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エネルギーがたまる感じ。
今日、夕方歩いていると、感じた。
エネルギーがたまってきていると。たまに感じるこの感覚。
基本的に、少しの恐怖とワクワクするものがないと満たされない性格。
新しい刺激がないとだめな人間。
で、思ったのはネットは常に新しい情報がある。新たな情報が多いから小さな刺激はたくさんもらうんだが、エネルギーがたまるガス抜きの役割を果たしていそう。だから、ネットがあると意識が分散してしまうのかも。
関係ないが、ある事象によって問題が続いたり、その問題が連鎖したり、長期的なダメージになることは気にするが、一時的な問題のみのことには興味がない。というか、そんなことにうだうだ言うこと事態がめんどくさい。
ライブドアの無線LANを使っているのだが、安定していない。
さらに、窓を開けて窓際に立ってネットをするから限りなく不便だ。
だから、ネットは最低限しかやらない。
ブログも書いた文章が消えるのが嫌で、エディターで書いてからコピペしている。
エントリーミスが起こっても、文章が消えたってことのないように。
すると、ふと気がついた。
エディターだと筆が進まない。
筆が進むという表現はおかしいかもしれないが、タイピングが進まない。
ブログのエントリー画面のあのインターフェイスだから、なぜか文章を書きたくなることに気がついた。
なんで、ブログを書くかといえば、エントリー画面がなにやら書く気持ちを促しているからに他ならない気がした。
エディターのインターフェイスを見ながら書くと、(エディターを使っていたら自然と見てしまうのだが)なにやら書く気が起こらない。
これは、慣れたからなのか、もともとブログのエントリー画面には文章を書きたくなるような要素が詰まっているのか。
考えることは非常に重要だと思う。
考えることによって、無駄を省けたり、意味のないリスクを避けたり出来る。
もちろん、情報を共有することによって新たな視点が加わり、自分の考えとミックスしてさらに面白い考えになることも。
もちろん、メモを取ることも、図にしてみることも、数字を加工することも意味がある。
それを踏まえても、考えること、考え抜くこと、ぐだぐだ考えること、
禅問答。どれも面白いし、大切だと思う。
でも、あえて考えないという覚悟も大切だと思う。
考えることによって、感じるセンスが鈍ることもあると思う。
前々から、何かをするときは、何も考えずまず感じる、そしてメモして、その後考えるように心がけてきた。考える前の脳が感じる直感のすごさを活かすために。
でも、最後まで考えないことがあるのもありなのかもしれない。
俺みたいな、感で生きている人間や、自分の感を信じれる人は。
まあ、これを人と共有しないといけない時にどうするかっていう大問題が。
関係ないが、
納得、覚悟、オモロイ。これは人生の重要な要素だなと思う。
もちろん、運と勢いとノリも。
ミガル、ココロオドル、ファンキーも個人的に重要。
前も書いたかも。
しかし、サスガに書いたかどうか忘れる。
まあ、かぶってもいいので、また書いてみる。
わたくしめ、お金の使い方に特徴があるきがするのでございます。
形の残るものに対してお金を使う時は、シビアになる。
逆に形のないものや形の残らないサービスには割りとお金をゆるい基準で使うきがする。
何でか考えてみる。
形が残ると、後から、ああコレいらなかったなと後悔するかもしれない。
それを防ぐため。
物を持つとゴミが増えるしめんどくさいから。
そもそもブランドものに興味がないので、普通の人より高いものを買わないから、
自分は形が残るものにはシビアだと認識している。
一方で、形の残らないものは、記憶になるので記憶は美化される傾向にあるから、金を使ってしまう。
形の残らないものは経験として、自分にたまる。それがワクワクする。
とりあえず、性格がやってみよう何でも実験ってな感じの性格のようだ。
何かやっていると、無駄にいろいろなことを考えたり、まあ面白いのだ。
なんか、イマイチの文章だ。
情熱大陸と言う番組が大好きだ。
相当初期の頃絡み続けている。回によって人選や表現が全く違うので、いくつかのチームで交代にやっているだろうなーと思っていた。し、ブログにも書いた記憶がある。
で、先日情熱大陸のウェブがリニューアル。プロデューサーからの手紙なるブログが追加された。
今回のエントリーが好きだ。
こうやって、相手にメッセージを送ることが素敵だと思う。
相手に届かないかもしれないんだけれど。
それと、T君というディレクターの回は覚えている。紛争解決人の回にしろ、東大の助教授の話にしろ、町工場のおっさんの話にしろ。言われれば、同じテイストのような気もする。
彼はもう辞めてしまったらしいが、彼の作り出した番組、彼の視点からの人の写し方、彼の人に対する思いってのをもう一度みたいなと思った。
http://jounetsu.cocolog-nifty.com/plusp/2006/02/2_24c7.html
番組の最後には、いつもスタッフロールが流れる。必ずその冒頭に「演出」としてクレジットされるのが、担当したディレクターだ。情熱大陸はひとりの人物を、ひとりのディレクターが取材する。スタッフの誰よりも、ディレクターは取材対象と多くの時間を過ごす。だから番組は、取材対象とディレクターの人間関係を映したものといえなくはない。
T君というディレクターがいる。彼が手がけてきた人物は、バラエティに富む過去のラインナップの中でも特に色合いが変わっている。たとえば、町工場の社長。たとえば、マグロ漁師。たとえば、国際紛争解決人。世の中にこんなすごい人がいるのかと、T君にはいつも教えられる。そして、そういう人たちの胸襟を開かせるその取材力に驚かされる。別にT君が特殊な方法を用いているわけではない。洋服や髪型に頓着しないその風貌は、お世辞にも女性にモテるとはいえない。そして、これは一般的にディレクターとしては致命的なことなのだが、かなりの口下手だ。T君から番組の企画意図や構成プランを説明してもらっても、ほとんど要領を得ない。なのに、町工場の社長は彼のために、企業スパイが泣いて欲しがる門外不出の板金技術を見せてくれた。マグロ漁師はひと月の間、毎日舟に同乗を許し仕掛けの妙を披露してくれた。国際紛争解決人は緊張が続くアフガンで、拳銃を携えた軍閥たちとの交渉に同行を許してくれた。
彼よりも編集や構成が巧みなディレクターはいる。けれど、こんなことは彼だからできた。彼しかできなかったと思う。
常套句でいえば、取材対象のふところにうまく飛び込む、ということなのだろう。たしかにT君は人懐っこい笑顔の持ち主ではある。口下手だけど、その朴訥な語り口からは実直さが伺えたりもする。けれど、そんなことだけで、取材対象の心をつかむことはできないはずだ。
そう確信したのは、T君が、東京大学先端科学研究センターの福島智助教授を取材したときだ。福島先生はバリアフリー研究の第一人者で、彼自身が障害者である。9歳で視力を失い、十八歳のときに聴力を失った。全盲で全聾。いまは、何も見えない。何も聞こえない。取材交渉もインタビューも簡単にはいかない。ディレクターの言葉は、「指点字」という両手の指先を点字タイプライターに見立てた特別なコミュニケーション技術を持つ介護者を通してしか伝えるすべはない。だから、T君が人懐っこい笑顔を浮かべたところで福島先生には意味がない。そのおしゃべりの朴訥さも指点字では翻訳されない。己の存在を福島先生に認識してもらい、やりたいことを分かってもらう困難さは、考えただけで気が遠くなる。でも、福島先生は彼のことを信用してくれた。信頼してくれた。そして、ほとんど受けたことがないというテレビ番組の取材を受けてくれた。
T君はこういった。
「福島先生が立ち向かっている困難に比べれば、どんな苦労もたかがしれてます」
取材テープに、福島先生のマンションの前で帰宅を待つシーンが写っていた。道を歩いている福島先生夫婦。途中、奥さんがT君に気づきそのことを指点字で先生に伝える。すると福島先生がT君の方に微笑みかける。
もう一度いうが、福島先生は目も見えないし、耳も聞こえない。だからT君の外面は知らない。顔も、声も、知らない。なのに、ちゃんとT君がわかる。もてる神経の全てを集中してT君を認識する。そして、内面しか知らない、内面だけを知っている彼の方を向き、笑みを浮かべる。
とても不思議だった。とても嬉しかった。こういう人と人の人間関係がそのまま番組になっているということが。
いま、T君はアメリカにいる。日本を離れ、そしてテレビの世界からも離れてしまった。理由は聞いていない。聞いても、口下手の彼はうまく説明してくれなかったと思う。
元気ですか、T君。いま、どうしていますか、高橋伸征くん。
また、いつか。そして、きっと、また。
嘘発見器って、自分が嘘と認識していないといけないんですよね?たぶん。
何か質問されて、自分が嘘と思って嘘をつくから動揺して、その結果汗かなんかで計測される。
自分が、何か問題とか起こしても心のそこから気づいていなくて、嘘と認識してなかったら「嘘」とでないって事ですよね。
嘘発見器ってそういうもんなんですよね?
要は、「やるかやらないか」これだけなんだ。
メモをとることが重要、タスクのプライオリティをつけるのが重要とかよく言う。
それとか、メモのテクニックとか。
たしかに、これらは「やる」ための、よりやりやすくするための方法だ。
まあ、仕事では効率よくやるために重要なんだけど。
しかし、やってもやらなくてもいいこと。
そんな時はどうか。
プライオリティをつけたからってやるわけでもない。
それが人間だ。
たぶん、そこで「やるかやらないか」は周りの環境要因とかもあるが、人間の何らかの「感」なんだろう。
一方で、社会生活を送ってきている。
ワクワクしなくても絶対やらなきゃいけないことはやってきたから、社会で生きてこれた。
それに、どうしてもやりたいことはこんなこと考えずにやってしまうものだ。
だったら、特に意識しなくてもいいのではって考えもありだと思う。
暇な時はたまにNHK教育で子供番組を見る。普段は見ることがないから、新鮮味があって面白い。UAって歌手が♪真っ赤だな 真っ赤だな〜 ・・・ もみじの葉っぱも真っ赤だな♪って歌ってた。
この番組は何回も見ていたのだが、今日気づいた。俺らのコロはもっといかにもマジメって感じの番組構成だったし、いかにもマジメって感じの歌い方、歌っている人も同じ。服装も髪型も。
テレビってものに対して何かオーソリティを感じる。今の俺はもう何も感じないが、小さい頃と言うのはテレビに出る人は遠く離れた存在と言うかスゴイってイメージがあったと思う。今は生まれた時からインターネットがある子供たちなので、そんなテレビを特別視しないかもしれないんだけど。でも規制とユーザーがコントロールできないという点においてなにか特別なものを感じるんじゃないかな。
そのテレビで奇抜な服装や髪型をしている、癖のある歌い方。それを小さい頃毎日見ていたら、俺らが持つ価値観とはまた別の価値観を持つだろう。なんか自分の中で勝手な規制をつくらないというか、これは常識に反しているとか、勝手に思ってしまうことがないんじゃないかな。で、自由な発想が出来るようになりそう。この世代が大人になったら、すごい面白い価値観で生きてそうだし、いろいろな面白い発想の商品も生まれてくるんだろうな。
それに、いかにもマジメって感じではないという点では昔と違うが、NHK教育の番組はテイストが違うのが多い。昔はいかにもマジメって番組しかなくて、その価値観にしか影響されていない。例えば今はピタゴラスイッチもまたテイストが違う。(対象年齢が違うからかもしれないが)。お母さんといっしょは昔から変わっていない。いろいろなテイストの番組がある。こういった異なったテイストで奇抜と言うか面白い自由な発想に基づいて作られた番組を見ていたら、子供それぞれツボにはまる番組が違うだろうから、本当に多様な価値観で無意識の思考段階で何にも縛られない人間が育つんじゃないかな。
NHK教育って影響力でかいよ。小さな子供に大きな影響を与える点で日本で一番影響力でかい放送局かもよ。大人になってからの価値観への影響はその日と自体を作り上げるし、人々の価値観が社会を作り上げるんだから。
「一を見て十に気づくセンス」「そして、それを言語化して意識的に自分で理解する」
(「他の事象と関連して、それが何の意味を持つのかを考える」「それに基づいて行動できる」)
これがどれだけ出来るかで、能力というか、なんというか、発言にしろ、行動にしろ、頭が切れるかどうかにしろ、判断されるんじゃないかなぁ。
何がいいたいのかと言うと、一つのものを見たとしよう。新しいパソコンでも何でも。なんとなく何だけどパッと見ただけで、使い方が分かる。同じ一言を聞いてもその背景を感じ取れるかどうか、知らない道具を渡されて、どうやって使うか。何の道具か。どうやって試すか。試さずに放置しておくか。すぐに人に聞くか。いろいろな人がいると思う。
ここで、言いたいのは何人かの人がいて、ある同じものしか見ていない、同じものしか使っていない。しかし、そこから何を掴み取ったかという差が大きすぎるのではないか。一を見ていかにたくさんのことに気づくことが出来るか。これは、生きていて何をするにしても大切になってくる。まさに、こういう人がセンスがいいとか、能力が高いとか、言っていいのではないか。意識的に探そうとか思わなくても、一から十を気づくような習慣になっているのだと思う。
それは、どんな意味を持ってくるのか。
頭を意識的に働かさなくても、気づいている。
これは同時に脳の中で無意識のプログラムがいくつ動いているかによる。これは以前のブログのエントリーで書いた記憶が。月の見える話と、脳の常駐ソフト理論といって。
さらに、何か大きな変化が起こる前に、自然に次のことを行ったらどんなことが起こるかを考えてしまっている。それがたいそうなことなのだと。
じゃあ、どうすれば「一を見て十に気づくセンス」が身につくか。それは、様々なことを経験する、身をもって感じること。それをする前に、脳でシュミレーションしてあらかじめ考えておく、
相手の立場や作った人の立場、人間の無意識の行動を踏まえて、モノを捉える習慣。
そして、シュミレーションしたのと、実際に経験した時の違いや一致点を比べる。一目見たら、あまり価値のないことでも、好奇心をもってなんでも知ろうとしてしまうような性格も大きな意味を持ってくるのだろう。昔知ったり経験したことが思いもよらぬところでつながってくることが良くあるから。
前にも書いたことあると思うが、自分のブログに書く文章と相手に書く文章は言葉が全く違う。相手がいて書く文章では、普段自分のメモ(ブログ)で書くときには浮かんでくることが絶対ないような言葉が出てくる。
不思議なもんだ。特に、気の利いたコメントをかましてみようとか、写真に対するコメントは面白い単語とか面白い文が生まれてくることがある。自分のメモだけでなく、相手へのコメントや友達に文章を書くのもいいかもしれない。
mixiに書く文章は必然的にコメントを期待する文章を書く。人それぞれがどういった反応を示すかが分かるから。こっちのブログは完全に大量の文で思ったことをメモするものになっている。意識的にそうしたわけではないが、いつの間にかそうなっていて、はたと気づく。
普通の生活をしていたら自動車屋なんて行くことはない。
そんな自動車屋に行ってきた。銀座にある日産の本社。決して、車を買うとかって目的ではないのだけれど。ただ、日産が提供しているフジテレビのニューデザインパラダイスという番組の展示がやっていたから。
展示のために行ったが、車がおいてあれば車も目に入り、いろいろ見るわけだ。すると、最近の車とか自動車のショールームはこうなんだってのが分かる。車椅子が乗せれるバンが目立つところに展示してあったり(本社だからかも)、店内の作りも高級感あふれるものになっている。もちろん、自動車自体も観察。小さいころに行ったことある自動車屋のイメージとはすっかり変わっていた。へー、へー、って思うことが多かった。
こういった偶然の出会いは面白いなー。
あまり訪れることのないところにもヒョイッと出向くのもいいかもしれない。
ふたご座流星群のピークだった。家に帰るとき夜空を見ながら歩いていた。
すると、家の近くで仕事帰りのサラリーマン風の人とすれ違う。
彼はポータブルゲーム(PSP)と熱心に向かい合っていた。
そんな時、ふと思った。
自然を知らない、自然を肌で感じていないということは、
自分でコントロールできないものがあると知らないこと。なんだろうなぁって。
流れ星なんて、いつ流れるか分からない。ただその時が来るのを待つだけ。
自然にすべてをゆだねている。自分ではどうしようもない。
ただ空を見上げることしか出来ないのだから。
でも、ゲームはボタンを押せばその通りに動く。自分の意思ですべてコントロールできる世界だ。
自然の世界と人口の世界の違いはその違いなんだろう。
どちらを好むかは個人の自由であろう。
ゲームにしても電化製品も自分であやつれる。
そういうものが増えてきている気がする。それが知識をつけた、社会の仕組みを知った社会ということなんだろうから。自分の意思で動いたほうがラクなのかもしれない。
でも、すべてを自分の意思でコントロールできるはずがない。
自分ではどうしようもないことが世界にはたくさん転がっている。
夜道を歩きながらそんなことを思った。
バックアップってのは重要って言われる。とくに、この時代はデジタルデータのバックアップは簡単だからやったほうがいいと思う。それに、情報がスゴイ価値を持っているから。
でも、バックアップってめんどくさくてしていないことが多い。さらに、盲目的にバックアップすることが多いと思う。盲目的と言うのは、自動でバックアップさせたり、手動でもバックアップの中身をチェックしていなかったり。
俺もあるデータのバックアップはしていたが、中身までチェックしていなかった。。。バックアップしてあるからいいやという軽い気持ちだった。しかし、バックアップデータが必要になり見たら、バックアップできてない。ああ、ショック。たいしたデータじゃないから問題ってわけでもないんだけど。
そのバックアップ自体もチェックしないといけないんだよなと痛切に感じたなー。
スペイン語はなんかいい。これまで、言語にたいしてあまり良い印象がなかったがスペイン語は何かいい。モーターサイクルダイアリーズ(スペイン語音声、日本語字幕)を見ていて、スペイン語が耳に入ってきて理解できる単語もあった。それで気づいたというか、思い出した。
何でかって考えると、新たなもの(言語)との最初の出会いが重要だったんだろうなと思う。
スペイン語にはじめてであったのは、一人でスペインを旅したとき。自分がガウディの作品を見たくて、行きたくて行った国。そこではじめて触れた。まあ、その時に行きたい国で悩んだのは、スペインとメキシコ。どっちにしろスペイン語圏だったのだ。スペイン旅行の前に、大学でスペイン語をやっていた友達に、5,6個会話を教えてもらった。そして、スペインへ。実際スペインでは「オーラ」しか言ってなかった気がする。
そして、ずっとスペイン語と触れる機会はなかったのだが、今年の夏南米へ。南米に行った子とある友達からは、スペイン語以外全く通じないからといわれた。スペイン語が話せると南米旅行は何倍も楽しくなると。そこで、南米に行く前にホントCDで少し勉強して言った。数字はほぼ問題なくしていった。すると、楽しい。さらに、旅をして2週間ぐらいたった時に、スペイン語を毎朝勉強している人にあった。そして、彼はスペイン語が話せるかのように現地人と会話していた。それを見て、おれもと思い、小さいノートに単語と意味をメモして、それを使った。すると、通じる。面白い。さらに、メモする。さらに話せる、面白い。単純な話だ。
今思うと、やっぱり勉強の始め方って重要な気がする。どうやってその言語と最初に触れ合ったか。それによって違うんだろうな。一番最初に楽しく触れ合ったってのが重要。子供の教育も同じなんだなと、自ら実感したところでした。あと、その勉強過程でも知らない文化の意思疎通が出来たりって目に見える効果がすぐにでると、勉強もさらに楽しくなる。ああ、当たり前だけどこう実感するのはいいね。
過程での楽しみ(効果)ってのはよく言われる「小さな成功(報酬)」って奴だな。
自分の意識でコントロール可能な感覚器とそうでない感覚器がある。
視・聴・嗅・味・触覚。
視覚、味覚これは自分の意識でストップできる。目を閉じるということで。口を閉じるということで。
触覚は基本的にさえぎることが出来ないと思う。
一方、嗅覚と聴覚はその器官自体ではなく、自分の意思によって他の器官を使うことによってストップできる。すなわち、手で鼻を耳を押さえればストップできると。
そもそも、人間の感覚が五感だけかどうかは知らないが、五感の中で自分でストップできるものとそうでないもの、また手でストップできるものなんでこんな差があるんだろう。その、機能によって何か理由があるのかな。まあ、理由なんて後付けかもしれないけど、結果的に意識でストップできないか出来るかによって、どんな違いが出来たりしたんだろう。
素朴な疑問。
プールや海に入ると体がだるくなるとか疲れるとか眠たくなるとかいうじゃないですか。自分の経験上もそんな気がします。
でも、お風呂って疲れが取れてリラックスできるって言うじゃないですか。風呂とプールって基本的に水温の違いですよね。冷たいと体が疲れて、暖かいと疲れない。なんか不思議だ。どうしてなんだろう。
それに、温度がどれぐらいから疲れが取れるようになるのだろう。体温ぐらいが境なんだろうか。気になるところ。温度を一度筒づつとか上げて実験した人いないかな。
いつの間にか何かをしてしまっている。
何かをせずにはいられない。
究極のことって、いつの間にか上のような状態に自分がなっているんだと思う。
絵であろうと、商売であろうと、旅であろうと、仕事でも、なんでも。
なんか体の奥からあふれ出すような、湧き出てくるような気持ちによって突き動かされること。
卵って料理で出てくると、存在感があると思う。なんか、他の食材よりも上に見られる傾向にあると思う。おでんとかでも、卵のランクって高いと思う。それは、丸いままの卵の状態だから。今日、昼飯を食べていて卵があってそう思った。
なんで、卵をそんな価値のある物というか、たいそうな物として扱うのか。1個15円ぐらいのものに。まだ、卵が高かった頃の名残なのだろうか。
で、この卵、同じ卵でも形状によってランクというか価値が全く違うみたいだ。形状と言うか状態かな。生卵の殻つき、ゆで卵、目玉焼き、卵焼き、スクランブルエッグとか卵どんぶりなど。いろいろな卵料理がある。
卵の丸い形のままが一番価値が高い気がする。一塊になっていて、目立つし、存在感があるからかな。スクランブルエッグとか卵丼のように、ばらばらに分散すると一塊ではない。一口で食べるということが出来なくなる。だから、どこを食べても卵が口に入る。だから、価値が低い気がする。
まあ、卵は丸い状態が一番価値があるのかなぁと思っただけです。
相変わらず、変なことを言い残して日本を去ります。
遊びって何だ。
だいぶ前に、東京の人は何して遊んでいるのかとたずねられた。まあ、東京の人って意識はないんだけど。それは置いておくとしても、はてさて、遊びって何だ?俺って、遊んだのっていつだっけ。ずっと昔、それともいつも。
東京から歩いたのも遊びか?南米に行ったのも遊びか?自分の中では遊びと言う感覚ではなかった。
娯楽=遊びって自分の中ではなっているのだろう。でも、もっと広義に捉えてみれば、僕の人生はすべて遊びのような気がする。
まあ、遊びってみんなどう捉えているのだろう。
共感覚という言葉が分からなくて、調べた。すると舌で味わうと指先に形を感じる。そんなような現象が起こることを共感覚というらしい。これは五感のどの感覚とどの感覚が結びついてしまうかは人によって異なるみたいで、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の二つ同士で一方向に発生する組み合わせが考えられるが、視覚と聴覚の結びつく例が多いらしい。
これは何に対しても常に起こるものだろうか?もしそうだったら僕は違うが、たまに視覚と聴覚がつながる時とかある。
共感覚の世界
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20020325306.html
脳の構造と共感覚および意識
http://www.ccad.sccs.chukyo-u.ac.jp/~mito/yamada/chap2/
http://www.bbc.co.uk/sn/tvradio/programmes/horizon/derek_prog_summary.shtml
そこに生まれた偶然性、というか必然性は絶対に逃れることの出来ない、大前提である。
外国に対して、何かをすること、僕はこれをやりたくなる気持ちは分かる。飯を食えずに死んでいく人がたくさんいる。それは救いたい。と純粋に思う。しかし、他国の人が入っていってがやがややることではないと思う。
その国で生まれたという偶然性は何物にも変えがたいことで、そこに生まれた人がそこの土地に住み問題と直面し、時には解決の方向に向かい、時には悪化していく。
外国は完全に放置で良いのかといわれると、秩序が崩壊してしまう可能性があるかもしれない。でも、その国の分け方から違っていたんだと思う。
だから、旅も出来るだけ現地の人の生活の通りにするべきだと思う。西洋人は自分たちの生活スタイルをどんな国に行っても変えない人が多い。パンにコーヒーなどを持ち込む。でも、違うと思う。
普通に話していて信じれる人と信じれない人がいる。
実際に嘘をついていれば信じれないのだが、真実を話していても嘘に聞こえてくる人がいる。
なんか、地に足が着いている人の話はじっくりきいて、いつもふむふむとついうなずいてしまう。
実感のこもった話、事実の体験に基づいた話はなんとなく分かる。
何で夢を忘れてしまうのか?ここで言う夢とは夜寝ている時に見る夢です。
夢は起きているときに何かを脳でイメージする時よりも僕の場合は鮮明です。カラーだったり。そんなより鮮明な夢なのにすぐ忘れてしまう。起きているときに想像したものはそこまで鮮明でなかったりするのに、覚えている。過去に見た景色を思い出す時も夢より鮮明によみがえってくる事はない。でも過去に見た景色のほうが覚えている。
夢は夜中に何回も見ているけど、まあ覚えていたとしても最後に見た夢だけだという。
鮮明と言うことは強い刺激があり、脳に強く刻まれる気がするのだが。ということは強く記憶に残っても良いと思うのだが。勘違いしているだけで、実は鮮明でないとか。でも、起きているときの想像(イマジネーション)も脳の中で作り出されたイメージだしな。
イメージする場所と記憶する脳の場所が違うからってことなのかな。じゃあ、記憶ってのはどんな要素によって記憶されるかどうかって決まるんだろう。
科学への疑問というよりも、盲目的に科学的であるということに対して支持することはおかしいんじゃないかと。
科学、科学と言うけれど、科学をベースに科学を信じて考えているけれど、科学のなにをしって科学をベースに考えているのか?
科学ってものを何も知らないのに、科学的であることを信じるのはおかしいのではないかと。
科学的であることは嘘だとかそういうことではなくってね。
スーパーへ行く時、月が明るかった。
月を見たとき、ラグーナコロラダで見た月を思い出した。あの満月を。
夕日を見たとき、ジブラルタル海峡に沈む夕日を思い出す。
日の出を見たとき、富士山で見た日の出を思い出す。
それらがだいたい、一番最初によみがえってくる記憶だ。
月を見ながら、ああ、同じ月かと思った。月に吸い寄せられ、月のみに意識が行った。そして、あの時に僕はいた。
スーパーの帰り、空を見上げるとオレンジ色に輝く星が一つだけ見えた。南米で見たときも一際目立っていた、あいつだ。その横にもう一つ明るい星があったが、今日ここでは見えなかった。
本当は無数に見ることが出来る星。ガラパゴスなんてその最たるものだった。何光年と言う想像を絶する遠さから地球まで届く光。それほどの輝きを持った光が、街中の弱弱しい光によって見えなくなる。なんかすごい残念だな。
もちろん、生活していくうえで電気ガス水道が重要なのは知っています。何度もそれらがない生活を経験したので。電気を消せとか行っているのではなく、(それなら自分がどっかの人里はなれたところにすめばいいので)なんか、寂しいなと思う気持ちがあった。それと、すごい力を持った物でも、近くにある本当に小さなものによって、ないものと同じにされてしまうということを実感した。こういった類のことは普段の生活でもありえることなんだろうな。
先日、衆議院が解散された。解散されると普通、議員がバンザーイという。しかし、今回はバンザーイというのかどうかと、解散前から少しだけ話題になっていた。
実際、バンザーイと解散されてみんな言ったのだが、そのバンザーイが情けない。政治家の情けなさをあらわしていたように思う。周りがバンザーイというのかを伺って、少しの人がバンザーイといったから後から続いて、多くの人がバンザーイと続いていった。
政治家たるもの、自分の意思で決めるべきだ。回りがバンザーイといったから自分もバンザーイと言うというのは論外だ。自分が言うと決めたら言えばいいのであって、周りが言ったらバンザーイと言うなら、その政治家は存在意義がない。
これは、バンザーイと言うことだけでなく政治家すべての行動に現れるのだと思う。
些細なことから、なんか無理やり意味を見出すのが趣味です。
僕は物にあたったりとか、そういう破壊衝動はないと思う。
でも、目に見えないものを破壊したい欲求は強いと思う。古臭い制度であるとか、つまらない考え方とか、自分の固定概念とか、損なようなものは破壊したい。
それがあるから、海外へ行くのだし、今までの自分の人生とは関係のないところに行って、今までの自分の常識を壊しに行くのだろう。
緑内障のくすりでありながら、利尿作用があることから高山病の薬としても使われるダイアモックスを7錠処方してもらった。国内では処方箋がないと買えない。というか、病気になってから処方する薬は普通に買えるが、病気になる前の予防のための薬、すなわち予防薬は基本的に処方してもらえない。だから、はじめ大学の医務室に行って事情を話したが処方できないといわれ、紹介された病院へ電話をしたが、午前11時までしかやっていなかったり、大病院で待ち時間とかあって不便だった。それで、ネットで調べていたら、ダイアモックスを処方できる病院リストがあった。そこに、家から近いところがあったので、電話をしたら救急の担当の医者しか出せなくて、その医者がいないと処方できないとかめんどくさいことを言われた。めんどくさいなと思って、次に近かった三信ビルクリニックという有楽町の病院に電話をする。すると、電話を取った受付の人もダイアモックスのことを知っているらしく、話がスムーズに進んだ。そして、病院に来て医者に事情を話せばすぐ処方すると言われた。じゃあ、ということで、すぐに病院へ行った。すごい小さい病院で待ち時間もなく、かつ医者も高山病の予防薬の処方が慣れているらしく、もの分かりがよい。さらに、ペルーでは処方なしでも買えるといったら、はじめの1週間だけ出して、あとは現地で買ってもいいよって言われたし。良かった。富士山の経験から高山病の薬を買ったが、まあこれは気休めのようなものだから、もっているだけで安心なのだ。一錠500円 250mgで一回半分にして飲む。12時間きっかりしか持たないとのこと。
ついでに、夜はエクアドルとペルーに行った友達からいろいろ話を聞いた。彼はチュニジアとかとドーハに行くといっていた。なんか、サハラ砂漠がメインだとか。今回もエクアドルとペルーのよい情報がゲットできた。国際バスに乗ると、エクアドル・ペルーの国境越えの手続きがみんな一緒にやるから楽だとか、キトとリマはつまらないとか、一食1ドルで食べられるとか、ガラパゴスはやっぱりすごいとか。
で、予防薬って何で出せないんだ?おかしいだろ?ということについて。高山病の予防薬を買おうとして思った。日本では予防薬は基本的に処方できない。なぜなら、必要ないのに薬を処方して、間違って(故意も含め)服用して副作用でたらまずいというような類のことだろう。しかし、これは自分の責任で防ぐことができる。しかし、近い将来にほぼ確実に発生する病気がある、その病気を防ぐためには事前に薬があればOK。しかし、予防薬は出せないからという理由で薬を入手できなかったとする。すると、くすりさえあれば防げた病気を防げない。これは自分の意思で防ごうと思ってもどうしようもできない。予防薬さえあれば病気にならなくてすんだのに。という事態になりかねない。処方して間違って飲むのは個人の責任、しかし、処方されなくて防げた病気を防げないのは個人の問題ではない。医療制度の問題だ。まとめてしまえば、予防薬をもっと簡単にだせということだな。
脳で更新されてないと思っている記憶も更新されている 時間軸で更新されてる 何も意識しないで生きてても昔の記憶はどんどん昔のこととして脳で判定されてる 全ての記憶と時間軸の関係がきになる 思い出せない記憶ともからみそう
スペースシャトル。
この打ち上げが見たい。僕の趣向が分かっている人なら、ああ、って分かるかもしれないが、まさに、ああいうものを見たい、感じたい。スペースシャトルが発射するときの轟音。煙、振動、想像するだけで、心の奥底からぞくぞくしてくる。
なんだろう、何か極限のような気がする、そんなものに夢まで乗っているような。
昔、宇宙飛行士にマジでなりたかったんだよな。何だろう、あのゾクゾク感。ワクワク感というより身震い一歩手前のゾクゾク感。
何度延期されても、しぶとく見ます。この前は4時に起きたら延期で寂しかったけど。それと絶対に絶対に生でスペースシャトルの打ち上げを見たいな。夜とかだとベストかも。
なんか、脳が反転するような考え方のベースが覆るようなものに出会いたいと最近思う。今まで生きてきて、そのようなことは何度かあった。
一人で海外に行ったりとかして、何でもできるじゃんと思った経験とか、自分の考えってのは客観的といっても自分の主観でしかないんじゃないかと気づいた時とか。マスコミとか偉いとされている人の言っていることは嘘が多かったりとか、そんなことを知ったとき。これらはたいしたことないように思うかもしれないけど、何か行動する時とか、判断する時すべてのベースになっている考えだ。だから、大きな影響なのだ。
それは何かしらの経験でも、自分の頭で考えて気づいたこと、誰か人に会ってかも、本を読んでかも、旅でも、芸術作品でも、修行でも、電車に乗っているような日常でも、友達と飯食って話している時でも。何によってかは分からないが。
なんか、そんなものを今求めている気がする。自分の今の考えがぶっ潰されて根底から変わってしまうのを望んでいるような。しかし、ビビリな人間だからそんなような出来事に出会っても、守りに入ってしまい徐々にしか脳が反転しないということがありそうだ。
たぶん、周りから見たら何も変わっていないんだろうけど、自分だけ分かる。それも、瞬間で感じるんじゃなくて、ふっと気がつくと。
当たり前なんだけど、ずーっと不思議なこと。違和感のあることがある。
友達数人と一緒に話していたとする。その友達は、家に帰る。ばらばらになる。しかし、また何日かたったら同じところにいる。これが不思議でならない。当たり前すぎるのだが、これがなんか違和感というか、そんな感じ。もっと極論を言えば、なんか有名な人が自分の近くにいて、話していたとする。その人がテレビに出ていたりした時に感じる感覚。そして、また一緒にいる、その感覚かな。
もう少し言うと、今一緒に話していた友達が、一人はチベットへ行き、一人はアフリカへ。そして、また一緒のところに戻って話していることも似ている。
共有している時間はひとつしかないものであるように感じるのだが、ばらばらになった時に時間がパラレルであるという感覚を覚え、また時間は唯一のものという感覚を覚えるのが不思議なんだと思う。結局のところ自分の意識外での時間の流れというものが不思議というか、信じれないというか、つかみきれていないというか、果たして。。。
そもそも時間って言うよりも、空間の認知の問題といってもいいのかもなー。自分の存在していない空間が本質的にあるのかどうかって話とかもあるしな。
ワクワクするものを共有できる人、この人としか友達になれないんだろう。
人それぞれワクワクするものがたくさんあって、そのどっかに引っかかれば一緒にいて楽しめるということだ。
なんか、悲しさを共有できるだけでは仲良くなれる気がしないし。
とりあえず、なんであれワクワクする対象が重なるってことが重要な気がした。感覚的に。
なんでいつも思いついたことをメモするかというと、簡単に言えばメモ代わり。後から自分で読むと、ああ、これってこう考えればいいジャンとか。なんか困った時に解決材料になるから。まあ、これは僕以外の人には僕と同じ価値はないわけで。これは僕の脳から生まれてきたものだからこそ、僕が後から読むと価値を持ってくるわけで。
僕以外の人が読んだ時の価値とは全く違うと思うのです。はい。
電車の券売機にお金を食われる経験をしたことがある人も多いだろう。
今回もそんなことが起きた。そんなんで金を損するのは癪に障るので呼び出しボタンで、駅員を呼び出した。
そもそも、人間よりも機械のほうが信頼されている。正しいとされている。確かに人間の脳は本来不確かさを持っているらしいから、失敗をしないという前提で作られた機械が信頼されるのは仕方ないのかもしれない。だが、機械が常に正常に動作するとも限らない。俺は確実に210円を券売機に入れた。そうしたら、110円としか出ない。ふざけるなと思って、駅員を呼ぶ。そして取り消しを押したら100円しか出てこない。110円と表示されているのに100円しか出てこない。この時点で故障している。しかし、駅員はそれを認めない。バカだ。マジでバカだ。ふざけるな。俺が絶対入れたと言い張ったら、今日の営業が終わってから実際の金額と、機械が認識した金の額を比べて110円多かったら、110円返すといった。そして、電話するといった。
案の定電話があって、110円返してもらったのだが、あるいみ機械は犯罪者なんだけど、なにも責任を取らない。機械は俺の金を盗んだのだ。しかし、機械のほうが正しいと言い張る。ある意味嘘もついている。人の金を盗んで、盗んでいないとうそをつく。しかし機械だから何もお咎めなし。機械が犯罪する時代なんだな。
人間は他者に対してプラスのパワーの方が強い。これは精神面に与える影響のことです。何かっていうと、ある人が何かを成し遂げた。それはイチローの最多安打でも、野茂の200勝でも、高橋尚子の金メダルでも、サッカーでも、まあ、スポーツに限らない。田中さんのノーベル賞でも、べつにもっと身近な家族の話でもなんでもいい。こうやって何かを成し遂げた人がいると感動する。感動すると一言で言ってしまえば安っぽいが、心に響くものがある。
何でこう思ったかというと、長島さんが帰ってきて本当に喜んでいる人がいた。たくさんのおっさんたちが、長嶋茂雄という人物が帰ってきたことに心のそこから喜んでいるようにテレビを見ながら思った。スポーツを通して感動を与えることができるんだな、もっといえば彼は現在は現役ではない。たった一人の人間がこれだけ多くの人にパワーを与えられるのが人間なんだなと思った。昔、僕は長島さんの何がすごくてみんなが持ち上げるのか分からないと言い放っていた。確かに、今でもその部分はある。しかし、一方で長島さんによってあれだけパワーをもらっている人がいるという事実があるのだ。今の僕にはそちらのほうが重要だ。
なんか、言葉じゃなくて、人の生き様とか行動によって受ける感動とか感じるものってのは本当に強いものだ。言葉でも確かに感動するし、衝撃を受けるが、なんか言葉を超えたもの。ある意味、詩とかもそう思う。あれは小説などと違って短い。だから瞬間のチカラがものすごい。写真にしろ絵にしろ、瞬間の力が強いと思う。小説とか映画とかすばらしいものはたくさんあるけど、瞬間のチカラというのは弱いと思う。その瞬間のチカラを長島さんという存在が持っているのだと思う。同様に美空ひばりさんに対して、なぜあんなにも持ち上げられるのか分からなかった。けど、同じなんだと思う。
人間は他者に対して、プラスのパワー、感動させたり勇気付けたりする力が強いと思う。伝わりやすいのかもしれないし、マイナスよりもプラスのパワーのほうが感じ取りやすいのかもしれない。それは分からないが、人間が他者に与える影響がプラスのものとマイナスのものがあるとしたら、プラスのほうが圧倒的に強いと思う。
なんか、ある人がショックを受けているすると回りも心配になりちょっと落ち込むかもしれない。しかし、それが回りに与える影響と、ある人が何かを成し遂げた時に周りに与える影響は大きさが違うと思うんだな。何でかわからないけど。(これは、僕が楽観主義過ぎて、自分だけがプラスの影響ばかり感じているから、社会の見方が偏っているだけかもしれないのだけれど。)
こういう言い方をすると、勘違いされるかもしれないが長島さんが病気になられた時にショックを受けて元気がなくなった日本中の総計と、長島さんが復活して元気をもらった人の総計を取ったら後者のほうが圧倒的に大きい気がするんだよな。
人間ってなんて伝染しやすいのかな。