアル。
 当社ヘノ修理依頼ハ戦災ニ依ル被害数量ノ多キ為ト高級セットヲ安心シテ託スルニ足ル信用アルラヂオ業ノ少キ為、日ヲ追ッテ増加シツツアリ、コレニ対シ当社ニテハ利益ヲ第二義トシ例ヘバ故障修理理由ヲ素人ニモ理解シ易キ様ニ解説シタルメモヲ与ヘルガ如キ親切丁寧ナル方法ヲ以テサービス精神徹底化ヲ期シツツアリ、一旦手掛ケタルセットハ最後迄其ノ責任ヲ持チ如何ナル煩雑ナル要求ニ対シテモ快ク応ズル精神的態度ハ我ガサービス部ノ本質ヲナルモノデアル。
 其ノ他数ハ少キモ絶対他社ノ追随ヲ許サザル最高水準ヲ行ク高級受信機ノ製造、当社独自ノ電気部品、家庭電化用品ノ製作モ種々企画シツツアリ。又海外技術ノ紹介、一切ノ無線史料、図書ヲ具備セル図書館ノ設置講習会開催ニヨル一般電気知識ノ啓蒙活動等モ将来ノサービス部ノ重要ナ課題トナルデアラウ。

(株主トサービスノ問題)
 尚将来株主ニ対スルサービス(電気一般)ハ特ニ重点的ニ之ヲ行フ予定デアル。即チ株主対会社ノ一般的関係ニ自由ニサービスヲ要求出来ル会員制度的性格ヲ持タセル事ハ意義アリ興味アル試ミト思考サル。
 新シイ機械、テレヴィジョン家庭模写電信(無線ニ依リ新聞ヲ伝送印刷スル装置)等ノ新製品ヤ家庭電化用品ヲ優先的ニ提供シ従来ノ一般的ナ関係ヨリ、特色アル緊密ナ形ニ結ビ付ケルデアラウ。
 家庭電化ガ日ヲ追ッテ盛ンニナル傾向ニアル今日特ニソレハ有効適切ナ方法ト思考サレル。

二、 測定機器部門
 現在ラヂオ製造者ノ数ノ多キニ比シテコレノ製作修理ニ必要ナル測定器ノ製作者ハ極メテ寥々タルモノデアリ又一般ラヂオ業者ニシテ調整修理ニ当リ測定器ヲ用フル者ハ皆無ニ近イ状態デアル。然シ従来ノ一般ニ普及セル程度ノラヂオ受信機ナラバ現在ノラヂオ業者ガ行ッテイルガ如キ所謂『カン』ニ依存シタ方法モ可能ナルモ今後高級受信機、全波受信機ヲ一般ガ使用スル様ニナレバカカル非科学的方法ハ其ノ存在ヲ許サレナクナル事ハ明白ナ事実デアル。過去ニ於テ測定器製造ガ活溌ニ行ハレナカツタ理由ハ技術ノ困難と多数ノ標準器ヲ必要トシタ為デアルガ何レニセヨ測定器製造業者ノ数ガ少イト云フ事実ハコノ方面ヘノ技術的経営的分野ガ未ダ多分ニ残サレテイルト云フ事ヲ物語ルモノデアル。即チ使用資材ガ少ク価格ガ高価デ競争相手ガ少イト云フ点デ極メテ経営的ニ有利デアリ高度ナ技術ヲ有スル企業家ニトッテハ真ニ絶好ナ進路ト云フベキデアル。
 我々ハ過去ニ属シタ日本測定器株式会社ハコノ数少イ測定機器製造業ノ内ノ屈指ノモノデアッテ僅カナ資本ト貧弱ナ設備ヲ持ッテ極メテ短日月ノ間ニ驚クベキ発展ヲ遂行シ得タノモ時局トハ云ヘ一重ニ測定機器部門ノ持ツ経営的特性ニ依ッタモノト断言出来得ルノデアル。
 日本測定器株式会社ノ主要製品ノ一ツタル超短波用ノ真空管電圧計ハ我々ノ十年近イ年月ト血ノ滲ム用ナ努力ノ結晶デアッテ、其ノ一般ニ於ケル絶大ナ定辞ハ云ハズモガナ正ニ我ガ国ノ世界ニ誇リ得ル測定器ノ一ツデアル事ハ今回米国進駐軍ガコレニ対シ異常ナ感心ヲ持チ参考ノタメ本国ニ持帰ツタ事実ニヨッテモ雄弁ニ物語ラレル所デアラウ。コノ真空管電圧計ハコノ度ノ新会社ニ於テモ其ノ儘踏襲シテ製作サレル予定デ既ニ逓信院ヨリ本年度トシテ百五拾台(約三十万円)ノ発注ヲ見、三月末マデニ完成ノ予定ニテ目下鋭意進行中デアル。尚逓信院トシテハ二十一年度ノ一括発注モ用意サレテアリ、一般ヨリノ需要モ相当量ニノボル事ハ必至ニテ又将来テレヴィジョン開始トナレバ欠クベカラザルモノニナルデアラウ事等ヲ考ヘレバ単ニ真空管電圧計一種ノミヲ製造品目トシテモ充分会社ノ経営ハ成立シ得ルモノト思考サル。
 其ノ他特殊ナ高級測定器ヲ順次製作スル計画デアルガ特ニ重点ヲ置キ度イノハ余リ技術的訓練ヲ受ケテイナイラヂオ商ニモ高級ラヂオ診断ガ自動的ニ行ヘル様ナサービス用測定器云ヒカヘレバセット分析器ト云ッタ如キ種類ノ測定具ノ製造デアル。カカル測定器ノ普及ニ依ッテ一般ラヂオ商ノサービスヲ真ノサースタラシムル事ガ社会的ニ充分意義ヲ有スルモノト信ズル。
 ソシテコレハ大セットメーカート連結シ其ノ適合シタ診断ヲ行ヘルガ如キ装置ニスル予定デアル。
 前記サービス部門ハ大衆相手ノ直接ノサービスヲ意味スルトスレバ街頭部門ト云ヘバ専門家相手ノサービス部門ト云ヒ得ルデアラウ。サービス精神ノ徹底化ヲ計ル事ハ前者ノ場合ト勿論同様デアル。

三、 通信機部門
前述ニ部門ハ大体会社ノ維持経営ヲ分担スル部門デアルガ、該当部門ハ当分ノ間新シキ特殊通信機ノ試作研究ヲ分担シ今日ヨリモ会社ノ明日ニ備ヘ将来ノ大飛躍ヲココニ期待シ得ルノデアル。逓信院、運輸省、内務省等ハ再建日本ノ重要課題タル通信網ノ能率上昇ヲ積極的ニ企画シツツアリ、当社モ其ノ要望ニ応ヘ全ク新シキ種々ノ試作ヲ実践中ニシテ其ノ内ノ主ナルモノヲ次ニ簡単ニ説明スレバ、
イ、 時分割多重通信方式
コレハ現在ノ有線或ハ無線ヲシテ簡単ナ装置デ三十、四十等ノ多重通話ヲ可能ナラシムルモノデアッテ東北帝大ノ通信研究所ニ於テ昭和十八年ヨリ研究ヲ開始、戦時中、特ニ発達シタ電波警戒ノ技術ヲ多分ニ取リ入レタル極メテ特色アル方式ニヨルモノデアリ逓信院、運輸省デモ其ノ成果ヲ非常ニ注目シツツアリ、鉄道省発注予定ノ試作セットガ完成シ成功スレバ現在計画中ノ青函十二重超短波無線電話装置(見積価格、約五六十万円)ノ註文ハ当社ニ来ル予定ナリ。
ロ、 簡易重畳電話装置
コレハ現在ノ電話線ニ尚一通話増シテ二十通話をヲ可能ナラシムル(現在ノ線路ヲ使用シテ倍ノ通話ヲ可能トス)非常ニ簡単ナ装置デ既ニ日本測定器株式会社ニ於テ全ク他ノ目的ヲ持ツテ多年研究サレタル或種ノ兵器ヲ若干改良スレバコノ目的ヲ充分果シ得ラレルノデアル。目下盛ンニ試作中ナルモコレモ又当社技術人ノ独壇場オ家芸ノ一ツデアッテ完成ノ上採用トナレバ其ノ需要度ハ恐ルベキモノデアラウ。
ハ、 録字通信機
コレモ戦時中航空通信ニ用ヒ操縦士ニ電信符合拾得ノ煩カラ脱セシムル目的ヲ持ツテ企画サレタモノデ完成ヲ見ズシテ終戦トナツタモノデアル。送信側ニ於テ電鍵ノ代リニ五十音ノタイプライターヲ叩ケバ受信側デハ通信文ノ五十音ガ順次テープ上ニ印字サレツツ出テ来テ通信ガ終レバテープハ停止スル。装置ハ簡単デアリ送信装置ハ大体携帯用タイプライタート同型、受信装置ハ手提金庫程度ノモノデ有線無線双方ニ使用出来、将来電信局デコレヲ叩ケバ加入者側デハテープノ電報ヲ受ケル事ニナリ又家庭デ電話ヲカケテ留守ノ場合等ハコチラカラ伝言ヲ叩イテ置ケバ何等ノ技術モ要セズ先方ヘ伝言ヲ書イタテープヲ残ス事ガ出来ルノデアル。又鉄道等ノ指令装置ニ用ヒテモ命令ノ内容ガ明瞭ニ印刷サレル為極メテ多ク電信機ノ当然到達スベキ理想ノ一ツノ型デアルガコレノ完成ハ非常ニ意義深イモノガアラウ。本機ノ製作ハ相当精密ナ機械装置ヲ必要トシ現在ノ状態デハ即時製品化スル事ハ困難デアルガ取敢ズ試作ダケハ完璧ナモノニスル為 設計進行シツツアル。
ニ、 プログラム選択受信方式
コレモ日本測定機器株式会社ニ於テ研究完成シタル兵器ノ応用品デアル。放送局ニ於テ其ノプログラム毎ニ異ツタ周波数ノ音(例ヘバニュースナラバ「ド」音楽ナラバ「レ」ノ如ク)ヲ放送前ニ一寸出ス(ピアノヲ叩ク程度ニテヨシ)ト受信側デハ其ノ音ノ高サニヨツテ動作スル周波数継電器ガ動作シテ受信機ガ働ク其レ故ニ聴取者ハ自分ガ聞キタイト思フプログラム丈ノボタンヲ押シテオケバ自動的ニラジオノスイッチガ入ツテ其ノプログラムノミ聞ク事ガ出来ル。其レガ終レバ矢張リ特定音ヲ出シ又自動的ニスイッチヲキル事ニナル。其ノ他コノ装置ヲ用ヒ自動的ニ時報ニ時計ヲ合ス事モ可能デアル。
ホ、 其ノ他特殊部品
音又発振器、濾波継電器、音又時計等ノ如キハ当社独特ノモノデ戦争目的ヲモッテ研究製作シ来レルモノノ内今後ノ通信技術方面ニ転換利用可能ナルモノ数多クアルヲモツテ各方面ノ要求ニ応ジ逐次製作シ行ク予定ナリ。

November 16, 2004

理想の家と近くにあると良いもの

ゲオとブックオフは近くにあると良い。

超ハイテクな部屋と純和風ですごい落ち着きのある部屋が欲しいな。

あと、理想は小さな美術館があるといいかも。

希望格差社会の到来

RHEOS REPORT の記事を見て。

僕は、小さいころ自分は何も出来ない人間だと思っていた。しかし、中学ぐらいのある日、思った。僕よりも物事ができない大人っているよな。その人たちが世の中で一人で生きていけるんだったら、俺もなんだって出来るジャンって。(この考えが、いかがなものかと今は思うが。)で、昔は本当に何も出来ないと思っていた。自分で世の中にインパクトのあることは出来ないとおもっていた。小さいころはテレビの世界はどっか別世界で、国を動かしているのはとてつもなくスゴイ人と。しかし、年を重ねるごとにやろうと思えば何でもできるというように思ってきた。ドンドン、希望が出てきた。特に高校・大学になってからはそれが顕著だと思う。いまや、超楽観的と言われてしまうほど、、、

しかし、みんながこう思っていないのが現実みたいだ。高校のときだったと思うがこんなことを友達から言われた。小さいころは夢があった。何でも出来そうな気がした。でも年を重ねるごとに何にも出来ないんだと気が付き始めたと。さらに、成人式のときに地元に帰って地元に残っている人と話しても同じようなことを言われた。

コレは大問題だ。特に地元に残った人がこのような思いの人が多い気がする。何をやっても意味がない。努力しても何も変わらない。そう感じていそうだ。もともと、そういう考え方の人が地方に残る気もする。希望を持っている人は東京に流れている気がする。このままじゃ地方の希望はまさになく、絶望だ。

僕の聞いた感じから推測すると、年を重ね絶望してしまった人でも、小さいころは希望があったり、夢があったり、何でもできると思っていた可能性が高い。しかし、生きていく中でさまざまな経験をして壁を感じた。その積み重ねにより希望をなくした。ココが問題だとする。

コレを何とかすれば、希望を持つ人が増えるのではないか?すると、やっぱり教育だろう。コレは無理だとか、それはやってはいけないとか、先生を神聖化した・絶対的存在とした教育をやめる、マイナス方式の教育をやめる。出来たらほめるとか、努力したら出来るレベルの問題を個別に出すとか、一つの答えを絶対とする問題ばかりをやめるとか、加点方式の教育をする。思いつきだけどこうすればいいんじゃないかな。

こういう教育をすれば、絶望する人が少なくなり希望を持つ人が増えそうだ。それに地方の状況も絶望から希望に一歩進みそうだ。

中央公論12月号の「希望格差社会の到来」は目を引いた。パラサイト・シングルの山田昌弘先生の論文である。

詳しくは一読をおすすめするが、この中で特に目を引いたのが「希望の社会心理学」という言葉である。もともとはネッセという社会心理学者の開発したものらしいが、「希望という感情は、努力が報われると感じるときに生じる。絶望は、努力してもしなくても同じだと感じるときに生じる」と規定しているそうだ。

現在の日本は、少数の「努力が報われる」と感じている層と何をやっても変わらず「努力が報われない」と考えている大多数に分化しているかもしれない。それが希望格差社会である。中核・専門労働者になれる可能性がある特定の学校で勉強できる者と、いくら勉強してもフリーターという「ステイタス」にしかなれない学校で勉強している者では、学習意欲がある生徒とない生徒に分かれるインセンティブ・デバイドが生じてしまうという。

インセンティブ・デバイドの問題を解決せずに、「がんばれ」を連呼しても意味がないのだろう。希望を信じている人には希望がない人に対する想像力が欠けてしまう。健康な人が不健康な人の気持ちがわからないように。酒が飲める人が酒が飲めない人の気持ちがわからないように。人の気持ちを踏み潰すのは、多くは想像力の欠如である。

山田先生は社会学の先生だが、投資の世界にはこれからは社会学の素養も必要になってきているように思える。フリーターやニートの問題から目をそらすわけにはいかなくなってきている。


情報の感染-曖昧な世の中を生きるということ-

今日、養老さんの番組を見て、そして昔のことを思い出し、シリーズ系のNHKスペシャルが頭をまわり、過去に読んだ本を思い出したり、自分の考えを頭でぐるぐるさせたり、ITやその他の技術進歩、芸術・仏教なんかも少ない知識と足らない頭で考えちゃったりした。

私は言いたい。「曖昧」これだ。コレだといっている時点で曖昧でないという突込みがくるだろうけど。まあ、少なくとも今僕はそう思う。まあ、コレだと正確には頭では感じていない。そう感じる、キターって感じの時になる、なんか不思議な脳の感じが起こっている。

「曖昧」というキーワードが頭に浮かんだ。で、なんとなく自分のブログで検索。すると相手には伝わってなさそうだけど、自分が何かしら感じたけど言い切れていないエントリーがいくつかヒット。そこで、自分の中で強い思いになった。

で、曖昧、曖昧って何がいいたいか。

僕が、生きる今後の世の中はこの考えがさらに大きな波として押し寄せてくる。そんな世の中をどう生きるか。そう、これは僕にとってすごいことです。今後の社会の生き抜き方を梅田さんや大前研一さんはサバイブという言葉で表現している。僕はそう短い言葉ではまだいえないが、この文章のようなことを踏まえた上での生き方ということが言いたいのです。

パソコン・インターネット・携帯電話などのデジタル製品の普及、いわゆるIT革命によってアナログ時代よりもモノの移動、情報の移動など、世の中のもののデータを取りやすくなり、それを集約して分析することなどが可能になり、より精度の高い分析になると思われていた。しかし、実際は違うと思う。ありとあらゆるところで、情報はうまれ、流れ、その情報は変化している。1年か2年ぐらい前一度僕が使った言葉「情報は感染する」こんな感じだと思う。まさに感染なのだ。どこでどう移ったかもはっきりしない。そして、ウイルスは変化もする。そしていろいろな場所で、また同時にどんどん増える。このようになっていては集約することも出来なければ、精度の高い分析も出来ない。今後なんてより情報量は増え、さらに今までの情報もたまっている。情報があふれている時代といわれる。同じ物事に対しても、さまざまな立場の意見、事実は一つなはずなのに証拠があるとされる事実とやらがいくつも出てくる。そんな時代だ。そんな情報があふれた次代を越え、その次にくるのはこれらを踏まえた「曖昧な時代」だ。同じものでも形を変え、どこにあるかも、その数も、分からない、そして定まらない時代だろうと思う。

よく言われることだが、お金というものが絶対的な指標ではなくなって来ている。この考えはより多くの日本人の中にやどるであろう。もちろん、いわゆる高偏差値大学が人間の価値も決めない。明確な順位が現れない、すると人間は何を指標にするのか、何を支えにするのか。

コレだと、明確なものが物質的にも、情報でも、自分の中の思いなどでも少なくなる、ほとんどなくなる、明確かどうかなんて分からず、判断が付かない、判断が付いたとしてもそれはすぐ別の判断に変わってしまうかもしれない時代。こんな時代をどう生きるのか。

量子論は答えを教えてくれるのかも知れないと思った。量子論は理論では分からない部分がある、しかし応用では実際に使えるものとして役立っている。じゃあ、理論は完璧に分からなくてもまあいいんじゃないかと。科学というものの中でこのような考えは珍しいというか斬新なのではないかと思う。

曖昧なものを、抽象的なものを、しっかりと定まらないものを、ほんのちょっとの変化を、自ら感じ、知り、受け入れて、見極め、行動する、こうすることが重要な時代になるのではないか。明確な答えを求めるのも良いが、そうしたら死ぬまで明確なものなんて見えてこないだろうから。「曖昧なものを曖昧なままでも受け入れる覚悟を持って生きる」ってことがポイントじゃないかな。

曖昧、抽象的なんだから結局人に伝わらないような文章になった。といって逃げるつもりはない。より、僕の脳の中のものを伝えられるようにしていきたい。この文章はただ単に人間が曖昧な不安をもって日々暮らしているってことが言いたいわけじゃないですよ。それだけしか伝わってないかもしれないけど。

「漠然とした不安」というのは、芥川龍之介が自殺の理由として残した言葉だとインドで聞いたのだが、先をいっていた人なんだろうなと再認識。


人間は固定した川ではないと養老さんが表現したが、人間は雲って言った方が分かりやすい気がする。雲なら形が変わるのも、流れているのも目に見やすいから。ああ、そういえば小学生のころ校庭に寝っころがって流れる雲を見たときの衝撃は今でも忘れない。南校舎の非常階段とボール置き場の間だったな。

曖昧の検索結果

November 15, 2004

バカの壁

ザ・ヒューマンD 「TV版“バカの壁”養老孟司」売上374万部大ヒット▽解剖学教授の不思議な頭の中と常識・非常識

テレビ東京 11月15日 22時〜

養老さんに密着した番組、後半の方が面白かった。

昔、バカの壁を読んだ。そのときは当たり前のことしか書いてないじゃんと正直思った。ご本人も当たり前のことを書いたおっしゃっていた。著者の言いたいことが少しは分かっていたけど、読んだときはまだまだ未熟だったんだ。そうなんだろう、当たり前のことを当たり前と思える、そう。そこだ。

「日本の伝統的な思想」と自らおっしゃっていたが、そんな感じがした。仏教的な考え方なきがした。「無常」とか「空」とかそんな思想が伝わってきた。

以下メモ

講演の原稿を作ったら、話が死ぬ。
内容は考えるけど。

大阪のハローワーク「自分に合った仕事が見つかるかもしれない。」とあった。
こう書いてあるということは、まず自分があるはず。しかし、「自分」なんてそんなちょろい物でもない。

仕事は世の中に必要だからある。自分にあってるあってないは関係ない。あってないといってやらなかったら生きていけない。社会に必要だから仕事である。本気でやれ。

教育が大事。人間の本質的には教育がかかわる。
今は教育が人を変えることをまさかと思う。おかしい。
オーバーな例として教師が麻原だ。大人だってあそこまで変えられる。人を善導するのが宗教。

本とか読んでて違うだろう、と思う。それで、人に伝えようという意識になる。根本的に納得できないことがあると考えないといられない性格。あたっているかあたっていないかではなく、自分に納まるかどうか。

バカの壁、口述筆記
ニーズがあった。自分で書くと文体が古い。
メール的文体で書かれている。
日本の伝統的な思想。(今の人と正反対)
現代人は自分を川だと思っていない。今の人は自分を固定した川だと思っている。固定した自分があると思っている、思い込んでいる。アメリカから流れてきた。錯覚である。
固定した川は死体である。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世中にある人と住みかと、またかくのごとし」

バカの壁は常識の本

意識中心主義、自分が分かっていることだけ中心で世界を理解しようとする。しかし、それでは視野が狭すぎる。知らないことの方が多いんだから。
養老さんがタバコを吸っていて、スタッフが体に悪いからやめないのですかと質問。
大気汚染の原因なんて山ほど、しかし分かっていないことのほうがたくさん。
タバコをすっていても、すっていなくても解剖した人の肺はすべて真っ黒だった。空気が汚いからだろう。

どうせ仕事をするなら、準備から最後のごみすてまで自分でやる。そうしないと仕事を飲み込めない。それをやめて分業するのが文明の進歩かもしれないが、胡散臭い。少なくともある時期は全部やらないといけない。

別に天地あり 人間(じんかん)に非ず

専門を解剖学にしたのは興味ではない、心理である。国民学校2年生。その世代は安心できることが少ない。そうすると解剖は安心である。

どんなに下手に解剖しても、どんなにうまく解剖してもお前がやったことあろう。
彫刻や絵もお前が彫ったんだろうで終わる。絵描きや彫刻家は作品が残る。解剖はばらばらになって売るものがない。そこが辛いところである。形あるものが消える。

山奥で1000日走って修行しても一切GDPに影響を与えない。だが、重要なことがある=自分が変わる。

年をとると責任を感じる。若い人が分からないことがある。伝えておかないと。と思う。

何とかしなければ。ダメといっても始まらない。 中庸にもとづいて。

すきなことしかやりたくない。でもその好きな仕事をやるためにやらないといけないことがある。

個性を心だと思っているが違う、脳だ。脳は体の一部なんです。

ボーっとしていることが出来ない。なんかしていないと。

科学者は客観没入、誰が見てもそうだということに陥る。

ともかく、私は還暦を過ぎるまで生きていました。そういう答えがあるのかということを分かっていただければ幸いです。また皆さんの答えが違うことを祈ります。

マジですか?

今日、二郎へ行った。
またかってのはどうでもいいんですけど、そこでびっくりすることが。

知らない人のために前提説明。
ラーメン二郎ってだいたい長い列が出来ているんです。それも常に2,30人。そんで、回転率も悪い。作るのにも、食べるのにも時間がかかるから。まあ、とにかく待ち時間長いんですよ。それだから、少しでも前に並びたいわけです。

昼の時間なんてぞろぞろ二郎めがけて人が歩いてくるんです。それで僕は、二郎に近づくと二郎に並びそうな人たちがいないかチェックする。二郎に並びそうな人がいたら小走りで彼らより前に並ぶのです。学生の男ずれか、サラリーマン、工事現場の人がだいたいの客層です。今日は、周りを見回しても歩いている人は40代半ばの夫婦とその娘ぐらいで並びそうな人がいなかった。それで、歩いて並ぼうとしたのです。すると、驚き。僕の前に40代半ばの夫婦とその娘が並んだのです!こぎれいな夫婦ですよ。明らかに来る店間違ってますよ。って教えてあげたかった。

しかし、ちょっと待てよ。並ぶんだし、こんなとこにある二郎だから、あえて来たのだろう。それもジャージとかじゃなくってちょっとおしゃれな格好をした家族なんです。想像ですが、多分父親が慶應を卒業した人だろう。そして、二郎を思い出して食べたくなって、そんでもって自分の昔の思い出の味を家族にも味わって共有したかったんだろうな。と。
並んでいるとき父親が娘に食べたら器をカウンターに置くことや、面を少なめ油抜きって言うんだとか教えていた。その父親の顔は得意げだった。うれしそうだった。ただ、母親と娘の顔は疑いの目だった。さらに、店内に入ってからは、こんな汚い店!器が汚い!量が多すぎる!犬のえさ!ってな感じで母と娘はしかめっ面だった。

男って自分勝手なのかなとか、思ってました。純粋だなとも思いました。幸せな家族なんだろうなとも思いました。僕はその父親の気持ちが少し分かった気がした。

November 14, 2004

平均より15年分、能力が低いことを知りました。

昨夜、寝る前に教育テレビをつけた。昔から教育テレビや地元の局をみる人間だったので、なんとなく。
なにやら小学校向けの教育番組がやっていた。国語の番組だった。
それは「にほんごであそぼ」という番組だった。(←色を変えたので前よりもリンクが分かりやすくなりました。)

その番組は、小学校の国語の授業関連の番組らしく、昔教科書で読んだような宮沢賢治などの文章を朗読していた。「くらむぼんはわらったよ」などと。なぜか知らないがこの言葉に反応。夜中なのにテレビを真剣に見てしまう。この音の響きとそれが与える印象がたまらなく心地よい。さらに、田舎のおじいさんが「アメニモマケズ」を朗読していた。それもなまって。これもたまんなく良かった。特に「サウイフモノニ  ワタシハ  ナリタイ 」という最後の部分にやられた。まさに、やられた。人間さを感じた。

雨ニモマケズはここhttp://www.mm-labo.com/culture/WiseSaying/a/amenimomakezu.html

この番組を見て、日本語ってきれいだなとしみじみと感じました。「ふるさと」などを好きだったので日本語が美しいとは感じていましたが、小学校教科書に乗っているものがこんなにも良いとは今さら気がつきました。小学校3年生ぐらいの教科書のよさを今頃知る。15年ぐらい遅れていますね。はい。

ここに、昔の教科書がのっています。光村の。表紙を見たら懐かしくなりました。
http://www.mitsumura-tosho.co.jp/data/travel/index.asp

その後に、やっていたのが秋の童謡「赤とんぼ」「烏」など。いやあ、これも名曲ぞろいですな。前から童謡は好きだったんだけど、秋の童謡を聴いていると、現代日本の季節感のなさは寂しくなる。今はスーパーや企業が季節を無理やり作り出しているだけだから寂しい。というのは、秋になればマツタケがある、柿がある。季節の野菜、季節の行事に関連させたものがある。しかし、それらはその季節に自然に育ったものではなく、ビニルハウスで時期を調整して作ったものであったりする。行事も地元の人がやるのではなく企業が販促のために行う。そういう季節感しかない。作り出した季節感は僕になじまない。で、話は戻って四季を感じるような生活はいいものだなと実感した。秋特有のぬくもりを感じながら生活する。

iTunesで性格分析-

iTunes曰く、2日分音楽があるらしい。
全く違う音楽を、2日間聴き続けれるのか。
そう思うと多いな。

CDRに焼いてあるのもあるからもっとなのかなぁ。

2日分566曲とりあえずiTunesの中に入っている。だいたいシャッフルか1曲リピートで聞くことが多いです。すると、偏りが出てくる。何で分かるかっていうと再生回数Top25なるものが表示されるから。iTnesに変えてから日が浅いので再生回数自体は少ないが、そこを見ると、

1位86回 2位79回 3位66回 4位36回 5位35回 5位35回
7位32回 8位25回 8位25回 10位22回 11位21回 11位21回
13位19回 13位19回 15位18回 15位18回 17位13回 17位13回  
20位12回 20位12回 20位12回 23位11回 23位11回 24位10回 25位8回

非常に見づらいのですが、1位から3位までが圧倒的に多い。4位からガクンと再生回数が下がる。コレを見ると、特定の曲を聴きまくっているということになります。そう思えば、ああいいなと思ってゲットした曲は一曲リピートをしてずーっと聞いている。

シャッフルでしか聞かない曲はほとんど聴いていないのだな。そっか。そっか。
ほとんど同じ曲しか聞かない。コレと思ったらそれしか聞かない。僕の性格自体がコレだと思ったらそれに特化する傾向があるのかも。いい面もあれば悪い面もある。そんな自分を知っておこう。

iTunesからせ性格を見るのもありだな。

November 13, 2004

緑から青へ

僕の好きな色。緑と青

木々や山の緑
空や海の青

今までは緑色ベースのデザインでした。トップの画像に葉っぱがあったしね。
で、今回は空と海の青。左のエントリーリストなどの水色が明るすぎるかな。

ということで、なんとなくブログの色を変更。

どうですか?

逆を向いている?

先日話をしていて、なんか、感覚が逆のときがあるという話に。(この書き方では誰もわからないと思います)

手を前に出して右と左手をクロスして手のひらを合わせて胸元に引き寄せて、組んだ手をグルットイッ回転させて前に出す。その状態で、他人に、適当な指を上げるように指示してもらう。すると、指定された指を上げることが出来ない。見たいな話。(まあ、コレでも分からないと思いますが、僕は分かるので、自分のメモには十分です。)
しかし、これ一回ミスをして気がつくと、後からは問題なく指定された指を上げることが出来る。人間はその場で学習し、クロスした状態を補正認識したのだ。

南半球の人の北の感覚と北半球の北の感覚は違うのかという話にも。
そんな話をしながらこんなことを考えていた。

僕は、世界中どこへ行っても、こっちが西とかこっとが北とか感じる。それは太陽の向きとかそういう情報を使わずに感じる。あっているときも間違っているときもあるのだが。コレはなぜだろうか?そんなことを考えたりしていた。

で、また、僕がふともう。
話はとぶのだが、朝起きる。目を開ける。なんか感覚的にいつもと違う向きで寝ているよう。いつも東を向いて寝ている。その夜も東を向いて寝た。朝も東を向いている。コレは紛れもない事実。しかし、なぜか感覚的に西を向いている感覚がして起きることがある。その時なぜだ、と不思議に思う。起きて目に入ったものが西向きに寝たときの物であるというわけではない。感覚として西を向いているのだ。しかし、30秒ぐらい立つと、いや東向きに寝ているとしっかり認識できる。脳はこのときどうなっているのだろうか?

まあ、不思議な話でした。

November 12, 2004

やっと手にした

新札というものを今日始めて手にしました。
遅すぎです。発行後12日たっています。

千円も五千円も一万円も見たことはあったんですけど、新札がが自分の財布に入ったのは今日が初めてです。はい。

野口さんのみです。樋口さんnew福沢さんは私の財布デビューはまだしていません。

小さいころだったら、新札とか見たら相当ショックを受けただろうけど、その事実を淡々と受け入れてしまう。まあ当たり前なんですけど。それがいろいろなことを経験した、成長した、常識をしった大人なんでしょうね。精神年齢は幼稚園児ですが (爆

子供のころなら新札をどう受け止めたのか、感じてみたいです。

検索の先にあるもの

Yahoo!がだいぶ前に登場し、googleが数年前に登場し、ありとあらゆる会社が検索サービスをやり、さらにデスクトップ検索でこれまたありとあらゆる会社がデファクトを取ろうとする。

それは、ネット上の情報が増えたり、PC内の情報が増えたから、すばやく仕事をこなすにはてきぱきと見つける必要がある。有益な情報を早く見つける。このためだ。

しかし、SEOなどによって本当に有益なものが上位に検索結果として現れるか分からない。
http://www.teratown.com/blog/archives/000732.html

このまま数が増えたら検索では間に合わなくなるのではないか。

もっと、曖昧な記憶、情報を検索できないか。

なんか、検索の先にあるものがあるんだろうけど、それはなんだろうか。
実は、まず自分の情報を整理して保存することから始まったり。その保存のhow toが重要になったり。

実は「絵」を見たことがない

もちろん、絵は見たことがあります。いまいちと言う絵も、なんでこれが評価されてるのっていう絵も、ふーんって感じで終わる絵も、いいなと言う絵も。ただ、"これだっ"っていう絵を見たことがない。

写真、音楽、建物、町並み、風景でこれだっって感じのものは見たことがある。

・建物で言えば、ガウディのカサバトリョ。特に内装。

・写真は何枚かあります。「飛ぶ夢をみた」
とか自分で撮った写真にもいいものがあります。

・風景で言えば、モロッコのカスバってところから見た海。コレはすごかった。ここのページにもあります。ここで海を見て、何時間も付きまとってきたが無視し続けた偽ガイドにお金を払ってしまった。なんか、この海を見て、そんなことどうでも良くなって払ってしまった。そこまで気持ちを変えさせる海だった。

・町並みはネパールのダルバール広場 なんか昔にタイムスリップした感じがして良かった。

・音楽はやはり the song of lifeがいいですね。あと篳篥、バイオリン、サックス、ピアノなどの音色。

これは、その写真を見たり、音楽を聴く時の前後に何があったかとか、どんな心境だったかによっても違うかもしれない。でも、モロッコで海を見て不意にお金を払ってしまったように、それらをどうでもいいと思わせるくらいのものがあるのかも。

別に、風景画でも自画像でも抽象画でもなんでもいいんですけど、これだっと思える絵に出合いたいなと思う今日この頃です。書道とかオブジェとか詩などの文章でも。まあ、美しい言葉にはたまに出会いますな。

実は昨日、鳩が円になっていて一羽ぐらいはみ出ている、(←表現が下手ですいません)を見せてもらったんだけど、あの絵が今、頭に残っていて気になっています。

googleでランキング

有名人度 googleテストというエントリーを見つけました。

そこで、前から僕が言っていたgoogle検索結果による大学ランキングを書いておきます。

「大学名で検索した結果のヒット数÷学生数」
この数値でランキングすればだいたいの学校のレベルは分かります。IT化の進みまくった大学など例外はありますが。

「大学名 pdfのアンド検索結果数÷教授人数」
これで、教授のレベルがどれほどかが分かります。どれほどかというか論文の発表数や引用数などとも関連しているので。

どんなランキングであろうと、なんだろうと、自分がよいと思い納得したところに行くのが一番なんですけどね。まあ、指標の一つとして。

トップ・ランナー

「信念のあるカッコイイ日本人が増えてきた」で書いた神田真吾さんについてトップランナーでやっていた。

やっぱり、人間的魅力がありますね。

オーストリア国家公認キュッヘンマイスター
神田真吾

年間数人しか合格しない
16科目筆記試験、5日間の実技試験。
経営学、フランス語、英語、ワイン学、食品法規、従業員教育、観光学、火気取り扱い法規、衛生学、論文、チーズ学、簿記、栄養学、ハーブの知識、など
栄養バランス、料理中の立ち振る舞い、助手への指示の出し方、盛り付け、とすべてを問われる。
320品目の食材

実技試験の食材は事前に知らされていない。分量表などを作り、見習いの人にドイツ語で教える。

資格を持っていると5つ星クラスのレストランで料理長がOK。

試験のとき、見習いの人がソースを捨ててしまった。頭真っ白。臨機応変に対応しないと。フライパンに残っていたものでソースを作ってなんとかなった。


一生に一回しか受けられない試験。
緊張、寝れない。しかし、落ち着いて状況判断しなければならない。小さいころから剣道をやっていた。そこで剣道素振りで精神統一。集中できた。

合格

ノイエ マイスター 新しいマイスター
と、試験管が肩をたたいて教えてくれた。

小学校3年生のときに友達から料理の本をかりて、シュークリームを作った。初めから成功した、べチャべチャの生地がさくっと中が空洞になるのを見て理科の実験より楽しいと思った。小学生のころの夢は料理人だった。

高校のクラスで文化祭実行委員。お好み焼き屋。女の子がキャベツをゆっくり切っていた。それで時間がない。そこで神田さんが切った。「スゴイ」そこで、男が料理できても恥ずかしくないと思った。その前は男が料理を出来ることを恥ずかしいと思っていた。

大学進学に向けて勉強。高校のころの夢は研究員。浪人した。浪人時代微分積分のテストが帰ってきて、僕の道じゃない。料理人になると決めた。料理人になりたい。自分の道は料理人しかない。夏期講習の授業受けながらフランス語の勉強。それをいった両親は、父は猛反対、母は泣いたが半年かけて説得。それから料理学校。その後ホテルで修行。知人の紹介でオーストリアの名門ノイエポストで修行。フランス料理をやりたかったが、オーストリアへとりあえず行って足がかりにしようと思った。ドイツ語が分からなかった。

ルーキー師匠、初めは壁があったがご飯に誘ってくれてその壁がなくなった気がした。ホームシックになる。お祭りが開かれたときに、おばあちゃんがスープを作ってくれた。&おばあさんの笑顔と暖かさが伝わる。これでホームシックがなくなった。そんなオーストリアに興味を持つ。

愛情って本当に大事。やる気のない料理人が作った料理はうまくない。

忘れられない料理
・母のハンバーグ、どんな料亭や高級食材のものよりも忘れられない。
・子牛の内臓、肺と心臓 煮込み料理、味は繊細、先輩と同じ味を出せたとき、オーストリア人になった気がした。

この方、来年4月日本に戻ってくるらしい、自分の店をもってオーストリア料理を広める。
名門ホテルや、5星レストランから声がかかるが行かなかった。
マイスター試験を受けたのは自分が日本人で、日本にオーストリア料理を持ち帰りたかったから。それが自分の仕事であり夢だから。

オーストリア料理とは自分。自分が変化すればオーストリア料理も変化する。
芯(心)は変えてはいけない。オーストリアの格式や名誉があるから。

オーストリアの地方料理の研究をしている。

November 11, 2004

マチュピチュに行けなくなる!?

なんか、マチュピチュにいけなくなるという噂を聞きました。

遺跡を保護するとい言う観点から非観光地化するという話みたいです。いつごろ行けなくなるのかとか、そもそもこの情報自体信じていいものなのかはわかりませんけど。

1111

今日は11月11日。

朝テレビでやっていたけどいろいろな日であるらしいです。
電池の日だったりポッキープリッツの日だったり配線器具の日だったり、、、
ジュエリーデー、ピーナッツの日、チーズの日、サッカーの日、くつしたの日、おりがみの日、西陣の日、下駄の日、鮭の日、もやしの日、煙突の日、きりたんぽの日、磁気の日、カリントウの日、ライターの日、国祭日 (アンゴラ)

いろいろな記念日なんだな。ぞろ目だしインパクトあるからなぁ。
そして、今日誕生日の皆さん、おめでとうございます。

November 10, 2004

世界遺産写真展III

世界遺産写真展III@新宿高島屋に行ってきました。

この写真展は11月10日[水]→15日[水]しか開催していない。
チャンスを逃したら行く機会がなくなるなと思い、初日に行く。

まあ、初日に行った理由は鳥山雄司さんの「the song of life」ギター生演奏を聞くために何ですけどね。実に良かった。この曲大好きで、どれだけ聴いても全く色あせない曲です。体の奥底からゾクゾクした感じがしていました。聞きほれた。同じ金を払うなら写真展+「the song of life」生演奏の方がお得ですからね。

鳥山雄司さん、実は大学の学部の先輩だったりします。なんでもないことだし、いくらでもいるけど親近感が沸きます。

それと、やっぱ写真好きです。自然の写真とかたまんないなぁ。空とか海とか山とか。
何気ない町の風景や建物の写真も好きです。
自分も一眼レフで写真を撮りたくなります。

ああ、最近乾燥しているので気をつけて!

November 09, 2004

夢を見た。

明らかに、昨日の夜考えたことから夢は来ていた。

自分の誕生日に岐阜にいた。
なぜか、親から駄菓子のプレゼント。
それもネットで3,000円(送料込み)、定価で2100円分入っていた。

それから、大学にあるはずのない映画館で映画を見た。
小さかった。日吉記念館の地下の演劇場っぽかった。
内容は覚えていない。

後ろを振り向くとインドであった人がいた。
その直後映画は始まった。

なぜか、場所はトルコ。
2度目の旅行だと自分でも認識していた。
空港からバスに乗った。
記憶していた近くでバスが止まったが、もっと宿の近くに行くと記憶していたので降りなかった。
すると、バスは停車せず、山のほうへ。
まずいと思い、運転手にいっておろしてもらう。
バスから降りるとき、屋根に山賊が乗っていて拉致されそうになる。
が、屋根に一人山賊いるのを知っていたので、前の出口から降りた。
でも、山。
刀を二本持った変な人が何人もいる。
僕の前に来て、しゃがんで刀をクロスさせる。
僕は、何もしないよー、助けてというと、にこっとしてくれた。
その横は川が洪水。
ゴムボートにその刀を持っている人が乗せてくれた。

その後、変なビルに入った。
迷った。日本建築だった。
靴をどこで脱いだか忘れた。
何かに襲われて逃げていた。

そして、グランドフロアと書いてある、回で降りると、インドであった人とその家族に会った。
トルコに1泊2日らしい。
ギリシャで友人の美術展か映画を見てきたと行っていた。

僕も誰かの展覧会か舞台を見た後だったと思った。

そしたら、目が覚めた。
ここまで鮮明な夢も久しぶりだ。

ここからは現実の話。
僕は昨日、どこか遠くへ遊びに行きたいと思ったから、こんな夢を見たんだろう。
行くなということなのかな。

信念のあるカッコイイ日本人が増えてきた

情熱大陸で神田真吾さんが取り上げられた。

この方は欧州人以外で初めてオーストリア国家公認料理マイスターになったかただ。「それもこの試験一生に一度しか受けられない。」
言葉も話せない状態で海を渡り、7年の修行。どのような心境で試験に臨んだのか。

「一生に一度しか受けられない試験」
これは味わうことが出来ない心境だと思う。自分が本気になっていることで、その試験が一生に一回。いつ受けるかとかもそうだけど、当日の心境とか、計り知れない。

あの顔の表情とかはすごかった。

カッコイイ。この人もみているとサブいぼが出る。感動する。「漢」だ。
イチローにしろ田臥にしろあげればきりがないほど信念を持ち、輝いている日本人が最近また目立ってきているような気がする。日本も元気になるよ。そんなかんじがする。いや、確信を持っていえる。私もその一翼を担いたい。

7月26日に小泉さんと会っているみたいです。そのときの質問に対する返答がスゴイ。

「プレッシャーはあったが、自分の夢で乗り越えられました」

自分の夢でプレッシャーを乗り越える、困難を乗り越える。そんな人生を送れるようにしよう。

トップランナーで神田真吾さんの回が再放送されるみたいだ。
11月11日(木)
NHK 「トップランナー」(再放送) 夜24時〜

関連URL
http://www.jtc.at/cmsjtc/cms/front_content.php?idcat=338

情熱大陸ウェブサイトより

料理人・神田真吾、29歳。今年、日本人で初めてオーストリア国家公認料理マイスターになった。
まだオーストリアに来て7年。ドイツ語もまったく話せない状態からスタートしながらも、名門ホテルで修行を積み確実にステップアップしてきた。
 そんな神田に、この秋大きなチャンスがやって来た。インスブルックという山間の町にある、ハプスブルク家の末裔が住む城。そこで、2,3年に一度ヨーロッパじゅうのVIPを招く大晩餐会が開かれるのだが、その総責任者として神田が選ばれたのだ。
 大舞台に臨み、溢れてくるのは期待とプレッシャー。秋が深まりつつある頃の、神田のまだまだ熱い日々を追う。

美しい言葉を使う人

美しい言葉を使う人になりたい。

「きらめく海」という言葉を聴いてふと思った。

僕は語彙が少ないと思う。発言が幼稚である。
的確な表現が出来ない(←性格には違うと思っている)とか、一般的にいわれる問題があったり、馬鹿に見られる、ことがある。

まあ、これも問題といえば問題なんだけど、それよりも美しい言葉を使いたい。すごく深く考えてひねり出されるような響きのある言葉ではなく、さらっと美しい言葉。

日々の生活が豊になりそう。

November 06, 2004

小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学

小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学  11月2日(火)〜5日(金)NHK教育 

「宇宙論〜宇宙の始まりと未来を探る」
「脳科学・脳はどう意識を生むのか?」
「量子物理学・目で見えた!量子の世界」
「言語学・なぜ人は言葉を話すのか?」

4回のシリーズで科学についてかいつまんで紹介する番組をやっていた。けっこう面白くて楽しく見させてもらって、好奇心をくすぐられた。初日だけ見逃してしまったのが残念だ。

量子物理学の回がケッコウ興味深かったです。
どっちにしろ、いまだ解明されていないものってのはワクワクする。

量子物理学の回を見て気になった疑問のエントリー「頼む教えてくれ」と、そのお礼「ありがとうございました

小柴さんの意味は視聴率のためだけなのか?という疑問はおいておこう。

番組を見ながらメモったものをアップしたのでリンクを貼っておきます。誤認識しているところがあるかもしれません。

November 05, 2004

言語学

小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学 「言語学・なぜ人は言葉を話すのか?」

宇宙論、脳科学、量子論、言語学の4回シリーズ。

科学は自分で五感を総動員して楽しむものだ。by小柴昌俊

言語学 11月5日23:30〜
なぜ人は言葉を話すか
東京大学 酒井邦嘉 助教授

科学的に言語学をどう扱うか?

脳がどのように言葉を生み出すか?

歴史はとても古いが、究極の難問。

言語はなぜ難問か?
・人間しか言語を持っていないため動物実験できない。
・言語は脳の機能の頂点。動物にも意思があり行動している。チンパンジーも考えている。人間は言語を使って思考や意思を生み出している
・言語だけ切り離して研究するのは難しい。知覚、記憶、意識と絡まっている。どこで線を引くか。言語とはいったい何か?

・言語は人間だけの能力か?
ボノボは記号を使って意思を伝える。チンパンジーに手話を教えることも出来るとされている。これらと言語は何が違うか?手話(手の動作を言葉に変換)「ちょうだい、オレンジ。」「わたし、ちょうだい」「たべる、オレンジ」これら類人猿の言葉は順番がない。人間なら「私はオレンジを食べる」で意思が伝わる。「私は、主語」「オレンジを、目的語」「食べる、述語」に分解できる。この順番が決まっている。人間の言語には文法がある。

例:マザーグース、いくらでも長い文が作れる。人間の分は自然なもので、創造的で、新しいものを作れる。自由に作れる背景には法則性があるから。

Q人間にももともとサルなのに、なぜ人間だけ言語を持ったか?
Aコミュニケーションは進化の過程と全く別だという仮説がある。ミツバチのみのコミュニケーション手段がある。他の種のハチは使わない手段がある。

6,500もの言語がある。中国語、英語、スペイン語の純で使われる。メキシコでは240以上の言語が使われている。

古典的な言語学。
歴史性 言語の分類 例:ゲルマン言語、イタリック言語などからの派生

BUT言葉の派生、多様性は歴史性では説明できない。なぜそうなるか、次にどうなるかは歴史性だけではうまくいかない。

ノーム・チョムスキー1928-
言語に対する見方を変えた。説明する仕組みがある。チョムスキーが言う言語は法則。
抽象化:桜の種類が違い花びらが微妙に違う。花びらの枚数は5枚。5枚とも同じような花びら、だいたい正五角形。ここには法則がある。花びらは正五角形であるという抽象化。抽象化は科学の基礎。

理想化

言語の骨(法則性)
__________
↑       __↑___   
↑ ↑      ↑
私は  オレンジを  食べる
S O V

結びつきはOとVが強い。それとSがつながる。

普遍文法 人間後には普遍的な文法の共通性がある。
人間がもとから持っている、主が固有に持っているもの。

プラトンの謎
赤ちゃんのときに家族が話しかけてくる。赤ちゃんのコロは何を言っているか分からない。けれども、1歳ぐらいで分かり始め、2,3歳で話し始める。文法として習わなくても、話し始める。なぜ、誰も教えていないのに、分かるのか?→もともともとあるのではないか。人間に備わっている。

言語獲得装置。
日本語の多くのデーター → 脳 → 日本語の文法
日本語を処理して、文法に当てはめる、言語を獲得するような装置。

言語を科学する4つの方法
・言語学的アプローチ
 抽象化、理想化、骨を明らかにして、普遍的に説明、子どものときからどう知ったか
・脳科学的アプローチ 
 脳の働きから解明
・工学的アプローチ 
 コンピューターで 人工知能 話せるロボット 人間の脳のを抽象化して簡略化してシュミレーション
・遺伝的アプローチ
 ブローカ野をつかさどる遺伝子は? 言葉を話すための遺伝子はあるのか?

ポール・ブローカ 
人間の脳の一部に言語に関する部分が局在 失語症から発見。前頭野のブローカ野がきづ付くと離せなくなる


脳の機能のイメージング
→→→→→→→→→→→→→→→→より細かく見ることが出来る
脳波、脳磁計測、PET、放射能の量から測る、fMRI脳の機能を見る

fMRI fはファンクショナル。機能を見る。電磁波を読み取る。x線より体への影響が少なく、自由な角度から見れる、血液の集まる場所を見ることが出来る。

脳のどこが働いているかを測る。脳の構造を見る。

テレビのモニターをゴーグルの中で見て、英語と日本語を聞かせて脳の働きを見る実験
英語のマッチング課題 (EM)
初めの画面catch
2回目の画面catch cotch
左が同じ
英語が分からなくても解ける問題

英語過去形課題(EPi)
初めの画面close
2回目の画面closed clost
左が正しい
英語が分からないと解けない問題

初めの画面catch
2回目の画面catched caught
右が正しい
英語が分からないと解けない問題

過去形は規則動詞と不規則動詞があると学んだ後の脳
ブローカ野が活動している。英語を学ぶと

日本語に関しても過去形のテストを行ったらブローカ野が活動。英語も日本語も過去形を学ぶと同じ場所が活動した。よって、普遍文法。

実験から分かったこと
・言語の学習によって、脳が変化している。
・英語でも、日本語でも過去形の場合、同じ場所が使われる→普遍文法がある。

ブローカ野
記憶?単語の運用?文法の中枢?実はまだはっきりと分かっていない。
おそらく、文法の中枢

言葉が出てこない
単語が出てこない、文法が使えないと言葉が出ない。あごや舌の問題かも、

言語学は人間の科学。
どういう意味で人間はユニークなのかを言語を通して研究している。

ありがとうございました

昨日エントリーした。「頼む教えてくれ」で、量子論のテレビを見て分からなかったことを書いたんですけど、さっそく教えていただきました。真にありがたいです。

完璧になぞが解けたかといえばそうではないんですけど、より知るためには物理学や量子論を基礎から学ばなければならないので、そういう意味で完璧になぞが解けてないということです。これは僕の問題なので。

それに、「量子力学概論」という本の該当箇所をコピーしてさらに重要なところを蛍光ペンでチェックしてもらって、解説まで書き加えてもらって。もう、どうやってお礼を言っていいやら。

コメントを下さった皆さんもありがとうございました。

とりあえず、量子論の本を読んでみます。

理論のベース自体はほぼ正しいと証明されているようなので、量子論がどう応用されるかが注目です。量子テレポーテーションも量子コンピューターもまだ時間がかかりそうですが。。。まあ、情報処理とコミュニケーションには大きな変化がありそうですな。
それと、純粋な量子論をやっている方からすれば邪道かもしれないんですけど、量子論の経済への応用と、脳や意識への応用も気になるところです。


以下参考図書 いつも通り自分用
・「「量子論」を楽しむ本―ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!
佐藤 勝彦 文庫 」
・「ペンローズの量子脳理論―21世紀を動かす心とコンピュータのサイエンス
ロジャー・ペンローズ (著), その他 単行本」
・「経済・情報・生命の臨界ゆらぎ―複雑系科学で近未来を読む
高安 秀樹 (著), 高安 美佐子 (著) 単行本(ソフトカバー)」
・「経済物理学の発見
高安 秀樹 (著) 新書 」
・「世界が変わる現代物理学 ちくま新書
竹内 薫 (著)」

田臥勇太

イチローをちょっと前「漢」だといったが、田臥勇太って人間も「漢」だ。

身長は170cmちょっと。バスケの選手なんて2m近くあるじゃん。多くの人間は、その絶対的な差だけでNBAをあきらめるだろう。

それを、彼はあきらめない。ナイキの彼が出ているCMがあった。そこでは一万回パスの練習をして、一万回シュートの練習をして、バスケットシューズを何十足も履きつぶし、、、とっいった感じでいっていた。本当にそうだろう。練習して。練習して。ひたすら練習する。

ハンディがあっても、それを出来ない理由にして逃げない。そんなハンディがあることすら忘れさせるってのがかっこいい。見てる側からすると、ハンディを越えてでっかい奴に勝つのがワクワクするね。

こりゃすごいよ。日本人に勇気を与えるよ。
世界を舞台に体のギャップを乗り越えて活躍する日本人。
ほれるね。

スポーツ界ではこういう男が増えてきた、政治の世界、ビジネスの世界、文学、音楽、絵画などなどいろいろな分野で更なる活躍をし、そういう信念があり、努力し、達成した人間が評価され、報道される日本になることを願うし、そうしていきたい。

彼の言葉にも重みがあるよ。このCMもズシーンときた。
CMのリンク
以下、CMで田臥勇太が語っている言葉。全文。

何回も能代弁で叱られ、
何回も英語でも怒鳴られ、
そのうちの何回かは理解できなかったけれど、
何回も小さいから無理だといわれ、
何回も大男が落ちてきて怪我をし、
何日も眠れない夜をすごし、
何回も人のいうことに耳をふさぎ、
何回も逃げ出そうと思った。

けれど、

何万回もパスをし、
何万キロもドリブルをして、
何万回も相手をフェイクし、
何万回も速攻を出し、
何万本もシュートを打って、
何十足もバッシュを履き潰し、
僕は アメリカのコートに立った

日本人初ということはすごくうれしいですし、

でも、僕のたびは終わりじゃない

これは始まり

何万回もパスをし、
何万キロもドリブルをして、
何万回も相手をフェイクし、
何回も、何万本も・・・・

頼む教えてくれ

さっきのエントリーで書いたんだけど、量子力学の番組を見ました。そうしたら、すごいことを言っているのです。

観測しない限り、状態が決まらない。それは知らないだけじゃない。らしい。量子の世界では、観測するまで決まっていない。知らないだけではなく決まっていない。
どういうことだ?コレに付いて教えてください。お願いします。

その例として出ていたのは以下の2つです。

・干渉の話で、スリットのどちらを通ったかは観測するまで決まっていない。

・原子が2つの光子をだす。例:左に飛ぶ光子は上向き、右に飛ぶ光子は下向き。原子から光子がひとたび出ると決まっているはず。しかし、人が観測していなければ決まっていない。我々が知らないだけではない。観測していれば決まっている。左だけ観測したら、決まる。すると、右を観測しなくても決まる。片方を観測すれば、観測していない方の状態も決まる。

これって、哲学的な意味で話していた、俺がいなくなったらこの世はなくなるって話と似てますね。

それと、量子テレポーテーションはこの理論を応用しているんだよね?たぶん。推測なんで分かりませんけど。

そういえば、かなり身近にUTで量子力学について知っている人がいるじゃないか!
教えて頂戴。

今度会うときは、量子力学の講義してください。
みすどさんよろずさんお願いします。出来るだけ早いうちに教えてください。

量子物理学

小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学 「量子物理学・目で見えた!量子の世界」

上田正仁 東工大教授

ボース・アインシュタイン凝縮

量子の不思議な世界

量子とは何か?
「量」は量を
「子」は小さいものをあらわす
量子は最小の単位

古典論
電子は粒子、光は波
量子論 
電子も光も粒子であり波である

粒子としての光
薄暗く光る程度に電球をする。同じくらいの高さの振動が間隔をあけて出てくる。
さらに暗くすると、間隔が広くなるだけ。光の最小の単位が存在する。

光子=光の最小単位

波紋や音など波には共通の性質がある。スリットが2つあると別れ、重なる。高いところはより高く。低いところは重なりより低く。干渉。縞模様になる。

干渉と波

光はミクロに見ると光子、光子を集団としてみると波

スリットを一つにすると縞模様は出来ない。

どちらのスリットを通過したかを観測した時点で、波の性質は消える
スリットのどちらを通ったかは観測するまで決まっていない。

量子の不思議

粒子と波の統一

古典論
粒子
運動量P/エネルギーE


波長/振動数

量子論
P=h/λ
E=H×f
アインシュタイン・ドブロイの関係式

原子の場合は?
ネオン原子の干渉実験 スリットを同時に通過して干渉

すべて、量子力学においてミクロに統一している。

ボース・アインシュタイン凝縮
超伝導と深く関わりあう。

たくさんの粒子が集まると
2つの種類に分類
集まらない粒子 電子、陽子など
集まる粒子 光子など

原子は温度が高いと原子は粒子でばらばらに振舞う。温度が低くなって量子の振る舞いをすると波。すべての原子が集まって巨大な波になる。巨大な物質の波=ボース・アインシュタイン凝縮

長さは一ミリの楕円っぽいもの。ドラ焼きの形

2001年ノーベル物理学賞
MITケタレ教授

絶対温度1千万分の一度。原子を冷やす=原子の速度を落とす。

原子にレーザーの光子を当てて速度を遅くする。6つの方向からレーザーをあてる。真ん中に原子が集まる。磁器を作った器を作り、下に落ちないようにする。きわめて温度の低い動きのほとんどないものだけ残る。それがボース・アインシュタイン凝縮。
1000万分の4ケルビンではまだ温度が高いものが動くので散らばっている、1000万分の2ケルビンになるとほとんど飛び散らなくなる。1000万分の1ケルビンになるとほぼ完全にボース・アインシュタイン凝縮。

巨大な原子の波は本当に波か?
実証。重ね合わせて波になれば波。

2つのボース・アインシュタイン凝縮体を重ねると干渉する=波。

ミクロな現象がボース・アインシュタイン凝縮でマクロに見える。

ボース・アインシュタイン凝縮の崩壊
磁場を少し変えて引力にする。
崩壊して収縮する。そしてとても小さくなる。小さくなりすぎて見えなくなる。そして崩壊。見えなくなった直後のボース・アインシュタイン凝縮は光る。そして爆発し始める。
崩壊して、自分の力で爆発する。ボース・ノヴァ。

宇宙の星は重力崩壊で、爆発する。超新星爆発。中性子星が残る。上記と類似。さらにでかくすればブラックホールになる。

原子が2つの光子をだす。例:左に飛ぶ光子は上向き、右に飛ぶ光子は下向き。原子から光子がひとたび出ると決まっているはず。しかし、人が観測していなければ決まっていない。我々が知らないだけではない。観測していれば決まっている。左だけ観測したら、決まる。すると、右を観測しなくても決まる。片方を観測すれば、観測していない方の状態も決まる。

量子の世界では、観測するまで決まっていない。知らないだけではなく決まっていない。
量子の分野では観測はとても重要なこと。

月は私が見なければ存在しない。byアインシュタイン

粒子であり波である。

量子の特徴を利用
光通信→量子暗号
二人の間で通信。誰かが情報を盗んでいるかもしれない。紙だったら見ても何も変化しないが、量子力学の世界では見たら状態が変わる。この性質を利用して暗号化。

情報科学→量子コンピューター
量子並列制。100億年の計算が1週間で出来るかも。まだ、理論段階。

November 04, 2004

働くということ

某氏がいいといっていた本を読んだ。

新聞の連載を本にしたものだったので、知っていることもいくつか。
個人的には、一つの内容が短すぎて物足りなかった。いろいろな人の「働く」ということを読めたのは良かったのだけど、一人一人について内容が薄かった。最後のへんはなんかよい感じがしたが。

まあ、人間働くということについていろいろ悩んでるわけです。世のため私のため、猛烈スローライフ、汗とバーチャル、自立と歯車、安定とリスク、などなど比較してありました。社会・環境の変化による社内システムの違い、意識の違いによる若者と年配の確執なんてのも。

まあ、正解なんてないんですよ。自分がよいと思った道、納得した道を歩む。

これってのがなくて悩んでいても時間が過ぎるだけなんで、見つからなかったらそれなりの決断も必要なときもあるわけですよ。やってみて初めて見えてくることも多いですし。
そう思います。

働くということ
日本経済新聞社

日本経済新聞社
2004-09-18
売り上げランキング 500

おすすめ平均 
「時流に乗って」というよりも、今の時代の「主題」のヒントがある。
時代の瞬間撮り。何を感じ、どう活かしていくか。
貴方が使わなかった人生が満ち溢れている

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難しいことを忘れて

童心にかえる。
無我夢中になる。
腹のそこから笑う。

うまいものを食べて、
十分寝て、
自然を感じて、
好きなことをして、
空想にふけり、
美しいものを見れば、
生きてて良かったと思うはず。

たまにはこんなときもあったほうがいいと思う。

1994

1994年

この年が何だって話なんだけど、特に何もないんだけどなんか1994って響きから何か記憶がある。小3か小4年。

この年ぐらいから年号というか、そういうものを気にし始めた証拠なのだろうか。
それにオリンピックもあったから年号を良く聞いたからかな。

同い年の人は19??年から明確な年の記憶があるのかねぇ。

小学生の会話

スーパーに行ったら小さな兄弟が床に座り込んでお金を数えていた。
スーパーを一周して戻ってきたらちょうど数え終わったらしく、1221円と兄の方が言った。すると、小さな弟は210円の菓子パンを指差して、これ買える?と兄に聞いたのだ。すると、兄は買えるよ。と答えた。

普通の会話でした。終わり。

何ですけど、子どものころって数字というものをばらばらに覚えている。一つの数字はただそれだけのものとして理解しているのかな。だから210円と1221円の大小が分からない。僕たちはいくつかの数字を聞くと自然と否応ナシに大小を思い浮かべてしまう。数字という物を関係性の中で認識しきっている。

夢は何ですかといったら、「死の感覚を感じること」「赤ちゃんの感覚を感じること」これらって体験しようとも出来ないからねぇ。

あと、スーパーの帰り道小学生ぐらいの奴が信号に引っかかって「クソ、ムカつく」といった。待つことがいやなんだろう。急いでいるときだったら確かに待ちたくない。しかし、特に急いでいる様子でもない。じゃあ、なぜ待つことはムカつくのか?何か体を動かしていないとうずうずしてくるのだろうか?エネルギーに満ちた子どもだからなのだろうか?それとも、何かしら「待つ=無駄なこと」というような認識があるのだろうか?とどまるということは何もしないこと、何もしないことは時間の無駄とかそうなのかな?保守的な人は守りに入る、何も変わらないほうが楽で好きなはず。そういう人も待つことがすきなのだろうか?

僕は待つことが特に苦にならない。こうなったのは小学生のときにふと思ったことがきっかけ。何かを待つ誰かを待つ、そんなときは暇だ。だから文庫本などを持ち歩く人もいる。しかし、何も持たないで待たなければならないこともある。そんな時僕は思った。何もなくても、自分さえいれば暇つぶしが出来ることはないか。それなら、答えのない、答えが見つかっていない問題を考えればいいじゃん。と。それから、待つときは生きるとは何か、人間とは何か、幸せとは?などと考えるようになりました。それとか、周りを見渡せば今まで気がつかなかったことや、同じものでも視点を変えてみたり、じっくり見ると違う発見がある。そんなことしていた小学生は、10年たつとこうなるのです。


自らが感じたことのない感情は他人が感じていても自分は感じれない。

自らが感じたことのない感情は、他人が感じていても自分は感じれない。

これ、わかっていそうで分かっていないこと。
とある人の話をきいて思いました。

黄色い線の内側?

ズーット前から気になっていた。
これは何度聞いても違和感がなくならないこと。
何百回と聞いているはずなのに、違和感が残るフレーズ。

「黄色い線の内側にお下がりください」

どこかで聴いた記憶はありませんか?駅のプラットフォームです。
電車がプラットホームに入ってくるときに、電車に近づきすぎるとき読んだから、駅員さんがアナウンスするのです。まあ、それはいいんです。

言いたいのは「内側」?ってところです。

僕にとっての黄色い線の内側は「線路」の方なのです。電車に近づけって事かよ!って、いつも突っ込みたくなる。しかし、駅員さんの言う黄色い線の内側はプラットホームの真ん中の方なのです。

なんで、僕が黄色い線の内側を線路だと思ってしまうか?
多分電車を中心に考えているからです。一方駅員さんは客を中心に考えているのです。
その違いによって解釈の仕方が異なるのだと思う。

僕が自分自身を中心に考えないで電車を中心に考えるか。それは紛れもなく電車の駅という場所にいるからだ。普段は自分を中心に考えているが、駅では電車がメインだ。みんな電車に乗りにくる目的できているのだし。だから、電車を中心に考える。

しかし、駅員さんは毎日駅で働いている。それが日常だ。だから、駅というのは電車に乗るという目的でもなく電車がメインであるという発想にならないのではないか。だから自分中心で考えるから、黄色い線の内側がプラットホームの真ん中のことをさしているのだろう。

そんな理由じゃないのかな?
普通の人は、僕みたいな認識の仕方はしていないのだろうか?

普通の人は瞬時に脳で補正がきくから、普通の認識が出来るのかもなぁ。おれは、そのものをそのまま捕らえすぎているのか?


脳科学

小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学 「脳科学・脳はどう意識を生むのか?」


21世紀で一番重要かも。心は科学の対象となりうるのか?

茂木健一郎さんは面白い視点

ソニーCSL、品川にある、ガラス張りのビル

立体はなぜ立体と感じ、透明なものはなぜ透明と感じるのか?

脳の話、脳科学

科学はどのようにして生まれたか?
ニュートン 万有引力の発見。なぜコレが意味を持つのか?

手にあるものは落ちるが、空にあるものは落ちないのが当たり前だと思っていたが、その常識の不思議に気がついた。

脳、1000億の神経細胞。複雑なネットワーク。化学物質の放出と吸収。
りんごと脳もニュートンのりんごと月と同じなのでは?

脳は意識を作り出す。朝起きると、太陽の光が入ってくる。意識が生まれる。作り出される。胃は消化するためにある、意識を生み出すことを考えないで脳を研究しても意味がないのではないか。脳がなぜ意識を生み出すか?意識の主体である私はどのように成り立っているのか?は分かっていない。

錬金術師がしらないように、脳も物質なのに意識が生まれるのか?コンピューターやロボット、石にも意識があるのか?

研究の手がかり、「クオリア」生活する中での質感。水を飲むと冷たく感じ、バラの赤を赤と感じる。

今までの科学で、方程式は数で表さなければならない。しかし、クオリアは科学でかけない。チョコの甘さとバナナの甘さは数値で表せない。クオリアは数で表せない。

すごく小さな情報から、なぜ人間は情報を補って理解することが出来るか?外界から入ってくる情報を、解釈を持って理解する。想像力が豊だと、

感覚的クオリア=感覚的な情報
志向的クオリア=解釈で補う、何かを認識する

外にワイングラスとかバラがあると思っているが、実は脳の中にある。(情報を得る段階で見てはいるが。)

外界からの刺激がなくても脳はクオリアを作り出すときがある。それはなぜか?

脳は3つの器官

脳幹 生命維持
小脳 運動支配
大脳 視覚、意識、
大脳皮質 神経細胞の集まり 

限られた体積で表面積を大きくする

後頭葉 視覚やで情報処理
側頭葉 形色を解析
頭頂葉 体のイメージをつかさどる、ボディイメージ、自分の姿勢など
聴覚野 聴く
運動野 手や足をコントロール
前頭葉 脳のさまざまな部位を調整
前頭前野 私が私である中枢

過去100年は脳のどこがどう役割をしているかを究明 機能主義

コンピューターは脳になれるか?
どこが同じで、どこが違うか?

人間の脳の能力の背後には「私」が常にある。

ロボットに私を組みこめれるのかが重要な問題。

クオリアを感じるのは私である。バラの香りを感じるのは私である。コンピューターにデジタルとして情報が入ったら、感じられないのではないか。なぜなら「私」がないから。

私と他人

他人との関係が重要。他人との関係で脳が作られてきている。生まれたときから他人とコミュニケーションをしたいという脳の欲望がある。

ないたらミルクをくれる。赤ん坊は母親のことを自分の延長だと思っている。しかし、泣いてもミルクをくれないと、母親は自分でないときが付き始める。

自分が自分であると気がつく年齢=自分の心と他人の心の発見=4歳ぐらい

感じたことのない感情は他人が感じていても自分は感じれない。
相手の心を読み取ること=心の理論

相手の心を読む
顔の表情は非常に重要。怒り、喜びなどは分かる。顔は表情から一瞬で感情が伝わるインターフェイス。ポーカーフェイスの時は、今までの関係や、その状況を踏まえて感情を読み取る。

1996年、ミラーニューロン神経細胞10年後には教科書に載るかも
自分がある行動をしているときにも、他の人がある行動をしているときにも働く細胞。Aさんがアイスを食べれば、それを見たBさんもアイスを食べたときに働く細胞が働く。

人間と人間の関係
脳への報酬。人間の脳は何を一番うれしいと思うかといえば、他人からほめられること。小さいころは見てもらっていることが報酬。学芸会で親(大切な人)が来て見ているかどうかが気になる。親が見ていないと、何もしない。

アイコンタクトが成立したときに、ドーパミンを放出する細胞が活動する。好意を持った人と目が会うときほどドーパミンが出る。意識していなくてもこのように神経細胞が活動する。

人間は相手との関係によって人格を使い分ける。
学校で友達と話すときと、親と話すときは違う。人間の脳のもっている最大の能力はTPOにより人格を使い分ける。人間の脳の持っている頭の良さはコミュニケーション能力。場に合わせたコミュニケーションが出来る。これはコンピューターには出来ないことである。
コミュニケーションから自我が生まれる。


チェス コンピュータ対人間
ディープブルーは先の手を読んで、勝った。しかし、これは人間の知性を超えたといえるか?
人間らしいコミュニケーションはできていない

チューリングテスト
人間がコンピュータの画面に向かってテキストをコミュニケーションをして、スクリーンの前には人間がいるのか、コンピュータがいるのか区別できないとき、人間とコンピュータは差がないといってもいいのではないか。しかし、まだテストに合格したコンピュータはない。

コンピュータはあらかじめ決まったことをするのが得意。人間は相手との会話によって臨機応変に行われている。チェスはルールが決まっているものをやっている。

他人の心を読み取る。他人の心が何を考えているか分からないのに

コンピュータは与えられて物しか出来ない。人間は感情を持ち、自らの欠点を見つけたり

一つの能力だけを暴走させず、抑制し、人間の能力をバランスとっている。カレンダー計算をやろうと思えば出来るが、バランスをとっている。

Qコンピューターが人間の脳に追いついたらどうなるか?
A人間はうまく、それを乗り越えていくのではないか?ITの影響で発想の能力が重要になってきた。人間の脳は環境が変われば適応できる。コンピュータが脳に追いついたら、そのコンピュータが出来ないことをやるようになる。


意識と向き合う科学

今までの科学は、数式を組み立てたりしてきた。
今まで科学が無視してきたクオリアを考えなくて人間型ロボットや今後の科学は語れない。

我思うゆえに、我あり デカルト

空間を数式で表すことを(近代科学の基礎)デカルトが言った。

この世の中で唯一つ疑えないことは私がいること。 デカルト

「私」のなぞに挑む。
今まで、これは解けないという問題も解いてきた。しかし、私が私であるということも分かるのではないか。コレが解けたとしても、新しい問題が生まれてくるのだから。

人間が考える背景には何があるか、意識が生まれるとは何か、これらを考えるためにはデカルトの考えに戻る必要があるのかもしれない。

現代の科学に残された最大の問題。

意識、私、クオリアはどのように生み出されるか。これを解決したら、ニュートンやアインシュタインと同じぐらいの価値がある。

科学に興味を持つすべての人が、科学にはミステリーがあるということを実感してほしい。
当たり前だと思っている減少を見直す・違った見方をすると、新たな発見があるかも。

小柴さん
量子力学観点からすると、私は表現できないと思っていたが、実はあらわせるかもしれないと考え直さなければならないかもしれない。今後脳科学がどう発展するか楽しみ。

November 02, 2004

中国

NHKスペシャル 「63億人の地図(8)中国豊かさへの模索」上海ドリーム光と影▽学校に行きたい

これまたメモです。

昨日の「夜回り先生」のまとめをしたいと思いつつ出来ていません。。。

中国はやっぱり注目の国ですし、チェックしとかないと今後の世界を読むことが出来ない。やっぱり、大学の間に中国に行こうと思う。中国にはまだビジネスチャンスはあると思った。中国語と、中国の事情が分かっていればチャンスはあるな。でも、昔と比べればかなり厳しくなっているだろう。

格差が広がってどんな問題が生じ、それをどう乗り越えるか。賃金が高くなり他国との差別化が図れなくなった場合、どう乗り越えるか。

メモ

上海、北京と、内陸部の格差。GDPはシンセンと最下位は171倍の格差。

「上海」
富人区は2億円〜10億円の住宅が並ぶ。ゴルフ場もある。上海の企業の社長。次男を10年間イギリス留学2億円。高卒。ペンキ塗りなど。27歳転機。先富論、先に留めるものから。銀行から金をかり、投資会社を作った。今は年商360億円。学校設立=貴族学校。金を持ったら、親は教育に金をかけることを見越して。入学金50万円。平均年収の倍。
小学一年生ぐらいの人が、ハーバード大学に絶対入るといっていた。
経済成長率11.8%(2003年)
農村から来た出稼ぎ労働者「民工」、地域間格差を利用して儲ける

1980年代から都市に移動。1億人。今後も毎年500万人増える予想。
上海の3人に1人が出稼ぎ。

教育格差
民工学校、農村戸籍で公立学校に受け入れてもらえず、地方からの出稼ぎ労働者の子どもで行き場のない子どもが行く学校。都市戸籍の子どもが公立学校に優先して入れる。民工学校は上海に400以上ある。田舎の子どもは公立中学に入ることが厳しい。民工小学校(中学)も入学が厳しい。

地方から出稼ぎに来ている親は子どもに、「会社員や公務員になってほしい。」

中学で出稼ぎの親と離れ地方に戻らなくてはいけない小学生の作文。「上海の生活は短かった。上海で学べるなら、コンピューターと英語を学び海外に行きたかった。でも、農村に帰っても学び、また上海に戻ってくる」

93年で少し、GDP格差が出てきた。しかし、大きな差ではない。93年以降この10年で急激に格差が広がった。


内陸部 中庄村

上海と比べると村は原始時代のよう。900円の教科書代が払えず小学校5年生で中退。年収8,000円の家庭。その子の夢は先生。学校に通えない子が村に50人。

村が食べていくためには、教育しかない。中学卒以上でなければ、都市に出稼ぎにもいけない。
入学金8万円、一家の年収の7倍。大学卒業すると都市戸籍に変えることが出来る。そうすれば、都市で安定した暮らしが出来るようになる。幸せになるには大学に行くしかないが、入学金を払えない。牛一頭2万円。村のトップたちで一人の子どもを大学に進学させるための金を工面する会議。村が保証人となり金融機関から金を借りて大学進学。卒業後本人が返済。「村に帰ってきて、みんなのために働きたい。」

西部大開発
内陸部のインフラを開発する。そこに工場などを誘致する。

先富から共同富裕へ

経済成長だけでは、中国が発展できない。一人一人の幸せ、人間としての尊厳、平等が保たれることが必要。

本当の豊かさとは何か?
明日への手がかりを探して生きている。

禅の極意

NHKスペシャル「永平寺104歳の禅師」迷いの時代を心安らかに生きる禅の極意とは

うーん、禅ってすさまじいな。どうのこうの言う前に黙って坐禅をひたすらする。まだ僕は禅の考えは分からない。まだ、という表現が正しいかどうかは分からないが。とりあえず、今は分からない。今無理やり分かる必要もないと思うし。

でも、禅の考えは美しいとは思う。

以下は番組を見てのメモ

禅はよき人を作る
よき人は、地位とか名誉とかがない
欲は克服すべきを覚えんといかん
それが禅だ

天があり地があってその恵みを受けて人間がその正しい真(まこと)を実行していく
大法則のもとに生かされている
真は名前を変えたならば真理
まず第一に正しい真を持って先祖に挨拶。

3、5分でも坐禅

11歳のときから93年間欠かさず毎朝坐禅

坐禅
何も考えない、前後裁断、その時その時、一息一息しかしない、
何か考えたら余分や。

人間は地位名誉、わがままでいっぱいだ
欲は克服するすべを覚えないといけない。
それが坐禅だ

息と一つになる
坐禅とはまっすぐということ
背筋を、首筋をまっすぐ、右にも左にも傾かない
まっすぐとは正直

体をまっすぐにしたら心もまっすぐになる
人間はわがままが自由だと思っている
型にはまったものが日常でなければならない

長い間培われてきた型を守ることが修行である

日常生活のすべてが修行、少しでもいたらなければやり直し
すべてがみな禅だ
禅とは一つになっていくことが禅
歩くことは、歩く禅、しゃべったら、しゃべる禅

スリッパがいがんでおることは自分がいがんでいること。
心が表れている。

11歳のコロはいやいや坐禅をしていた。他にしたいことがあった。坐禅や厳しい作法がいやだった。
転機は29歳のとき、82歳で老師が亡くなった。
老荘の暖かい死骸を見たとき、偉い人だったと思った。私(わたくし)のない生活をする。
やっぱり日常の生活が基本。老師は運僧(修行僧)と同じ食事を食べ、同じ生活をした。
口だけでない実行で示した
老師のようになりたい。
学ぶということはマネをすることからきている。
一生まねをしたら、それは本物だ。

坐禅の意味を考えるのをやめ、ただひたすら座るようになった。
釈迦の教えを今後に伝えていくのが永平寺の住職の仕事

大衆に範を示さなければならない。現代は地位にあるものが範を犯したりしている。、教えというものが何のためにあるかといえば、実行するためにある。そのために黙って真理を実行するところの坐禅を進めた。黙って実行すること。

肺結核のときでも、坐禅をしていた。3年4ヶ月の入院生活

正岡子規 病状六尺(病寐六尺)

平気で死ぬことが悟りだと思っていたが、
平気で生きておることが悟りやった
平気で生きておることは難しい

死ぬときが着たら死んだら死んだらいい
平気で生きているときは、平気で生きていればいい

命がけやったら何でも出来るなとおもった。

自分分より大事なものはない。
永平寺は自分だ。環境も自分だ。
永平寺を大切にすることは自分を大切にすること。

自然は立派だ

日記をつけている。何月何日に花が咲いた、虫がないた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。
自然の法則を真似て人間が暮らす。
人間の欲望に従っては迷いの世界だ。

真理を黙って実行するのが大自然だ

誰にほめられることもない、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえることもない。時が着たら、花が咲き、すべきことをして、黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。

自分の人生を一本の梅ノ木とたとえ、
「103歳になる老梅も花を咲かせることが出来る。
これもただ坐禅をしてきたからだ。」

命が続く限り禅の修業を続ける。

宇宙論

「宇宙論〜宇宙の始まりと未来を探る」
 宇宙は曲がっているのか? 平らなのか? この「宇宙の形問題」は、宇宙の年齢〜どれくらい前にこの世界は始まったのか〜を直接決定してしまうために、科学者たちの間で長く議論が戦わされた。昨年NASAのWMAP衛星は観測から宇宙の形を決めることに成功。宇宙の形は平らであることが分かった。 

[出 演] 杉山 直 (自然科学研究機構 国立天文台 理論研究部 教授)

こ回は見ていないので、nhkの番組紹介です。

このパワポが番組とほとんど同じ内容みたいです。15Mぐらいあるので気をつけてください。
http://th.nao.ac.jp/~naoshi/uchu_marukajiri.ppt

November 01, 2004

イェイツとアイルランド

サリーガーデンズという曲を聴いた。かなり良くて繰り返し聞き続けている。繰り返し聞いても色あせない、心地よい曲です。

で、調べるとイェイツという人の詩らしい。この人はノーベル賞もとった人みたいで有名人っぽい。初めて知った。でも、とりあえずこの人の背景を知る前に、詩などを堪能したい。その後イェイツについて知ろうと思う。文脈を越えた美しさを味わうためにはこの順番がいい。

で、ついでにアイルランド民謡にイェイツの詩がのるとまた美しい。たまんないですよ。アイルランドでこの詩や曲を聴きながら旅したいと思い、調べると、いい国じゃないですか。

http://www.tourismireland.jp/index.htmlスライドショーなんかもうたまんないですよ。

http://www.tourismireland.jp/images/slideshow/27.jpg
http://www.tourismireland.jp/images/slideshow/02.jpg
http://www.tourismireland.jp/images/slideshow/06.jpg
http://www.tourismireland.jp/images/slideshow/13.jpg
http://www.tourismireland.jp/images/slideshow/14.jpg
http://www.tourismireland.jp/images/slideshow/15.jpg

中国、アメリカ・ボリビア・ペルー、フランス・アイルランドですかな。

何かがある

ウェブページがしょぼい会社、やる気のなさそうな社員、誰でも出来そうなビジネス、はっきり言ってダメダメな会社って感じです。このような会社で本当に業績が悪いところもあるが、しっかり利益を出しているところもある。どうしてだ?どうやって儲けているのだ?

見栄えだけかっこよくて、無駄に力んでいる企業で利益を出せない会社よりすごい。
それは、犯罪チックなことを裏でやっているとか、人脈がすごいとか理由はあるんだろう。でも、こんな理由じゃない部分もあるはずだ。

何が違うのだろう。ビジネスセンスというものはそういうものだろうか?
組織としての何かしらの強さ、会社の習慣、雰囲気いろいろあるんだろうな。
それを掴み取りたいな。

逆上がりが出来る瞬間に何が起こるか

逆上がり、 小学校のときに出来なかった経験がある人も多いと思う。練習して練習して、やっと出来た。そんな思い出があるのではないか。

で、出来なくて何回も繰り返して、やっとはじめて出来た!時があるはずだ。

初めて出来た時と、その一回前の出来なかったとき、何が違うのか?体力もスキルもほとんど同じはず。

何か変化があったはずなのだ。しかし、すべてほとんど変化はないはず。

なんだろう、その瞬間に小さくとも、大きな変化があったのだ。この違いが気になる。

人間が、なんとなく気持ちが変わる瞬間も不思議であると昔書いたが、それと似ているのかも。

色あせないもの

最近書いた気もするが、とりあえず書く。

人間は、同じことを繰り返せば飽きる。つまらなくなることがほとんどだ。いくらうまいものでも毎日食べていれば飽きるし、王様のような生活も毎日だったらつまらなくなる。ありがたみなんてなくなる。

しかし、色あせない気持ちもあるようだ。
先日とある質問をした。舞台の上にたつ人に。年間に何百回も舞台に立つその人は毎年何百回も拍手を受ける。その喜びも薄れるものだと思い、僕は「舞台に立つ原動力や一番うれしいことは何かとたずねた。」するとお客さんの拍手だという。そうかとおもい「毎回拍手をもらうとそれに対する感情は薄れ、原動力としては弱いものになるのではないか?」とたずねると「全くそれはない」と。正直びびった。全く色あせないようだ。色あせない思いがあるようだ。同時に研究者の人も、自分の研究テーマを何年もやり続けてもその思いは全く弱くなることがないといっていた。

やられた。全く色あせない思いがあったのだ。

これが、自分の生きる道という奴だろう。まさに吾人の任務だ。

人間のベースとなる思想の共有とは何か

人と話していると思うことがある。それは、本質的に共感しているときには起こらない感情や思いである。いや、自分と違う意見であっても、起こらないときもある。

じゃあ、何に対してその思いはあるのか。

「何か違う、通じない」と思ったときに起こる感情だ。
それは生きる思想の根底が違うからじゃないかと思う。人間のベースとなる思想が違うってことだ。それは、育ってきた環境が違うから、それまでの経験、その人が社会でとってきたポジション、人にとられた態度、その人が生きることについてどれだけ考えたかなどに関わってくる。言ってしまえば人生のすべてに関係するのだ。

こういうと、すべての人が違う環境で育っている。双子だって違う。みんな違う環境なのだが、分かり合える人と分かり合えない人がいる。通じる人と全く通じない人。なぜだ?それはファーストインプレッションで拒否反応を示したとか、ステレオタイプ的なものがないわけではないと思うが、そう簡単には片付けられない。

自分の考えと違っても、腑に落ちることがある。

しかし、違った考えで腑に落ちなくても、この「何か違う、通じない」と思ったときに起こる感情が起こらないこともある。それは、その相手と長い付き合いでお互いのベースを分かっているからかもしれない。

じゃあやっぱり、ベースを流れる思想が共有できるか出来ないか、ここに行きつく。で、これがあまりにも違う人のことは理解できないのかもしれない。

「人間のベースとなる思想」とは何なのか?

人間はすぐに形あるもの、はっきりと見えるもの、はっきりと分かるものを求めたがる。それはお金でも、偶像崇拝でも、経典でも、座右の名でも、肩書きでも、ブランド物、何でもそうなのだが、そういうものを求める。しかし、それらは僕の考えで言えば「抽象的な考え」と「具体的な例」理論と同じだ。人間は分かりやすかったり、説明しやすいのですぐに具体例で示す。確かに分かりやすいが、自分の思いというのは具体例とは違う。もっと抽象的なのだ。抽象的な思いに本質があるのだ。具体例というのは僕に言わせればブランド物と一緒だ。

僕も、形のあるものを全く求めない人間ではない。形あるものはっきりしたものを求める。しかし、それがすべてではないと思っている。ブッダガヤで今まで僕は何でこんなにも形あるものを求めて、それによりすがってきたのだと思った。この話は誰にもしていないと思うが、僕はブッダガヤにいった。行く前に、釈迦が悟りを開いたところだし、数珠とかお経とかなんか買おうと思っていた。考えるきっかけの思い出として。それも、マハボディ寺院という悟りを開いた菩提樹のあるメインテンプルで。なんか、悟りを開いた寺で買うと「ありがたみ」があるというか、そんな感情を持っていた。しかしだ、実際に行ってみると数珠もなければ、お経もうってない。あーあ、買えないと物足りない感じだった。これは一日目の素直な感想だ。2,3日行って菩提樹の下にすわっていると気がついた。おれは形あるものに頼りすぎていると。それに気がついた時、正直愕然とした。何か自分の今までの人生はなんだったのかと思うくらい。何という安っぽい考えをしていたのか、そんな考えをした人生なんてなんというむなしい人生なのか。衝撃が走った。もともと、ブランド物などに興味のない僕でもそこまでショックを受けた。

目に見える数珠というものを手に入れることのみで満足しようとしていたのだ。それは、何も考えないことにつながる。すぐに手に入って満足して、何も考えなくなってしまう。しかし、そうじゃない。
具体的なものとしての数珠を買うことにより、目に見える思い出を作る。これは、ツアーで観光地まで連れて行かれて、そこを10分でみて、一瞬で忘れる解説を聞いて、写真だけとって返ってくるのと変わらない。ただ、行ったという記録を残すため、そこへ行ったと周りの人に示すためだけに行く。自分の本当の思いと外れている。こんな海外旅行とブッダガヤで数珠を買うことは同じなのだ。

僕は、ブッダガヤで物に頼らないことを知った。自分で考え、自分で感じるそれが大切なんだと思った。しかし、それは目には見えないし、はっきりと一言でいえないかもしれない。そんな不安、それを乗り越える。そこにしかないものがある。

「曖昧なものを曖昧なまま受け入れることの出来る心」コレが出来る心はすごいものだと思う。安っぽい強い心といわれるものよりも、数段と不安だ。しかし、それらを越えたところにこの心があると思う。

で、この共有できるベースを流れる思想は一言では表せない。無常であるし、曖昧なものだ。はっきりと分からないから人間は不安だ。暗闇は物がはっきりと見えないから不安なように。

自分の考えやを一言であらわすなんて不可能だ。そうできないからといって自分がたいしたことないと思うのはおかしい。ただ、文字にしたり、言葉にすることで気づくこともある。そう、吾人の任務を書けばいいのだ。


言いたかったのは、この曖昧なものを曖昧なまま受け入れるそこに意味を感じれるかどうかが人間のベースとなる思想ではなかろうか?「曖昧なものを曖昧なまま受け入れる」ということを少しでも、ある一部分に関しても出来る人は僕と人間のベースとなる思想の共有が出来ているのだろう。


(関係する組織によって、人間のベースとなる思想の共有が出来ない人との関わり方は変わってくる。会社、サークル、クラスメイト、友達、NPO的な活動、旧友など。)

(仏教も昔は偶像崇拝禁止で、お経も釈迦が死ぬまで紙に残されていないらしい、それまでは口頭で説いているだけだったようだ。)

夜回り先生

このエントリーは完全に下書きです。まとまった文章でもなければ、話も飛びまくりです。

教育者というものは、ものすごい仕事だと思っています。世の中にある職業の中で一番大切じゃないかと思うくらいです。特に小学校〜高校までの教師です。前から僕はこう思っていきているわけです。信念をもって本気でやらなければ勤まらない職業だと思っています。答えのない、終わりのないもので、本気で問題に取り組めばと取り組むほど、問題の大きさを感じ、簡単には解決できない地道な努力が必要だと思います。そして、そう取り組む教育者というのは自分の時間も少なくなり、自分の体もオーバーワークでがたが来てしまうのではないかと思います。(僕は何も知らないのに、こんなこということは大変失礼だと思っております。)

ETV特集 「いいもんだよ、生きるって」▽夜回り先生・水谷修の感動の講演会に密着▽薬物乱用・リストカット・援交…眠れぬ子たちの悲鳴と向き合った半生▽「心の闇を越えて」相次ぐ少年少女の事件その背景には一体何が▽ネットいじめに悩む米国▽“群れ遊び”で子どもは変わる▽大人の責任とは

この番組を見て、改めて思いました。この人の言葉には魂がこもっています。この人は本物です。イチローの時も書きましたが、自分で考え、行動し、ある物事に対して思いがある人は、話すと伝わってきます。話すという一連の行動を通して伝わります。まあ、学校の先生が生徒に語りかける口調なので多少オカマくささはあるのですが、そんなことどうでもいいです。含蓄のある言葉ばかりです。ここまでの教育者がいることに感動した。本気で子どものことを考えているなと。こういう人が

この方についてちょっと調べたら、最近学校を辞められたらしい。子どもを思うあまりオーバーワークだし、精神的にもそうとうつらいのだろう。本を書き、ドラマ化され注目を浴びれば講演や相談も増えるし、社会の目もあびる。体にガタがきてしまうだろう。自分に厳しいから体にガタが来てしまうのだろう。そうしたら、救える子どもも救えない。そんなに自分に厳しく、徹底的にならなくてもいいのにとも思う。しかし、もしそうだったら、こういう行動をとる人にはなかったのだろう。非常に難しい問題だ。

人を育てるこれは、相当難しいことだと思う。一人一人違うし、大人の視点から言えば(もちろん、大人以外からも子どもは学んでいます。社会や友達など)、子どもがしていることをすべていっているわけではない、大人の育った環境とは技術進歩、その他社会全体としての大きな思想的流れからしても違っている。大人が育ったことを前提に話しても、子どもには全く通じないことがある。もちろん、育てるということに答えはないし終わりはないし、こういう人間という思い描く人間もそう簡単にはいかない。

死ぬまで育っている、社会では人を育てるという側面の方がメインになるかもしれないが、コレも重要である。組織においても人が重要だから。いくら年をとっても、人から学び育っていく。老人になり介護することもある意味、育てているといってもいいのではないか。もちろん、年下から育てられることも多いにある。


秀才、天才、こころの繊細な人、いわゆる普通の人、ある特定の能力に欠ける人を育てるという分類があるのかと思った。人間なんて分類できないし、一人一人違うというのは分かっています。でも、物事を考えるために、分類訳をします。こういう分類訳をすぐにしてしまう僕は教師には向いていないと思います。って、そんなことはどうでもいいです。

家族的視点、学校、地域社会、これらがベースになると思う。

上記に記した「人の性質別」と「育つ場」の分類でいろいろ考える必要がある。現状の問題を踏まえ、これからどういう社会が訪れるか、作って生きたいか、というのも踏まえて考える必要がある。これについては、また書くときがくるだろう。

先週の木曜日、生物学的視点から人間の発展を話した。UTの助手や博士課程の方々なのでやはり科学的視点というか発想だった。人間が生まれてくることに見る、人の育て方とか、人間の

昨日の夜も面白い話だった。子育てについて、これはどうやって行うべきなのかという話になった。非常に難しい問題であるが、話し好きとしては面白かった。自分で考えたり、敏感に感じ取ることが出来る人と話すのは面白い。

そういえば、2週間ほど前に教職の教育実習に行くといいよといわれた。彼は教職を採っていなかったが、教育実習にいったらしい。彼は、自分の信念をつらぬきとうしたようだ。マニュアルになくても正しいと思ったことをやった。そうしたら、先生からはマニュアルどおりやれと指導を受けたが、盲目的には従わなかったようだ。そうしたら校長のハンコがもらえなかったといっていた。しかし、彼はそれでも納得がいっていた。僕は彼はマニュアルに反抗しようと思ったわけでもないと思うし、彼は常識はずれなことをしたわけでもないと思う。彼はそんな安っぽい人間ではない。しかし、マニュアルどおりには出来なかった。当たり前だ。教員だってマニュアル通りなんかやってない。やっているのは教育実習できている教師になることしか考えなかった学生や、保険として教員免許がほしい学生。そして、こういう人が免許をもらい教員になる。コレじゃダメだ。本当にまずい。