May 2006 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

May 01, 2006

エネルギーがたまる感じ。

エネルギーがたまる感じ。

今日、夕方歩いていると、感じた。
エネルギーがたまってきていると。たまに感じるこの感覚。

基本的に、少しの恐怖とワクワクするものがないと満たされない性格。
新しい刺激がないとだめな人間。

で、思ったのはネットは常に新しい情報がある。新たな情報が多いから小さな刺激はたくさんもらうんだが、エネルギーがたまるガス抜きの役割を果たしていそう。だから、ネットがあると意識が分散してしまうのかも。

関係ないが、ある事象によって問題が続いたり、その問題が連鎖したり、長期的なダメージになることは気にするが、一時的な問題のみのことには興味がない。というか、そんなことにうだうだ言うこと事態がめんどくさい。

April 15, 2006

慣れたもの。書きたい気持ちにさせるもの

ライブドアの無線LANを使っているのだが、安定していない。
さらに、窓を開けて窓際に立ってネットをするから限りなく不便だ。

だから、ネットは最低限しかやらない。
ブログも書いた文章が消えるのが嫌で、エディターで書いてからコピペしている。
エントリーミスが起こっても、文章が消えたってことのないように。

すると、ふと気がついた。
エディターだと筆が進まない。
筆が進むという表現はおかしいかもしれないが、タイピングが進まない。

ブログのエントリー画面のあのインターフェイスだから、なぜか文章を書きたくなることに気がついた。
なんで、ブログを書くかといえば、エントリー画面がなにやら書く気持ちを促しているからに他ならない気がした。

エディターのインターフェイスを見ながら書くと、(エディターを使っていたら自然と見てしまうのだが)なにやら書く気が起こらない。

これは、慣れたからなのか、もともとブログのエントリー画面には文章を書きたくなるような要素が詰まっているのか。


April 14, 2006

あえて考えないということ

考えることは非常に重要だと思う。
考えることによって、無駄を省けたり、意味のないリスクを避けたり出来る。

もちろん、情報を共有することによって新たな視点が加わり、自分の考えとミックスしてさらに面白い考えになることも。

もちろん、メモを取ることも、図にしてみることも、数字を加工することも意味がある。

それを踏まえても、考えること、考え抜くこと、ぐだぐだ考えること、
禅問答。どれも面白いし、大切だと思う。

でも、あえて考えないという覚悟も大切だと思う。
考えることによって、感じるセンスが鈍ることもあると思う。

前々から、何かをするときは、何も考えずまず感じる、そしてメモして、その後考えるように心がけてきた。考える前の脳が感じる直感のすごさを活かすために。

でも、最後まで考えないことがあるのもありなのかもしれない。
俺みたいな、感で生きている人間や、自分の感を信じれる人は。

まあ、これを人と共有しないといけない時にどうするかっていう大問題が。


関係ないが、
納得、覚悟、オモロイ。これは人生の重要な要素だなと思う。
もちろん、運と勢いとノリも。

ミガル、ココロオドル、ファンキーも個人的に重要。

形ないものに金を使うこと

前も書いたかも。
しかし、サスガに書いたかどうか忘れる。

まあ、かぶってもいいので、また書いてみる。
わたくしめ、お金の使い方に特徴があるきがするのでございます。

形の残るものに対してお金を使う時は、シビアになる。
逆に形のないものや形の残らないサービスには割りとお金をゆるい基準で使うきがする。

何でか考えてみる。

形が残ると、後から、ああコレいらなかったなと後悔するかもしれない。
それを防ぐため。

物を持つとゴミが増えるしめんどくさいから。

そもそもブランドものに興味がないので、普通の人より高いものを買わないから、
自分は形が残るものにはシビアだと認識している。

一方で、形の残らないものは、記憶になるので記憶は美化される傾向にあるから、金を使ってしまう。
形の残らないものは経験として、自分にたまる。それがワクワクする。

とりあえず、性格がやってみよう何でも実験ってな感じの性格のようだ。
何かやっていると、無駄にいろいろなことを考えたり、まあ面白いのだ。

なんか、イマイチの文章だ。


February 25, 2006

情熱大陸

情熱大陸と言う番組が大好きだ。
相当初期の頃絡み続けている。回によって人選や表現が全く違うので、いくつかのチームで交代にやっているだろうなーと思っていた。し、ブログにも書いた記憶がある。
で、先日情熱大陸のウェブがリニューアル。プロデューサーからの手紙なるブログが追加された。

今回のエントリーが好きだ。
こうやって、相手にメッセージを送ることが素敵だと思う。
相手に届かないかもしれないんだけれど。

それと、T君というディレクターの回は覚えている。紛争解決人の回にしろ、東大の助教授の話にしろ、町工場のおっさんの話にしろ。言われれば、同じテイストのような気もする。

彼はもう辞めてしまったらしいが、彼の作り出した番組、彼の視点からの人の写し方、彼の人に対する思いってのをもう一度みたいなと思った。


http://jounetsu.cocolog-nifty.com/plusp/2006/02/2_24c7.html
番組の最後には、いつもスタッフロールが流れる。必ずその冒頭に「演出」としてクレジットされるのが、担当したディレクターだ。情熱大陸はひとりの人物を、ひとりのディレクターが取材する。スタッフの誰よりも、ディレクターは取材対象と多くの時間を過ごす。だから番組は、取材対象とディレクターの人間関係を映したものといえなくはない。

 T君というディレクターがいる。彼が手がけてきた人物は、バラエティに富む過去のラインナップの中でも特に色合いが変わっている。たとえば、町工場の社長。たとえば、マグロ漁師。たとえば、国際紛争解決人。世の中にこんなすごい人がいるのかと、T君にはいつも教えられる。そして、そういう人たちの胸襟を開かせるその取材力に驚かされる。別にT君が特殊な方法を用いているわけではない。洋服や髪型に頓着しないその風貌は、お世辞にも女性にモテるとはいえない。そして、これは一般的にディレクターとしては致命的なことなのだが、かなりの口下手だ。T君から番組の企画意図や構成プランを説明してもらっても、ほとんど要領を得ない。なのに、町工場の社長は彼のために、企業スパイが泣いて欲しがる門外不出の板金技術を見せてくれた。マグロ漁師はひと月の間、毎日舟に同乗を許し仕掛けの妙を披露してくれた。国際紛争解決人は緊張が続くアフガンで、拳銃を携えた軍閥たちとの交渉に同行を許してくれた。

 彼よりも編集や構成が巧みなディレクターはいる。けれど、こんなことは彼だからできた。彼しかできなかったと思う。

 常套句でいえば、取材対象のふところにうまく飛び込む、ということなのだろう。たしかにT君は人懐っこい笑顔の持ち主ではある。口下手だけど、その朴訥な語り口からは実直さが伺えたりもする。けれど、そんなことだけで、取材対象の心をつかむことはできないはずだ。 

 そう確信したのは、T君が、東京大学先端科学研究センターの福島智助教授を取材したときだ。福島先生はバリアフリー研究の第一人者で、彼自身が障害者である。9歳で視力を失い、十八歳のときに聴力を失った。全盲で全聾。いまは、何も見えない。何も聞こえない。取材交渉もインタビューも簡単にはいかない。ディレクターの言葉は、「指点字」という両手の指先を点字タイプライターに見立てた特別なコミュニケーション技術を持つ介護者を通してしか伝えるすべはない。だから、T君が人懐っこい笑顔を浮かべたところで福島先生には意味がない。そのおしゃべりの朴訥さも指点字では翻訳されない。己の存在を福島先生に認識してもらい、やりたいことを分かってもらう困難さは、考えただけで気が遠くなる。でも、福島先生は彼のことを信用してくれた。信頼してくれた。そして、ほとんど受けたことがないというテレビ番組の取材を受けてくれた。

 T君はこういった。
「福島先生が立ち向かっている困難に比べれば、どんな苦労もたかがしれてます」

 取材テープに、福島先生のマンションの前で帰宅を待つシーンが写っていた。道を歩いている福島先生夫婦。途中、奥さんがT君に気づきそのことを指点字で先生に伝える。すると福島先生がT君の方に微笑みかける。 

 もう一度いうが、福島先生は目も見えないし、耳も聞こえない。だからT君の外面は知らない。顔も、声も、知らない。なのに、ちゃんとT君がわかる。もてる神経の全てを集中してT君を認識する。そして、内面しか知らない、内面だけを知っている彼の方を向き、笑みを浮かべる。

 とても不思議だった。とても嬉しかった。こういう人と人の人間関係がそのまま番組になっているということが。


 いま、T君はアメリカにいる。日本を離れ、そしてテレビの世界からも離れてしまった。理由は聞いていない。聞いても、口下手の彼はうまく説明してくれなかったと思う。

 元気ですか、T君。いま、どうしていますか、高橋伸征くん。

 また、いつか。そして、きっと、また。

February 02, 2006

嘘発見器

嘘発見器って、自分が嘘と認識していないといけないんですよね?たぶん。

何か質問されて、自分が嘘と思って嘘をつくから動揺して、その結果汗かなんかで計測される。

自分が、何か問題とか起こしても心のそこから気づいていなくて、嘘と認識してなかったら「嘘」とでないって事ですよね。

嘘発見器ってそういうもんなんですよね?

January 31, 2006

要はタダ一つなんだが

要は、「やるかやらないか」これだけなんだ。
メモをとることが重要、タスクのプライオリティをつけるのが重要とかよく言う。
それとか、メモのテクニックとか。
たしかに、これらは「やる」ための、よりやりやすくするための方法だ。
まあ、仕事では効率よくやるために重要なんだけど。

しかし、やってもやらなくてもいいこと。
そんな時はどうか。

プライオリティをつけたからってやるわけでもない。
それが人間だ。

たぶん、そこで「やるかやらないか」は周りの環境要因とかもあるが、人間の何らかの「感」なんだろう。


一方で、社会生活を送ってきている。
ワクワクしなくても絶対やらなきゃいけないことはやってきたから、社会で生きてこれた。

それに、どうしてもやりたいことはこんなこと考えずにやってしまうものだ。

だったら、特に意識しなくてもいいのではって考えもありだと思う。

January 06, 2006

NHK教育に育てられる

暇な時はたまにNHK教育で子供番組を見る。普段は見ることがないから、新鮮味があって面白い。UAって歌手が♪真っ赤だな 真っ赤だな〜 ・・・ もみじの葉っぱも真っ赤だな♪って歌ってた。

この番組は何回も見ていたのだが、今日気づいた。俺らのコロはもっといかにもマジメって感じの番組構成だったし、いかにもマジメって感じの歌い方、歌っている人も同じ。服装も髪型も。

テレビってものに対して何かオーソリティを感じる。今の俺はもう何も感じないが、小さい頃と言うのはテレビに出る人は遠く離れた存在と言うかスゴイってイメージがあったと思う。今は生まれた時からインターネットがある子供たちなので、そんなテレビを特別視しないかもしれないんだけど。でも規制とユーザーがコントロールできないという点においてなにか特別なものを感じるんじゃないかな。

そのテレビで奇抜な服装や髪型をしている、癖のある歌い方。それを小さい頃毎日見ていたら、俺らが持つ価値観とはまた別の価値観を持つだろう。なんか自分の中で勝手な規制をつくらないというか、これは常識に反しているとか、勝手に思ってしまうことがないんじゃないかな。で、自由な発想が出来るようになりそう。この世代が大人になったら、すごい面白い価値観で生きてそうだし、いろいろな面白い発想の商品も生まれてくるんだろうな。

それに、いかにもマジメって感じではないという点では昔と違うが、NHK教育の番組はテイストが違うのが多い。昔はいかにもマジメって番組しかなくて、その価値観にしか影響されていない。例えば今はピタゴラスイッチもまたテイストが違う。(対象年齢が違うからかもしれないが)。お母さんといっしょは昔から変わっていない。いろいろなテイストの番組がある。こういった異なったテイストで奇抜と言うか面白い自由な発想に基づいて作られた番組を見ていたら、子供それぞれツボにはまる番組が違うだろうから、本当に多様な価値観で無意識の思考段階で何にも縛られない人間が育つんじゃないかな。


NHK教育って影響力でかいよ。小さな子供に大きな影響を与える点で日本で一番影響力でかい放送局かもよ。大人になってからの価値観への影響はその日と自体を作り上げるし、人々の価値観が社会を作り上げるんだから。

January 02, 2006

一を見て十に気づくセンス

「一を見て十に気づくセンス」「そして、それを言語化して意識的に自分で理解する」
(「他の事象と関連して、それが何の意味を持つのかを考える」「それに基づいて行動できる」)

これがどれだけ出来るかで、能力というか、なんというか、発言にしろ、行動にしろ、頭が切れるかどうかにしろ、判断されるんじゃないかなぁ。

何がいいたいのかと言うと、一つのものを見たとしよう。新しいパソコンでも何でも。なんとなく何だけどパッと見ただけで、使い方が分かる。同じ一言を聞いてもその背景を感じ取れるかどうか、知らない道具を渡されて、どうやって使うか。何の道具か。どうやって試すか。試さずに放置しておくか。すぐに人に聞くか。いろいろな人がいると思う。

ここで、言いたいのは何人かの人がいて、ある同じものしか見ていない、同じものしか使っていない。しかし、そこから何を掴み取ったかという差が大きすぎるのではないか。一を見ていかにたくさんのことに気づくことが出来るか。これは、生きていて何をするにしても大切になってくる。まさに、こういう人がセンスがいいとか、能力が高いとか、言っていいのではないか。意識的に探そうとか思わなくても、一から十を気づくような習慣になっているのだと思う。


それは、どんな意味を持ってくるのか。
頭を意識的に働かさなくても、気づいている。
これは同時に脳の中で無意識のプログラムがいくつ動いているかによる。これは以前のブログのエントリーで書いた記憶が。月の見える話と、脳の常駐ソフト理論といって。

さらに、何か大きな変化が起こる前に、自然に次のことを行ったらどんなことが起こるかを考えてしまっている。それがたいそうなことなのだと。

じゃあ、どうすれば「一を見て十に気づくセンス」が身につくか。それは、様々なことを経験する、身をもって感じること。それをする前に、脳でシュミレーションしてあらかじめ考えておく、

相手の立場や作った人の立場、人間の無意識の行動を踏まえて、モノを捉える習慣。

そして、シュミレーションしたのと、実際に経験した時の違いや一致点を比べる。一目見たら、あまり価値のないことでも、好奇心をもってなんでも知ろうとしてしまうような性格も大きな意味を持ってくるのだろう。昔知ったり経験したことが思いもよらぬところでつながってくることが良くあるから。


脳とアウトプットとその評価

December 23, 2005

人のために書く文

前にも書いたことあると思うが、自分のブログに書く文章と相手に書く文章は言葉が全く違う。相手がいて書く文章では、普段自分のメモ(ブログ)で書くときには浮かんでくることが絶対ないような言葉が出てくる。

不思議なもんだ。特に、気の利いたコメントをかましてみようとか、写真に対するコメントは面白い単語とか面白い文が生まれてくることがある。自分のメモだけでなく、相手へのコメントや友達に文章を書くのもいいかもしれない。

mixiに書く文章は必然的にコメントを期待する文章を書く。人それぞれがどういった反応を示すかが分かるから。こっちのブログは完全に大量の文で思ったことをメモするものになっている。意識的にそうしたわけではないが、いつの間にかそうなっていて、はたと気づく。

December 13, 2005

自動車屋という偶然性

普通の生活をしていたら自動車屋なんて行くことはない。

そんな自動車屋に行ってきた。銀座にある日産の本社。決して、車を買うとかって目的ではないのだけれど。ただ、日産が提供しているフジテレビのニューデザインパラダイスという番組の展示がやっていたから。

展示のために行ったが、車がおいてあれば車も目に入り、いろいろ見るわけだ。すると、最近の車とか自動車のショールームはこうなんだってのが分かる。車椅子が乗せれるバンが目立つところに展示してあったり(本社だからかも)、店内の作りも高級感あふれるものになっている。もちろん、自動車自体も観察。小さいころに行ったことある自動車屋のイメージとはすっかり変わっていた。へー、へー、って思うことが多かった。

こういった偶然の出会いは面白いなー。
あまり訪れることのないところにもヒョイッと出向くのもいいかもしれない。

BGM ハナミズキ ひととよう

ハナミズキ

自然をしらないということは

ふたご座流星群のピークだった。家に帰るとき夜空を見ながら歩いていた。
すると、家の近くで仕事帰りのサラリーマン風の人とすれ違う。
彼はポータブルゲーム(PSP)と熱心に向かい合っていた。

そんな時、ふと思った。

自然を知らない、自然を肌で感じていないということは、
自分でコントロールできないものがあると知らないこと。なんだろうなぁって。

流れ星なんて、いつ流れるか分からない。ただその時が来るのを待つだけ。
自然にすべてをゆだねている。自分ではどうしようもない。
ただ空を見上げることしか出来ないのだから。

でも、ゲームはボタンを押せばその通りに動く。自分の意思ですべてコントロールできる世界だ。
自然の世界と人口の世界の違いはその違いなんだろう。

どちらを好むかは個人の自由であろう。

ゲームにしても電化製品も自分であやつれる。
そういうものが増えてきている気がする。それが知識をつけた、社会の仕組みを知った社会ということなんだろうから。自分の意思で動いたほうがラクなのかもしれない。

でも、すべてを自分の意思でコントロールできるはずがない。
自分ではどうしようもないことが世界にはたくさん転がっている。

夜道を歩きながらそんなことを思った。

December 12, 2005

バックアップのチェック

バックアップってのは重要って言われる。とくに、この時代はデジタルデータのバックアップは簡単だからやったほうがいいと思う。それに、情報がスゴイ価値を持っているから。

でも、バックアップってめんどくさくてしていないことが多い。さらに、盲目的にバックアップすることが多いと思う。盲目的と言うのは、自動でバックアップさせたり、手動でもバックアップの中身をチェックしていなかったり。

俺もあるデータのバックアップはしていたが、中身までチェックしていなかった。。。バックアップしてあるからいいやという軽い気持ちだった。しかし、バックアップデータが必要になり見たら、バックアップできてない。ああ、ショック。たいしたデータじゃないから問題ってわけでもないんだけど。

そのバックアップ自体もチェックしないといけないんだよなと痛切に感じたなー。

December 07, 2005

新たなものとの最初の出会い

スペイン語はなんかいい。これまで、言語にたいしてあまり良い印象がなかったがスペイン語は何かいい。モーターサイクルダイアリーズ(スペイン語音声、日本語字幕)を見ていて、スペイン語が耳に入ってきて理解できる単語もあった。それで気づいたというか、思い出した。

何でかって考えると、新たなもの(言語)との最初の出会いが重要だったんだろうなと思う。

スペイン語にはじめてであったのは、一人でスペインを旅したとき。自分がガウディの作品を見たくて、行きたくて行った国。そこではじめて触れた。まあ、その時に行きたい国で悩んだのは、スペインとメキシコ。どっちにしろスペイン語圏だったのだ。スペイン旅行の前に、大学でスペイン語をやっていた友達に、5,6個会話を教えてもらった。そして、スペインへ。実際スペインでは「オーラ」しか言ってなかった気がする。

そして、ずっとスペイン語と触れる機会はなかったのだが、今年の夏南米へ。南米に行った子とある友達からは、スペイン語以外全く通じないからといわれた。スペイン語が話せると南米旅行は何倍も楽しくなると。そこで、南米に行く前にホントCDで少し勉強して言った。数字はほぼ問題なくしていった。すると、楽しい。さらに、旅をして2週間ぐらいたった時に、スペイン語を毎朝勉強している人にあった。そして、彼はスペイン語が話せるかのように現地人と会話していた。それを見て、おれもと思い、小さいノートに単語と意味をメモして、それを使った。すると、通じる。面白い。さらに、メモする。さらに話せる、面白い。単純な話だ。

今思うと、やっぱり勉強の始め方って重要な気がする。どうやってその言語と最初に触れ合ったか。それによって違うんだろうな。一番最初に楽しく触れ合ったってのが重要。子供の教育も同じなんだなと、自ら実感したところでした。あと、その勉強過程でも知らない文化の意思疎通が出来たりって目に見える効果がすぐにでると、勉強もさらに楽しくなる。ああ、当たり前だけどこう実感するのはいいね。

過程での楽しみ(効果)ってのはよく言われる「小さな成功(報酬)」って奴だな。

コントロール可能な感覚器

自分の意識でコントロール可能な感覚器とそうでない感覚器がある。
視・聴・嗅・味・触覚。

視覚、味覚これは自分の意識でストップできる。目を閉じるということで。口を閉じるということで。

触覚は基本的にさえぎることが出来ないと思う。

一方、嗅覚と聴覚はその器官自体ではなく、自分の意思によって他の器官を使うことによってストップできる。すなわち、手で鼻を耳を押さえればストップできると。

そもそも、人間の感覚が五感だけかどうかは知らないが、五感の中で自分でストップできるものとそうでないもの、また手でストップできるものなんでこんな差があるんだろう。その、機能によって何か理由があるのかな。まあ、理由なんて後付けかもしれないけど、結果的に意識でストップできないか出来るかによって、どんな違いが出来たりしたんだろう。

December 03, 2005

水の温度と疲れ

素朴な疑問。

プールや海に入ると体がだるくなるとか疲れるとか眠たくなるとかいうじゃないですか。自分の経験上もそんな気がします。

でも、お風呂って疲れが取れてリラックスできるって言うじゃないですか。風呂とプールって基本的に水温の違いですよね。冷たいと体が疲れて、暖かいと疲れない。なんか不思議だ。どうしてなんだろう。

それに、温度がどれぐらいから疲れが取れるようになるのだろう。体温ぐらいが境なんだろうか。気になるところ。温度を一度筒づつとか上げて実験した人いないかな。

November 17, 2005

いつの間にかしてしまっている、せずにはいられない

いつの間にか何かをしてしまっている。
何かをせずにはいられない。

究極のことって、いつの間にか上のような状態に自分がなっているんだと思う。
絵であろうと、商売であろうと、旅であろうと、仕事でも、なんでも。
なんか体の奥からあふれ出すような、湧き出てくるような気持ちによって突き動かされること。

卵の価値の不思議

卵って料理で出てくると、存在感があると思う。なんか、他の食材よりも上に見られる傾向にあると思う。おでんとかでも、卵のランクって高いと思う。それは、丸いままの卵の状態だから。今日、昼飯を食べていて卵があってそう思った。

なんで、卵をそんな価値のある物というか、たいそうな物として扱うのか。1個15円ぐらいのものに。まだ、卵が高かった頃の名残なのだろうか。

で、この卵、同じ卵でも形状によってランクというか価値が全く違うみたいだ。形状と言うか状態かな。生卵の殻つき、ゆで卵、目玉焼き、卵焼き、スクランブルエッグとか卵どんぶりなど。いろいろな卵料理がある。

卵の丸い形のままが一番価値が高い気がする。一塊になっていて、目立つし、存在感があるからかな。スクランブルエッグとか卵丼のように、ばらばらに分散すると一塊ではない。一口で食べるということが出来なくなる。だから、どこを食べても卵が口に入る。だから、価値が低い気がする。

まあ、卵は丸い状態が一番価値があるのかなぁと思っただけです。

相変わらず、変なことを言い残して日本を去ります。

すべてが気になって、すべてが気にならない

すべてが気になって、すべてが気にならない

すべでがどうでもよくて、すべてがどうでもよくない

嘘のようで本当の話。

November 14, 2005

世の中に自分しかいなかったら

世の中に自分しかいなかったら、言葉は生まれなかったのだろうか。

遊び

遊びって何だ。

だいぶ前に、東京の人は何して遊んでいるのかとたずねられた。まあ、東京の人って意識はないんだけど。それは置いておくとしても、はてさて、遊びって何だ?俺って、遊んだのっていつだっけ。ずっと昔、それともいつも。

東京から歩いたのも遊びか?南米に行ったのも遊びか?自分の中では遊びと言う感覚ではなかった。

娯楽=遊びって自分の中ではなっているのだろう。でも、もっと広義に捉えてみれば、僕の人生はすべて遊びのような気がする。

まあ、遊びってみんなどう捉えているのだろう。

October 25, 2005

共感覚

共感覚という言葉が分からなくて、調べた。すると舌で味わうと指先に形を感じる。そんなような現象が起こることを共感覚というらしい。これは五感のどの感覚とどの感覚が結びついてしまうかは人によって異なるみたいで、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の二つ同士で一方向に発生する組み合わせが考えられるが、視覚と聴覚の結びつく例が多いらしい。

これは何に対しても常に起こるものだろうか?もしそうだったら僕は違うが、たまに視覚と聴覚がつながる時とかある。

共感覚の世界
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20020325306.html

脳の構造と共感覚および意識
http://www.ccad.sccs.chukyo-u.ac.jp/~mito/yamada/chap2/

http://www.bbc.co.uk/sn/tvradio/programmes/horizon/derek_prog_summary.shtml

外国に対して、何かをすること

そこに生まれた偶然性、というか必然性は絶対に逃れることの出来ない、大前提である。

外国に対して、何かをすること、僕はこれをやりたくなる気持ちは分かる。飯を食えずに死んでいく人がたくさんいる。それは救いたい。と純粋に思う。しかし、他国の人が入っていってがやがややることではないと思う。

その国で生まれたという偶然性は何物にも変えがたいことで、そこに生まれた人がそこの土地に住み問題と直面し、時には解決の方向に向かい、時には悪化していく。

外国は完全に放置で良いのかといわれると、秩序が崩壊してしまう可能性があるかもしれない。でも、その国の分け方から違っていたんだと思う。

だから、旅も出来るだけ現地の人の生活の通りにするべきだと思う。西洋人は自分たちの生活スタイルをどんな国に行っても変えない人が多い。パンにコーヒーなどを持ち込む。でも、違うと思う。

October 21, 2005

信じれる人と実感のこもった話

普通に話していて信じれる人と信じれない人がいる。
実際に嘘をついていれば信じれないのだが、真実を話していても嘘に聞こえてくる人がいる。


なんか、地に足が着いている人の話はじっくりきいて、いつもふむふむとついうなずいてしまう。

実感のこもった話、事実の体験に基づいた話はなんとなく分かる。

October 19, 2005

何で夢を忘れてしまうのか

何で夢を忘れてしまうのか?ここで言う夢とは夜寝ている時に見る夢です。

夢は起きているときに何かを脳でイメージする時よりも僕の場合は鮮明です。カラーだったり。そんなより鮮明な夢なのにすぐ忘れてしまう。起きているときに想像したものはそこまで鮮明でなかったりするのに、覚えている。過去に見た景色を思い出す時も夢より鮮明によみがえってくる事はない。でも過去に見た景色のほうが覚えている。

夢は夜中に何回も見ているけど、まあ覚えていたとしても最後に見た夢だけだという。

鮮明と言うことは強い刺激があり、脳に強く刻まれる気がするのだが。ということは強く記憶に残っても良いと思うのだが。勘違いしているだけで、実は鮮明でないとか。でも、起きているときの想像(イマジネーション)も脳の中で作り出されたイメージだしな。

イメージする場所と記憶する脳の場所が違うからってことなのかな。じゃあ、記憶ってのはどんな要素によって記憶されるかどうかって決まるんだろう。

October 15, 2005

科学への疑問

科学への疑問というよりも、盲目的に科学的であるということに対して支持することはおかしいんじゃないかと。

科学、科学と言うけれど、科学をベースに科学を信じて考えているけれど、科学のなにをしって科学をベースに考えているのか?

科学ってものを何も知らないのに、科学的であることを信じるのはおかしいのではないかと。

科学的であることは嘘だとかそういうことではなくってね。

October 14, 2005

未来を考えること

北大の澤口俊之がテレビで言っていた、人間は未来を考えることが出来るようになったから、死と言うものを知ったと。

これを聞いて、ああそうかと思った。

October 13, 2005

町の灯が、あの星を消し去った

スーパーへ行く時、月が明るかった。

月を見たとき、ラグーナコロラダで見た月を思い出した。あの満月を。

夕日を見たとき、ジブラルタル海峡に沈む夕日を思い出す。

日の出を見たとき、富士山で見た日の出を思い出す。

それらがだいたい、一番最初によみがえってくる記憶だ。

月を見ながら、ああ、同じ月かと思った。月に吸い寄せられ、月のみに意識が行った。そして、あの時に僕はいた。

スーパーの帰り、空を見上げるとオレンジ色に輝く星が一つだけ見えた。南米で見たときも一際目立っていた、あいつだ。その横にもう一つ明るい星があったが、今日ここでは見えなかった。

本当は無数に見ることが出来る星。ガラパゴスなんてその最たるものだった。何光年と言う想像を絶する遠さから地球まで届く光。それほどの輝きを持った光が、街中の弱弱しい光によって見えなくなる。なんかすごい残念だな。

もちろん、生活していくうえで電気ガス水道が重要なのは知っています。何度もそれらがない生活を経験したので。電気を消せとか行っているのではなく、(それなら自分がどっかの人里はなれたところにすめばいいので)なんか、寂しいなと思う気持ちがあった。それと、すごい力を持った物でも、近くにある本当に小さなものによって、ないものと同じにされてしまうということを実感した。こういった類のことは普段の生活でもありえることなんだろうな。

August 11, 2005

バンザーイ

先日、衆議院が解散された。解散されると普通、議員がバンザーイという。しかし、今回はバンザーイというのかどうかと、解散前から少しだけ話題になっていた。

実際、バンザーイと解散されてみんな言ったのだが、そのバンザーイが情けない。政治家の情けなさをあらわしていたように思う。周りがバンザーイというのかを伺って、少しの人がバンザーイといったから後から続いて、多くの人がバンザーイと続いていった。

政治家たるもの、自分の意思で決めるべきだ。回りがバンザーイといったから自分もバンザーイと言うというのは論外だ。自分が言うと決めたら言えばいいのであって、周りが言ったらバンザーイと言うなら、その政治家は存在意義がない。

これは、バンザーイと言うことだけでなく政治家すべての行動に現れるのだと思う。


些細なことから、なんか無理やり意味を見出すのが趣味です。

August 10, 2005

破壊欲

僕は物にあたったりとか、そういう破壊衝動はないと思う。

でも、目に見えないものを破壊したい欲求は強いと思う。古臭い制度であるとか、つまらない考え方とか、自分の固定概念とか、損なようなものは破壊したい。

それがあるから、海外へ行くのだし、今までの自分の人生とは関係のないところに行って、今までの自分の常識を壊しに行くのだろう。

医療制度おかしいだろう。

緑内障のくすりでありながら、利尿作用があることから高山病の薬としても使われるダイアモックスを7錠処方してもらった。国内では処方箋がないと買えない。というか、病気になってから処方する薬は普通に買えるが、病気になる前の予防のための薬、すなわち予防薬は基本的に処方してもらえない。だから、はじめ大学の医務室に行って事情を話したが処方できないといわれ、紹介された病院へ電話をしたが、午前11時までしかやっていなかったり、大病院で待ち時間とかあって不便だった。それで、ネットで調べていたら、ダイアモックスを処方できる病院リストがあった。そこに、家から近いところがあったので、電話をしたら救急の担当の医者しか出せなくて、その医者がいないと処方できないとかめんどくさいことを言われた。めんどくさいなと思って、次に近かった三信ビルクリニックという有楽町の病院に電話をする。すると、電話を取った受付の人もダイアモックスのことを知っているらしく、話がスムーズに進んだ。そして、病院に来て医者に事情を話せばすぐ処方すると言われた。じゃあ、ということで、すぐに病院へ行った。すごい小さい病院で待ち時間もなく、かつ医者も高山病の予防薬の処方が慣れているらしく、もの分かりがよい。さらに、ペルーでは処方なしでも買えるといったら、はじめの1週間だけ出して、あとは現地で買ってもいいよって言われたし。良かった。富士山の経験から高山病の薬を買ったが、まあこれは気休めのようなものだから、もっているだけで安心なのだ。一錠500円 250mgで一回半分にして飲む。12時間きっかりしか持たないとのこと。

ついでに、夜はエクアドルとペルーに行った友達からいろいろ話を聞いた。彼はチュニジアとかとドーハに行くといっていた。なんか、サハラ砂漠がメインだとか。今回もエクアドルとペルーのよい情報がゲットできた。国際バスに乗ると、エクアドル・ペルーの国境越えの手続きがみんな一緒にやるから楽だとか、キトとリマはつまらないとか、一食1ドルで食べられるとか、ガラパゴスはやっぱりすごいとか。

で、予防薬って何で出せないんだ?おかしいだろ?ということについて。高山病の予防薬を買おうとして思った。日本では予防薬は基本的に処方できない。なぜなら、必要ないのに薬を処方して、間違って(故意も含め)服用して副作用でたらまずいというような類のことだろう。しかし、これは自分の責任で防ぐことができる。しかし、近い将来にほぼ確実に発生する病気がある、その病気を防ぐためには事前に薬があればOK。しかし、予防薬は出せないからという理由で薬を入手できなかったとする。すると、くすりさえあれば防げた病気を防げない。これは自分の意思で防ごうと思ってもどうしようもできない。予防薬さえあれば病気にならなくてすんだのに。という事態になりかねない。処方して間違って飲むのは個人の責任、しかし、処方されなくて防げた病気を防げないのは個人の問題ではない。医療制度の問題だ。まとめてしまえば、予防薬をもっと簡単にだせということだな。

August 07, 2005

状況に合った歌詞の歌が自然と湧き出る不思議

状況に合った歌詞の歌が自然と湧き出る不思議。これは前から思っていた。前にもエントリーしたことあるかもなー。

July 28, 2005

浪漫なのにロマン

浪漫なのにロマン

なんかいい言葉だ。
ロマンがある日々を送りたい。

過去の記憶の時間軸

脳で更新されてないと思っている記憶も更新されている 時間軸で更新されてる 何も意識しないで生きてても昔の記憶はどんどん昔のこととして脳で判定されてる 全ての記憶と時間軸の関係がきになる 思い出せない記憶ともからみそう  

July 26, 2005

空に空に

スペースシャトル。

この打ち上げが見たい。僕の趣向が分かっている人なら、ああ、って分かるかもしれないが、まさに、ああいうものを見たい、感じたい。スペースシャトルが発射するときの轟音。煙、振動、想像するだけで、心の奥底からぞくぞくしてくる。

なんだろう、何か極限のような気がする、そんなものに夢まで乗っているような。

昔、宇宙飛行士にマジでなりたかったんだよな。何だろう、あのゾクゾク感。ワクワク感というより身震い一歩手前のゾクゾク感。

何度延期されても、しぶとく見ます。この前は4時に起きたら延期で寂しかったけど。それと絶対に絶対に生でスペースシャトルの打ち上げを見たいな。夜とかだとベストかも。

なんか脳が反転するような

なんか、脳が反転するような考え方のベースが覆るようなものに出会いたいと最近思う。今まで生きてきて、そのようなことは何度かあった。

一人で海外に行ったりとかして、何でもできるじゃんと思った経験とか、自分の考えってのは客観的といっても自分の主観でしかないんじゃないかと気づいた時とか。マスコミとか偉いとされている人の言っていることは嘘が多かったりとか、そんなことを知ったとき。これらはたいしたことないように思うかもしれないけど、何か行動する時とか、判断する時すべてのベースになっている考えだ。だから、大きな影響なのだ。

それは何かしらの経験でも、自分の頭で考えて気づいたこと、誰か人に会ってかも、本を読んでかも、旅でも、芸術作品でも、修行でも、電車に乗っているような日常でも、友達と飯食って話している時でも。何によってかは分からないが。

なんか、そんなものを今求めている気がする。自分の今の考えがぶっ潰されて根底から変わってしまうのを望んでいるような。しかし、ビビリな人間だからそんなような出来事に出会っても、守りに入ってしまい徐々にしか脳が反転しないということがありそうだ。

たぶん、周りから見たら何も変わっていないんだろうけど、自分だけ分かる。それも、瞬間で感じるんじゃなくて、ふっと気がつくと。

July 18, 2005

当たり前なんだけど、ずーっと不思議なこと

当たり前なんだけど、ずーっと不思議なこと。違和感のあることがある。

友達数人と一緒に話していたとする。その友達は、家に帰る。ばらばらになる。しかし、また何日かたったら同じところにいる。これが不思議でならない。当たり前すぎるのだが、これがなんか違和感というか、そんな感じ。もっと極論を言えば、なんか有名な人が自分の近くにいて、話していたとする。その人がテレビに出ていたりした時に感じる感覚。そして、また一緒にいる、その感覚かな。

もう少し言うと、今一緒に話していた友達が、一人はチベットへ行き、一人はアフリカへ。そして、また一緒のところに戻って話していることも似ている。

共有している時間はひとつしかないものであるように感じるのだが、ばらばらになった時に時間がパラレルであるという感覚を覚え、また時間は唯一のものという感覚を覚えるのが不思議なんだと思う。結局のところ自分の意識外での時間の流れというものが不思議というか、信じれないというか、つかみきれていないというか、果たして。。。

そもそも時間って言うよりも、空間の認知の問題といってもいいのかもなー。自分の存在していない空間が本質的にあるのかどうかって話とかもあるしな。

July 16, 2005

ワクワクするものを共有できる人

ワクワクするものを共有できる人、この人としか友達になれないんだろう。

人それぞれワクワクするものがたくさんあって、そのどっかに引っかかれば一緒にいて楽しめるということだ。

なんか、悲しさを共有できるだけでは仲良くなれる気がしないし。

とりあえず、なんであれワクワクする対象が重なるってことが重要な気がした。感覚的に。


なんでいつも思いついたことをメモするかというと、簡単に言えばメモ代わり。後から自分で読むと、ああ、これってこう考えればいいジャンとか。なんか困った時に解決材料になるから。まあ、これは僕以外の人には僕と同じ価値はないわけで。これは僕の脳から生まれてきたものだからこそ、僕が後から読むと価値を持ってくるわけで。

僕以外の人が読んだ時の価値とは全く違うと思うのです。はい。

July 13, 2005

きっかけ

きっかけ
凍るきっかけを失った水。この表現が何かしらの美しさを持っている。

変わるきっかけ

何かを始めるきっかけ

きっかけを見極める

きっかけ。あるよでないようで。

July 06, 2005

機械に負けた

電車の券売機にお金を食われる経験をしたことがある人も多いだろう。

今回もそんなことが起きた。そんなんで金を損するのは癪に障るので呼び出しボタンで、駅員を呼び出した。

そもそも、人間よりも機械のほうが信頼されている。正しいとされている。確かに人間の脳は本来不確かさを持っているらしいから、失敗をしないという前提で作られた機械が信頼されるのは仕方ないのかもしれない。だが、機械が常に正常に動作するとも限らない。俺は確実に210円を券売機に入れた。そうしたら、110円としか出ない。ふざけるなと思って、駅員を呼ぶ。そして取り消しを押したら100円しか出てこない。110円と表示されているのに100円しか出てこない。この時点で故障している。しかし、駅員はそれを認めない。バカだ。マジでバカだ。ふざけるな。俺が絶対入れたと言い張ったら、今日の営業が終わってから実際の金額と、機械が認識した金の額を比べて110円多かったら、110円返すといった。そして、電話するといった。

案の定電話があって、110円返してもらったのだが、あるいみ機械は犯罪者なんだけど、なにも責任を取らない。機械は俺の金を盗んだのだ。しかし、機械のほうが正しいと言い張る。ある意味嘘もついている。人の金を盗んで、盗んでいないとうそをつく。しかし機械だから何もお咎めなし。機械が犯罪する時代なんだな。

July 05, 2005

人間の瞬間のチカラ

人間は他者に対してプラスのパワーの方が強い。これは精神面に与える影響のことです。何かっていうと、ある人が何かを成し遂げた。それはイチローの最多安打でも、野茂の200勝でも、高橋尚子の金メダルでも、サッカーでも、まあ、スポーツに限らない。田中さんのノーベル賞でも、べつにもっと身近な家族の話でもなんでもいい。こうやって何かを成し遂げた人がいると感動する。感動すると一言で言ってしまえば安っぽいが、心に響くものがある。

何でこう思ったかというと、長島さんが帰ってきて本当に喜んでいる人がいた。たくさんのおっさんたちが、長嶋茂雄という人物が帰ってきたことに心のそこから喜んでいるようにテレビを見ながら思った。スポーツを通して感動を与えることができるんだな、もっといえば彼は現在は現役ではない。たった一人の人間がこれだけ多くの人にパワーを与えられるのが人間なんだなと思った。昔、僕は長島さんの何がすごくてみんなが持ち上げるのか分からないと言い放っていた。確かに、今でもその部分はある。しかし、一方で長島さんによってあれだけパワーをもらっている人がいるという事実があるのだ。今の僕にはそちらのほうが重要だ。

なんか、言葉じゃなくて、人の生き様とか行動によって受ける感動とか感じるものってのは本当に強いものだ。言葉でも確かに感動するし、衝撃を受けるが、なんか言葉を超えたもの。ある意味、詩とかもそう思う。あれは小説などと違って短い。だから瞬間のチカラがものすごい。写真にしろ絵にしろ、瞬間の力が強いと思う。小説とか映画とかすばらしいものはたくさんあるけど、瞬間のチカラというのは弱いと思う。その瞬間のチカラを長島さんという存在が持っているのだと思う。同様に美空ひばりさんに対して、なぜあんなにも持ち上げられるのか分からなかった。けど、同じなんだと思う。

人間は他者に対して、プラスのパワー、感動させたり勇気付けたりする力が強いと思う。伝わりやすいのかもしれないし、マイナスよりもプラスのパワーのほうが感じ取りやすいのかもしれない。それは分からないが、人間が他者に与える影響がプラスのものとマイナスのものがあるとしたら、プラスのほうが圧倒的に強いと思う。

なんか、ある人がショックを受けているすると回りも心配になりちょっと落ち込むかもしれない。しかし、それが回りに与える影響と、ある人が何かを成し遂げた時に周りに与える影響は大きさが違うと思うんだな。何でかわからないけど。(これは、僕が楽観主義過ぎて、自分だけがプラスの影響ばかり感じているから、社会の見方が偏っているだけかもしれないのだけれど。)

こういう言い方をすると、勘違いされるかもしれないが長島さんが病気になられた時にショックを受けて元気がなくなった日本中の総計と、長島さんが復活して元気をもらった人の総計を取ったら後者のほうが圧倒的に大きい気がするんだよな。

人間ってなんて伝染しやすいのかな。

June 29, 2005

風なるものが気になる。
風です、風。

この得体の知れないもの、目にも見えないし、実態があるわけでもない。
人間の風に対するイメージもプラスのものとマイナスのもの、さまざまだ。

風といえば、突風だ。
風といえば湿っぽい生暖かいよどんだ風だ。
風といえば暑い日に吹くとてもさわやかな風だ。

June 25, 2005

なぜ肩の力が入りすぎるか

なんか、多くの人前で話したり、なにかを見せる時、さらには教習所の試験のようなときに肩に力が入りすぎることがある。話すだけのときよりも、体を動かす行動を伴う行為を人前で行うときや、一回しかないような試験のときに方に力が入りすぎる傾向にある。

肩に力が入っても、ほとんどの場合良い結果は生まれない。肩の力を抜いてリラックスすればなんてないことでも、方に力が入るとできない。では、なぜ人間は肩に力が入ってしまうのだろうか?何か理由があるから肩に力が入ると思うのだが、違うのだろうか?

気になるな。生物の本能として肩に力が入るには理由がありそうな気がするんだよな。

そもそも、肩に力が入るとはどのような状態なのだろうか?筋肉が硬直している、縮んでいる状態?筋肉が緊張している、このような状態は体が締まっている?ともいえる。肩に力が入ったときって、姿勢が良くなる気がする。背筋が伸びるというか。本来人前などに立つときは背筋が伸びたほうが見栄えがいい、だから肩に力が入るのだろうか。しかし、体を動かすときもこわばる。これはメリットなさそう。何でかさっぱりだなぁ。

肩に力が入るって他者を威嚇するポーズになるということなんだろうか。そもそも、後付の理由なんてどうでもよくって、肩に力が入るものは入ってしまうのだろう。


現在の記憶と過去の記憶と思考

現在の記憶と過去の記憶と思考について思った。

過去の記憶は残っているが、現在の記憶は残らない人がいる。逆に過去の記憶は全部消えてしまったという人がいる。しかし、過去の記憶すべてを失ったら何もできないと思う。過去の記憶が亡くなったという人が会話を普通にしているのを見ると、会話に関する記憶は残っていると思う。さらに現在の記憶が残らない人は厳密には何もできないと思う。こういった人の思考もある意味において記憶の変形したものであると思うのです。ただ一瞬で忘れるということなのかもしれないが。まあ、ここではうまくかけなかったが、現在の記憶と過去の記憶の違いって何かなと不思議に思った。さらに、言語とか思考がかかわってくると思う。それらの厳密な血が言ってなんだろう。どれも複雑に重なり合っているから、はっきりと線は引けないかもしれないけど。

五感の中でも視覚

人間には五感というものがあるといわれている。

その中で、視覚、すなわち見ることを一番重要視する、信じる傾向にあると思う。自分の見たものを信じる。

何かひとつのものを読み取る、感じ取る場合に、嗅覚や味覚や触覚や聴覚からよりも視覚をもっとも信頼できる情報としている気がする。

順番で言ったら視覚、聴覚がもっとも重要視しているだろうな。あと3つはどれも大差ないかな。

それよりも、真実とされる情報を重要視する気もするんだけどね。

June 24, 2005

全部ひっくるめて考える

味噌もくそも一緒という言葉があるが、まさに僕の思考方法はそれだ。

考えるというか、感じる、判断するときに、その対象とするものをすべてのものにしてしまう。普通は自分のおかれた状況を踏まえて対象を狭めている。しかし、私にはその概念が小さいころからないようだ。

たとえば、日本での日常で飲食店が汚いという話になったとしよう。その時普通は日本を前提としている。しかし、僕はインドの田舎で食べたときのほうが汚いというラインを持ち込む。そうやって考えるから、みんなが汚いといっても特に感じない。

これは昔からそうだった。たとえば、肉を食べるときは生き物を殺すのだから残さず食べろといわれる。もちろん魚も言われる。しかし、野菜のときは言われない。米は一粒の越さず食べろといわれるかもしれないが、これは意味合いが違ってお百姓さんが一生懸命作ったからという理由付けだ。しかし、僕にはなぜ肉や魚と野菜を区別するのか分からなかった。本当に心のそこから思っていた。肉や魚を食べないなら野菜も食べるべきではない。そういうと、人間は食べないと生きていけないから、と説明されるがこれは説明になっていない。

人間は自分の普段の生活を思考範囲の対象にしがちである。しかし、それは自分が説明しやすかったり、そんなレベルではいいかもしれないが、突っ込んで考えれば何で除外して考えるのか分からない。

この考え方自体がいいとか悪いというのは知らないが、私はこう考えてしまう。この思考回路だから変わった発想といわれるのかも知れない。

June 23, 2005

たった一回の経験とたった一人

一回経験したことは何故ほとんど不安にならないか。何か始めてやるときは、いつも恐怖というか不安というかそんなものが付きまとう。どうなるか推測できないからだろう。頭の中である程度シュミレーションはできるが、やったことない事に関して詳細まで想像することは困難だ。その想像できない部分でどんなことが起こるかわからないから恐れるのだろう。これはひとりは不安二人だとほとんど不安じゃないというのとも似ているのかもしれない。普段の生活だったら、ひとりでも全く不安でもない。そういう状況ではなく、周りに人気のいない真っ暗なところとかの話だ。知り合いが一人いるだけで精神状態が全く違う。一人だろうが二人だろうが、得体の知れないものが襲ってきたら死んでしまうだろう。二人いるからといって格段に強くなるわけではないのだから。

何故二人だと平気なのか。それに追加して考えると、三人だと二人のときと不安度は変わらない。すなわち一人と二人の間にだけ差があって、二人と三人では差がない。一回も行ったことないところや、一回もやったことないことは不安だが、2回目のときは不安じゃない。3回目は2回目と精神状態が大して変わらない。と考えると、不安とはあるかないかなのか。1か0かというものなのだろうか?

一回やったからといって安全度がアップするわけでも、二人だからといって大して安全度がアップするわけでもない。この不安なる物は人間の意識によって生み出されるわけだが、なんと不確かなものなのだろうか。でも、自然にこのようになるのはなぜだろう。
 不安と恐怖の違いに関するエントリー

June 21, 2005

バーチャル

本物であろうと偽者であろうと関係なく、本物だと自分が納得することによって、自らが産み出す(自らが認める)価値がある。 実際とバーチャルが全く区別がつかなくても、本物思えば価値がある。 生放送である意味がスポーツにあるのと同じ。何故、生であることや本物だと思うと高揚できるのか?

自分がその場を生であると理解する、その文脈を理解して自分の立場を置き換える。脳がそう判断するからなのだろう。

だからいくらオーディオ機器が発達してもライブはなくならない。
人はたくさん集まることによってのみ感じる感情があるんだろうから。

貯められるものそうでないもの

ためられるものとそうでないものがあると思う。そりゃ当たり前。食いだめ、寝だめなる言葉はよく使う。しかし、実際は寝だめも食いだめもできないと聞くこともある。

厳密言えば食いだめはできそうだ。食べて脂肪として体についていれば、食べなくても生き延びれるとか。寝だめもしかり。しかし、それにも限度がありそうな気がする。

知識をためるということもためることの一種として考えてみる。知識もためることはできるが完全な形でためることは難しい。 

何故ためることができるものとできないものがあるか。厳密に言えば人間は何も完全な形ではためることができない。ああ、だから人間は変化を繰り返し、適応できたのだろうか。人間というか生き物含め社会もだけど。

となると、無常ってことか。すべて常にあらず。

June 18, 2005

天才が目立ちやすい事

なんか、サッカーという競技は天才が目立ちやすいのかと思った。

それは、野球と比べるとルールが少ないからだ。細かいルールが多いか少ないかではなく、自由度が高いという表現なのかもしれない。野球だと、ファースト、セカンド、サード、ホームという順番に走ると決まっている。守りと攻撃が時間によって完全に分けられている。などなど。サッカーは、同時に責め同時に守る。というように、自由度が高い気がする。

自由度が高いと、一人ひとりの裁量権が大きいというか、一人ひとりの動作が大きな影響を与える。だから、天才が目立ちやすい。

これは、組織とか他のものにも当てはまりそうだよなー。

June 17, 2005

何が起こるかわからない

何が起こるかわからない、それが世の中なんだなぁ。

時がたてばどうなるかわからない。

絶対ありえないと思うこと、絶対ありえないと思うことすらない想定外なこと。
そんなことも起こりえるのが世の中なんだなぁ。

明日は明日の風が吹く。
今日も楽しく、明日も楽しく。

実体験をともなう感情

実体験をともなう感情ともなわない感情がある。

人の話を聞いていると特に思う。

実体験をともなう感情しか、心動かされないのだ。人から聞いた話を受け売りしていたり、自分が心のそこから突き動かされていないのに、それっぽく話すのを聞いたとき。まったくわくわくしない。

自分の感情を伝えるときに、その感情が実際に生まれた実体験があると、魂がこもっていて伝わってくるものがある。表面的ではない。生の体験というのはそれほどの力があるのだろう。バーチャルの発展によりバーチャルの世界と現実の区別がつきにくくなっていくかもしれない。さらに、言えば想像と現実の究極の違いなんてわからない。しかし、想像では超えられない世界がある。実体験の持つ重み。

あの、人を突き動かす実体験に基づく感情とは、すさまじいパワーを持っている。それであるがゆえに、危険なときもあるのはわすれちゃならない。

June 12, 2005

現代社会という文脈においてのみ価値ある「天然」

「天然」といったらどんなイメージを持つのだろうか。天然ボケとかもあるが、魚とかの天然を思い出す人もいると思う。

スーパーや料理屋さんへ行くと、天然の鯛とかそんなコピーで価値をあげている。一方で養殖物といえば無駄に油っぽくてあまり高い評価は受けない。天然>養殖、こんな構図だ。これは疑う余地はないだろう。だって、天然と養殖が同じ値段だったら天然を頼むだろうし、普通天然のほうが高価であるから。

しかし、本当に天然というものには価値があるのか。まあ、価値はあるのだがそれ現代一般社会という状況・文脈においてのみだ。少なくとも僕はそうでした。

無人島で網にアナゴが引っかかった。言ってみれば、究極の天然ものだ。しかし、食べるときに、工場排水で汚染されていないかとか、食べても問題ないかとかいろいろ考えた。食べるのに勇気がいった。しかし、魚屋へ行けば、その魚がどこで取れて安全かどうかの保証もないのに安心して買って食べる。それも人為的に作られた養殖よりも、天然を好む。不思議だ。究極の天然は食べるのが怖いのに、スーパーにある天然は無条件に安心し、好んで選択する。これは社会という文脈、社会という安心感によっているのだろう。

とおもった。少なくとも僕はそういう思考回路の人間だ。

June 10, 2005

突き詰めればあいまいなのに、人間は瞬時に明確な選別ができる不思議

たとえばAとBについて突き詰めればその厳密な違いははっきりしないのに、人間は瞬時にその二つを明確に選別ができることがある。これが不思議でならない。

人間は何によって判断しているのだろうか。あいまいなものから無意識的にポイントとなる違いを抽出しているのだろう。そんでもって、そのあいまいなものの選別はほとんどの人で共通する。ああ、不思議。この人間の能力を分析すると大きな発見につながりそうですがな。

人間とは何かと突き詰めていけばロボットとの違いを明確に示せないが、人間は瞬時にロボットと人間を区別できる。それについていっている感じです。

June 09, 2005

バランスが悪いからバランスがいい

大道芸のおっさんを見て思った。そのおっさんは、円柱(筒)の上に板を置いて、その上に乗っかりバランスをとっていた。右に行ったり左に傾いたり。ぎこちないと言うか、プロなんだからぎこちないという表現は違うだろうが、なんか右に揺れたり左に揺れたり。でも、落っこちない。すなわちバランスが取れているのである。右に行ったり左に行ったりとバランスが悪いのに、落ちない=バランスが取れている。

もし、右に行ったり左に行ったりしていなくて、止まっていたら絶対に落っこちている。でも、とまっているということはバランスが取れていると考えることができる。このようなバランスがとれていると、結果としてバランスは取れない。

なんかそんな変な、当たり前なことを見て思った。一見するとバランスの悪いような状況のほうが安定している。バランスが取れすぎているほうが不安定だって感じで。


あと、一番じゃなくても社会的にというか自然界では生きていけるということをもう少しわかる必要があるのかもしれない。わかるというか、考え方が極端なので真ん中というか、中庸というか、そんな状態でも勝ち抜けるサバイブしていけるといことを。
おいらはなんでも一番、ベストという思考なので。

June 07, 2005

言葉の背景の再認識

言葉というものには生まれてきた背景がある。しかし、その言葉が生まれ、広く使われると言葉が生まれた背景は忘れられ、失われていく。言葉だけが切り取られた存在となる。

そこで、今一度言葉が持っている背景を考える。そうすると面白い。それは辞典などで言葉が作られた背景を調べるのもいいが、自分でいろいろと思索するのもいい。その言葉に対する見方が変わる。

言葉の背景を含めれば、もともと含まれてしまっているような形容詞をある言葉に付加して使うことによって言葉に深みが増すことがある。これは厳密に言えば価値のないことかもしれないが、言葉が切り取られた現代では大きな意味を持つし、言葉の質感を再認識するいいきっかけになるんだろう。

この場合、言葉というよりも単語といったほうがいいのかもしれない。

June 06, 2005

永遠

ZARDという歌手がいます。

その人の歌で「永遠」というものがあります。その歌がここ何ヶ月か頭の中で流れます。

君と僕との間に永遠は見えるのかな。これは恋愛の文脈で書かれた歌詞かもしれません。しかし、なんかこの文章が気になるなる。永遠。永遠。永遠って何だ。あるものとあるものの間に関係性があって、その関係性の中に永遠は生まれるのか?

永遠を考えるとき時間的なものとしてとらえる。となると時間とは何かを考えないといけなくなる。しかし、この永遠なるもの時間的概念におけるものだけではない気がする。なんかもっとほかのものに横たわっているものの気がする。

May 27, 2005

やるべきでないことをやるべきであるということ

じっくり考えるとやるべきではないこと、そうあるべきではない状況になったほうがいいこともあると思う。

われを失って、何かに没頭してしまう。周りが見えなくなって、周りに迷惑をかける。やるべきではないかも知れないが、一度こういったことを経験するのは意味があるんだろう。

自分とその他のもの

自分とその他のものに対する意識の違い。

なぜ自分のものは汚くなくて、自分以外のものは汚いと思うのか。


そういえば自分(身体的な意味で)は、小さいころはイマイチ明確でないようだ。成長する段階で、自分の意思で手が動くことや物に触れる過程を通して自分の腕を自分の一部であると認識するようになるらしい。


:後から追加:
脳と魂という本で玄侑宗久さんが「」自己っていうものを形成していくときに、自己と清潔ってどうかかわるかっていうと、清潔は自己なんですよね。不清潔って根拠は何かっていったら、自己外なんですよね」といっていて、ああ、俺の感覚と一緒だと思った。


May 25, 2005

口に出してしか読めなかったはず

今、ビル・ゲイツ未来を語るを読んでいる。結構長い本で時間がかかっている。しかし、読み続けられるのは面白いからだ。正直ビルゲイツという男のことをなめていた。もちろん、世界中の人がみんな使う商品・サービスを作り上げ、そしてあそこまでの企業を作り上げ、社会の変化を先導してきたのだからすごいとは思っていた。だが、「そうはいってもね」みたいな感情がどこかにあった。

約10年前に書かれたこの本を読んで、すいませんという感じになりました。そりゃ、ここまでの企業になるよと純粋に思った。抜群にすごい。情熱的であり冷静沈着である。すごい。

まあ、それはいいとして、本を読んでいてふと思った。小さいころは黙読なるものができなかった。目で読むことができなかった。目に字が入ってきて読もうとすると自然と文字を口で読み上げてしまっていた。これは黙読の練習をするうちに、口で話さなくなった。練習は文字を読むと口でも読み上げたくなるのを我慢して、口を無理やり閉じて本を読んだ記憶がある。あの、話したいのに「ぐっと」こらえるような感じで。

僕は完全に話しながら考えるタイプだと思う。だからかもしれないが、ちょっとなぜか考えてみた。そもそも、日本語というか言葉を身につける過程として、一番最初にやったことというか、まあ自然になんだけど、実際に大人が話している言葉を聴いて身に着けた。子供は文字なんか書けないけど、話せる。それは大人の話を聞いてなんとなく身につけていったからだ。ということは、もともと人間の脳には言葉というものが音声として記憶されている。音声があってその上で文字があるという記憶なんだろう。だから、小さいころ本を読むと(文字を見ると)、音声の記憶とリンクして、口からも発したくなってしまう。ということなのだろう。

しかし、大人になると口に出して本を読んでしまう人は少ない。ということは、脳の中で音声と文字のリンクが弱まったと考えられる。となると、人間にとっての言葉の意味合いも、捉え方も必然的に変わってくるのだろう。どのように変わるかとか、気になる。

あと、言葉なんてのは本当に話したり、文字になっているものよりも、抑揚とか顔の表情などの文脈から意味を理解しているのだな。だから、外国語を学ぶのも音声だけよりも映像、映像だけよりも生の現場のほうがよい。話している状況を感じ、顔の表情や抑揚、その場の空気から読み取って、現地の人の思考パターンを感覚的に理解したり、文脈と言葉の関係性を理解することによって言語を習得できるのだろう。そのトライアルアンドエラーの繰り返しによって言葉は習得できるのだと実感。

だから、古典とか苦手なんだろう。私が電話が苦手な理由(以前のエントリー)も文字からよりもその場の状況から意味を理解するタイプなので、古典のように完全に文字しかないものから理解することが難しいのだと思う。

May 24, 2005

人類の進化とは

人間は昔と比べると苦味を感じなくなったらしい。この記事は非常に興味深かった。安全なものばかり食べるからこうなってきたのだろう。ということは、苦くても体に害のないものをさらに見つけて食べるようになるのかな。

人間の進化は不思議だ。先日読んだのだが、人間は環境を変えるようになったので人間自体の生物学的進化が止まった。というようなことを以前のエントリーで書いた。ある程度こても真実であり、やはり人間は生物学的な変化をしているというのも事実なんだろう。

で、人間の変化は面白い。たとえば、この苦味の話。かなり極端な例になっている。ひいじいちゃん世代は危険なものも多くあって、そのような状況で食べていた。しかし、じいちゃん世代は比較的安全なものを食べた。すると、おやじ世代からは苦味遺伝子が減りはじめる。そして自分の世代は著しく苦味遺伝子が減っている。実際に苦味遺伝子を食べなくなった世代の遺伝子は変わっていないのに、その次の世代の遺伝子は変わっている。なんか不思議だ。そんな経験による変化は遺伝子に刻み込まれ次の世代はそれに対応した遺伝子を持つようになっている。そうやって変化が遂げられる。たぶん、一歩進んで二歩下がる的な変化をしているのかもしれないが、全体として前の世代の習慣の変化が
遺伝子にのっかり、次の世代には遺伝子が変化する。

あと、全体の平均というのもすごく面白い。平均を取るとある傾向が見られるのは当たり前なのかもしれないが、ばらばらなものが集合することにより傾向が生まれてくるというのはなんか面白い感じがする。


苦味感じる遺伝子、人類進化で急速に退化
 苦味を感じる遺伝子は人類進化の道のりで急速に退化したことを、総合研究大学院大学(神奈川県葉山町)の郷康広研究員らが突き止めた。
 苦味への感受性は、毒を体内に取り入れないよう備えられたとされているが、人類は、発達した脳で毒を学習し、実際に食べなくても見分けられるようになったことが急な退化の原因らしい。この成果は米遺伝学会誌の今月号に発表された。
 苦味を感じるセンサーを作り出す遺伝子は人類では25個が働いている。ほかに機能を失った残がいのような遺伝子が11個ある。
 研究チームがチンパンジーやゴリラ、マカクザルなど12種の霊長類の苦味遺伝子を調べたところ、これらが持つ残がいの遺伝子は人類よりも少なかった。さらに、1個の苦味遺伝子が機能しなくなるのにこれらの霊長類では平均して約780万年かかっていたのに対し、人類は約200万年と退化が3・9倍も速かった。
(読売新聞) - 5月23日3時7分

未来を語る

ここ二日ぐらい面白いことを考えていたんだけどなんか、メモするのも、記憶していることもできなくて忘れた。擬似旅を提供するサービスとか面白そう。

それはいいとして、未来を語る。ビルゲイツさんが10年ほど前に書いた本。去年ぐらいに100円で買った。新しさが命のカテゴリーの本で微妙に出版された時期が古い本を買うのが好きで、なんでかっていうとその本を今読むからこそ面白さが伝わることがあるから。

このビルゲイツ未来を語るは面白い。まだ50ページしかよんでいないけど、面白い。おもしろい。

先日のiモード事件簿。も面白かった。と思ったら、友達も同じ本を100円で買い読んでいた。それも時期はずれな本なのに同じ時期に。iモードも未来を語るも。

まあ、それもいいとして、まじめに未来を語る予測する会があったら面白い。少人数で定期的に。コアな人は5から8人ぐらい固定で3人から5人毎回ゲストが来る感じ。それで分野ごとにテーマを決めて毎回語る。アカデミーオリンピアみたいな感じ。ああ、こんなのやりたいなー。

May 20, 2005

結局は権威とか組織とか

結局は権威とか巨大組織とか社会的評価そういうものなのかなぁ。個人的に、こういった類のものはあまり好きではない。なんかに群れて、群れることによって力を持ってそれで南下しようとしているのが好きじゃない。そういったものをぶっ潰すのが面白いという感覚がある。

しかし、この社会と言うものは多くの人が持たれ合いながら、支えあいながら成り立っている。その時点で、組織と言うものが力を持つのは当たり前で、どうしようもないことなのかもしれない。それはでかい組織だったり、強いつながりを持ったもの、権威を作り上げたものが力を持つのは必然なのであろう。

さらに、このようなエスタブリッシュされたものをつぶすのは面白いと自分で言ってみたが、もしつぶした時点で、つぶした側がエスタブリッシュされたものになってしまうのだろう。

まあ、それでもなんか権威とかに盲目的に寄り添ったりするのは全く好きになれない。

なんか、この中間のような状態はありえないのだろうか。ありえないのだろうかと自分で書いておきながら、これからの世の中はそんな、中間のような世の中になりそうな気がする。感覚的に。いろいろ考えていないし、他のものをからめて考えていないので、また考える必要があるな。今後の社会がどうなるかを含めて。

距離と制御可能範囲

距離といってもいろいろな距離がある。物理的(地理的)な距離もあれば精神的な距離もある。自分が近いと思うか遠いと思うか。

また、その距離によって自分がコントローラブル(制御可能)かどうかが気になる。制御可能と思っているかどうかと言うことだ。では、なぜその距離を制御可能と思ったのだろうか。

何かを思いついてから、面白いと思うまで

なんか、いろいろやっていたり、いろいろ考えていると、こんなことどうだろうか、これをやってみたいとか思いつくことがある。それは、Aというものがきっかけで、Bという記憶が呼び起こされ、AとBの一部が偶然つながって新たなものが生まれるからだろう。これ以外にも、新たなアイデアが創造されることがあるが、今回はそれが問題ではない。

その思いついたアイデアを自分の脳が面白いと思う不思議なのだ。面白いと思うまでにタイムラグがあるときがある。それは、そのタイムラグの間に思いついたアイデアに肉をつけていき、さらによいアイデアになったから面白いと思ったとか言うのではない。思いついたアイデアそのままなのだが、ちょっと時間がたつとなんか面白そう。これをやってみたい、やろうと思うのである。このちょっとの時間と言うのは本当にちょっとの時間のことだ。10分とかそういう単位ではない。1秒もないかもしれない、それくらいのことを言っている。普通、何か考えるときはどんどん考えが進み、そのような空白の時間はあまりない。空白の時間があってもそれは考えている時間だ。このちょっとの時間(1秒ぐらい?)は、感覚的には空白の時間、宇宙が、世界の時間が止まった感じの時間のことを言っている。

このときは脳がどうなっているのだろう。このような感覚はあまり経験することがない。このような空白の時間を感じたときはだいたい良いことがおこる。このときの脳波とか見てみると何か新しい発見でもないのだろうか。ただ、この状態は意図的に作り出そうと思っても感嘆には作り出せないので、研究は難しそうであろう。こういう感覚はみんなするのだろうか?

日常会話で単語を気にしていない

ちょっと英語を聞く機会があった。で、まあ聞いていたんですけど意味が全て分からないのです。まあ、それは仕方がないとする。が、単語は大体分かる。単語は耳から入り、脳が認識している。が意味を持った言葉として理解できていない。

日本語は全ての単語を聞き分けているわけではない。文章としてざっくり耳に入り、抽象的な意味として理解している。

ということは、英語は単語で理解してしまっている。一連の文章として認識できていない。それは単語から勉強したからかもしれない。日本語は単語を勉強することなく文章で耳からなれた。この違いかも。

まあ、英語も聞きまくって文章として分かるようになることが大切なんだなと、改めて思いました。

May 18, 2005

曖昧な記憶からしか産まれない感情や感覚

曖昧な記憶からしか産まれない感情や感覚はあるのか。曖昧な記憶と言うのは、ここでは脳にだけに保存された記憶ということにする。何かあったときに記録として文字にしたり、写真にしたりそのようにしていなくて、脳にだけに記憶されているものだ。

この場合に呼び起こされる感情と言うのは、文字として記録したものによって呼び起こされる感情と異なるのだろうか。言ってしまえば、文字を認識するときに使う脳の部位と、写真を見るときに使う脳の部位、脳にある情報を参照するときに使う脳の部位が違う。よって、生まれてくる感情も違うといえばそうなんだろう。

でも、電車の中でふと思ったことはそういうことじゃなくて、どちらのほうがリアリティを持つのか。どちらのほうがわくわくするのか。写真の記録、文字の記録、脳の記憶、絵の記録それぞれどんな感情を呼び覚ますのだろうか。なにか傾向はあるのだろうか。気になるところである。

May 16, 2005

同じことを書かない、書けない

同じことを書かないし、書けない。同じ私という人間なのに、そのときによって出てくる言葉が違う。決して、同じ文章を書くことはないし、またかけないであろう。(極端に短い文章は別)

それって、当たり前のようでいて不思議なことである。なんか、一瞬ふっと思って不思議で仕方がない。当たり前すぎて、どこから考えればいいのか、考えるきっかけすら思いつかない。

一回性という言葉がある。厳密に言えば同じ状況というのはおとずれない。それは時間が過ぎ去っているということもそうだし、脳が同じ状態ということは絶対にないからであるのかもしれない。ということは、言葉というものでの表現では本当に思っていることを伝えることが出来ないと思うことも多々あるが、その表現はその時しか生まれなかった、そのときだからこそ生まれた言葉なのだろう。ということは、その自然に生まれてきた言葉がもっとも思いを表した適当な表現なのかも知れない。

なんで、こんなことを思ったかというと、昔の自分の文章を読んで「あ、同じようなことを思っている。でも、こうは書かないな」と思ったから。正確にはこのように考えたわけではないが、そんな感じがした。いきなりパッと思ったので、どのような思考回路をたどったのかがイマイチ分からない。こう、一瞬のひらめきを自分でたどることは出来ないのかなー。

で、同じことを書けないということは大変なことだと思うのです。同じ人間が、同じようなことを思っているのに、生まれてくる言葉が違う。当たり前なんだけど、なんか不思議で仕方がない。これは大変なことだと思うんだよなー。

結果としての実際の行動はどんな意味を持つのか

結果としての実際の行動はどんな意味を持つのかが気になります。この表現は遠回りで分かりにくいのですが、ようは、実際に行った行動は本人に対してどんな意味合いを持つのかということが気になるのです。このとき、前提条件として行動を行う場合に選択肢があることとします。やるかやらないか、AをとるかBをとるかなどの選択肢があることです。


それは、その本人の意思決定過程と、その意思決定を行ったことによる本人への影響、最終的にある行動をとったということは、本人の意識下における意思決定過程を通り越えた本人の本心が存在するのか。また、その行動をとったことによる本人への影響です。

一番気になるのは、「最終的にある行動をとったということは、本人の意識下における意思決定過程を通り越えた本人の本心が存在するのか。」ということです。これは人それぞれ、かつ状況によって変わるといってしまえばそれまでです。

でも考えて見ます。私がAとBという選択肢で意思決定できない状況であるとします。で、結局どちらかを選択できないとします。この場合における選択できないとは、項目を作りメリットデメリットを比較しても、論理的に考えても選択肢を決定できないということです。で、この場合に直感で、なんとなくBを選んだとします。こうした場合に、自らの意識による(論理的に)判断は出来なかったが、それを通り越した本心が選択肢を決定しているのかが気になるのです。

これは個人の主観であり、世の中に「たられば」というものがないために比較しようがないので答えが出ないのかもしれないんですけど、気になるところです。

May 15, 2005

繰り返すとよく感じるようになる?

なんとなくいいなと思った曲、これを聴き続ける傾向にある。

で、今日はLie Fu 「Life is like a boat」をざっと50回聞た。はじめからいい曲だとは思ったのだが、聞き続けて50回ぐらいになったら、極に対する印象が変わった。

語学でも何回も練習し、繰り返し繰り返しなれることが基本だ。そもそも、論理というものの基礎にのっとったもの以外は繰り返しによる慣れが重要なのかもしれない。芸術や言葉はそれに当たるだろう。繰り返しだ。繰り返すことによってなんとなく分かる。これが重要なのだ。これがこうだから、結果としてこうなるといったものは、あまり繰り返す必要はない。それは論理というものの支えによって理解できるからだ。しかし、そうでないものは慣れによって理解する。こうだっ、と分からなくても分かっているものが数多くあると思う。「インターネット」って何といわれても分からないかも知れないが、日々使っていればなんとなくこんなものとイメージが想像できる。論理というものの基礎となる言葉や芸術は感覚的に理解するしかない。そのためには、何回も何回もそのものに触れるしかない。触れるうちになんか分かってくる。それは明確に分かるのではないかもしれない。だが、このなんとなく分かるということが重要ナンだと思う。

聞きなれるということは、脳をあまり使わなくてもよいということなのだろうか?だから何かするときのBGMによいのかもしれない。

よく歩きなれた場所を歩きながら考え事をすると、なんか創造的になる感じがする。それはなぜか。そもそも、音楽を聴いたり、歩きながら考えるということは、考えるほかに音楽を聴くことや歩くことに脳を使わないといけない。もちろん、初めて聴く音楽や初めて歩く道と比べれば脳を使わなくていいと思う。がしかし、何かを考えるならば、BGMなしで、歩かないで考えたほうが脳をフルに使えるはずである。では、なぜBGMがあったほうが、歩いていたほうが考えが進むのであろうか。

まず、歩くことや音楽を聴くことに使う脳が一部分違うのかもしれない。もし脳の使う部分が完全に違っているなら、初めての音楽でも初めての道でも、聴きなれた音楽や歩きなれた道と同じ状態のはずである。聴きなれた音楽や歩きなれた道のほうが考えが進むということは、考えることに必要な脳の部分が一部かぶっていて、一部異なっているからだと思う。一方で、全く一緒ならば考える能力に影響を与えすぎてしまう。一部分脳の仕様部分がかぶることによって、考えていることに新たな情報(刺激)が与えられ、新たなものが創造されるということなのだろうか。

話が脱線した。繰り返し聞くとさらによい曲に聞こえるのはなぜだろうか?繰り返し聞くということは、脳に安心感を与えるのではなかろうか。初めてやることには恐怖感が伴う。くつろいだ状態ではないということだ。繰り返すことによって、そのものやことは安全という状態で安定していると高確率で考えられる。すなわち自分にとって害がないから、安心。ということになるんじゃないかな。安心ということはよいと思っていたものをプラスの方向に誘導する材料になると思う。

また、繰り返し過ぎると飽きるということもある。これは、同じもので安定しているが、安定失すぎると不安定になるということではないか。同じものの繰り返しでリスクはないが、リスクがないところに進歩はない。すなわち人間は環境変化に対して変化しなければ生存していけない。だから変化を求める。その安定と変化の瀬戸際で心地よさというものは存在しているのだと思う。厄介なものだ。まあ、恒常的に心地よいものはないということなのだろう。

May 14, 2005

脳で作り出されたイメージを残す

脳で作り出されたイメージを残す

文字にしても、言葉にして話しても、伝わらないことはたくさんある。

この脳で作り出されたイメージ、明確なアウトプットとして出しにくいもの。どう表現すればいいのであろうか。この再現不可能な一回性のものを普遍へとすることは意味のないことなのか、意味のあることなのか。

そもそも脳で作り出されたイメージって何なんだ?

May 13, 2005

「場」の記憶

私の記憶力の悪さは多くの人が存知でしょう。

語学が苦手、人の名前がおぼわらない。などなど記憶力に関して問題だらけ。

先日面白いことを読んだ、記憶力がいいほうが低俗動物であると。人間は脳の仕組みとして記憶力がよくないように出来ているらしい。

記憶力がよすぎると問題が多い。融通が利かない。新たなものを作り出すのに障害があるということらしい。

私は場の記憶に関しては強いと思う。イメージとして覚えている。そのとき話した要旨も大体分かる。その場の小物の色とか、本筋とはなれた細かいイメージ記憶が残っている。そこまで覚えていなくても、その時の雰囲気は思い出せる。どんな感じだったかを覚えている。それも、その場に居合わせたほとんどの人が記憶にない、ことをケッコウ鮮明に覚えている。

また、話が変わるが私の提唱する「曖昧記憶法」は脳の記憶力の悪さ。脳の仕組み自体が曖昧であることとつながっているのだろうか。

May 11, 2005

頭が硬くないほうがよいようで、ないとワクワクしない

進化しすぎた脳を読み終わった。ケッコウ面白かった。後半は新目の研究について紹介されていた。科学的なアプローチが多かった気がする。

それとは、関係ないが、駅を歩いていた。すると前に同じ商品と思われる広告が並んであった。
グリコの野菜ジュースの広告か健康食品の広告だと思う。それを駅で見た。その広告は普通のポスターのようなものだった。しかし、ちょっと目に止まったものがあった。そのポスターの真ん中に、紙パックジュースの殻がつけられているようだった。ああ、いたずらされていると思った。これはいたずらかと思った。歩いて、近づいて確認してみると違った。ポスターの立体ディスプレイとして、殻の紙パックが貼り付けてあったのだ。やられた。一本とられた感じだった。

ちょっとへちゃけた紙パックを見た瞬間にいたずらと思ってしまった。これは自分の頭が堅くて固定概念でかためられているからなのかも知れない。そのことにショックをうけた。常識とか、凝り固まった考え方に染められてしまっている。

しかし考えてみればこの固定観念があるからこそ衝撃的な感情を感じることができるわけだ。今まで自分の中で常識だと思っていたことがある、それが何らかのきっかけで崩れ去っていく。今までの当たり前が通用しないものに出会う。このときの出会いは非常にガツーンとくるもので、心地よいものである。あの衝撃的なパラダイムシフトは私の楽しみでもある。この心地よい感覚は固定観念がないと生まれないものなのである。固定観念があるからこそ、それが崩れさる喜びも味わえる。

固定観念が嫌いといいながら、それがないと味わえない固定観念の崩壊を味わえない。なんというものであろう。

まあどこまで型にはまった見方をしてしまうかというのは、経験の豊富さや思考の深さなどに関係してくることである。いくら、固定観念が崩れようと、いくらでも固定観念は壊され続ける。頭の固い私の固定観念はいくらでもあって尽きることはないだろう。ということは、より視点を増やして固定観念をひたすら壊すことをしていけば、嫌いな固定観念も少なくなり、固定観念が崩れる楽しみも多く味わえるのかな。

May 10, 2005

最近思うこと

数日前までは、旅行のことばかり考えていた。
この2日は脳のことや意識のことが気になる。
それは本をよんだのと、話を聞いたから。

そんなことは言いつつも、明後日雲取山へ大学の友達と3人で上ってくる。ちょうど一年前に三頭山に同じメンバーで登ったなと思い出した。あのときの新緑の美しさはたまらんかった。今回も新緑が楽しみだ。

そんんでもって、マイルがたまっているのでインドネシアにタダでいけることが判明した。それもネットでチケットが取れるので無茶苦茶簡単に。空港利用税などが1万1000円かかるが、期限が切れる前に使わないともったいない。

May 09, 2005

想定外

想定内Tシャツがはやるこの頃いかがお過ごしでしょうか。
私は元気です。

この書き出し方は想定内でしょうか?
はたまた、想定外でしょうか。

脈略のないこと、起こるとしても確率が低いと勝手に思い込んでしまっていること。
自分が経験したことなくて想像がつかないこと。

このようなときに、突拍子もないことが起こったとすると「想定外」なんだと思うのです。

じゃあ、想定内というのはその起こりうる可能性を全て予想し、対策を考えていたかというと、そうではないと思うのです。こんなこと起こるかもとちらっと考えた、思っただけで、人間の中では想定内なのだと思うのです。

で、想定内だと何だという話です。こんなこと起こるかもとちらっと考えた、思っていただけで、それが起こってもあせらないと思うのです。別にそれに対する対策があったわけでもないのに、あせらない。人間って不思議だと思うのです。本質的に、チラッと思っていただけのことが、実際に起こった時にどんなアドバンテージがあるかといえば、何もないと思う。しかし、それだけで実際に起こったときに余裕を持てる。

となると、ゆとりを持った状態からうまれる発想と、窮地に追い込まれたときにうまれる発想何が違うか。どちらが、よい発想(解決策)を導き出せるかは一概には言えないと思います。たぶん、その違いは脳が事前に考えたことだと、全く違うものととらえるとか?よく分からんとです。

なんか、feeling of knowingって話とか自己組織化とか気になる今日この頃です

脳の中で作られる想像と、それに伴って生まれる感情

脳の中で作られる想像と、それに伴って生まれる感情

May 08, 2005

自分はやっぱり見えない

今日、駅で待ち合わせをしていました。そして、おいらは改札のすぐ近くに立っていました。そして、横を見たら、隣の人がポケットから手を出すと同時に切符がヒラヒラと落ちていった。

しかし、その人は気がつかず。そんで、切符を探し始めた。カバンの中、ポケット、財布の中、さらには電話をして誰かにヘルプを求めようとしていた。ケッコウあせっていた。

ちょいと傍観していた。なぜなら、絶対に見つかるところにあったからだ。その人が目を斜め45度下に向ければ絶対見えるところに落ちていたのだ。それも、床は白で切符はオレンジ。無茶苦茶目立つ。でも、その人はあせっていて、そんな目立つものに目が行かない。不思議だなーと思い。傍観。人間の行動観察。

しかし、その人が気がつかなさそうだったし、おいらも時間になったのでそれとなく教えてあげました。

いつも思うけど、自分が当事者になると見えなくなるものってあるんだなー。つくづく感じる。これをいつも忘れないようにしないとな。

May 06, 2005

片足バランス立ちする不思議

人が片足でバランスをとる時の脳の不思議 

バランスを意識的にとっているが論理的に重心を考えてバランスをとっているわけではない。しかしある意味において数学的というか論理的にバランスをとっているから片足で立っていられる。無意識的に論理的にバランスをとっているんですなぁ。そのとき脳は相当な処理を行っているはずである!しかしその処理を人間は感じれない。これはなぜか。不思議ですな。

片足で立とうと意識的に思う。そうすると、人間は立てるわけですけれども、こっちにどれぐらいの体重がかかっているから、もう少し足の右側で踏ん張ってとかやっているわけじゃない。もっと言えば、右に12キロ重さが偏っているから、左にそれだけの力をかけてとかやっているはず。しかし、それは気がついていない。意識的にやっていない。けど出来ている。

意識的に行動→無意識での動き(処理)→意識的な目的の状態を達成。

こうなっている。最終的な意識的な目的の状態を達成しようと思ったら、それを行うための途中過程を具体的にどうやるとか人間は分かっていなくても、出来てしまっているんですよね。これって、すごすぎないですか?

片足バランスの意識と無意識はどんな脳の状態なんだろう?

これは走っているスクーターを見ていて、止まったら倒れるなと思い、人は止まっても倒れないことから考え始めました。

May 05, 2005

意識って

なんか、アメリカの消防士さんが消火活動で脳を損傷して意識を失っていたが、10年ぶりに意識を回復し言葉を発したらしい。

米ニューヨーク大学メディカル・センターのローズ・リン・シャー博士によると、脳に損傷を受けた患者が、こうした回復に至るのは、2-3年以内が普通とし、「10年というのは、ほとんど聞いたことがない。しかし、時にはこういうことが起きるのでしょう。理由はわからないですけどね」と驚いていた。

こんなことを書いてあった。おいらは10年たって意識が回復したことに驚いたのではなく、2,3年たって意識が回復すること自体にも驚いたのです。

その前に、意識がなくなるとはどういうことなのだろう?そのためには意識というものの定義をしっかりしないといけない。

となると、意識の定義。進化しすぎた脳によると、・表現の選択・ワーキングメモリ(短期記憶)・可塑性(過去の記憶)を満たすものが意識の定義とされている。ここでは「言葉」そのものが意識ということになっている。

今回のニュースの件でも意識を回復し言葉を発したとある。(言葉を話せても、黙っていたら意識がないことになるのか?という屁理屈は置いておくとして。)

で、なんで言葉を回復したのだろう?10年間言葉をつかさどる脳の働きが止まっていたから言葉を発していなかった、すなわち意識がなかったのだろう。だが、何らかのことが起こり、脳が動き始めた。そのため意識が復活した。ということは、脳の機能をストップして、何らかの刺激を与えることによって、脳の働きを復活させることが出来るのではないか。そうすれば、エネルギーを効率的に利用できるよなー。でも、それ以上に脳の働きがコントロール可能ってのが怖くもあり、面白そうでもある。

冬眠ってのは、意識がなくなるというものと何が違うんだろう。
特に、何も考えていないけど、ふと気になった記事だったのでエントリーしました。

April 23, 2005

信頼と喜び

世の中、本当に信頼できる奴は少ない。
この人なら信じれるって思う人は数えるほどしかいない。

信頼って言うのは、お互い約束をして守ることによって生まれるものだと依然誰かが言っていた。しかし、これだけじゃないと思う。日々の会話で嘘をつかないってのが重要じゃないかな。まあ嘘だけじゃなくて、話していて信頼できるって何か感じるものがある。無駄な隠し事はしない。率直に話しているように感じる。まあ、その人の顔を見れば分かるんだとおもう。本物の人間の顔は本物の顔をしている。

なんか、分からんがこの人は信じれるという人がいる。お互いの心を分かっているなという人がいる。毎日あっているからとか、なんかのプロジェクトをやって成功したとかだけじゃない。よくわからんが、信頼できると感じている人がいる。その人の考え方や行動も信頼できるというか、尊敬できる。その考えや行動を自分もその人がなぜとるのか分かる。また、その逆もしかりなんだろう。

そうやって、信頼できる人の行動や成果は自分のことのようにうれしい。別に自分が何かを成し遂げたわけでもないのに、うれしい。その人の考えや行動がある程度自分でも分かっているからうれしいのだろうか。こんな友達がいてうれしいと思いました。

本当におめでとう。今の気持ちを忘れないで、やって欲しい。そして、そこがどんなところであろうと、俺がどんな忙しかろうと、実際に行き、またその成果を目で見て喜びあいたい。

もちろん、俺も今の気持ちは忘れないし、精一杯やって日本を日本の一人一人を面白くしていたいと思う。

たぶん、十年後とかに話しをしてお互いのことを面白いと思える状態がベストな将来像なんじゃないかな。そんな日を楽しみにして。

April 21, 2005

甘いと思っていると甘さは増幅する

(無意識に)甘いと思っていると甘さは増幅するのかな。

何かを食べるとき、その何かを食べたことあったら事前にある程度の味を推測する。意識的にではなくても、食べたという経験があれば、無意識的に味が脳の中で想像される。食べたことなくても、テレビで見たり、似たような食べ物から味を想像している。

そうすると、実際の甘さよりも甘く感じる。のではないかと思ったのです。ただ、意識的に過剰に甘いだろうと意識しすぎると、その期待が大きすぎて実際の甘さよりもあまり甘く感じられないかもしれないです。

これは、ところてんをはじめて食べたとき、くずきりと思って食べたらものすごくすっぱかったという話を聞いて思った。

このエピソードから分かることは、脳が事前に甘いものが口に入ると認識していて、甘いという状態が脳で作られているからこそ、想像以上にすっぱいと感じる。こう思ったのです。となると、甘いという状態が脳で作られているプラス実際の甘さで、甘さが増幅しているのではないかと思ったのです。

なぜ感じる心は共通するか

CRM

アマゾンのこれを買った人は、こっちも買ってますみたいなの。
これは、イマイチなこともある。

しかし、ブログなんかをよんでいると、この人の感性とあうなーって人がいる。
さらに、なにかをしたときに感じること、何を良いと思うか、世の中的にはレアなものをいきなり持ちだしたり、レアな同じ行動をとる。

まあ、何個か重なっただけで、過剰に重なっていると感じてしまっているだけかもしれない。

April 19, 2005

感覚が変わる

人間は感覚が変わる。当たり前といえば当たり前だが不思議だ。

たとえば、小さい頃はテレビでやっているアニメにかぶりついてみていた人も、それから10年20年たてば見ていないだろう。ニュースを見たくなったりするものだ。

小さい頃、お菓子や甘いものを好きで好きで、それしか食べたくないと思っていた人が、年をとると塩辛とかいわゆる大人の味を好きになる。味覚が変化しているのだ。

これって、当たり前かもしれないが不思議だ。例えば食べ物で考えると人間の舌は昔も今も一緒だ。(正確には細胞は日々変わっているから違うのだろうけど。)なのに、人間が感じ取るうまさというものは変わる。舌も食べ物も基本的に変わっていない。すると、それをおいしいと感じる脳だけが変化していることになる。

さあて、ではなぜ脳が変化するのか?

過去の感覚経験で成長した?いろいろな経験をしていくうちに、感覚が成長していった。スポーツ選手が練習してスポーツがうまくなり、グローブの良し悪しが分かるようになったりするのと同じだ。毎日の食事は練習で、鍛えられていった。

体が欲している栄養分などを無意識のうちに脳が判断し、それが含まれる食べ物をおいしいと感じている。

周りの趣向が変化して、大人っぽいと言われるものを好きになっているのに自分だけ子供の頃と一緒だと恥ずかしいから、大人っぽいことを真似るうちに感覚が変わっていった。

よー分からん。

関係ないが、
なんかCMで人間は輝くために生まれてきたといっていた。なんか、うれしかった。

素朴な疑問

日々生活をしていると疑問だらけである。

本当に、当たり前の光景が不思議で仕方がなくなるときがある。

昨日もカラスがビルの上に止まった時に、不思議で仕方がなくなった。カラスは頭がいいと聞く。それを踏まえてよんで欲しい。カラスはビルの上の看板に止まったのだ。その看板は正方形のような形。だったら、一番安全な奥に止まればいい。なのに、一番角で一番落ちそうなところに止まった。人間なら、一番怖いと思おうところだ。なんで、頭のいいカラスがそんな危険なところにあえて止まるのか。

で、思ったのはカラスは空が飛べるから、上から落ちるという怖さがないのかもしれない。上から落ちても飛ばば良くて死なないから、高い危険なところに止まることはまったく怖くない。これは、海に入ると死んでしまう動物は海が怖いが、海へ入っても死なない動物は怖くないのと同じなのだろう。

それと、角に止まったほうが地上を見やすい。地上にはえさがたくさんある。だから、地上のえさを監視してすぐにとりにいける。こんな理由じゃないかな。

まあ、カラスの低空飛行は怖いです。って関係ないな 笑

April 16, 2005

で、何だ?→デナーダ

で、何だ?と言葉を発したら、デナーダという言葉を思い出した。
思い出したのだと思う。

たぶん、どっかの国で良くつかったっきがする。
スペイン?ポルトガル?そのあたりかなと思った。

ネットで調べたら、「De Nada デナーダ (どういたしまして)」だった。
じゃあ、ありがとうってナンだっただろう?

オーラは良く使った。Hi!のような感じだ。どこでもかしこでもオーラと言っていた。
うーん、思い出せなかった。
で、調べた。グラシアスだ。

ああ、そういえばそうだ。
思い出せないと、えもいえぬ気持ちになるが、分かってしまうとあっそうかぁ。という感じ。
たいした喜びもない。
マジックの謎解きもそう。
どうしても分からなくて、いろいろ考える。あのときの感情はなんともいえないくらいもどかしい。意地でも謎解きをしてやると思う。
しかし、どうしても解けず答えを聞く。あっそうか。という気持ちになる。謎解きをして考えている最中はあれだけ、脳に負荷をかけ、真剣に考えているんだから、答えが分かったらもっと喜んでもいい気がする。

なんでだろう。自分で解いたとしても、答えを聞いたときよりも少し喜びは大きいが、そこまでの感動はないと思う。なぜだろう。
あれだけ脳に負荷がかかっていることをして、その負荷がとかれるはずなのになんであんなにも喜びが少ないんだろう。不思議だ。

April 15, 2005

歌のタイトルも歌手名も知らない

歌のタイトルも歌手名も知らない。

私は、歌をけっこう聞くほうだと思う。雅楽から邦楽から洋楽からCM曲からなにからなんまで。

それは、小学生の終わりからだったと思う。
昔は、なんちゃらという歌手のなんちゃらという曲という認識を持って、そして実際に歌手名もタイトルも覚えていた。知った上で歌を聞いていた。

しかし、最近といえば、歌手名もタイトルも知らない。いいなと思った曲でタイトルおよび歌手名を知っている歌なんてほとんどないのではないか。だから、人に○○○って歌いいねとか○○って歌手いいねといわれても分からない。歌を聴いて初めてああ、この歌好きと分かる。

でも、連続で100回くらい聞いてしまうくらい好きな曲もたくさんある。しかし、タイトルも歌手名も知らない。別にどうでもいい。歌手が誰であろうと、タイトルがナンであろうと、チャートでトップ10だろうと、売れていようと、売れていまいと、関係ない。ただ、聞いて心地よければいい。それ以外に私は興味がなくなったのだ。

これは大学に入ってからだろう。昔はタイトルや歌手名というものに価値を感じていたから覚えていたのだろう。しかし、今は歌そのものにしか興味がない。

たぶん、これは歌だけじゃなくて、社会の見方とか様々なものに対する考え方も変化したのだろう。昔から、権威とかそういった類のものは嫌いだった。それは嫌いだったのだ。しかし、権威というものにすがるというか、知名度のあるものやみんなが良いとするものに頼っていた部分があった。しかし、自分は自分、良いものは良いという性格、それだけ自分に自信を持ったというか、ずうずうしくなったというか。まあ、社会不適合度が上がっているとも言う。名前を覚えなければコミュニケーションもとりづらくなるのだから。

新橋のど真ん中でタイムスリップした

先日、新橋を歩いておりました。
すると、信号が赤になり交差点で待っていました。
すると、後ろから声が聞こえてきた。

年は70ぐらいのおじいさん二人がなにやらしゃべっている。

A:ライブドアフェニックスはどうなったんかなぁ?
B:ああ、ライブドアフェニックスはダメで、楽天が入ったはぁ。
A:そうか、じゃあ、6チームと7チームやな
B:近鉄がなくなったがな

って話だった。おじいさんの口からライブドアフェニックスというなんとも不釣合いな言葉が出てきて驚いたのもつかの間、おいらの脳は昔へ戻っていた。

そのおじいさんたちと俺だけ少し前にタイムスリップしているようだった。ライブドアと楽天どちらが新規参入するかのニュースが毎日のように報道されていたまさに、あの頃に。

なぜだろう、自分の頭からほかのことが抜け、目から入ってくる周りのものからの情報もなくなっていた。なんか、そのおじいさんの話しかアタマに入ってきていない感じ。

その当時の他の記憶も思い出し、現在というものが存在しているのかもあやふやになった。まさに、今がライブドアと楽天が参入を争っている、まさにそのときであるかのような感覚。

そして、ふとカトマンズを思い出した。カトマンズの町を夕方歩いた。完全に、あれはタイムスリップだった。今回のおじいさん現象が町中で起きていた。町中が過去だった。なんか、ドラえもんのタイムスリップみたいな感じ。

April 12, 2005

人間の気持ちと行動

いやー、人間のなんとなく感じる気持ちと、論理的というか客観的な数値による分析がずれたとする。
例えばAとBの選択肢があったとする。感覚的にはAがいいとする。しかし、客観的データなどをもとに評価するとBがいいとする。

すると、私はなんとなく感じる気持ちを重要視して客観的に出てきた優位な数字をいじりたくなる。
すなわちBの評価を何とかして下げようとして、BよりもAを客観的にも勝っているようにしたくなる。というか、そのような行動に出る。

すなわち、自分のなんとなく感じる気持ち、感性のようなものを一番重視している、重視したい、気持ちに客観的裏づけを無理やり合わせる。

このような行動を私が取るということは、数字を信じるというよりも自分の感覚を重視する人間というものなのだろう。そういう性格と分かったなら感覚を重視するべきなんだろう。そうしたほうが、自分にあっているのだから。

選択肢があって、自ら納得して決めていれば後悔はないはず。あとから、ああしとけばと思わないくらいやれるだけのことをやればいいのだ。

もし世の中に、

もし世の中に、偶然があるとするならば全ては偶然なのかもしれない。
もし世の中に、必然があるとするならば全ては必然なのかもしれない。

もし世の中に、「もし」があったなら。

だが、世の中に「もし」はない。

April 09, 2005

24

24って数字をみてどう思いますか?


この数字に何か深い意味があるのか?

とあるものの誕生日の例は24日ばかりなのだ。

それは私が24日生まれだから気がつくのかもしれない。

年、月はときによって違うときもあるが24日だけは変わらない。

どうしてだ24日。

響きがいいのか?

April 08, 2005

作り笑顔から考える

ちょっと、状況を説明するのが難しい。
まあ、以下のような状況を見てふと思いました。

ある人がトイレへ入るために、ドアを開けた。すると場所が狭く、トイレのドアが座っている人のいすにゴツンとあたった。すると、トイレに行く人がすいません、という。それに対して座っていた人が笑顔で頭を下げた。

と、これを見ていたのです。いつでもどこでもありそうな光景。でも、これを見たときなんか変な感じを覚えた。人間は面白いと思っていないのに笑顔が作れるんだと。そんなもん当たり前だ。多くの人がいる社会では作り笑顔も必要で、心の底から面白いとおもっていなくても笑顔がでるのだ。作れるのだ。

動物もこの能力を持っているのか。動物も作り笑顔をつくれるのか?もし動物がこの能力を持っていなかったら、人間はいつこの能力をつけたのか?それに、どんな理由から作り笑顔の能力をつけたのだろう?

人はしらない間に心の底からの笑顔の時に、どの筋肉を使うかを脳が判断しストックして作り笑いをする。 笑顔が他人にどんな影響を与えるか人は本能的に分かっているからこそ、作り笑いをする。しかし感情そのままの顔をするときと作り笑いをする時、人は戦略的な判断してる 。作り笑いがうまい人は繊細で敏感な人なんだろう、したたかでいやらしい人でもあるかもしれないが。他人の笑顔の要素を分析し、自分の笑顔造りに意識的・無意識的に応用している。 

人は人の顔の表情からウソかどうかを判断できる。話を聞かなくても顔だけでもなんとなく嘘と感じることもある。 無意識のうちに嘘の顔の要素をしり判断しする能力をもっているようだ。数値化されないし、脳がどう処理しているかもかなり不思議だ。

書き途中、考え途中、何もまとまってないけど、いいや。

April 05, 2005

理想は理想であるからこそ理想である

理想は理想であるからこそ理想である。
と当たり前のことを言ってみました。

何かを得れば、さらに今までは知らなかったもの欲しくなる。
それと一緒で、理想という完璧なものはない。

青い鳥を追い続けることもいいが、それは本質的には存在しない。
心の中にのみ存在するのである。

April 04, 2005

雨のち晴れの日は脳が疲れる

雨のち晴れの日は脳が疲れる。

私は意外とタフであまり疲れたとか感じない。鈍くて感じないのかもしれない。大学に入るまで疲れるという感覚とか分からなかったし。。。まあ、海外行ったときでもケッコウタフだし、長時間頭使っていてもあんまり疲れない。まあ、めったに使うことがないからかも知れないが。

疲れると感じるのは、何が起こると脳がそう認識して、疲れるという言葉が脳に浮かぶかは知らないが、その一連の流れのどこかが故障しているのかもしれない。まあ、こんなことを考えてしまう時点で、故障していると言われればそれまでだ。

で、なんで雨のち晴れの日は脳が疲れるのかってこと。

雨のち晴れという前提を説明する必要がある。まず雨が降っている。これは、家を出ているとき雨が降っていると考えてもらいたい。すなわち、家を出るときに傘を持って出ると。しかし、のち晴れだ。用事がすむと雨がやんでいる。ということは、傘はいらない。しかし、持ち帰る必要がある。(金があって、物を大切にしない人は、放置するのかも。そういう人だったら脳は疲れない)そのためには、傘を常にもって移動しなければならない。家に帰るまでには、用事のあった場所から出て、歩き、信号で止まり、切符を買い、電車に乗りとまあ、たくさんのことをする。その間に傘を置き忘れてはいけない。だから、傘を持っていないとと常に考えておかなければならない。それを記憶しておくために脳を使わないといけない。普通の人なら、ほとんど脳を活動させずに、傘を持ち帰るということを記憶出来るのかもしれないが、私はこのような記憶に人以上に脳を使わないといけないように感じる。だから、常に脳を活動させていないといけない。だから疲れるし、周りの変化だとかにも気がつきにくくなる。ってことだ。前にも書いたが、私は小学生のころに、体育の服装の袋を落としてきた。家に帰って、親に言われるまで気がつかなかった。道を戻ると、何の変哲もない、何か止まる要素など何もない道のど真ん中に落としていた。というように、物を持っているということが苦手である。カバンも手提げを嫌っていた。その理由は忘れるから。そういうと、何度か馬鹿にされ子供じゃないからといわれたが、忘れてしまう。このような能力が著しく欠如しているようだ。いつも同じものをもって習慣化すれば、忘れない。だから、同じカバンをいつも持つ。みんなハイカラな人は良くカバンを服に合わせて変えるが、私はそんなことしたらカバンを忘れてしまう可能性が高い。まあ、カバンはファッションとか気にしないから変えないって理由でもあるな。

あと、足らない能力は演劇や映画(特に外国の)を見ること。正確には見ることは出来るが、理解するのが厳しい。演劇や映画は出てくる人が多い。名前が一気におぼわらないから、ついていけなくなる。さらに、場面がころころ変わるともう記憶していられない。そうなのだ、多分小学生とか幼稚園のころに漫画も読まなければ物語もまったく読まなかったためだと考えられる。そのような思考回路というか、脳の働きが活性化されていないのだ。こういうと、人の気持ちが分からないとか思われるのだが、人の気持ちはある程度分かると思います。物語とかはよんでいないけど、人の心を読むという行動は小さい頃からずっとしていたから。まあ、子供は漫画も物語りも読む必要があるな。事実が書いてないから読む必要はないと言う小学生はよくなかったな。でも生活で支障があるかというと特にない。演劇や映画、漫画、ゲームという娯楽を楽しむことが出来ないと言うぐらいかな。まあ、それなりの楽しみ方はあるんだけどね。あと、ひとつ。テレビドラマや小説は何とかいけます。ドラマは1週間置きなので、みんな前の回をケッコウ忘れているので、それを踏まえて作ってあるから。私でもついていけるレベル。小説も自分の速度で読めるからなんとかいける。しかし、場面が変わりすぎるややこしいのは無理。


転寝(うたたね)という、現実と夢のハザマのような脳の働きが不思議で興味がある。ノンレムとレムなんだろうか。なんか、転寝の状態は不思議だ。非常に興味深い。

April 02, 2005

子供の時間は大人の数倍

今日、松屋へ行った。
あの、ガッツリ系ファーストフードな松屋だ。
あの、メニューがたくさんある松屋だ。

ここは、ボリュームあるを食事を、安く、短時間で食べたいという人向けの店だ。
このような人は基本的に、若くて金のない男、ガテン系の仕事をしている人だと思う。
基本的に、腹にものを入れることを主目的としているため、殺伐と食事をする。
そんな店だ。

そんな店に今日行った。まあ、良く行くのだが。
で、偶然、私が食べ始めようとしたら、子供の声が。
子供3人と両親という家族が松屋に来た。
持ち帰りかなと思ったが、ところがどっこい、席について店で食うみたいだ。
子供は、「僕が選ぶぅ」とか、「やっぱこれがいい」とか「えーん」と泣き出したり。
店の殺伐と雰囲気とは程遠い。
ここに普通、来ている人はそんな幸せな家族を見たいとは思わない。
ここに普通来る人はそんな幸せな人が多くないのだから。
だから、ある意味殺伐というか、冷たい視線が家族にとんだ。

まあ、私もはじめは冷たい視線を送ったわけだが、そんな気分で飯を食べても面白くない。
天邪鬼な俺は、ふと気がつく。そして、面白くなった。
子供って、時間感覚が大人の数倍だなと感じたのだ。
それは、姉と弟の会話だった。
弟「えーん、えーん。食べたくない。あれが食べたい」
姉→弟「●●、うるさい。静かにしてよ」
弟「だって、だって、えーん。」
姉「早く食べなよ」
弟「食べ始める。(静かになる)」

2分後ぐらい。親と姉が何か会話

姉「いやだぁ。いやだぁ。(だだをこね始める)」

弟も姉も切り替え早すぎ。感情の変化が激しいな。
といっても、精神の状態が不安定とかではないように感じる。
この、感情(気持ち)の切り替えと精神の不安定って何が違うんだろう?

実際の行動を見ると同じように感じるんですけど。まあ、専門家に言わせるとぜんぜん違うといわれそう。知っている人教えてください。

で、どうして子供は気持ちの切り替えが早いのか?
記憶力が極端に悪いから、前のことを記憶していないのか?
大人よりも時間の進むスピード感が早いから、もう、すっかり前のことのように感じるのか?
経験が少ないから、新たらしいことが子供に与える衝撃が強すぎて、前のことなんか吹っ飛んでしまうのか?
実は、大人も同じくらい感情(気持ち)の変化は起こっているが、社会性(社会的な立場)のために押さえているだけ?それが、習慣化し気持ちの変化を感じなくなった?

どうなんだろうな?

まあ、親が子供を育てるって大変だなと思ったけど、人間が人間の脳が進化していく過程を見れることと、実験できることが楽しそうと、無責任な発言してみたり。

March 29, 2005

あるようでないもの、ないようであるもの

世の中には「あるようでないもの、ないようであるもの」が多い気がします。

あると思い込んでいただけで、実はなかった。
ないだろうとなんとなく思っていたのに、よーく考えると実際はあるもの。

じゃあ、具体的に何かって、前者は「意識」に関するものが多そう。すなわち、夢とか、何かの理由、とか。

後者は、物質的なもので日常に使わないもの。

まあ、それ以外にもあるんだけど。それ以外のものの方が重要なわけで。何で重要かって、何か今思い浮かばないから重要なんです。「あるようでないもの、ないようであるもの」なんだから、どっちにしろ自分では明確に認識していないんですからね。

思うとか、感じるの中間の意味を表すような言葉ってないですか?
これでは現せない領域があるんですけど。

March 27, 2005

なぜ、のっぺらぼうを望むのか

世界遺産を見ていた。
ベルリンをやっていて、空中から都市を撮影している映像の裏でソングオブライフが流れていた。

これを見て、実にいいな。いい。と思っていたのだが、ふと思う。いつものように、ふと思う。一人のときにしかこの感覚はない。人といるとこの、ふと思うことはほとんどないと思う。これもなぜだろう、書いていて不思議になった。これも今度考えるか。

純粋に、私は一人の時間が重要だとかよく言っているし、人に自分の生活を詮索されるのは嫌いだ、俺は俺ほかっとけ、俺がお前に何もしないから、お前も何もするなという考え方だ。まあ、一人が好きで、落ち着く。完全な精神的自由がそこにある。そのような脳がリラックスしている状態でしか、ふと思う脳の部分は働かないのだろうか。

まあ、それはいいとして、なぜ、のっぺらぼうを望むのか?といことだ。上空からベルリンを見た映像は、人間の目線から撮影した町と比べれば、平面だ。で、この前、グライダーからの眺めがいいなと思った。これも、比較的平面というかのっぺらぼうなかんじ。まあ、これだけだと、普段見ない高い始点から見るという珍しさを良いと感じているともいえる。しかし、普段見ない高いところからの視点だけではないと思った。なぜならウユニ塩湖がいいと思ったのだ。ここも、何もない一面塩だ。あと、モンゴルの草原も、海を見るのも好きだ。モロッコのカスバから見た大西洋とか、ロカ岬からみた海とか、ただ単に空を見上げるのも大好きだ。星とか見るのも好きだし。

なんか、平面が好きな気がする。平面等言うかあまりごてごてしていない、なんか、一面さあっーとなっている感じだな。

で、問題はなんでそれを見るといいと感じるのか。いつから感じるようになったのか。

まあ、いいものは言いと感じるんだから、それ以上の理由をああだこうだ言っても意味がない。いいとおもうもの説明するってのは、ただ単にみんなに理解してもらうためだけに後付の理由がおおい。いいと思った本質とは違う。でも、なんでだろう。

一面平面であるということ、特に私が良いと感じるのはかなりスケールがでかい。一面さあっーと同じようなものが続いている状態だ。だから、でかいもの永遠に続くようなものが好き、かつでこぼこしていないものが好きといえるのかもしれない。

で、なんでだ。なんでだ。普段見ていないもの、珍しいものを見たいというのがあるんだろう。それは、いろいろなものにいえる。だから、平面がすきという固有な理由にはならない。

なんだ、なんだ、わからんな。

March 26, 2005

どうでもいい奴をあしらうことの私にとっての大きな意義

タイトルからして、非常に危険ですが、実際にそう思ったので。。。

結論からいうと、一見どうでもいい奴はどうでもよくなくて、私にとって非常に重要な人ということです。

どーでもいいヤツをてきとうにあしらうということは自分にとって大きな価値があると思うのです。特に、私の場合はそうだと思うのです。私はしゃべりながら考えるタイプだから。とかそんなような理由があります。

 どうでもいい人にたいして話すときは、自分が情熱的にならない。自分が興奮して話すことがないのです。だから、冷静に話しています。情熱的に話すと周りが見えなくなってしまうと思うのです。

 で、てきとうにあしらうんだけど、間違っていたり隙があると突っ込まれるから客観的な事実を並べて常識をもとに論理的に話す。すると、突っ込まれないしさっさと話を終えることが出来る。

これが大きな意味を持っている。 自分では真剣にそう思っていなかったり、てきとーにしか思っていないこと、今まで考えてもいなかったこと、そういう発言だ。だが、客観的な事実を元に論理的に冷静に脳を働かせて発言しているので、普段自分が行わない作業である。だから、自分にとって価値があるし、けっこうあたることが多い。将来予測とかあたる。

 心の底から思っていない発言だが冷静だけあってあたるのだ。 こういう発言をするときはボイスレコーダーでとるといいんだろうな。 

March 21, 2005

超天邪鬼最大活用法

忙しいとき、しなければならないことがある時って、ほかの事をしたくなったりする。それに、ほかの事の良いアイディアが大量に思いついたりする。

熱中していること意外の頭が無茶苦茶さえる。しかし、普通はこれは邪魔者扱いされる。そして、いかにこの邪念を排除して、mustなことに熱中するかを考える。

勉強を例に取れば分かる。試験の前になると、他のことがやりたくて仕方がなくなる。試験が終わったら、あれをやりたいこれをやりたいと。でも、テストをクリアしないといけないので、部屋の遊び道具を片付けたり、ファミレスで勉強する。

しかしだ、せっかくさえた発想をしたなら、それを活かさないのはもったいない。だって、あれやりたい、これやりたいってテスト中に思っても、テスト後に忘れて時間をもてあますことが多い。じゃあ、メモすりゃいいじゃん。メモ。

俺もそうしよう。これだめだ、ともったり。やりたいけれども、今はやる時期じゃないとか思ったら、メモしたり、せっかくなんだからそれについて考えちゃおう。

イメージ(≒シュミレーション)とメモ(文字でも絵でも書き残す)これがポイントですな。

体で覚える

先日、ジュニアNHKスペシャルで体で覚えると言うことをやっていた。

小脳と脳のどっかが関係しているらしい。そんで、失敗したら電気信号を拒否するから記憶に残らず、成功したときだけ、電気信号を受け入れ記憶に残るとか言っていた。

で、体で覚えると、長期間立っても忘れないジャン。なんでだ?と思っていたら、今日、テレビ東京のサイエンスロマンSP最新科学が解き明かす“天才の脳”の真実!!〜人類の果てなき夢が生んだ…奇跡の物語〜 でやっていた。

小脳は一度記憶したことをほとんど忘れることがないらしい。

これが、答えみたいです。

でも、何でだ?体で覚える、ってのは手とか体とかなんかそういうものを使ったときに、小脳が働くみたいなことをいっていたんだけど、じゃあ、手を動かしたことでも忘れることがあるんだけどな。なんでだろう。その小脳が働くか働かないかの違いは何だろう。それとも小脳は働くけど忘れるのか忘れないのかの違いは何なのだろう?

それにしても、脳って不思議でたまらんよな。

March 20, 2005

自分が自分じゃなくなる

人間の細胞はどんどん変わる。私は数年前の私とまったく違う細胞だと聞く。すなわち私は私でない。のだが、私は私なはずである。脳の記憶などから勘案すると。

まあ、寝たら新しい人間に毎回変わっているかもしれないがそれを肯定することも否定することも出来ない。出来ないと言うか、わからない。

で、さっきエントリーした情熱大陸での角田光代さんの行動をみてふと不思議に思った。

彼女は最近の直木賞をとった作品のアイディアノートを見せるのは恥ずかしいと言った。しかし、幼稚園の頃の作文は躊躇することなく見せた。別に、どってことないことかもしれないが、不思議におもってしまったのだ。

過去の自分は自分じゃなくなっているのだろうか。と思ったのだ。

作文と言う完成品と、アイデアノートという未完成品という大きな違いがあって、そこが躊躇したかしないかの最大のポイントである可能性は、ちょっと横に置いておいて考える。

どちらも自分が生み出したものである。大きく異なるのは書いた時期なのである。30年ぐらい前のものは躊躇せず見せた。しかし、この1年ぐらいに書いたアイデアノートは躊躇した。

アイデアノートは自分なのである。だから、自分が見られるのは恥ずかしいから躊躇した。しかし、30年前の作文は自分じゃないのである。自分が生み出したものであるが、自分の中に明確な記憶がないので、連続した自分ではない。明確に今の自分と30年前の自分は断絶されている。さらに、記憶にあるないという次元を超えて、過去の自分は今の自分とは関連性がない(非常に薄い)ものだという意識を持っている。いつの間にか持ってしまった。それが、どのくらいの期間で、そういう意識を持つかはその時々だろう。まあ、いずれにしろ、意識の中で過去の自分は自分ではなくなったので恥ずかしくないのではないかな。と思った。

何らかの理由でリアリティがなくなった時点で、自分じゃなくなっている。大雑把に言えば時間がそうさせたんですよ。理由は記憶かもしれないし、その時の脳細胞が全て変わったのかもしれないし、なんかは知らないが。

すぐ眠れるときと眠れないときの違い

すぐ眠れるときと眠れないときの違いってなんだろうか?

いろいろな要素があるんだろうけど、不思議だ。暇なときに考えてみよう。

March 17, 2005

原理主義的で、感覚的

原理主義的で、感覚的にこれだと思うときと、

批判的なときがある。

これだとおもうと、いつの間にか、行動している。本当にやりたいことはいいわけとかしなくて、やっちゃう正確なんだな。

私は、けっこう温厚なほうだと思う。でも、嫌いなものは嫌いだ。絶対に嫌いだ。それを聞くだけでも、自分の近くにあるだけでも嫌いだ。

理想はないからこそ理想なのである。ある程度でみきることも重要

March 16, 2005

心地よさの不思議

初めて聞いたからこそ感じる心地よさ、
何度も聞いているから感じる心地よさ、

音楽に限らず、そう感じることがある。

心地よいといっても、違うものに、違う心の反応が起こっているのだろう。
同じ音楽と言うものでも、心地よいと感じる理由は違うのだろう。

それに、音楽って何度も聴いたことある曲だとさびを聴くだけで全部を聞いたぐらいの効用があるときがある。それは、脳がイメージしているからで、それが心地よいのだろう。

あと、2倍速で聞いたら心地よさは少なくなるんだけど、倍速で心地よさを感じれないのは、そのリズムだからこそ感じるからなんだろうな。

March 11, 2005

洗剤のにおいのまやかし

今日、洗濯をした。

洗剤のいつもの”あの”においを感じた。
ふと思った、洗濯物がきれいになった(きれいになる)と。

あのにおいをかぐと人間は洗濯がきれいになると言う情報が脳に浮かぶ。においと情報(結果の情報)が結びついている。

いままで何回も洗濯したけど、今頃気がついた。

思ったけど、洗剤のにおいのしない洗剤を発売したら売れないだろうな。一回は買っても、何かきれいにならないイメージを知らず知らずのうちに消費者が持って、リピータにはならないだろうな。超長期スパンで見たら違うだろうけど。

無意識下での情報処理量が決定付けるもの

無意識かにおける情報処理 能力が頭の良さを決める 意識的に同時に複数考えるのは限界がある いつもいうように人間は無意識かにおいて情報処理する その量によってさがでる 意識かにおける処理量は変わらない 無意識かにおける処理は習慣や日々の細かいところへの配慮の積み重ね ワーキングメモリかな

March 10, 2005

妄想するとき

入浴
就寝前
電車の中
[歩いている時(特にリラックスして歩ける場合、よく歩く道とか安全な場所とか)]

この三つが、妄想をするベスト3らしい。特に入浴中はNo1
私がいつも入浴中に考えていると、ブログに書いているがまさにそのとおりだったんだなぁ。

人間とは何気ない行動や、さっと頭をよぎったことが本質であることがある。
それをいかに、文字にしたり記憶したり出来るかって難しいけど、毎回出来たら面白そう。

感じただけで、そのままにしていくことにも意味がありそうだけど。

March 08, 2005

人間の意思決定の曖昧さと行動

まあ、思うのだが、私が思っていることを分かってくれる人は少ないと思う。それも表面的なことや業務的なことではなく、根底にあるものを。文章が下手だし、抽象的なことを言うから。
別にひねくれているわけではなく、それは、それでいいと思っている。分かってくれる人だけ分かればいい
。だって、みんなはみんなで、俺ではないのだから。

分かってくれる人は、無駄なことを日々考えている人なんだろうと思う。金にもならないし、知ったから何だってことを、趣味で考えている人。

さらに、伝わりにくい理由は、私の価値観が常識的なものとは少し異なる空みたいだ。それは感情的な面で楽しいと思ったり、ワクワクする元が違うみたいだ。

まあ、それはいいとして、気になることを。
人間の意思決定の曖昧さと行動は不思議で不思議で仕方がない。

2003年12月にこんなことを書いている

思いつきでも、何か頭の中でスイッチが入るとそれを実現に向けて行動する。
同じように頭の中でポカーンと思っていただけなのに、何が違うのか?
自分の中でのプライオリティーが上がった?
そんなもんじゃないよな。
これは、スイッチとしか言いようがない。

たとえば、あと24時間後には行こうと思えばタンザニアにもいければイグアスの滝にもマチュピチュにも、しかし私は日吉にいるだろう。
なんなのかねー。

簡単に言えば今回言いたいことも、これと同じなのです。
この状況になる条件

・習慣的な行動でない時
・絶対やらなければならないことではない時
・一瞬でとてつもなく簡単に出来ることでない時

すなわち、やってもやらなくてもいいこと。そして一瞬ではできないこと。
このようなことをする時の意思決定と行動がイマイチ不思議でならない。

してもいいし、しなくてもいい。
やろうと思えば出来る。

やるという選択肢も、やらないという選択肢も可能なわけだ。

こういう場合の意思決定、私の場合はフィーリング。なんとなくまあいっかと思えばやらない。なんかそう思わなかった場合はやる。

で、問題はフィーリング。なんで、そのようなフィーリングになるのか。その過程が良く分からない。特に論理的な理由付けがあるわけではない。


そう簡単に答えが出ない。
しかし実は答えが出てしまっているのかもしれない。

March 06, 2005

地方の人から見た東京の範囲

地方の人から見た東京の範囲ってどこですかね?

というのは、岐阜に住んでいたとき、東京と言えば、東京都および神奈川県だった。
もっと正確に言えば、横浜は東京と同義だった。
東京に八王子が入るのかとか難しい。

地方の人が言う東京とは東京都だけではない場合が多いと思う。

いったい、どこまでを東京という単語で表しているのか。

March 03, 2005

手は手の位置にあるからこそ意味がある

手は手の位置にあるからこそ意味がある。

って言っときながら、手はどこにあっても関係ないのです。というのも、手がある場所に長期間あったから、自分の脳は手がそこにあると認識する。そうすることによって、感度が高まるわけです。そこにあることを前提に他の体の部分も動くし、脳も反応する。

風呂場で目を隠して入った。もちろん何も見えない。真っ暗の状態と同じだ。しかし、なんか違った。何が違うって手の位置だ。そのせいでバランス感覚が悪かったし、周囲を感じる感じ方も違った。

March 02, 2005

良い訳ではないが、知らず知らずのうちに

先日、電車でかっこいいおっさんを見た。
年は60歳ぐらい、白髪短髪で、スーツ、農家出身を思わせるような少し黒くがっちりとした体格。目は輝いていて、夢と信念を持ってそうな感じ。それで、そんなおっさんが、ipod シャッフルを首からぶら下げて音楽を聴いていた。それで、おおって思ったわけですよ。さらに、ipodのイヤホンははじめから着いていたのではなく、よさげなイヤホンだった。クオリアのイヤホンだったら最強だな。

なんか、これだけでは表せないけど、そのおっさんから出ているもの全てがいい味出してた。ああいう、おっさんになりたいと思った。が、なりたいといいながら、別に何の努力もしていないわけである。と言うことは、本心ではなりたいと思っていないのかな。それか、なりたいと思っているけど、その気持ちは大して強くなく、その努力のめんどくささのほうが勝っているのだろう。

で、話は変わる。音楽の話。別に音楽に限ったことではないのだが。分かりやすく音楽の例で。
良いと思った訳ではないが、知らず知らずのうちに聞いてしまう曲がある。この曲聴きたいと思って、繰り返し聞く曲、初めて聞いて猛烈に良いと感じる曲。そういう曲を繰り返し聴くのは分かる。

しかし、別に何にも気にしないような曲、特に良いとも思わなかった曲を気がつくと何度も聴いているときがある。はたしてなぜだろう。自分が意識的に良いとは思っていない。しかし、自分にはあっているから、心地よいから聞き返すはずである。じゃあ、なんで自分では気がつかないのか。気がつかないのに心地よいのは何がそう、判断しているのか?

人間は皮膚や目、口、鼻、耳などから常に大量の情報(影響)をえている。しかし人間はそれを全て処理しきれない。処理しているのかもしれないが、自分の意識化で処理しているのはほんの少し。無意識下で処理しているものたくさんあるわけです。(まあ、処理し切れていない情報もありそう)で、これは、すごい腹が減っていたのに、そのとき怪我して血がだらだら出たら、腹が減っていることに気がつかないことに似ていると思うのです。このように、処理していないものの中にも、処理したらよいと思う可能性を秘めているものがたくさんあって、何かしらのきっかけで処理する余裕が出ると気がつくのかな。

ああ、変だ。上で疑問に思ったことの答えとしてまったく見当はずれなことを言っている。まあ、良くわかんないけど不思議ってことです。

なんとも不思議な存在があるものだな。

February 23, 2005

雲という一枚の層

今日外を歩いていると 太陽が陰った。 
太陽の光が、流れる雲によってさえぎられたのだ。たまに、こういうことはある。

いつもなら、何も感じないのだが、ふと思う。すっげーーーーと。
みんなに言わせれば、どう考えてもこれがおかしいみたいです。感覚で生きているので、こういうことは普通なんだけどな。

僕がキャンプファイヤーの火だとしたら、火の中には入りたくないけど、火の粉が少しだけ降ってくるところにはいたい。見たいな事を言われます。まあ、意味不明な例えは置いておくとしよう。

で、太陽の光が陰ったことを歩きながらぐるぐる考える。

太陽は地球からずっと離れた宇宙にある。 太陽の光が地球に届くまでに約8分19秒もかかってしまう距離だ。想像がつかない。そんな遠くから地球まで降り注ぐ。よくもそんな遠くから光は来るもんだな。それも、基本的に何かしらによって遮断されていないのだ。そんなにも長い距離にわたって遮断するものがない。しかしだ、しかし地球からすぐそこにある雲、山に登っても下に見ることが出来る、飛行機にのってももちろん下に見える雲は太陽の光をさえぎる。あれだけの距離をつき進んできた太陽光が一枚の層である雲に遮られる。これって、すごくないですか。当たり前で、国民の99%は分かっていると思うんですけど、あらためてスゴイとおもった。たった一枚の層はこんなにも影響がある。太陽はあんなにもエネルギーを出して光は地球目前まできたのに、一枚の層おそるべし。

 ネットワークもこの雲とおなじでコストをたいしてかけず大きな影響をあたえた。Webはくもの巣だしそのまんまなんだけど。

 この層の発想で世の中面白くできないかな。太陽のひかりから思いついたのが面白いのと太陽の光と雲がさえぎることを要因分解すればネットワークになにかいかせないかなとか妄想してみたり。


P4040392
Originally uploaded by teratown.


February 21, 2005

文字から声が聞こえる

文字から声が聞こえる、はずはないのだが、聞こえる。

特に人生を勢いで生きている人はね。
そういう人は文章も勢いで書いている人である可能性が高い。

文章を推敲して、美しく、的確にかいてある文章もいいのだが、魚で言うと脂がのってない。勢い良く書いた文章は脂がのっていて、なんとなく伝わってくる。

こう、脂ののった文章は危険を持っていると思う。書いた本人と面識があり、何度も話したことがあったり、その人の感情の出し方や話し方を知っている人にはある程度正確に伝わるが、書いた本人を知らない人には少し言葉足らずだったり、言葉が乱暴に使われているようにうつるかもしれない。

ああ、脂ののった文章は好きです。こっちまで元気になったり、ワクワクしてくる。

以前友達からこのブログを読んでいると私がしゃべっているみたいと言われたことや、先日某氏の日記の文章を読んで声が聞こえる感じがしたので書きました。

February 19, 2005

壁を隔てた完璧なる物

離れた存在、中身や過程が見えない、清潔で、無菌で完璧と感じさせられたもの。

非常に分かりにくいので、例を挙げます。

小さいころ思っていた、冷凍食品は滅菌され完璧なる物。きれいなものであると。それは、誤解に決まっている、僕が馬鹿で、その冷凍食品が作られる過程を想像できなかったからだ。しかし、それもあるが、製造過程がブラックボックスで見えない。だからこそ、そのような虚の世界を見たのだろう。

冷凍食品コーンととうもろこしはまったく違うようなものに感じた。同じもののはずなのに、何か違う感じ。冷凍食品は滅菌された工場で作られ、それも機械から製造されるイメージ。土とかなんか自然っぽいものから作られるのではなく、無味乾燥な機械から作られるイメージを持っていた。

冷凍食品に限らず、なんか買ってきたものの多くはそんなイメージを持っていた。
幼稚園の給食袋も、親が作ってくれたのと買ったものでは、まったく違うもののように感じていた。作り方も違って、もとの素材や材料も違って、出来上がったものも似ているがまったく異なるもの。同じ次元に存在していない感じ。

僕の生きている世界とは違う、別世界で作られ、あたかもすごいもののように感じていた。なんか偉いものと言うのがいいのか、そんな感じがあった。

だからなんだと言われれば、なんでもないが昔そんなことを考えていたなと思っていた。

February 17, 2005

感性フィルターの種類と順序

電車に乗りながら、考える。

なにをって、好きなことしかやらない人ってなんだろうとか、そう言われるのは何でだろうとか、どういう人からそう言われるのだろうとか、なんでこの人は常につまらなさそうなんだろうとか。この人って堅苦しいよなとか、そう思われたり、そう感じるのはなぜか、とか考えてた。

もっと言えば、私に対して「本当にやりたいと思ったことなら、どんな理由があろうとやっている奴だからな。」といわれたことがきっかけだ。やりたいと思ったことに関しては、それをやることによる障壁を考えていないようなのだ。やりたくないことに障壁があったら、その障壁を理由にやめたりする。しかし、その同じ障壁がやりたいことに存在したなら、障壁とも感じていないようなのだ。

やりたいと思うことに対して、相手に説明するような論理的理由付けよりも、もっと深いところに何かしらあるような気がした。

で、ふと思った。人間には感性フィルターなるものがあって、それによって無意識に人間は判断し行動している。感性フィルターによって行動が定義付けられている。とか、思ったわけです。

で、この感性フィルターというものは楽しいフィルターとか、つまらないフィルター、嫌いフィルター、ワクワクする、理性フィルター、対人関係フィルター、安定志向フィルター、見栄はりフィルター、お金フィルター、時間制約フィルター、群れるの大好きフィルターとかあるのかなと思います。厳密に言えばレイヤーの違うフィルターを書いているので、僕の中では違うんだけど言葉でうまく説明できないのでこう書いておきます。まあ、どんな感性フィルターがあるか知らないし、数も種類も順番も人それぞれで、感度もそれぞれだと思います。

で、フィルターには順番があります。例えば、一番目に楽しいフィルターがあって、次にお金フィルターがあって、三番目に時間制約フィルターがあるとしましょう。この場合、何かをしたときや、話を聞いたときに、このフィルターの順にしたがって、人間は感じて生きます。

例えばこの場合だと、今度鳥人間コンテストに出るけど一緒に出ないといわれたとする。まず、人間の中で一番先に起動するというか、その言葉を聴いて一番先に反応するのが楽しいフィルター。とり人間に出ることが楽しいかどうかを感じるわけです。ここで、楽しいフィルターが反応して楽しいと思ったら、その後のお金フィルターと時間制約フィルターは感度が鈍くなる。楽しいフィルターが強く反応すればするほど、後から続くフィルターの感度は鈍くなると思うのです。

あるものやイベント、話が放つ絶対的なパワーは一定で(仮に100とする)、そのパワーがフィルターに分配される。楽しいフィルターが100だったら、後のフィルターは反応しないので、判断基準は楽しいということだけになる。逆に、楽しいフィルターは10だけで、お金フィルターが60、時間制約フィルターが20となれば、お金のことが気になって、気になってこれがボトルネックになり行動には移せないか、躊躇する気がする。

物事を判断するプライオリティの話でしょと言ってしまえば、当たり前のこと。(まあ本当に、言いたい事はそんなことじゃなくって、自分の意識下におけるプライオリティなんかよりも感性フィルターが無意識下において存在して、それが意思決定に大きな影響を与えている。しかし、無意識下のことなので自分では気がついていない。合理的に考えればこう結論を出して行動するんだけど、土壇場で180度違うような決断をすることもあると思います。理性フィルターによって論理的な答えを出していたが、楽しいフィルターの方が強くて、大逆転してしまったパターンなのかも)

少し切り口が違ったり、言葉の表現が違うだけ。しかし、何かしら新鮮さを感じずにはいられない。そこから、何かが生まれてくるような。

なんか、言いたいことがまとまってないな。まあ、また今度続きから考えるためのメモだな。

以下:携帯から送ったメモ
人間の脳というか感性感じるフィルターがあって人それぞれ起動する順番が違う 楽しいフィルター、理性フィルター、対人関係フィルターのように。楽しいフィルターが感知するとその後のフィルターは感度が鈍くなる。自分では我慢してやっているつもりのことが多く感じとも他人から見れば好きなかとしかやってなかったり、本当にやりたいことだったら飛び付いていると言われるのは楽しいフィルターが一番感度が高いから。人それぞれ持っているフィルターが違うかもしれないし順番もしかり。何番目のどのフィルターが一番に起動するかがその人の行動を無意識に規定する

February 15, 2005

トータス松本と人間

先日、某先生の家に行ったときにウルフルズの昔の曲をもらいました。

ウルフルズと言えば、ガッツだぜ、バンザイなどのテンションの高い曲を歌っている人たちです。で、そのメジャーどころをもらったのです。そして、今日道路を歩きながらMP3プレイヤーで聞いたいました。するとふと思うことが。

ガッツだぜなる曲が売れたときは、確実に一発屋だと思いました。いかにも、一発屋のにおいのする曲調、メンバーのキャラ、そして衣装。あの勢いだけの安っぽさを感じ、すぐ飽きられる感じがした。すごい失礼なことを書いたが、そう感じた。

しかしだ、しかし、ウルフルズって存在が薄くなったなと思うと「明日があるさ」が売れたり、なんだかんだと、売れに売れているわけではないが、それなりにメディア露出がある。

その中でも特に、トータス松本なる男。この男には不思議な魅力がある。別に、何がいいというわけではないと思う。でも、なんか魅力を感じる。何が人をひきつけているのかは知らないが、全身から染み出てくる雰囲気といってしまえばそれまで。その雰囲気とはなにをもとにしているのであろうか。

彼は実にいいポジションをとっている気がする。

まあ、第一印象とは変わるものであり、これは人を短時間で見極めれないことを意味するのである。しかし、人間はパッと見て何らかの他人のイメージを自分の中に作り上げる。それは外れていることがおおいにある。とは言うものの、一瞬でイメージが作り上げられるとなると大事なのはパット見たときの感じなのである。まあ、つまらんが第一印象は大きな影響与えるんだよなー。

人間なんて常に変化しているのだから、第一印象と変わったといっても、その人自体が変わっているからかもしれないし。猫かぶっていただけかもしれないし。なんともいえない。結局は常にそのときが第一印象なのであり、その第一印象の積み重ねなのである。

長期間知り合いになり、何度も会うということは毎回変化するその人の第一の積み重ねであって、その人の本心を知れたと言うよりも、その人の変化の過程を見れたと言うことなのである。その人の変化の過程を知ったから、良く知ったと思ったり、本心を知ったと思うのである。たぶんね。

使い勝手なるもの

どんなものにも使い勝手なるものがある。

使い勝手が良い、悪い。
アフォーダンスどうのこうの、という話もあります。
ユニバーサルデザインは人が物に合わせるのではなく、物が人に合わせるとか聞いたことがあります。

いまさら、はまったflickrは、感覚的にこう出来たらいいなという操作性抜群。
今までの経験則的に、出来ないだろうなと思っていた操作が、flickrでは出来たりするのです。今までの経験から、あきらめてはじめから操作しないのではなく、常に新しいものとであったときは試してみるといいのかも。でも、今までの経験を考慮して操作するから、効率的になると言う話もあるわけで。。

まあ、そんなことはどうでも良くて、使い勝手。とはいっても、使い慣れたと言うことは神業と言うことが分かりました。

何でかって、パソコンですよ。私のパソコンは熱暴走します。IEはウィルスかなんか知らんが、変な検索バーが出て消しても出てくる。などなど、問題だらけ。しかし、私はこのパソコンをそこまで苦にせずつかっている。何でかって、知らない間に、このパソコンの特性を理解して、問題が発生しないように使っているのだ。これは、ほとんど無意識のうちにフリーズしないようにやっている。(それか、私のPCの使い方の特徴をPCが理解し、パターン化して処理が簡略化・高速化しているから、私が使うと問題がおきないとか!?だったらすごい。)まあ、ということで、私が使うと問題は少ないわけです。というか、問題が起こることすらほとんど気がつきません。

しかし、ですね。パソコンを他人に貸して、作業する場合がある。その人は使い勝手が分からない。このパソコンの特徴をすぐに感じ取ることが出来ない。よって、フリーズしたり、電源切れたり、するわけです。でも、その使っている人は、いつも自分のパソコンを使うように普通に使っているだけなんです。でも、他人のパソコンだとフリーズしてしまう。うーん、なんとも不思議なことです。誰が使っても、ある特定の操作に対して同じ結果をだすパソコンがこんなにも違う結果に陥るのです。

使い勝手、使い慣れる、ってことはすごいことなんだなと再認識。人間は無意識にやる行動が一番洗練されていて高度であるのではないかと感じました。

February 13, 2005

みんな合理的を望んでいるようで、いないよう

みんな合理的を望んでいるようで、いないようで。

まあ、人間完全に合理的じゃないのはそうなんですが。

ちょっと頭を使って行動すれば、かなり環境がよくなったり、効用が大きそうなことでも、それを実行しない人が多い。それを考えられない人もいるかもしれないが、考えられる人でも、合理的な行動をとらない人がいる。まあ、常に合理的な行動をとらないのは分かる。私もその一人だ。ああ、こうしたらいいだろうなと分かるけど、その行動に移すのがめんどくさい。めんどくさいと言う表現とは違うのだが、なんというか行動に移す気にならない。

なぜだろう。明らかに少しの労力で大きな効果が生まれることが分かりきっているのにしない。人間とは現状維持がすきなのだろうか。何ですきなのだろう。

うーん、絶対的に 「合理的な行動をする労力<合理的な行動による効果」
の場合でも、合理的な行動をしないと言うことは、
「合理的な行動をする”気分”>合理的な行動による効果」
気分が勝っているのだろう。

気分ね。気分と言えば気分。しかし、何か違う。私と言う人間の中にある、中から生成される何かによって決まるんだけど、気分とは違う感じだな。そもそも気分って定義が分からないし、気分ってことすら分からない。

私は、本とかから学べない人なので、かっこいい理論の名前とか、あんまり知らない。
日々の生活から感じたことを、自分で考えると言うことをしないと身につかない効率の悪い人間なのである。

February 05, 2005

脳とアウトプットとその評価

脳とアウトプットとその評価という、なんか意味の不明なタイトル。こんなことを言っていると、いつも君は文型か?と問われる。うん、くだらない。どうでもいい。高校から無理やりカリキュラムを文系と理系に分けているから、みんなそんな分け方をするのだ。

で、私は気になるから、どうしても気になるから書くだけ。いくつか思うこと感じることが重なったから書きます。

・ワーキングメモリとIQ
・話下手だけど仕事が出来る人
・本当にすごい人はすごいと認めれない

前書いた、脳の常駐ソフト理論もそれだな。

・ワーキングメモリとIQ
ワーキングメモリが優れている人とIQが高い人はイコールではないみたいなことが書いてあった。けっこう遅いのだが、このワーキングメモリと言う言葉が引っかかった。なんか興味深くて僕の中でキーワードになった。ワーキングメモリとは「情報を一時的に保持する、操作・統合して答えを導き出す、という一連の過程を含み、言語理解や推論など高次の認知機能のベースとなる重要な機能」とか書かれたりしています。短期記憶の拡張だとか。良く調べていないからなんともいえないけど、かなりおくが深そうです。なんか、ワーキングメモリの容量が大きい人はいわゆる(普段接していて)賢い人なのかなと思う。IQは知能指数であり、違うものなのであろう。そもそも、頭の良いとは何なのか?どう定義するのが一番話を進めやすいのだろうか。疑問だらけ。脳自体の問題。

・話下手だけど仕事が出来る人
すごい話が下手な人がいた。でも、その人の実績を見るとすごすぎる。まあ、実力勝負の世界で生きてきて、相当な外資企業の経営者としてヘッドハンティングされている。若いのにこうだから、実際に仕事は出来るのだろう。でも、話は下手。話がうまいからといって仕事が出来るわけではないが、うん、でも見極めるのって難しいですよね。ファーストコンタクトは話すぐらいですから。それと、あまり多くを話さなくても、どもっていても、立て板に水に話さなくても、ズシーンと心に伝わってきたり、感動したり、この人考えていると感じることがある。流暢に話すということには、そこまで価値がないのかも。まあ、大統領スピーチとかは、流暢なほうがいいような気がします。でも、原稿を用意していないときは除く。言葉としてのアウトプットと、仕事のアウトプットの違いの問題。


・本当にすごい人はすごいと認めれない
本当に凄い人は凄いと感じない。アウトプット(話し、文章など)は考えたり悩んだ何分の一しか現れないのは、良く分かる。それに、考えたことや、知ったこと、身に着けたことをすべて盛り込むと安っぽくなったりする。まあ、それはいいとして、本当に凄い人は相手のレベルを理解し、何の違和感もないように論理立ててはなす。それも難しいこと説明していると感じさせない。それでもって相手が心踊るポイントをついてくる。 だから聞き手は話し手(すごい人)のことを凄いとすら感じる隙がないのだ。ということで、僕が感じることの出来ないレベルのすごい人は、本当にすごいはずであるが、僕はそれに気づくことが出来ない。。。これはアウトプットの評価の問題である。

とまあ、難しい。それに、話がそれている。

これらを考えていると、頭がいいとか、仕事が出来る、と、その評価とは難しい問題である。ベースとしては脳のどの部分のどのような動きが関係しているのか。うーん、頭がぐるぐるする。

僕の脳は文字ベース

今日は大学から家まで歩いたわけである。普段歩かないところを歩くからと思って、MP3プレイヤーで音楽などを聞かずに、町の音を聞こうと思った。

しかし、家に近づいていつもと同じところなどでは聞いた。そのときふと思う。

僕のMP3プレイヤーにはいろいろな曲が入っている。どんな曲かも知らないのも入っている。なぜなら、適当にダウンロードしたり、友達の家に行って適当にパソコンから音楽データをもらうからである。さらに、僕はシャッフルで音楽を聴いている。順番はばらばらで流れる。

で、新しく音楽が始まった。うん?!とおもった。音が流れてくるのを聞いて、なんだこの曲と思った?聞いたことはある感じだったが、ピンとこなかった。

で、僕がとった行動は、プレイヤー本体に表示されるタイトルを見たのだ。自然にそのような行動になった。聞いて分からなかったら、分からないはずである。さらに、見たからといって、なんか意味があるのか?音楽と言うのは聞くことに意味がある、効用があるように感じる。(まあ、ジャニーズとかアイドルの音楽は文脈を楽しんでいるのだが。)しかし、僕はタイトルを見た。なにを感じてみたかは知らないが。

その行動を通して思ったのは、僕は音よりも文字をベースに理解しようとしている。文字で理解することに最も慣れている。僕のiTunesやMP3プレイヤーに入っているほとんどの曲のタイトルや歌手名を知らないが、タイトルを見るという行動をとった。文字を見ることに落ち着きや安心を感じるのだろう。そして、文字で見ることによってさらに、音を理解しようと思ったのだろうか。

僕は文字で理解するのだろうが、音で理解する人、絵やイメージで理解する人、においや色などなど、人それぞれ理解するベースが違うのだろう。

January 29, 2005

ビルの隙間から見えた月の位置

ビルの隙間から見えた月の位置からいろいろ考えた。考えたと言うよりも、なんか違和感を覚えて考え始めたら、頭がぐるぐる。いろいろやることがあるのに、楽しくて考えてしまう。

とりあえず、メモがき。

ビルの隙間から見えた月の位置、違和感、意識外でも脳は動いている。

ぱっと月が見えた。そしてそんなことはたいして気にもならず歩いていた。そしてまた空を見上げると月の位置に違和感を覚えた。で、なぜか考えた。たぶん、人間の意識外でも人間は情報処理を行っている。それで、気にかけなかった月の位置をここにあると無意識のうちに記憶していた。さらに歩いているから、歩いた場所における月の位置を無意識のうちに推測していた。しかし、なにげなく空を見ると月の位置がその推測と外れていた。そのために月の位置に違和感を覚えた。

意識外でも脳はかなりの情報処理を行っているんだなー。

1,2日では変わらないもの、習慣化による。

習慣化の2面性問題。

頭のいい奴=偏見のある奴

フィーリングが合う人間は、この自分が考えていないところにおけるものがあうかどうか

感覚の鋭さや、頭が切れるなどは、この裏の脳の動き

January 28, 2005

電話が苦手な理由

僕は電話が苦手だ。

なぜか考えると、意思疎通が正確に出来ないかもしれないという恐れがあるのが嫌だから。電話では普段のコミュニケーションにあるものがかけていて、意思疎通がしっかりと出来ないのではないかと言う不安がある。そのため、電話で話すのが好きではないのだろう。

ということは、僕は普段のコミュニケーションにおいて声や言葉よりも表情だとか、その文脈から多くの物事を理解しているのではないか。だから、声(言葉)だけの電話では絶対的な情報量が足りず、相手の真意をつかめないと感覚的に感じて、電話が嫌いなのであろう。

まあ、慣れってのもあると思うけど、それ以上にそれぞれの人が対話コミュニケーションにおいて何を重要視しているかが大きくかかわってきているのだと思う。

脳の常駐ソフト理論

自分では意識していなくても、脳では常駐ソフトが起動していて、その人の思考パターンを規定している。

意味不明だと思うけど、時間がないので自分への目メモ

January 22, 2005

無意識を意識でコントロールする

無意識は意識をコントロールする
無意識を意識でコントロールする
正確に言うと、無意識の状態を意識を用いて無意識的にコントロールできる。

また、何を言っているのか伝わらなさそうなエントリーです。

意識を及ぼすことができないと思っていることに実は意識を及ぼすことができる。
無意識の状態は自分の意思によって行動できないことだと思うんです。
しかし、無意識の状態をコントロールできる。さっきも書いたけど、正確に言うと、無意識の状態を意識を用いて無意識的にコントロールできる。

たぶん、金縛りとかこの状態なんじゃないかな。(これで、さらに分からなくなったはず。。。)金縛りも、自分が無意識かにあると思っていつが、実は意識がコントロールしている。で、その意識をコントロールすることが可能であると。

なんで、こんな意味不明なことを思ったかと言うと、昨日寝ようとした。今日の朝早く起きる必要があったので、明日は朝7時30分に起きないといけないと言い聞かせた。なぜなら、経験則的に寝る前に自分に言い聞かせると起きれるから。これはみんなやっていることだろう。そんな、いいきかせをしていたら気になり始めた。こうなる眠れなくなってしまうのである。

寝ているときは自分のコントロールできる状況にない。無意識な状況であるが、寝る前に意識的に言い聞かせることにより、起きれる。すなわち無意識状態を意識でコントロールできているのだ。

意識的に人生や先のことをプラスにイメージすることは、明確に記憶しなくても無意識下のときにも大きな影響を与える。こういうことなんだろうな。

未来の無意識の状態は、過去の意識的状況によって決定ずけられる。

夢もコントロールできる気がするな。僕がいつも言う、昼間に何気なく考えたことが、夢になる確立が高いのも、そんな感じ。

なんか、言いたいことが伝わっていないな。自分でこの文章読んでも伝わってないと思った。

なんだろうね、無意識課の行動を意識化によって確実に決定付けることが出来る。これって、抽象的なことが言いたいんだよね。

January 21, 2005

大統領就任式

まず、はじめに書くがアメリカを批判したいわけではない。基本的に十人十色とすべてに対して思っているので。

ただ、アメリカと言う国の、国民の根底を流れる思想というものを理解しておく必要があるのではないかと再認識しただけ。

昨日の夜BBCで大統領就任式を放送していたので、それを見ていた。たぶん、大統領就任式なるものは初めて見たとおもう。まあ、ニュースで以前にチラッと見たことがあるかもしれないが、気に留めていなかったのだと思う。

その、大統領就任式は、オペラ歌手がアメリカと連呼し、神よといい、アーメンといい、ブッシュは最高ですといい世界もブッシュがよくするといい、憎しみとかは自由の敵、アメリカにはすばらしい歴史がある、常識にもとづくと自由を広めないといけない、アメリカは神のイメージのもと作られている、我々が建国したときの理想を世界に広めないといけない、

こんな感じのことを言っていた。さらに舞踏会もやって30億円かけたらしい。
なんかこうやって書くと批判的に見えるんですけど、違いますから。ただ、驚いただけです。
別にこれがいい悪いではない、日本の考えと違いすぎるから、アメリカ人の考えのベースを知る必要があるなぁと思っただけ。

こういうイメージの国であると言うのはなんとなく思っていたが、なんか改めて日本と違うなと感じた。

今後、まだある程度の期間はアメリカが事実上の世界のリーダー的な役割を果たすと考えられる。となると、やはりアメリカを無視することは出来ない。となるとアメリカ人の考えのベースを知っていると相手のことも理解しやすい。扱いやすい。そう思うのです。で、理解するためには1,2年アメリカに住んでアメリカ人と話してみないと分からないんだろうなと思った。

January 20, 2005

この時期に、あまり肯定したくないのだが、

アップルの製品が話題をさらい、売れまくっているときにあまり肯定はしたくないのだが、いいね。認めます。正直シャッフルはほしくないけど、あの会社はかっこいいね。


クレージーな人々へ。
 クレージーな人たちがいる。
 反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。
 四角い穴に、丸い杭を打ち込むように
 物事をまるで違う目で見る人たち。

 彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。

 彼らの言葉に心をうたれる人がいる。
 反対する人も、賞賛する人も、けなす人もいる。
 しかし、彼らを無視することは誰にもできない。

 なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。
 彼らは発明した。創造した。
 人の心をいやし、奮い立たせてくれた。
 彼らは人間を前進させた。

 彼らは人と違った発想をする。
 そうでなければ、何もないキャンバスの上に
 芸術作品は見えてくるだろうか?
 静寂の中に、今までにはない音楽が聞こえてくるだろうか?

 私たちは、そんな人たちのための道具を作る。
 クレージーと言われる人たちを、私たちは天才だと思う。

 自分が世界を変えられると
 本気で信じる人たちこそが、
 本当に世界を変えているのだから。
アップルコンピューター社

January 17, 2005

知らないとなんとなく思っていることの意味

人間、言葉の意味を知っていると思っているから、物事を理解していると思っているわけです。で、意味を知っていると思っているから、他人との話が成り立つ、社会が成り立つ。

でも、知っていると思っていると言うことは、新たに知る必要性がない。そう脳が判断し、新たなことを学ぼうと言う姿勢でなくなり、脳が受け入れを閉じてしまう。

知らないとなんとなく思っていることの意味=脳をオープンにしておくと言うことです。
知らないとなると、生活に不便になる。すべての言葉でつまずくから。しかし、「ああ、そんなこと知っている」と思うと、脳がクローズしてしまう。

何に関しても知らないとなんとなく思っている、知らないことあるかもみたいな感じに脳の状態をしておくと言いのかなと。


January 14, 2005

目が見えなくなったかもしれない

目が見えなくなったかもしれない。

相変わらず、真っ暗にして風呂に入った。これは岐阜にいたときからよくやっていた。あれは、心が落ち着くのである。見えないものが見えてくる。おいら流の座禅だななあ。

で、真っ暗な風呂でふと思う、目を開けても何も見えないのである。電気を消して暗いから当たり前といえばそうだ。しかしだ、実は電気を消した瞬間に失明して目が見えなくなったから、真っ暗闇なのかもしれない。その可能性があるのだけれど、自分が電気を消したという理由から、暗くて見えないだけと自分が勝手に思っているだけなのである。本当に失明してしまっているかもしれないのである。

で、自分は暗くて見えないから何も不安にならないが、真っ暗で何も見えないというのは失明した状況と同じなのである。もしこれで失明していたと自分が本当に思ったら不安で思い悩むだろう。何も見えないという同じ状況にあっても、自分が電気を消して暗くて見えないだけと思っているか、失明して見えなくなったと思っているかでまったく違ってくる。

人間とはそんな、曖昧で、実体のない自分の意識や考えによって成り立っているのである。

自分が変われば世界は変わる。
自分の気持ちが変われば、世界の見え方はかわる。

January 13, 2005

寒いからこそ出会える、暖かな冬

レポートを書いていたら、「寒いからこそ出会える、暖かな冬」と耳に入ってきた。

なんでもないことなのに、「はっ」とした。
冬の暖かさを味わえる、あの喜びを感じられるのは、寒さゆえなのだなぁ。寒いのはあまり良いイメージでとらえられないが、それがあるからこそ温もりを感じられる。

当たり前だけど、なんか、こう感じるのもいいもんですね。

top_sub04_01.jpg


なんか、JR東にほんの北東北CMだった。

このCMいいです。


「澄色の冬へ」

どこまでも透き通って見えそうな、
そんな透明感

寒いからこそ出会える、暖かな冬
北東北、ここにはそれがあります。

冬へ。

screen_kitatohoku.jpg

January 06, 2005

寝ると記憶が吹っ飛ぶ?

寝ると記憶が整理されるという。寝ているときに記憶するから睡眠をとれと言われるものである。

しかし、ちょいと待て。今朝起きて気がついた。起きて洗面台に行って顔を洗おうとすると何か変だ。髪の毛がない。もちろん、昨日きったから当たり前なわけだが。しかし、昨日、髪の毛を切ってから手を洗ったりするときに自分の顔を見ても違和感はなかった。しかしだ、朝起きて見ると違和感があった。

髪を切った、そして髪の毛が短くなっているという事実を無意識の記憶として定着していなかった。切った後、起きているときは記憶にあったからあれっという違和感はなかったが、寝ている間にその記憶は薄れていき、なくなったのだろう。

日々自分の髪の毛を見ていて、見慣れてしまい、髪の毛の長さが記憶として頭に染み付いているのだろう。その長い間かけて作られた無意識のうちの記憶は、髪の毛を切ったという記憶よりも強いものなのだろうか。

果たして、記憶が消滅したという言い方が正しいかはわからない。

日本語の新しい概念

別に何だってことなんだけど、なんとなく書く。

たまに、自分が知らない概念や、聞いたことはあるが良くわかっていない概念について知ることがある。それらの概念を表す言葉は英語がほとんどだ。それは、分野を問わずだ。

アメリカやイギリス発の新しい概念が多いことはわかる。新しい技術があったり、新しいサービス、新しい社会構造と共に新しい概念が生まれてくることが多いからだ。その技術やサービス、社会構造はアメリカを中心とする国々が先をいっているから。さらに、北欧なども先端を行っている分野が多いと思うのだがやはり、英語が世界語となっているから、世界ですぐ認められるために英語で新しい概念の言葉を作るのだろう。日本人でも英語で新しい概念を表す言葉を作るかもしれない。

新しい概念の言葉は日本語に翻訳される前に広まってしまう時代だし、そんでもって訳したら元々の感じが失われることも多い。だから、新しい概念を表す英語はそのまま使われる。

別にそれ自体はいいのだが、なんか日本語で新しい概念があると面白いなと。日本発で面白くって、今後の流れを作るような概念が生み出されないかな。日本発だったら日本語じゃなくてもいいかなと思ってきた。

僕が知らないだけで、日本発だったり、日本語の新しい概念はあるのだろう。それらを知ってみたいものだ。

December 26, 2004

「長い」という感覚

年末である。年の瀬である。

子供のころよりは季節感がなくなったのが自分でもわかる。昔は、年末とかだとソワソワしていた、というか年末という雰囲気の変化をもっと敏感に感じていた。年を重ね、何度も経験すればあまりなんにも感じなくなってきた。寂しいことでもあるが、自然なことでもある。

まあ、そんれとは別にして、昔よりも季節感がない気がする。店のセールとかも含め社会の年末シフトが少なくなってきた気がする。

まあ、年末ということで音楽番組を良くやっている。ベスト100みたいな感じで。そいでもって、いろいろな歌手の昔の歌も紹介していることがある。それをみてふと思う。いや、感じる。

この歌手はけっこう長い間続いているな。この歌手って最近デビューしたばかりだよなって。感覚的に感じる。

しかし、そのアーティストのデビューした年を見ると1,2年しか変わらなかったりする。僕の中では5年ぐらい違うイメージがあったのに。

下積み時代が長かったとか、さまざまな要因があるだろうけど、それを抜きにしても感覚的なずれがある。

はて、これはなぜかと考えたら、こうではないかという自分なりの答えは浮かび上がった。

僕が音楽に興味を持つ前に、たとえ1ヶ月前でも、すでに売れっ子になっていた歌手は長く売れていると感じ、僕が歌に興味を持ってから売れた歌手は短く感じる。こうだと思うのです。

自分が興味を持つ前に売れていた歌手は、その前どれくらい歌手の活動をしていたかは知らない。僕が興味を持ったときにすでに売れていたことは、その前から売れていることである。その前からというものを、感覚的に1ヶ月とか1年とかいう単位ではとららえず、3〜5年ぐらい前から売れていたと自然に思ってしまうのだ。歌手への敬意ととらえるか、自分の知らないものへの評価ミスの根本的な問題か、、歌手のブレイクまでの期間の推測によるのか、自分が生きて感じてこなかった過ぎさりし時間的感覚の鈍さか、何かはわからないが。

人間が意識するという事と感覚はそんな関係だ。


BGM 森山直太郎 - 生きとし生けるすべてのものへ

December 25, 2004

天才の顔

なんか知らんが、賞をロナウジーニョという人がもらったらしい。

けっこう前見たときから、この人は天才だなと感じた。もちろん、練習とかも相当しているからこそ、認められるプレイヤーなんだろうということは承知しております。

テレビでちょっと見たことしかないけど、なんか天才かなと感じた。特に理由はないが、サッカーをしている映像とか、練習で戯れていたり、得点した後の行動を見てそう感じたんだと思う。


で、実際にあって、特に話さなくてもこの人は、とてつもない才能を持っていると感じることもある。それは何なんだろうね。何がそう感じさせるのだろうか。

たぶん、常識とはずれた(常軌を逸した)言動をするんだけど、そこに何かしら鋭さがあるのかなと思うが、これは何も言っていないに等しい。なんで、そう感じてしまうのか気になるところです。

December 21, 2004

なんか良くわからないけれど。

なんか良くわからないけれど。

しゃべっている時は、頭が働いているように感じない。
しかし、自分が今まで考えていなかったような新しいアイデアが出ることがある。
頭が働いているように感じないが、しゃべることによって脳が一番活性化されるとも聞く。
不思議なもんだ。


なんか良くわからないけれど。
何かを見たり、うれしい気持ちや悲しい気持ちになると、それにあった歌詞の歌が自然と出てきて口ずさんでいる。頭で考えて引き出してきたわけではないけれど、自然とその時にあった歌が口から出てくる。
自分では意識していないけれども、脳の中ではつながっているのだろうか。

なんか良くわからないけれど、前から「星の王子様」を読みたい。
この冬に読もうと思う。

December 20, 2004

情熱とプロ

このブログを読みに来ている変な人たちに、僕が情熱大陸を愛してやまないことは説明するまでもないだろう。

で、今日も見てさっきエントリーを書いたのだが、ウェブを見に行ってまたなんかメモりたくなった。ウェブサイトには「読む情熱大陸」というコンテンツがある。これは重松清という作家さんが月に一回書いている。いつもなかなか面白く読んでいる。

少し話がずれるが、この重松清と言う人の文章は僕にはさらっと入ってくる。僕になじむ文章を書く人だ。簡単に言えば、この人の文章は好きだ。僕は小説とかを全くといっていいほど読まない人間である。でも、ブックオフで1年以上前に買った「ビタミンF」という重松さんの本を秋ぐらいに読んだ。すると、なんか良かった。短編だったり、言葉遣いが現代語だから読みやすかったからなのか、文章のつくりが僕の脳が言葉を作るつくりと同じだったかはさだかではないが。まあ、内容もなんかほのぼのというか、現代の社会問題を書きながらも、えも言えぬ気持ちにさせてくれる本だった。

僕は情熱大陸が好きである、でもって重松さんの文章も好きである。重松さんは情熱大陸のウェブで連載を持っている。この連載は情熱大陸の製作側から依頼が重松さんにいったから書いているのであろう。なぜ重松さんに依頼にいったか考えると、情熱大陸を作っている人が重松さんの文章のことを好きだからか、情熱大陸を見ている人が重松さんを好きな傾向にあるか、重松さんが人間に迫った文章を得意とするからか、そのへんだろう。そう考えると、情熱大陸好き≒重松さん好きとなる構図が見えてくる。なにやら、両社を好きになる理由があるのか?両社には何か共通点があるのかなと考えてみたりする。

で、まあ、重松さんが書いている読む情熱大陸も好きということです。

そこに、あったプロという言葉が気になった。プロって言うとそのことを仕事にして、飯を食っている人というのが僕の中でプロだった。曖昧な定義ではプロかどうかの判別が不可能になるが、この定義なら比較的わかりやすいと思っていた。でも、しっくりきていなかった。なんか、そっけなくって。下の文章を読んで、いいなぁとおもった。「自分の足で世界に立ち、勝敗に関わらず戦いの場から去らないこと」これが、重松さんの定義なのだろう。なかなかかっちょいい定義だな。

自分でもプロとは何たるかを考えると、それでメシを食っているかってことと、責任をもてるかどうかかなと思った。表面的な責任じゃなくって、本当に責任をもつということは、自分が納得してやり、最大限のことをしなければ責任を持ったことにならない。とすると、責任を持つことはプロの証なのかなと。

まあ、どれも月並みッチャ月並みだな。そんなの知るかー。


 単身ヨーロッパに渡り、フランスの一部リーグで活躍する田場さんは、敗戦後のロッカールームで泣いた。負けた悔しさを噛みしめ、思い通りにプレイできなかった自分を責めながら、人目もはばからず涙を流した。
 恥ずかしくはない、と田場さんは言い切った。いままで自分は何度も負けてきて、何度も悔し涙を流してきて、だからこそいまの自分がここにいるのだから――と。
 一方、日本とマウイ島の往復をつづける佐藤さんは、物心両面での夫のサポートについて語るときに、泣いた。そして、番組のエンディングでも泣いた。歴史ある大会アロハ・クラシックで優勝したときの挨拶で、その喜び以上にウインドサーフィンの聖地ホキイパへの愛を語ったときに、また、笑い顔で声を詰まらせたのだった。

中略

やっぱり、涙、なのだ。そして、その涙をカラッと乾かしてくれる笑顔、なのだ。

中略

いわば、二人とも、なにかに頼ったりもたれかかったりすることなく、自分の足で世界に立っている――それこそが〃プロ〃の定義なのだとぼくは思っているし、そのバックボーンがあるからこそ、二人は素直に笑い、また素直に泣くことができるのだ。

中略

アマチュアなら一度の栄冠の記憶をいつまでも抱いていられる。敗北とともに戦場を去ることもできる。だが、〃プロ〃は違う。勝ちと負けを繰り返しながら戦いつづけること――戦いの場から去らないことが、〃プロ〃の証なのだから。

http://mbs.jp/jyonetsu/yomu/index.html


BGM Desperado Eagles

December 19, 2004

イチロー

何ヶ月か前にイチローが大リーグ記録を更新した。

あの時は、テレビを食い入るように見ていた。
とてもエキサイティングで、心の底から、体の底からワクワクした。感動していた。サブいぼが出来た。

で、最近年末で一年を振り返る映像が流れる。すると、当たり前だがイチローのあの記録達成のシーンが流れる。

すると、あの感覚が少しよみがえる。ゾクっとする。たまんないねー。

夢とイメージと体で覚える

昨日も夢を見ました。

なんか、すごい高いところにある、すごい長いつり橋を渡っていました。アルミのような金属で作られていました。風で橋が揺れたり、僕以外にも数人渡っていました。が、その人の中の数人はバンジージャンプをするのか自殺をするのか知りませんが、飛び降りるようなしぐさでした。その人たちが邪魔で、通り過ぎる時に怖かった印象があります。手に汗をかいて、そんでもって欄干を手でつかみながら歩いていたので、滑ってこわかった。そうするうちに、陸というか、山に付いた。そうしたら、そこで僕の知り合いが宴会をしていた。なんだ?と思った所で起きた。

たぶん、フランスで世界で一番高いところにごっつい長い橋が出来たというニュースがもとでこの夢を見たんだと思う。

また、夢の話なんですが、夢ってカラフルで立体的である。でも、自分の意思で夢レベルのイメージをしようと思ったら無理である。少なくとも僕は無理である。ということは、自分の意思では動かせない、脳の作用があるのだ。そりゃたくさんありそうだ。それが顕著に現れるのが、夢レベルのイメージなんだろう。自分の意思では動かせない細胞か仕組みか組織があって、そいつは何らかの影響を受けて動くわけだ。ということは、その何らかの影響をどのように引き起こすかがわかれば、自分の意思で夢レベルのイメージや何なりを再現できると。

ふむふむ、そうすると、夢レベルのイメージを創造できる人がいてもおかしくないわけだ。何かしらの方法で、夢レベルのイメージを想像する方法を取得した人なら。

ちょっと、まてよ。実は俺だけが、夢レベルのイメージを自分の意思で作り上げれないだけで、他のほとんどの人が、カラフルで現実そっくりなイメージを作り上げているのかもしれない。とすると、俺が感覚的に使っている想像という言葉とはまったく違った質感を想像という言葉にたいして抱いているわけだなぁ。

って、そんな人いるのか?

過去の関連エントリー「見る」
関連エントリー「夢」

で、話は変わる。
また、真っ暗にして風呂に入った。いつものようにだいたい感覚的にはシャワーの蛇口がどこにあるかとか、シャンプーがどこにあるかはわかる。それはいつも使っていて、配置が脳の中に作られているからだろう。で、ふと思う。自分の体なら毎日一緒だし(当たり前)、毎日自分の意思で使っている。真っ暗でも、自分の目や足の指なら正確に探せる(触れる)のではないか?と。で、やってみる。すると、ピンポイントで触れる。目だろうと、足の親指の爪だろうと。

感覚的に覚えているのだろう。体で覚えるとか、そんな感じ。視覚的に覚えているのではない。多分脳で高度な処理をせずに、慣れによってわかるようになっている。

この前思ったのだが、脳は楽をしたがるというか習慣化をしたがる。というのも、脳は高度なことや新しく臨機応変に対応しなければならないことにしか使われない。というか、使わない。簡単なことも脳で処理していたら、やることが多すぎて脳がパンクしそう。で、習慣化するなどして、日常的なことは脳を使わなくよくして、どんなことにも考えて対応できる脳は、新しく高度なことだけするのだろう。

って、コレ当たり前だよな。というか、思っていたことがうまく文章になっていないから、何も伝わらないだろう。まあ、いいや。本を読んで知るよりも自分の経験からこうだと思ったほうが現実味があるし、自分の中によく残るから。

ふと思い出す。コレはボディイメージの一種じゃないか?と。違うか?

December 17, 2004

生きているということは奇跡の連続なんだよな

生きているということは奇跡の連続なんだよな、と思ってみる。

まあ、コレは考え方次第なわけですが。


体と心の底から吐き出したい気持ちでもあります。

具体的に何をとかいうわけではないですが。

December 14, 2004

どうも早口らしい

僕はどうも早口らしい。

前々からいわれていた、普段も早口だが、興奮すると3倍速になるともいわれていた。

だが、あまり気にしていなかったが、やはり早口すぎると相手に伝わらないかもしれない。ということで、話し方とかについて考えてみようかと思う。

December 11, 2004

批判の感じ方と、価値基準

純粋に評価されてもうれしくない奴ですから。まあ、ほめられることがすべて嫌いかといえば、そうではない。心のそこからいってくれていれば別。しかし、心のそこからバカとか頭悪いことするなと言われると、いわれるほうがうれしい。何でかって、誰だって他人をほめるじゃん。いきなりけなすことはないでしょう。心のそこからバカって言えるってことは、お互い信頼しあっている証拠だと思うのですよ。だから、うれしいんだと思います。まあ、それと僕は天邪鬼なので、普通にほめられるよりもバカにされた方が好きです。

あと、批判もケッコウ言われるとありがたいです。だって、ぼろくそに言ってくれる人が少ない。ただ単に死ねとか言われても意味不明なところがありますが(まあ、そういう時は放置)、ちゃんとした理由をつけて言ってもらえると心のそこから感謝します。

僕は見た目を気にしない方なのでついつい髪の毛が伸びっぱなしになる時がある。そんな時に、髪の毛が長くて気持ち悪いと言ってもらえるとありがたい。本当に髪の毛のことなんて忘れていることが多いから。人間は、始めてあったら、見た目、話し方、そして考え方で判断するだろ、と言ってもらったりとかすると本当にありがたいです。


そういえば、僕は怒らないとよく言われる。怒らせてみたいとか、怒ったとこを見たいとも言われる。何でだろう。昔は怒らないように感情を押し殺したこともあった。その時は感情むき出しで生きたいと思ったが、最近は感情を押し殺すこともなくなった。別に何が起ころうと、まあ、そういうこともあるよ。そういうものの味方をする人もいるよぐらいで終わってしまう。そんなちっちゃなことでごちゃごちゃ言うなよ。言ってもしょうがないよぐらいの気持ち。

僕は判断基準として死なないジャンとか、インドの裏ロジより綺麗ジャンとか言ってしまう。すると、みんなから日本だから、それを引き合いに出すなといわれる。まあ、そうだ。ごもっとも。でも、もっと最悪な状況もあるわけで、それでも人間何とかやってこれるわけで、小さなことでごたごた言っても仕方がないと思ってしまう。判断基準が死なないってことになると、相当ものの見方が変わるよ。小さなことでうだうだ言わなくてもいいし、そもそも考えなくてよい。最も最悪なこと意外は特にいやな思いをしなくてもいい。むちゃくちゃ楽観主義ですよ。

憧れと、好きと、得意は違うんだなぁ

憧れと、好きと、得意は違うんだなぁ。

好きと得意は違うっていうけど、これと憧れも混同しやすい気がする。

何かにあこがれる。
何かが好きである。
何かが得意である。

憧れは、こんなのいいなぁと思う。まあ、理想ってな感じでしょうか。自分がどうのこうのというよりも、自分は意外と客観的に見ている感じ。

好きは、純粋に好きなんですよ。それをやっていて楽しいとか。

得意ってのは、好き嫌いとかは別にして、他人と比べて得意であると。

僕はこんなイメージですね。

コレをついつい混同することがあります。
好きなことをやるのがいいのか、得意なことをやるのがいいのか、あこがれることをやるのがいいのか。

別に、どれでも良いんですけど、僕の場合はあこがれるものをやって、でもそれは自分にむいてなかったと気がつき、得意なことをやってある程度の評価を受けれたら、それでは満足いかず好きなことをやるという感じっぽいな。

はて、はて、自分の価値基準はどこにあるのかってこと。

BGMはまだハナミズキ ひととようです 飽きないです。

December 09, 2004

Serendipity

セレンディピティ
「serendipity」
ser・en・dip・i・ty[srndpti]

〔名〕〔U〕《文》ものをうまく発見する能力,掘り出しじょうず;幸運な発見;〔C〕《-ties》運よく見つけたもの[Horace Walpoleがペルシアの寓話The Three Princes of Serendip(Ceylonの旧称)(1754)の主人公たちのもつ能力から造語]
プログレッシブ英和中辞典第3版

ああ、辞書って使えない。辞書なんて本当に意味を成さない。もっと微妙な感覚が伝わってこない。例えば、「赤」って辞書で調べても、全然意味分からないでしょ。辞書に書いてあることと、そしてそこから伝わってくることと、僕たちが日常その意味をどう捉えてるかって全く違うんです。だから、辞書を引っ張り出してきて、「赤」とはこういう意味だ。だから、お前の言っていることはどうのこうのって言っても話がずれまくりな訳ですよ。言葉って、もっとナイーブなものなんですからねー。知らない言葉に関しては辞書を鵜呑みにする傾向があるけれど、(まあ、これは仕方ないかもしれないけど)実は、普段使っている言葉のイメージと辞書の説明は全然違う。これは知らなかった単語も一緒なんですよね。だから、知らない単語の意味を辞書どおり鵜呑みにするのはどうかなと。

例えば、
「赤」
色の名。三原色の一つで、新鮮な血のような色。また、その系統に属する緋(ひ)・紅・朱・茶・桃色などの総称。

って、そんなことがいいたいわけではなく、セレンディピティというニュアンスがまだ分からない。インターネットはインターネットでしかないように、セレンディピティはセレンディピティでしかないようなイメージが僕にはない。(こう、なると専門家病になり、基本を忘れてしまう傾向にあることも忘れてはいけないのだけれど。)

で、今日、セレンディピティの話だった。

セレンディピティはまだ、その概念が全然つかめない。偶然幸運と遭遇する能力(性質・行動)ってな感じでしか捉えられていない。

セレンディピティは心にゆとりがないと気が付かないと思うし、関係ないもの・価値のないものなどを受け入れるような行動を日々とっていないといけないと思うし、さまざまな経験を通して直感を磨かないといけないと思う。そんでもって、物事がどうなるか先のこをイメージしてないとセレンディピティはおこらないと思う。

その直感がセレンディピティの能力なのであろうか?とか思ってみたり。じゃあ、その能力ってどうやって付くかというと、日々の経験の質と量な訳でしょ。さまざまな質の経験を多くするということは、そういう経験をしようと思う性格だったり、新たなことをしようとする行動パターンがもととなるわけじゃないのかと思ってみたり。結局わからない。(特定のことを集中的にやってもその分野のセレンディピティは磨かれるだろう)

なんか、結局日々の生活スタイル、行動の指針が大きな要因だと思うのだが、なんかしっくりこない。
もうちょっと、いろいろ考えるとするか。


僕にとっては木曜日が一番楽しい。待ち遠しい日だ。
なぜかっていわれても困るが、何か楽しい。そこにいる人たちが、いいのだ。
いいってなんだって話だけど、心が綺麗な人ばかりで僕の心も綺麗になるからだ。
今年は、芸大も残すところ一回だと思うと非常に寂しい。


BGMはいつものように ハナミズキ ひととよう

December 08, 2004

人間の興味

人間の興味って、はかないねー。

歌の大辞典を見ていて思ったんだけど、昔の音楽が流れる。
ケッコウ知っているんです、中学ぐらいの歌でしょう。あの頃は、邦楽の売れ筋をよく聞いていましたから。

でも、今はやっている歌はほとんど分からないんですよ。どっかで聞いたことあるかなぐらい。

知らないのは、ただ単に興味がないから注目していない、よって耳に入ってこない。正確には聞こうと思わない。別に、どうでもいい。(まあ、そこまでではないが。)

これって、単純に興味がなくなっただけなんですよね。人間の脳でチョコット何かが変わっただけのはずなんです。興味ってすげーな。ただそれだけなんだけど、それが人間の行動の原点なんだろうな。

こういう、すぐ移り変わる興味もあるけど、半永久的な興味もあるよな。そこの違いは何だろう。

BGM 糸 中島みゆき

火花が飛ぶ

真っ暗なところで、目をたたく。

すると、目の前に火花が飛んだ感じがする。
感じではなく、確実に光が見える。

フラッシュがたかれたような感じで。

真っ暗だから見えないはず。
なぜだ。

脳が認識しているのか?

脳で見ているのに、目が見ている感じになるのはなぜだろう。
目の部分でものが見えている感じになるということ。それはなぜか。
不思議だ。

BBCワールドで日本の自殺サイトについてやっていた。
インタビューとかも。
そんなものが、報道されるのかよ。
へー、ということはイギリスにはそういうサイトがないのだろうな。
多分、世界中探してもまれだからニュースになるんだよな。

なるようにしかならないのだが、なるようにはならないということ


何を言いたいかというと、世の中のすべての事象はなるようにしかならない。

しかし、世の中のすべての事象はなるようにならないのです。

そう思うのです。

December 04, 2004

見るって何だろう。猛烈に疑問

ああ、見るって何だろうね。完全に真っ暗にしたところだと何も見えないはず。しかし、何回かいったことある場所なら、何がおいてあるかとか想像が付く。それで、ものの輪郭とかが想像できる。すると、なにやら輪郭が見えるような錯覚に陥る。でも、見えていないはず。

あれ、人間って目から情報を入れて、脳で認識している(見ている)なら、人間が想像する時に目で見たときのように、はっきりとカラフルに想像できても(見えても)良いわけだ。目で見ていると言いながら脳で見ているということ。とすると、真っ暗だと何で見えない(想像できない)んだ?人間の想像力が弱いからか?脳の働く場所が違うのか?

いや、違うぞ。夜見る夢はカラフルだぞ。ほとんど目で見るのと変わらないぞ。ということは人間の脳にはカラフルで立体的に想像する能力がある。じゃあ、なんで真っ暗な場所(目を閉じている)だと、想像でものを描けないのか?

目を閉じて、真っ暗なところで、さらに起きている時にカラフルで立体的にものを見る(想像する)ことが出来ても良いはずじゃないか。

分からない。気になる。

アウラ

アウラという意味が正確にはどんな意味かはまだ分かっていない。
でも、授業の流れからすると一度だけ現れて消えてしまうもの。って感じかな。

文脈は繰り返さない。

その場はその場でしかない。

時は過ぎるということなんでしょうか。

僕は思うんですけど、アウラだからこそ「思い出」という言葉があるのだと思います。

「アウラ」出なければ思い出なんて生まれない。

その時、その場所で、その空気でしか味わえない何かがあるから、それを懐かしく思い、良い思いでとして、たまには苦い思い出として残るのだろう。

アウラじゃなければ、またその感覚を味わえるので思い出なんてないだろう。

なにか、あの初めて見た衝撃とか、はっっと気がついた瞬間はその時しか絶対感じられない感覚なのだ。

人間の気持ちとか感情ってのは人間自体を作り上げているといっても良い。見ることも、感じ方も。

December 02, 2004

独り言が多い理由が分かった。

脳で考える、その考え方。
それが独り言が多いかどうかを決める。
まあ、自分で何かを考える時にどうやって考えるかなってことです。

上野公園を歩いていてふと思いました。僕は、何かを考える時、話し言葉で考える。「これって何でだ?○○だからかな。なんで、いや、違うぞ。それは。じゃ、なんでだろう?」と、一人二役を演じて考えている。脳で考える時、会話形式で掛け合いをしながら考えを進めるタイプだ。

で、考えてみると僕は話しながら考えるタイプだ。この場合は他人と話しながら考えるタイプであるということだ。人と話している過程を通して、自分でも考え、自分の考えを膨らましていく。

話して考えるタイプ、書きながら考えるタイプなどいろいろなタイプがあると思う。僕が人と話して考えるタイプなのは自分ひとりで考える時も会話形式で考えるからかなと思った。

だから、独り言も多いのかなと思った。自分の脳で話しながら考える、だからそれが声に出てしまって独り言になる。こういうことではないか。

多分、話しながら考える人は文章も口語的になり、いわゆる硬い文章は書けないんじゃないかな。反対に、脳で考える時も書く感じで考える人はいわゆる硬い文章を書ける。書いてしまう。ということではなかろうか。

人間が考える場合どのように考えているのかは、その人しか分からないわけでなんともいえない。だが、それだからこそ、そこに面白みがあるのではないか。自分の脳でも話しながら考えるということを突き詰めれば、何か面白い発見がありそうな気がする。そんな感じが今の僕にはある。

ことば

言葉って難しいですね。
何が難しいかって、特定の単語でも人それぞれまったく違ったイメージを持っている。

それを共有するって難しいな。たぶん、無理だな。
人によっても違うし、同じ人でも状況や周りの環境、いった人、抑揚によっても変わるし。年取れば同じ単語でも感じ方は変わるし。

定義をする云々という問題を通り越してることなんだと思う。

まあ、社会ではそんなこと言っていても始まらないので、殺伐と細かいことは忘れて生きていくしかないのでしょうが。

バカを装う

バカを装える人は頭が良い。
その人の本質を見抜くのが難しい。
バカを装い自分を下の立場に思わせ、その時に相手を見抜く。そんな作業をしている人が多い。

戦略的だな。


人の話を聞いていると、自分もいろいろな経験をしてきたのだなと気がついた。もっと、経験している人はいくらでもいるんだけど。

November 25, 2004

「1000年後に残したい宝もの」とは何ですか?

宝もの(宝の上に「たから」とふりがな)

国立博物館の常設展示の端でこんな言葉を見つけたのだ。

この文字を見て、なんかこの言葉を久しぶりに聞いた気がした。宝ものって響きを久しぶりに感じた。宝ものって普段の会話であまり出てこない気がする。考えない気がする。でも、昔(幼稚園・小学生)は宝ものってあった気がするし、すごく大切にしまってあった気がする。僕は、何かのダンボールの空き箱にいくつものガラクタ(大人の表現で言えば)を入れていた気がする。ただの木の切れ端、ミニカー、きれいな色のビー球、今は覚えていないいくつもの宝ものがあった。

そんなことを思い出し「宝もの」という言葉にドキッとして、テクテク歩く。すると、壁に「1000年後に残したい宝物」と書いてあり、机の上には「宝ものの名前」と「選んだ理由」が書けるポストカードがおいてあった。そして、何人もの子が書いたポストカードが壁に貼られていた。

僕も、紙を取って書こうとするが、その瞬間、頭に宝ものが思い浮かばなかった。正直その瞬間ショックだった。その後、いくつかのものが浮かんだが、コレじゃないな、なんか違うと、理由をつけて考えていた。宝ものに細かい理由付けなんていらないんだろう。もっと、純粋に宝ものを、宝ものだと言いたいもんだなと思った。

皆さんにとって、「1000年後に残したい宝もの」とは何ですか?

November 24, 2004

「ら」

なんか、ギターを持って歌っている人がいた。
たいしてうまくもなく、誰も聞いていない。

しかし、ふと気になる。

「らー、ら、らーー、らい」とか歌っている。そんな歌きいたこともなければ、きれいなメロディーラインでもない。何が気になったかというと「ら」という音。

歌では、この「ら」がよく使われ、繰り返されることがある。大黒マキにしろミスチルにしろ。じゃあ何でだ?

発音しやすいのか?確かに、A Ka Sa Ta Na Ha Ma Ya Ra Wa は口の開け方が構造上楽でってのはあるというものがあると思う。

「ら」が他のことばでどのように使われているか、そしてその使われ方からくる「ら」の感覚からか?

「ら」という言葉がらららと繋がりが良いからか。ラ行はルンルンとか、リンリンとか、明るいイメージでつながるからか。

何かしら文化的、歴史的背景があるのか?

「ら」は声帯いためないから、歌の途中に入れるとのどを休められる?

「ら」
1 五十音図ラ行の第一音。歯茎弾き音の有声子音[r]と母音[a]とから成る音節。[ra]

2 平仮名「ら」は「良」の草体から。片仮名「ラ」は「良」の初二画から。
大辞泉

これをみると、「良」という感じからきており、良いイメージであることは確かだが、果たしていかなる理由があってらと歌うのか?


と、意味のない妄想を繰り広げるのでありました。

視点

先日、電車の先頭に乗って気がつく。

おお、かっこいい。かっこいいというか、なんか「すげぇーーー」ってな感じ。たぶん、幼稚園児のころの新しいものを知ったり、見たりしたときの感覚。幼稚園児が動物園で叫んでる感覚です。

僕は、昔、おもしれーとか、ワクワクどきどきすることがない人間なのかと思っていたけど、普通の人よりそんなことが多いらしい。簡単に言うと、子どもらしいです。はい。成長していないだけですね。まあ、一生子どもでいると宣言しているから問題ナッシング。

で、話は戻って、モブログに僕はこんなことを書いた。

「電車の先頭から見る喜び。普段見ない視点か、電車というものを全体としてとらえる感覚、いったい何が心をワクワクさせるのか。」

それに思ったのは、目の前に迫ってくる電車が、そして京浜東北は新幹線も横切るから、わくわく。

新幹線、飛行機、これってなんかわくわくする。たぶん、小学生とかそういう小さい頃に、新幹線乗ったことある?とか飛行機乗ったことある?という会話からも想像されるように、電車や車とは違う乗り物なのだ。違うレベルの乗り物なのだ。そうやって、脳にうえつけられた部分もあるだろう。

もちろん、電車と同じようなもので新幹線はスピードが速い。この現在あるものの中では最高のスピードに喜びを感じるのかもしれない。飛行機も空をあんなに速いスピードですすむ、その感じに。

こんなこと書いていると、僕は昔書いたブログというものを思い出す。ああ、あれと微妙に関連しているなと。それを感じると俺が文章を書いたんだと感じ、俺って人間は常に変わっているんだけどベースでは
同じなんだと再認識する。

たぶん、読んでいる人には決して伝わらないこの感覚が僕にブログを書かせている。

http://www.teratown.com/moblog/archives/001151.html

2003/12/2 テレビうつり

夜はNHKでスペインのトレドをやっていた。
こっちは、今年の9月に行った。

普通はテレビで見るとよい部分しか映さないので、よく見えることが多い。
カメラワークによってほんのちょっとしかない、小さな範囲しかきれいでなくても、その美しさが永遠に続いているかのように写す。今朝のズームインはその典型だ。

しかし、NHKのトレドはテレビを通したほうがしょぼかった。まあ、テレビで見たほうが価値が下がっていた
。あの町は、これだっと、いうものがない。まあ、あるといえばカテドラルとかいろいろあるんだけどね。あそこは、町全体として美。和みがある。落ち着く。そういう、雰囲気とか・人々の生活している時間の流れ、カメラでは吸い上げることができないものがある。その吸い上げることができないものによさを感じる。だからテレビではよさが半減する。


November 22, 2004

お金が気持ちをなえさせる。

思うこと。

「たいしたことでない、些細なことでも、それに価値が生まれることがある。その人のためだけなもの。他の人には意味がないかもしれない。その感動に意義がある。03/07/01 」

こんなことを昔記した。これをまた感じることが多い。
別にお金がかかっていなくてもいいんですよ。いわゆるマスターカードですよ。あのCMですよ。お金で買えない価値があるんですよ。

たとえば、尊敬する人に自分の名前を呼ばれる。「おい、寺町っ」と。これなんともいえないほどうれしいことですよね。認められたというか。覚えてもらえたというか。別に金を払ったわけでも何でもないんですよ。両者ともコストも払っていないし。でも、とんでもなくうれしいのです。

逆に、尊敬する人にお金を払って、(これは本人でも、裏で協力者などの他の人でもいいんですけど)名前を呼ばれても、うれしくも何でもないですよね。お金払ったことによってその価値は下がってしまうんですよね。金は人間の感情(ワクワク。どきどき。感動。うれしさ。)を取り去ってしまっているのです。

トイレットペーパを使うのを躊躇する

トイレットペーパを使うのを躊躇する。
ってまじかよ!?

インドに行って左手に慣れたからか?トイレットペーパーがいらなくなったのか?!

そうじゃないです。
この前、トイレットペーパーを買ったんです。スーパーで一番安い奴が、香りつきのトイレットペーパだった。まあ何でもいいやと思って買った。家に帰って使ってみるとホントに花の香り。まあ、それはいい。

問題なのはトイレットペーパーに花の絵とその花に関する言葉が書かれている。
その言葉が、また心に響くことが書いてあったりする。

そうするとですね、じっくり読んで見とれてしまう。ココまでは良いのだけど、なぜかそれで尻を拭くのをためらう。ためらうというか、何か悪いことをしているような、なにやら綺麗なものを汚すような感情を持つ。

もとはといえばただの紙ですよ。無地のトイレットペーパーなら何にも感じていませんよ。しかしそこに絵と言葉が書かれただけで全く人間の感情は変わるのです。それだけ、文字と絵には人間の感情に与える力がある。そう実感したわけです。

問題じゃないんだけど、この気持ちはなんだろうか。

ちなみに好きな花はひまわり、桜、コスモスとかです。
まあ、スペインで一面のひまわり畑を見るという夢は達成されなかったのですが。。。

BGMはミスチルの「花言葉」
ミスチル歴はかなり長いけど、やっぱいいわー。落ち着く。

ゆめ

「夢」ということばがある。

将来の夢

というときの「夢」の意味

昨日の夜、怖い夢をみた

というときの夜寝ているときにみる「夢」


違う意味であるのに同じ言葉。
現実離れした空想という繋がりの中で、なんかうれしい気持ちになる。

なんか最近ブログのランキングがはやっているらしい、じゃあ、オレは

なんか最近ブログがはやっているらしい。

特にランキングとか。某野球参入で有名になった会社のランキングとか、その他のランキングで。

上位を争くらいなら、ほぼ毎日更新しているのにほとんど誰も見に来ないブログを達成してやるぞ。

前から言っているようにこのブログは自分のメモ。誰も見なくてもいいです。
じゃあ、公開するなって突っ込む奴がいるかもしれないけど、自分が外部から見るの便利だし。それに、公開するなって文句言うくらいなら見に来なくていいんじゃないのかと思うのです。

ランキング上位とか争うのなんてやってらんねー。このページのアクセス数下がるように意味不明なこと書いてやる。

もっと見に来るやつ減ってくれーーー。

よーし、もっと意味不明なこと書いてやるぞ。

と天邪鬼道をゆくのでした。ちゃんちゃん。

環境変化→心理変化-偶然を必然にする方法-

今日は朝から早い。最近、日曜日の朝が早い。ちょいと辛いが、すがすがしい。(夕方になると疲れるのだが)なんか、方向性とか、課題とかスムーズに話が進む。こんなにきれいにまとまっていいものなのかとも思う。たぶん見逃しているところがあるのかも。それから新宿で少し頭を使う。頭を使ったのは久しぶりかも。

ココから本題。

たぶん、若いうち(青年期かな?)には大きな環境変化と精神・心理的変化がある。大きなものは一人暮らし、経済的独立、結婚、親の死ではなかろうか。まず、一人暮らし。これは親から離れるという環境的変化。今までには全くない環境である。それによって精神的に自由が増える。経済的独立。自分で稼いで自分で食う。他人にどうのこうのほとんどいわれなくなります。さらに精神的自由が増える。結婚。これは精神的自由が減ると思われます。親の死は自分の支え、そして親の目がなくなります。

一概にこうとは言えないかもしれないが、こうではないかと。
で、こういう心理的な変化によってそれが行動という形で現れる。これの積み重ね。

で、問題は偶然を必然にしてしまう人。
そういう人は、環境変化が起こる前にその後の状態をイメージし、そのときの精神の変化を予測し、そのときに何をしたいかを具体的にリストアップしている。

大きな心理的変化がおこる前に、心理的変化後の状態をいかにイメージし、何をもとめゴールをみすえいかなる行動をとるかを列挙する 具体的行動を直接行わなくてもそのイメージしたものが日々の生活をとおして達成される可能性が高い 将来を映像としてイメージし夢をみるそして落とし込み これで人生の大まかな方向性がきまる それは一つ一つの行動が短期的意味を持っていなくても長期的にはつながる これが偶然を必然にする秘訣

これは、「環境変化の前」というのが重要で、その前にイメージする必要がある。

一人暮らし 親から離れる物理的に 自分で稼ぐ 金銭的に独立 精神面でのさらなる自由 結婚あらたな結び付き ここを期に人は大きな変化をとげる 物理的変化から精神変化になり行動という物理変化になる。それの積み重ねが精神信念をうみだす 東京には男が多く地方には女が多い マッチング 大学入学後10年計画 気付き共有仕事でスキル地元 大きな方向性を決めるのが得意 

一人暮らし、物理的に親から離れる
社会に出る 自分で稼ぎ経済的自立
結婚 家族が出来て、家族への責任感、どこに住むか子育てはどこでするか、どんな育て方かなど
親の死 親の目がなくなる。魂の中には届くかもしれないが。介護が必要になった時に自分はどうするか

これらの時は、人生の転機だな。

追記

結婚と親の死、さらには子供が生まれる。この三つをセットにして家族の増減とまとめることも出来る。転職とかも大きな変化だが、

これらの人生における大きな変化において結婚だけコントローラブル、自ら選ぶことが出来ることだ。だから、結婚は大いに悩むのだろう。

November 20, 2004

雨の日と利き足-特にメッシュのスニーカー-そんなんで考える

今日は雨だったんですよ。
そんで、出かけた。
帰り駅からとぼとぼ帰る。そうしたら、俺のきき足は右だと分かる。というのも、地面が濡れているところをメッシュのスニーカーで歩くと、右足だけ濡れる。靴のつま先あたりね。多分、僕は手も足も右利きである。だからだ。ってコレではいまいちかも知れないので。ちょいと詳しく。僕は手が右利きである。意識がある頃から右で字を書いていたし、右手で飯を食っていた。力も右の方がある。コレを踏まえて足を考える。歩いていてスニーカーが右の方が濡れている。ということは右足の方が力が強い。けり返しとかが強い。だから、水がはねて右のつま先の方が濡れる。

この、右足の方が濡れるのを見てきき足は右だと気がつきました。

そもそも、利き手・聞き足って何だろう。
多分、生まれたときから右利きの人は右利きなんだろう。ということは、遺伝子にその情報が組み込まれているのだろうか。劣性遺伝とか優性遺伝ってあるのかな?

見た目は、右も左も同じなんですよね。指が五本あって。同じような色で、同じような動きをして。じゃあ、遺伝子に入っている情報の何が違うんですか?そもそも右も左も利き手・利き足の人はいないんですか?さらに言えば、なにをもって利き手・利き足が右とか左とかいうんですか?

利き手ってなんだろう。なんで利き手が生まれるんだろう。

僕は、生まれたときから右利きだったとおもわれる。でも、中学のときに左利きに変えようと試みた。それで飯は今でも左で食べる。箸は左手で使うということだ。中学までは右で飯を食っていたが今は左で飯を食う。初めはマメとかとりにくかったけど、今は左の方が端の持ち方がうまいといわれるほどだ。そのころ字も左で書く練習をした。しかし、字は左手で書くのが難しかった。うまく書けないし、さらに時間がかかって不便すぎた。それでも、左手で日記を2,3年書いたがそこまで上達せずにいつの間にか終わった。こう考えると、利き手というのは強制使用とおもってもそう簡単に出来るものではないことが分かる。習慣でも強制できないものであることが分かる。では、利き手・利き足とは何だろうとさらに分からなくなる。

たぶん、利き手利き足を考えると相当おくが深いし幅が広いことです。うーん、遺伝子の問題か?生まれたときに親がどちらのてに箸を持たせたかによって決まるのか?利き利き足がある意味って何だ?
誰かコレについて考えている人いないかな?


ついでに、今考えれば、左手で飯を食べ始めたことも、ケンダマをしたことも僕の人生を大きく方向付けているのだとおもう。ちなみに、小学校二年生の頃からケンダマやってます。今でも東京の家にケンダマがあってたまにやります。あれは、いいです。面白い、楽しい、という次元を超えていいです。

疑問のまま終わるブログでした。

November 18, 2004

大学名って

大学、いまや行きたいと思えばどっかには引っかかる。昔の大学の価値(希少性)は今の大学院といわれるが、個人にとって、社会にとって大学名って今の世の中でどれほどの意味を持つのか?

最近、全然ばらばらなところで大学名というものが話題に出た。そこで、どうなんかなーと。

まず、先日、日経にたくさんの大学名がのっていた広告があった。それは何の広告かというと結婚斡旋会社。なにやら8月から10月の間に斡旋会社を通して結婚した人の男女それぞれの大学名と現職の業種が書かれていた。確かに、一般に有名とされる大学名の人しかのっていなかった。有名大学といわれるところを卒業した人しかターゲットにしていないのかな?

まあ、受験という勝負にかぎっては(これをやりたいといって大学を選んだり、この地方がいいといって選んだ人意外)東大に受かった人が勝ちだと思う。でも、東大だから一概にすごいとも思わないし、ボーダーフリーだからしょぼいとも思わない。単に受験という勝負だけの話。

金沢工業大学、はこだて未来大学、会津大学、多摩大学、高知工科大学とメジャーではないけれど面白い大学ってあると思うのに。。。

で、この話をしたら、大学名より現職だろといわれた。現在が三流大学と言われるところを出ていても電通だった、そっちの方がいいのではないかと?

そのほかにも、

学歴社会に疑問を感じたから、東大にいったという人も。

本を読んでいて、ペンシルベニアで投資家から金をもらおうという人はペンシルベニア大学を出ているだけで、投資家に信用されやすいとか書いてあったり。まあ、日本でも開業医を地元でやるなら地元の医学部にとかいうしなぁ。

アエラを読んでいたら、東大卒40歳の現在みたいな記事が。

たくさんの大学の人が集まっているところで、私の大学は・・・だけど有名大学の人ばかりで。。。っていっていた。

などなど。

高校の頃から言っていたのは、本当に何かをやりたいと思ったら大学なんて関係ない。本気でやればどんなことでもできると。大学を言い訳にするのはただの逃げだと。

自分の大学がいわゆる有名大学じゃない人の意識と有名大学の人の意識は違うんだろうなとも思う。

で、特に明確な理由があって大学を選ぶ人意外にとっては、有名大学か有名でない大学どっちがいいかといえば、有名な方がいいと思う。まあ、大学にも会社にも社風はある。その影響を多少受けているのは確か。初めて会ったときの話の種や、イメージ、信頼(表面的な)というものでは意味がある。逆にその大学のイメージで個人の性格まで想像されて誤解をよぶこともあるが。

結局のところ、あまり僕にとってはどうでもいいことなので、大学がどうであろうと気にしないので大きな問題として考えることが出来なかったと。そういうわけで、なんとも生ぬるいエントリー。

November 16, 2004

希望格差社会の到来

RHEOS REPORT の記事を見て。

僕は、小さいころ自分は何も出来ない人間だと思っていた。しかし、中学ぐらいのある日、思った。僕よりも物事ができない大人っているよな。その人たちが世の中で一人で生きていけるんだったら、俺もなんだって出来るジャンって。(この考えが、いかがなものかと今は思うが。)で、昔は本当に何も出来ないと思っていた。自分で世の中にインパクトのあることは出来ないとおもっていた。小さいころはテレビの世界はどっか別世界で、国を動かしているのはとてつもなくスゴイ人と。しかし、年を重ねるごとにやろうと思えば何でもできるというように思ってきた。ドンドン、希望が出てきた。特に高校・大学になってからはそれが顕著だと思う。いまや、超楽観的と言われてしまうほど、、、

しかし、みんながこう思っていないのが現実みたいだ。高校のときだったと思うがこんなことを友達から言われた。小さいころは夢があった。何でも出来そうな気がした。でも年を重ねるごとに何にも出来ないんだと気が付き始めたと。さらに、成人式のときに地元に帰って地元に残っている人と話しても同じようなことを言われた。

コレは大問題だ。特に地元に残った人がこのような思いの人が多い気がする。何をやっても意味がない。努力しても何も変わらない。そう感じていそうだ。もともと、そういう考え方の人が地方に残る気もする。希望を持っている人は東京に流れている気がする。このままじゃ地方の希望はまさになく、絶望だ。

僕の聞いた感じから推測すると、年を重ね絶望してしまった人でも、小さいころは希望があったり、夢があったり、何でもできると思っていた可能性が高い。しかし、生きていく中でさまざまな経験をして壁を感じた。その積み重ねにより希望をなくした。ココが問題だとする。

コレを何とかすれば、希望を持つ人が増えるのではないか?すると、やっぱり教育だろう。コレは無理だとか、それはやってはいけないとか、先生を神聖化した・絶対的存在とした教育をやめる、マイナス方式の教育をやめる。出来たらほめるとか、努力したら出来るレベルの問題を個別に出すとか、一つの答えを絶対とする問題ばかりをやめるとか、加点方式の教育をする。思いつきだけどこうすればいいんじゃないかな。

こういう教育をすれば、絶望する人が少なくなり希望を持つ人が増えそうだ。それに地方の状況も絶望から希望に一歩進みそうだ。

中央公論12月号の「希望格差社会の到来」は目を引いた。パラサイト・シングルの山田昌弘先生の論文である。

詳しくは一読をおすすめするが、この中で特に目を引いたのが「希望の社会心理学」という言葉である。もともとはネッセという社会心理学者の開発したものらしいが、「希望という感情は、努力が報われると感じるときに生じる。絶望は、努力してもしなくても同じだと感じるときに生じる」と規定しているそうだ。

現在の日本は、少数の「努力が報われる」と感じている層と何をやっても変わらず「努力が報われない」と考えている大多数に分化しているかもしれない。それが希望格差社会である。中核・専門労働者になれる可能性がある特定の学校で勉強できる者と、いくら勉強してもフリーターという「ステイタス」にしかなれない学校で勉強している者では、学習意欲がある生徒とない生徒に分かれるインセンティブ・デバイドが生じてしまうという。

インセンティブ・デバイドの問題を解決せずに、「がんばれ」を連呼しても意味がないのだろう。希望を信じている人には希望がない人に対する想像力が欠けてしまう。健康な人が不健康な人の気持ちがわからないように。酒が飲める人が酒が飲めない人の気持ちがわからないように。人の気持ちを踏み潰すのは、多くは想像力の欠如である。

山田先生は社会学の先生だが、投資の世界にはこれからは社会学の素養も必要になってきているように思える。フリーターやニートの問題から目をそらすわけにはいかなくなってきている。


November 14, 2004

平均より15年分、能力が低いことを知りました。

昨夜、寝る前に教育テレビをつけた。昔から教育テレビや地元の局をみる人間だったので、なんとなく。
なにやら小学校向けの教育番組がやっていた。国語の番組だった。
それは「にほんごであそぼ」という番組だった。(←色を変えたので前よりもリンクが分かりやすくなりました。)

その番組は、小学校の国語の授業関連の番組らしく、昔教科書で読んだような宮沢賢治などの文章を朗読していた。「くらむぼんはわらったよ」などと。なぜか知らないがこの言葉に反応。夜中なのにテレビを真剣に見てしまう。この音の響きとそれが与える印象がたまらなく心地よい。さらに、田舎のおじいさんが「アメニモマケズ」を朗読していた。それもなまって。これもたまんなく良かった。特に「サウイフモノニ  ワタシハ  ナリタイ 」という最後の部分にやられた。まさに、やられた。人間さを感じた。

雨ニモマケズはここhttp://www.mm-labo.com/culture/WiseSaying/a/amenimomakezu.html

この番組を見て、日本語ってきれいだなとしみじみと感じました。「ふるさと」などを好きだったので日本語が美しいとは感じていましたが、小学校教科書に乗っているものがこんなにも良いとは今さら気がつきました。小学校3年生ぐらいの教科書のよさを今頃知る。15年ぐらい遅れていますね。はい。

ここに、昔の教科書がのっています。光村の。表紙を見たら懐かしくなりました。
http://www.mitsumura-tosho.co.jp/data/travel/index.asp

その後に、やっていたのが秋の童謡「赤とんぼ」「烏」など。いやあ、これも名曲ぞろいですな。前から童謡は好きだったんだけど、秋の童謡を聴いていると、現代日本の季節感のなさは寂しくなる。今はスーパーや企業が季節を無理やり作り出しているだけだから寂しい。というのは、秋になればマツタケがある、柿がある。季節の野菜、季節の行事に関連させたものがある。しかし、それらはその季節に自然に育ったものではなく、ビニルハウスで時期を調整して作ったものであったりする。行事も地元の人がやるのではなく企業が販促のために行う。そういう季節感しかない。作り出した季節感は僕になじまない。で、話は戻って四季を感じるような生活はいいものだなと実感した。秋特有のぬくもりを感じながら生活する。

November 12, 2004

実は「絵」を見たことがない

もちろん、絵は見たことがあります。いまいちと言う絵も、なんでこれが評価されてるのっていう絵も、ふーんって感じで終わる絵も、いいなと言う絵も。ただ、"これだっ"っていう絵を見たことがない。

写真、音楽、建物、町並み、風景でこれだっって感じのものは見たことがある。

・建物で言えば、ガウディのカサバトリョ。特に内装。

・写真は何枚かあります。「飛ぶ夢をみた」
とか自分で撮った写真にもいいものがあります。

・風景で言えば、モロッコのカスバってところから見た海。コレはすごかった。ここのページにもあります。ここで海を見て、何時間も付きまとってきたが無視し続けた偽ガイドにお金を払ってしまった。なんか、この海を見て、そんなことどうでも良くなって払ってしまった。そこまで気持ちを変えさせる海だった。

・町並みはネパールのダルバール広場 なんか昔にタイムスリップした感じがして良かった。

・音楽はやはり the song of lifeがいいですね。あと篳篥、バイオリン、サックス、ピアノなどの音色。

これは、その写真を見たり、音楽を聴く時の前後に何があったかとか、どんな心境だったかによっても違うかもしれない。でも、モロッコで海を見て不意にお金を払ってしまったように、それらをどうでもいいと思わせるくらいのものがあるのかも。

別に、風景画でも自画像でも抽象画でもなんでもいいんですけど、これだっと思える絵に出合いたいなと思う今日この頃です。書道とかオブジェとか詩などの文章でも。まあ、美しい言葉にはたまに出会いますな。

実は昨日、鳩が円になっていて一羽ぐらいはみ出ている、(←表現が下手ですいません)を見せてもらったんだけど、あの絵が今、頭に残っていて気になっています。

November 09, 2004

美しい言葉を使う人

美しい言葉を使う人になりたい。

「きらめく海」という言葉を聴いてふと思った。

僕は語彙が少ないと思う。発言が幼稚である。
的確な表現が出来ない(←性格には違うと思っている)とか、一般的にいわれる問題があったり、馬鹿に見られる、ことがある。

まあ、これも問題といえば問題なんだけど、それよりも美しい言葉を使いたい。すごく深く考えてひねり出されるような響きのある言葉ではなく、さらっと美しい言葉。

日々の生活が豊になりそう。

November 04, 2004

小学生の会話

スーパーに行ったら小さな兄弟が床に座り込んでお金を数えていた。
スーパーを一周して戻ってきたらちょうど数え終わったらしく、1221円と兄の方が言った。すると、小さな弟は210円の菓子パンを指差して、これ買える?と兄に聞いたのだ。すると、兄は買えるよ。と答えた。

普通の会話でした。終わり。

何ですけど、子どものころって数字というものをばらばらに覚えている。一つの数字はただそれだけのものとして理解しているのかな。だから210円と1221円の大小が分からない。僕たちはいくつかの数字を聞くと自然と否応ナシに大小を思い浮かべてしまう。数字という物を関係性の中で認識しきっている。

夢は何ですかといったら、「死の感覚を感じること」「赤ちゃんの感覚を感じること」これらって体験しようとも出来ないからねぇ。

あと、スーパーの帰り道小学生ぐらいの奴が信号に引っかかって「クソ、ムカつく」といった。待つことがいやなんだろう。急いでいるときだったら確かに待ちたくない。しかし、特に急いでいる様子でもない。じゃあ、なぜ待つことはムカつくのか?何か体を動かしていないとうずうずしてくるのだろうか?エネルギーに満ちた子どもだからなのだろうか?それとも、何かしら「待つ=無駄なこと」というような認識があるのだろうか?とどまるということは何もしないこと、何もしないことは時間の無駄とかそうなのかな?保守的な人は守りに入る、何も変わらないほうが楽で好きなはず。そういう人も待つことがすきなのだろうか?

僕は待つことが特に苦にならない。こうなったのは小学生のときにふと思ったことがきっかけ。何かを待つ誰かを待つ、そんなときは暇だ。だから文庫本などを持ち歩く人もいる。しかし、何も持たないで待たなければならないこともある。そんな時僕は思った。何もなくても、自分さえいれば暇つぶしが出来ることはないか。それなら、答えのない、答えが見つかっていない問題を考えればいいじゃん。と。それから、待つときは生きるとは何か、人間とは何か、幸せとは?などと考えるようになりました。それとか、周りを見渡せば今まで気がつかなかったことや、同じものでも視点を変えてみたり、じっくり見ると違う発見がある。そんなことしていた小学生は、10年たつとこうなるのです。


自らが感じたことのない感情は他人が感じていても自分は感じれない。

自らが感じたことのない感情は、他人が感じていても自分は感じれない。

これ、わかっていそうで分かっていないこと。
とある人の話をきいて思いました。

黄色い線の内側?

ズーット前から気になっていた。
これは何度聞いても違和感がなくならないこと。
何百回と聞いているはずなのに、違和感が残るフレーズ。

「黄色い線の内側にお下がりください」

どこかで聴いた記憶はありませんか?駅のプラットフォームです。
電車がプラットホームに入ってくるときに、電車に近づきすぎるとき読んだから、駅員さんがアナウンスするのです。まあ、それはいいんです。

言いたいのは「内側」?ってところです。

僕にとっての黄色い線の内側は「線路」の方なのです。電車に近づけって事かよ!って、いつも突っ込みたくなる。しかし、駅員さんの言う黄色い線の内側はプラットホームの真ん中の方なのです。

なんで、僕が黄色い線の内側を線路だと思ってしまうか?
多分電車を中心に考えているからです。一方駅員さんは客を中心に考えているのです。
その違いによって解釈の仕方が異なるのだと思う。

僕が自分自身を中心に考えないで電車を中心に考えるか。それは紛れもなく電車の駅という場所にいるからだ。普段は自分を中心に考えているが、駅では電車がメインだ。みんな電車に乗りにくる目的できているのだし。だから、電車を中心に考える。

しかし、駅員さんは毎日駅で働いている。それが日常だ。だから、駅というのは電車に乗るという目的でもなく電車がメインであるという発想にならないのではないか。だから自分中心で考えるから、黄色い線の内側がプラットホームの真ん中のことをさしているのだろう。

そんな理由じゃないのかな?
普通の人は、僕みたいな認識の仕方はしていないのだろうか?

普通の人は瞬時に脳で補正がきくから、普通の認識が出来るのかもなぁ。おれは、そのものをそのまま捕らえすぎているのか?


November 01, 2004

逆上がりが出来る瞬間に何が起こるか

逆上がり、 小学校のときに出来なかった経験がある人も多いと思う。練習して練習して、やっと出来た。そんな思い出があるのではないか。

で、出来なくて何回も繰り返して、やっとはじめて出来た!時があるはずだ。

初めて出来た時と、その一回前の出来なかったとき、何が違うのか?体力もスキルもほとんど同じはず。

何か変化があったはずなのだ。しかし、すべてほとんど変化はないはず。

なんだろう、その瞬間に小さくとも、大きな変化があったのだ。この違いが気になる。

人間が、なんとなく気持ちが変わる瞬間も不思議であると昔書いたが、それと似ているのかも。

人間のベースとなる思想の共有とは何か

人と話していると思うことがある。それは、本質的に共感しているときには起こらない感情や思いである。いや、自分と違う意見であっても、起こらないときもある。

じゃあ、何に対してその思いはあるのか。

「何か違う、通じない」と思ったときに起こる感情だ。
それは生きる思想の根底が違うからじゃないかと思う。人間のベースとなる思想が違うってことだ。それは、育ってきた環境が違うから、それまでの経験、その人が社会でとってきたポジション、人にとられた態度、その人が生きることについてどれだけ考えたかなどに関わってくる。言ってしまえば人生のすべてに関係するのだ。

こういうと、すべての人が違う環境で育っている。双子だって違う。みんな違う環境なのだが、分かり合える人と分かり合えない人がいる。通じる人と全く通じない人。なぜだ?それはファーストインプレッションで拒否反応を示したとか、ステレオタイプ的なものがないわけではないと思うが、そう簡単には片付けられない。

自分の考えと違っても、腑に落ちることがある。

しかし、違った考えで腑に落ちなくても、この「何か違う、通じない」と思ったときに起こる感情が起こらないこともある。それは、その相手と長い付き合いでお互いのベースを分かっているからかもしれない。

じゃあやっぱり、ベースを流れる思想が共有できるか出来ないか、ここに行きつく。で、これがあまりにも違う人のことは理解できないのかもしれない。

「人間のベースとなる思想」とは何なのか?

人間はすぐに形あるもの、はっきりと見えるもの、はっきりと分かるものを求めたがる。それはお金でも、偶像崇拝でも、経典でも、座右の名でも、肩書きでも、ブランド物、何でもそうなのだが、そういうものを求める。しかし、それらは僕の考えで言えば「抽象的な考え」と「具体的な例」理論と同じだ。人間は分かりやすかったり、説明しやすいのですぐに具体例で示す。確かに分かりやすいが、自分の思いというのは具体例とは違う。もっと抽象的なのだ。抽象的な思いに本質があるのだ。具体例というのは僕に言わせればブランド物と一緒だ。

僕も、形のあるものを全く求めない人間ではない。形あるものはっきりしたものを求める。しかし、それがすべてではないと思っている。ブッダガヤで今まで僕は何でこんなにも形あるものを求めて、それによりすがってきたのだと思った。この話は誰にもしていないと思うが、僕はブッダガヤにいった。行く前に、釈迦が悟りを開いたところだし、数珠とかお経とかなんか買おうと思っていた。考えるきっかけの思い出として。それも、マハボディ寺院という悟りを開いた菩提樹のあるメインテンプルで。なんか、悟りを開いた寺で買うと「ありがたみ」があるというか、そんな感情を持っていた。しかしだ、実際に行ってみると数珠もなければ、お経もうってない。あーあ、買えないと物足りない感じだった。これは一日目の素直な感想だ。2,3日行って菩提樹の下にすわっていると気がついた。おれは形あるものに頼りすぎていると。それに気がついた時、正直愕然とした。何か自分の今までの人生はなんだったのかと思うくらい。何という安っぽい考えをしていたのか、そんな考えをした人生なんてなんというむなしい人生なのか。衝撃が走った。もともと、ブランド物などに興味のない僕でもそこまでショックを受けた。

目に見える数珠というものを手に入れることのみで満足しようとしていたのだ。それは、何も考えないことにつながる。すぐに手に入って満足して、何も考えなくなってしまう。しかし、そうじゃない。
具体的なものとしての数珠を買うことにより、目に見える思い出を作る。これは、ツアーで観光地まで連れて行かれて、そこを10分でみて、一瞬で忘れる解説を聞いて、写真だけとって返ってくるのと変わらない。ただ、行ったという記録を残すため、そこへ行ったと周りの人に示すためだけに行く。自分の本当の思いと外れている。こんな海外旅行とブッダガヤで数珠を買うことは同じなのだ。

僕は、ブッダガヤで物に頼らないことを知った。自分で考え、自分で感じるそれが大切なんだと思った。しかし、それは目には見えないし、はっきりと一言でいえないかもしれない。そんな不安、それを乗り越える。そこにしかないものがある。

「曖昧なものを曖昧なまま受け入れることの出来る心」コレが出来る心はすごいものだと思う。安っぽい強い心といわれるものよりも、数段と不安だ。しかし、それらを越えたところにこの心があると思う。

で、この共有できるベースを流れる思想は一言では表せない。無常であるし、曖昧なものだ。はっきりと分からないから人間は不安だ。暗闇は物がはっきりと見えないから不安なように。

自分の考えやを一言であらわすなんて不可能だ。そうできないからといって自分がたいしたことないと思うのはおかしい。ただ、文字にしたり、言葉にすることで気づくこともある。そう、吾人の任務を書けばいいのだ。


言いたかったのは、この曖昧なものを曖昧なまま受け入れるそこに意味を感じれるかどうかが人間のベースとなる思想ではなかろうか?「曖昧なものを曖昧なまま受け入れる」ということを少しでも、ある一部分に関しても出来る人は僕と人間のベースとなる思想の共有が出来ているのだろう。


(関係する組織によって、人間のベースとなる思想の共有が出来ない人との関わり方は変わってくる。会社、サークル、クラスメイト、友達、NPO的な活動、旧友など。)

(仏教も昔は偶像崇拝禁止で、お経も釈迦が死ぬまで紙に残されていないらしい、それまでは口頭で説いているだけだったようだ。)

October 30, 2004

型にはまる

なんか、僕の心のそこの思想を分かっている人が少ない。

金というような、人が作り出した指標で、目に見える形で他人より優越感を味わうとか、社会(みんな)が作り出したが、みんなが望んでいないくだらない正しさに無理やりあわせる。こんなのどうでもいい。でも、そんなものによりすがって生きている人が多い。僕もまだそんな気持ちがある。

大学はそれらの精神を知ることだと思う。モラトリアムに関するエントリーでも書いたけど、無駄に実学に走ることはない。中学とか高校でもそういうことについて考えてもいいのだが、経験が少なすぎるし、影響を与えすぎて社会で生きていけない人間になりそう。しっかりした教育のもとで行えば問題ないかもしれないが。あと、思うのが、ある種の経験や学びを通した後でしか分からないものがあると思う。物理学を極めそれを踏まえた上で、出てきたものが複雑系ってのと、特に何も学ばず複雑系を学ぶのや考えるのでは意味が違う。物理学を通してからでしか考えれないこと、感じれないことがある。一方でいきなり複雑系をやった人にしか感じない疑問や質感もあると思う。どちらがいいとか、どちらが成功するかは分からない。多様性があった方が、いろいろなアプローチがあるんだから、いろんな人がいた方がいいと思う。これは、学問ではなく世の中のほとんどのことに言えると思う。

上のことを書いたんだが、いいたいことは違う。頭に浮かんでいた感覚と違うことしか表現できなかった。もっと、ナイーブなことをかきたかったんだが。言葉を知らなさ過ぎるのかな。それとももっと考えて時間をかければいいのかもしれない。とりあえず、今は時間がないから、無理。また、考えよう。

やっぱ、将来は坊さんか山奥でくらしたい。

という意味で、木曜日に会う芸大の人は分かっている。

かといって、芸術とか好きなことだけでは生きていけない。自分の本質を見つめて、見つけて、それを踏まえた上で社会に出て行きたい。哲学があれば、社会(みんな)が作り出したが、みんなが望んでいないくだらない正しさに無理やりあわせなくても幸せな人生が送れると思う。

それを踏まえて、社会という現実で生きていければと思っている。くだらない、無駄なもの、俗物に振り回されない生活がどれほど豊なものか。これは計り知れないものだ。

October 29, 2004

どうでも良くないことと、どうでもいいこと

僕にとってはどうでもいいことに関して、興味を持っていたりする人がいる。そりゃ当たり前だし、いた方がいいと思う。ここで言う関心のあるなしの対象は個物具体的なとあるブランドだったり、好きなテレビ番組とかそういうことでは全くない。生きるうえでの話である。これじゃ、曖昧すぎるが、生きるうえで大切にすることってな感じだ。

その人の生きるベースとなるものが安っぽいなという人とは話してこなかった。話そうと思ってはいたが、話してきたとは自分なりに思っていたが、腹を割っては話すことはなかった。僕にとってはどうでもいいことに関してだったからだ。もっと言えば、そのような人間自体に興味を持っていなかった。

しかし、それだけでは足らないと思った。腹を割って話してみて分かることがあるかもしれない。

自己満足と自己満足ではない狭間、エッジを生きる

なんとも言いがたい

本質、なんてない。ブランド物をまとっていることだけでしか自分を表現できない人。この表現は完全に否定的な表現だ。僕はこういう人たちをあまりたいした人間とは思っていない。基本的に十人十色って考え方だから、そういう人がいることも分かるし、いてもイイと思っている。でも、僕の中では安っぽいとか思っているけど、実はそう簡単に言い切れない。


同じにおいのする人、なんか通じる人。この人は分かってる。そう感じる人が何人かいる。

酒が飲めるとかいう歌があった、月曜日は何チャラで酒が飲める、火曜日は何チャラでって感じで。僕の言いたいのはこの歌と正反対のような人を同じにおいのする人といっている。というのも、なんかイベントだとかプロジェクトだとか組織だとか、それらにかこつけないと一緒にいられないような仲ではなく何もないのに一緒に入れる仲の人は比較的通じている人なのだと思う。

具体的にこの条件を満たしているとかそういうことではない。

October 27, 2004

友情が生まれるプロセス。

友達の条件

・ひとつのプロジェクトをみんなで魂を注ぎ込んで達成したとき
・人生や社会問題ついて正直に朝まで語り合う
・恥ずかしい、あほなことを共に出来る
・自分の本心を相手に伝える(感性があっている)
・お互い無言でいても違和感のない人(ネタを考えて話そうとしなくていい雰囲気を作り出しあえる人)

僕は、自らメールを送ったりメッセで話しかけたり電話をしたり直接会うということは少ない。別に特に理由はないのだがあまりそういうことはない。それでも、連絡をくれる人はいる。ありがたい。薄っぺらい友達関係はあまり興味がない(そういうこというと友達なくします。笑

でも、何人かは自分と同人種とかんじたり、この人は人生や世の中分かってるな、この人俺のこと分かっている、なんとなくあうという人がいる。それは、連絡する頻度だったり、会う回数じゃないと思う。2,3度しかあっていない人でもそう思う人も何人かいる。

頭のいい奴=偏見のある奴

頭のいい奴は偏見がある。コレはフィーリングで言っているのではなく、それなりの理由がある。別に完全に悪い意味で言っているわけではないが、頭がいいといわれてそれだけで満足して、見落としがちな面を言いたいだけである。

ここで言う頭がいいとは、会話をしていていろいろな知識を持っていたり、的確な返答をする才能がある人のことです。

で、こういう頭のいい人はなんで的確な返答が出来るか?それは幅広く深い知識と、さまざまな経験、常に頭を働かせ考えている、自分の考えをまとめていたり、話したりしているからだと思います。さらに、相手の次の発言を相手の知識・思考を踏まえた上で予想しているから。コレ自体はどれも悪いことではないし、むしろすばらしいことだと思うのです。こうしているから話がスムースに進むのだし。だから頭がいいとほめられるのだし。

しかし、これらは偏見に満ちている。というのも、知識がある、コレじたい偏見であふれかえっている。何かを知るということは、自分なりに解釈するわけです。その解釈にはバイアスが入る。で、頭がよいとされる人たちの頭の中は整理されていると思うのです。話しているときに、話題に対してすぐに脳から知識を引き出してこれる、そのためには分類訳して脳の中に記憶している。そう思うわけです。意識的にやっていなくても、そうなっている可能性があると思う。で、分類して記憶しているってのは偏見が生まれるのです。すべてのことはそんなにうまく分類訳できません。ここで無理やり分類しているので間違った記憶というか、偏見、バイアス、そんな感じのものが生まれると思うのです。

さらに、相手の言うことの先読みをする、すると返事が的確になったり、すばやく返事できるわけです。しかし、それは相手をこんな人間だと決めてかかっているからそのような先読みが可能なわけです。ここでも偏見が生まれるわけです。とまあ、頭のいい人といわれる人の会話における思考には偏見が生まれやすいとそう思ったので、気をつけましょうと。

ようは、頭がいいといわれる人は物事を一面的に捉えたり、無理やり枠にはめて捉えたり、むりやり分類して記憶していることがある。それは偏見につながることがあるから、常に意識しているといいかなぁと思っただけです。

僕がいつもエントリーしていることは、他人に言いたいから書いているのではなく、自分で書いて自分を戒めているのです。それか、自分の記憶とそのときの感覚を取り戻すメモです。別に僕はこのエントリーで書いた頭のいい奴ではないけど。

October 26, 2004

脳が動いている感覚?

なんか考えたり、イメージを想像するときって脳が働いている感覚がありませんか?それは、実際に脳が活動しているからそれを細胞が感じ取って脳が働いていると感じるのか、人間は脳で物事を考えると知っているから、その知識から脳が働いていると感じているのか?はたまた、物を見るときのような映像を見る感じが起こっている?コレ意味が分からないと思うんですけど、僕が言いたいことは、人間が物を見るというのは目だけで行っていない。目からは情報を得ているだけで実際は脳で見ている。だから目がなくても見ること(≒想像)はできるわけです。で、この見ているときの脳の状態が起こっているから、見えているから脳で考えていると感じるのかな?

よく分からないけど、素朴な疑問だなぁ。

October 25, 2004

人体通信


「人体通信」の実用化に成功
手を触れるだけでデータ通信する「タッチ通信システム」販売開始

松下がこんなものを売り始めた。体脂肪計ぐらいの電流が流れるだけらしい。WBSでやっていた。8人ぐらい手をつないでも問題なく使えていた。これも面白い技術で、ライフスタイルを変えるかもな。コレを使ったらどんな生活になるのか、どんなビジネスができるのか想像してみる。

明らかにめんどくさいこととかをコレで簡単に出来るといいねぇ。でも、味気ないかもね。なんか人間って目に見えるから落ち着いたり、何かをもらったという満足をしたりするから。だから、インターフェイスを工夫するとか、エンターテイメント性を加えるとか、わざと目に見えるものを動かすようにするとか。

RFIDとか携帯にカードが全部入っちゃたり、カメラが付いて、ICレコーダーが付いて、まあ、PDAッぽくなって定額になる。ああ、文字入力のブレイクスルーも必要。フェリカ(お財布ケータイ)がPCで手軽に使えるようになったり、そうすればインターネットにおける決済が楽になる。するとオンラインショッピングのあり方がかわる。人体通信で握手するだけでデータのやり取りが出来たり、物が注文できたり。

この上の文章は日本語がおかしいけど、まあそれはおいといて。これらのことは3年以内には実現化しているから、面白い世の中になっているだろうなー。それを見据えた上で行動するんですよね。


http://www.mew.co.jp/press/0409/0409-3.htm

 松下電工株式会社は、人体を通信ケーブルの代わりに利用して、近距離のデータ通信をおこなう「人体通信」の実用化に成功。対面販売計量プリンタへの商品データ入力装置として、計量器メーカーへの販売を開始しました。
  この「タッチ通信システム」は、人体に微弱な電流(交流)を流し、その電流にデータ(情報)をのせることで通信を実現する新しい通信方式で、腕時計型などの通信機を着けた手で情報端末の電極にタッチするだけで、データ通信が可能です。また、専用チップを用いた小型化タイプでは、人―機器間だけでなく、人体―人体間の通信も可能です。今後、この技術を応用した新しいシステムを展開します。


覚悟

理念とか、思想、何をやりたいか、最終的に何を達成したいか、どんな幹事のものを望むかということが僕の中では大切で、そのプロセスや手段にはあまり興味がない。最終的なゴールが達成されるなら、その手段はどのようなものであろうと、楽しめるし一生懸命取り組める。

自分と同じ気持ちを持っている人がいることに喜びを感じる。同じ体験をした人がいるとうれしい。思いの共有はうれしいものだ。

世の中なんか達成しようとしたら「覚悟」がいる。人生「覚悟」出来る奴と出来ない奴で全く違う。

人間は2種類、覚悟した奴と、覚悟できない奴。覚悟した奴の発揮するパワーは並大抵のものじゃない。失うものがない感じで。自分の吾人の任務を達成するためには覚悟がいる。まずは覚悟を決めてそれを探さないと。

僕は、相手の心理を察知するのが得意なようだ。

岐阜に一万人移住

前から思っていたのだが、岐阜を活気のある町にする方法はいっきに1万人移住すること。別にふざけていっているわけじゃなくて、それが早くて簡単な方法だと思うのです。

世界中で、いろいろな分野で活躍している人。ビジネスマン、芸術家、教育者、政治家、料理人、どんな職業でもいいんですけどね。岐阜出身で優秀な人はいくらでもいるわけです。その人の多くは岐阜から出て行く。岐阜に未練を残しながら。

岐阜に戻ってもいいなと思っていても、一人で戻っても職もないし、面白くて有能な奴も少ない。と思っているだろう。じゃあ、みんなで岐阜に戻れば面白そうジャン。一気に1万人ぐらい。そうしたら、赤信号みんなでわたれば怖くない理論でみんな岐阜に来るだろう。1万人ぐらい増えてもマンションや家ぐらいあるし。問題ない。

1万人も岐阜に一気に戻るって話になれば、面白そうと思って岐阜出身じゃなくても岐阜に便乗してくる人も増えるだろう。

そして、新たなことが岐阜で生まれて、岐阜に元気が出る。
長期的には岐阜のブランドをどうやって高めるか。何を売りにするか。だろうな。

こんなことを話したら、驚かれた。僕の中ではコレしかないと思ってたから以外だった。

土曜日の夜も、日曜日も面白い話が出来ました。

いやー、10年後とかが楽しみでしょうがない。社会がどうなっているのかとか自分がどうなっているのか、今の仲間がどうなっているのか。想像するだけでワクワクするは〜。

October 22, 2004

自らを紹介できる

自分のやっていることを誇りを持って紹介できる、これってかっこいい。
こうなっていれば、(自然に紹介していれば)その時、僕の理想となっているのだろう。

自分のやっていることに自信があって、面白くって、ワクワクしていて、満足している。だから自分のやっていることや組織を紹介できるし、そのイベントにも誘えるのだと思う。

まあ、うざくない程度に紹介するのがポイントです。

October 21, 2004

笑み

なんか、真っ暗な風呂でふと思う。
10年後の俺ってどうなってんだろう?どうなってるか全く分からないんだけど、なんか10年後の自分を想像すると笑みがこぼれる。それは輝かしい未来があるとか、有名になっているとか、何か成し遂げたとかじゃ全くなくて、タダ単にほんわかした笑みがこぼれる。

10年後の自分を決めるのも自分な訳で、自分がどうするかで大きくは方向性を決めれる。でも、10年後なんてどうするか決めてないし、わかんないと思っている。なのに笑みがこぼれるのはなぜだろう。

この10年の直感の積み重ねがどうなるかを楽しみにしているのか?

自分のことを他人のように見ている自分がいる。
この余裕というかゆとりは何だろう?

まさにホムンクルス的感覚だな。


なんか、興奮すると、いわゆる安っぽいこと、青臭いことを書いてしまう。そういうことを子どもだなとよく馬鹿にする人がいるんですけど。その気持ちを失ったら人生楽しめない。ワクワク出来ない。と思うんですけど。

直感は体験から生まれる

東大で部活をしていた人を企業は好んで採用したと聞いたことがある。今でもその名残があるみたいだ。

僕は、これはおかしいといってきた。だって、能力関係なく東大+部活で採用するのはおかしい。能力を見て採用するべきだと思ってきたから。(まあ、能力なんて判断できないという問題もありますが。。。)確かに、部活で絶対的な服従とか規律、礼儀などを学んで、既存の上下関係がある大きな組織ではうまく働いたかもしれないとは思っていたが、その程度だった。

でも、違うかもと思いました。体を動かすことで、頭が良くなる。これはあると思う。頭が良くなるというか、体全身を動かすことでしか身につけることができない、直感などがあると思う。これは仕事の上でも役立つのではないかと思った。イギリスでパブリックスクール、いわゆるエリート校がスポーツを重視しているのも、体を動かすことによって脳が活性化されるからみたいだ。

もっと、自分で納得がいったのは、自分自身の考え方が実はこれと通じるところがあったからだ。僕はかねてから旅をすると瞬時の判断力が付くとか、人を感覚的に見抜く能力が付くとか言ってきた。日常とは違う状況で体全身を動かし、体全身で感じる。この行為によって入ってくる情報を脳は処理しているのだ。これらの体験を積み重ねることによって論理的には説明できない、感覚が身に付く。これによって脳が活性化される。この感覚や自然と活性化された脳は仕事でも役に立つのだろう。簡単に言えば運動部の人にとっての部活は僕にとっての旅だったみたいだ。

October 19, 2004

イチロー

またもイチロー。ふと思った。

イチローが最下位のチームで今回の最多安打記録を達成したことに意味がある。そう言っていた。そりゃそうだ。と思っていた。で、またそれを考えると、改めてすごいなと思った。

最下位のチームの中でみんなやる気がない、優勝もタイトルもあきらめている。回りがそんな状態だと自分にも影響される。やる気がなくなる。そんな中にいても、イチローは自分の精神をコントロールし、一歩一歩前に進めた。決して周りに流されることなく、やる気をなくすことなく。この精神状態を保つのは並大抵の人間じゃ出来ない。やる気のなく能力のないチームで一人だけモチベーションを保ち結果を出す。まさに行き着く境地。周りに左右されない。達観している。イチロー恐るべし。本物のプロフェッショナルだ。


いつも書きたいことはたくさんあるけど、忘れたり、めんどくさくてやめたり、、、ノートにメモっただけとか、携帯でメールをメモとして送っただけという記事がたくさんある。小さくて、キボードがついてる、機能はテキストエディタと常時メールが送れるメール送信。こんなデバイスがほしい。


あと、良かったエントリーのランキングでも作りたいな。

イチロー:NHKスペシャルを見て

イチロー新記録を語る

一打席打っただけで可能性が見えていく、一打席凡退しただけで可能性が減っていく。

開幕
3月いつもと違うシーズンになるかもと予感はしていた。4年目にしてレギュラーポジションはあると思えた。3年目までは春に失敗するとレギュラー落ちするという不安があった。開幕後波に乗れず。4月の打率2割55厘。マスコミもバッシング。イチローは4月の打率低迷は気にしていなかった。納得のことだった。シーズンの実践でないと感覚はつかめない。オープン戦ではつかめないものがある。4月はシーズンの感覚をつかむ調整期間と初めから考えていた。5月、月間50本。3年ぶり。しかし、納得はしていなかった。調子はそこまで良くないのに打ててしまった。感覚を失っているのに好調で違和感。逆に調子は悪くても納得する。96年も首位打者だったが、苦しんだ。このときは退化していたがヒットが出てしまう。出るはずがないのにヒットが出るこれを絶好調という。スランプのときにしか絶好調は来ない。

日米通算2000本の時には笑顔がなかった。ここまでには、はるかに多い凡打があり、悔しんできた。7月、月間50安打。5月の50本とは全く違う感覚だった。納得できるヒット=必然のヒット。打つべくして打つヒット、説明できる、理由付けできるヒット。わざと詰まらせてヒットにすることもあるが、見ている人は詰まらせたけど偶然ヒットになったと捕らえることもある。5月と7月の変化は、明かさない。全部言うと面白くない。バッティングフォームそのものに関わること。子どものときの感覚に近い感じがする。そんなバッティングスタイル。たどり着いた感覚は少年時代の感覚。

苦手投手の攻略がおおきなポイント。ボールが語りかけてくるピッチャーアスレチックス・ハドソン投手。他のバッターに対する球と自分に対する球が違うときワクワク。8月56本。自己最多。8月26日、ロイヤルズ戦、200本安打。4年連続200本安打をホームランで達成。

シスラーはイチローのヒットのおかげで表舞台に立つ。1973年シスラーは亡くなった。その年にイチローは生まれた。イチローは野球の魅力はホームランだけではないことを知らしめた。シカゴで5打数5安打を打ったときに記録もかかっていなかったのにスタンディングオベーション、自分にかどうかさえ不安になった。アメリカ中の注目を浴び、重圧を感じ始めた。9月21日、エンジェル戦12試合19本。このとき10試合で4試合ノーヒット。ヒット一本が出ないことがものすごい大きいこと。ヒット一本出ることがものすごい大きいこと。このときは、、、、、、あれだけ気持ちが揺れ動くことはめったにない。一打席打っただけで可能性が見えていく、一打席凡退しただけで可能性が減っていく。
10試合で10本に。このとき、可能性を強く感じた。5安打、4安打がすべてった。残り4試合2本atオークランド。このときに記録を達成したかった。シアトルは地元でプレッシャーが強くなる。あと、一本のプレッシャーを感じていた。200安打を前に12打席連続ノーヒット。

プレッシャーをはねのける方法なんてない。プレッシャーを背負ってプレーするしかない。自分自身で解き放つしかない。10月1日、シアトル、最後の3連戦。4万5千人。セーフコフィールド。一回裏第一打席。イチローコール。4級目。257本目のヒット。シスラーと並ぶ。しかし、笑顔はなかった。まだタイだからどうしてももう一本打ちたかった。第2打席、258本。チームメイトが球状に出てきてくれたことは特別なことだった。84年の歴史が変わったボール、日々重くなっていくでしょうね。本当はこのまま野球をやめたい、どんなに楽だろう。この数字を目標にというのはとても出来ない。数字だけでは荷ですけれども、野球選手としての能力もですけど、細かいことを積み重ねることでしか頂上にはいけない。それ以外の方法はない。

最終戦、最後の打席、ヒット262

野球がうまくなりたい。そういう実感が持てたらうれしい。それは数字には表れずらいですけど、自分だけで味わいたい。そうやって前に進む気持ちがあれば、ベストに近づけていく。


「結局、ひとつひとつ、小さいことの積み重ねなんですよね」
「いきなり頂点に立つことはできない」

October 18, 2004

なんでもないものがたくさん集まると新たな性質が生まれる

何のへんてつもない物がただたくさん集まるだけで全く新しい機能や性質、意味を持つ。なんか不思議だ。一つ一つでは持っていなかった性質が、その同じ物がただたくさん集まっただけで、今までになかった全く新しい性質を持つようになる。そして、集まって生まれた性質が大きな意味を持つ。

なんで、もともともっていなかったのに、同じものが集まると新しい性質が生まれるのか?たとえば、脳 人間 生物、2ch 都市 物質(材料)とか。それぞれ理由は違うと思うが、興味深い。


関係ないけど。「チャンスには危険がある」

生まれる前から?

産まれる前から死が怖いのか育つなかで死が怖くなるのか?ネパールの山で足が震えたのは本能?しかし震えたら余計危険 なぜだ?

October 17, 2004

奏でる音

僕は、いわゆる楽器と言うものは演奏できない。
澄み切った音を奏でることは出来ないかもしれない。

しかし、僕は脳という楽器を持ち、
想像というしなやかな音色を奏でることができるだろう。

これはすべての人、すべてのことに当てはまるだろう。

「文字と想像」、脳の質感はある種のアウトプットであり言葉による表現は意味がない

何かひとつのことを考えると連鎖的にどんどん考えが浮かんだりすることがある。書きとめておこうとメモをいくつも残す。そして、いま頭の中で創造したことや考えの中心となることはだいたい書いたな、と思いメモを終わる。そして何日かたってから、メモを見る。何か物足りない。あれ、これだけだったっけ??もっといろいろ考えてメモした気がするなーと感じる。

僕の過去の記憶というものは僕という人間自体を過大評価しているから、メモはもっと書いた=もっといろいろなことを想像した、考えたと思うのかもしれない。確かにその面もあるだろう。しかしそれだけではないと思う。脳というものは、字にならない、脳の中で論理的プロセスを経ない、なにやら感覚的なものが大きな役割を果たしていると思う。それが自分の脳の中に記憶として残っており、字ではそれはあらわせないから、何か物足りない感じを得るのだと思う。

そう考えると、脳って不思議だな。自分の脳自体で考えていることをその自分ですら分かっていない。同じ脳のはずなのに分からない。同じ脳だから分からないのかもしれない。

いや、人間は脳の中にあるものをすべて明確な形で認識できると思ってしまっていること自体が間違いなのかもしれない。僕の頭の中にそう前提条件があるのがいけないのかも。だって、言葉としてはあらわせない、脳から発生した感じ、そのなにかしらも、言ってみればアウトプットな訳だ。元をたどればその感覚、質感もなかった、それらが生まれて僕の脳は感じた。ということは言葉にはならなくてもその質感自体がアウトプットなわけだ。思えば、アウトプットの表現方法が言葉に限られている必要もない。というか、アウトプットの方法が言葉という一つだけの方がありえない。その質感は言葉で表そうということ自体が意味がない。そうなのかもしれない。

形式的なことは言葉で伝えられても、それ以上の意味において言葉はあまり意味が伝えられていないのだろう。まあ、他者がいてこそ、言葉には意味があるのだが。

October 15, 2004

貨物列車の駅付近で紙を見て思う、言葉の認識

駅から家に行く間に踏切がある。その踏み切りは貨物の倉庫のちょっと手前の踏み切りだ。だから、そこを通る電車はスピード遅い。貨物の車庫から出て行ったり、入ってきたり。その踏み切りを渡ろうとする時に、電車が通りかかることがある。ケッコウ長いので、あー引っかかった。と思う。しかし、どうせなんで、なんかオモシロイコトをしたり、普段は貨物をじっくり見れないので見てみようと思う。

それで、ぼーっと貨物を見ていた。いろんな会社の貨物があった。それはいいんだけど、コンテナの左下あたりに紙が張ってある。それはコンテナの仕分けに使われる紙だと思う。

名古屋とか地名が書いてあり、5,6桁の数字が3箇所ぐらいに書いてある。で、それを見ていた。初めはどこへ行く貨物が多いんだろうとか思いながら。すると、地名に関してなんだが、読める地名と読めない地名がある。それは漢字が読めないということではなく。で、何でかなと思う。名古屋とかは読めるのに梶ヶ谷は読めなかった。さっきから読めると書いているが、おそらく読める読めないではないと、貨物列車が去ってから思った。だって最終的に梶ヶ谷って読めてるから。「名古屋」この文字は列車が通る一瞬で認識できたのに、「梶ヶ谷」はすぐに認識できず、あとから「梶ヶ谷」だぁ。と思った。これはなぜか?それは「名古屋」この文字を普段読みなれ、聞きなれているからだろう。この文字を一文字一文字読んで名古屋と理解したのではなく、「名古屋」これを3文字セットで一文字というか一つの記号、絵のように認識している。だから頭を自らの意識で働かせて「名古屋」と読んだのではなく、経験などから言葉以上のもの(もっと感覚的なもの)として認識しているんだなと思った。「梶ヶ谷」この言葉はめったに使ったことがない。だから、その文字を一文字一文字読んで、一つの単語と認識して、読み方を脳のデータベースからひっぱてきて、一つの言葉として僕は理解でき、ああ梶ヶ谷かぁとなったんだと思う。列車が去るときは何って書いてあるか分からなかったけど、コンテナに張ってある紙が写真のように映像で脳に残っていて、列車が去った後に、映像から文字を引っ張り出したんだろうなと思う。

こう考えると、普段話している言葉でも、普段使いまくっている単語と、普段使っていないけど分かる単語、これらを使ったり聞いたりするときに使う脳の部分は違うんだろうなと思った。それに、使いまくっている単語は意味なんて知らなくてもその言葉を聴けば感覚的な意味が分かるが、あまり使わない聞かない単語は前者のようには理解していないんだろうなと思った。一単語ずつ脳を意識的に使って理解しているんだろうな。感覚的に理解可能な単語に置き換えて理解しているのかもしれない。

この二種類の単語は、同じ言葉とはひとくくりに出来ないような感じがした。

もちろん、人それぞれある特定の単語に関する理解は違う。それはその単語を自分で使ったり、聞いたりした経験が違うから。その単語以外の人生も違うのだから。でも、これとは違う次元で、上記のことは同じ言葉と人くくりに出来ない気がした。明確な理由は説明できないがそんな気がした。
ある言葉を使いまくって、感覚的に認識するようになる単語もあるだろう。

対談の本

一概には言えないのだが、対談を本にしたものは何かつまらない。

対談形式の本を読んだ。書いてある内容自体は好きなんだが何か物足りなさというかつまらなさを感じた。何でだろうと思う。対談は最低でも2人以上で行う。その対談を本にしてあるわけだ。対談というのは話している間(ま)、顔の表情、その日の天気、部屋の照明、さまざまなものを対談している人同士は共有している。それらを無意識のうちに踏まえた上で対談している。その言葉にはならないものがあって対談は成立している。しかし対談を本にした時点で、文字だけが切り取られる。すると、何かしら伝わってこないものがある。それで物足りなさを感じているのだろう。もちろん、編集して補足していると思うが、完全に補完できているわけではないんだろう。

普通の本は、作家が一人で筆を持って書いている。対談とは違い文字以外の要素が少ないように感じる。だから普通の本の方がよみやすいのかな。 

ただそう思っただけでした。ちゃんちゃん。

October 13, 2004

痛みとそれを感じる脳の不思議

腕をぶつけると痛い。当たり前だ。もちろんぶつけた部位が痛くなる。しかし、部位そのものが痛いわけではないと思う。なぜなら、痛みを感じない病気があるからだ。ぶつけても、こけても全くいたくない。そんな病気があるらしい。だから、そんな子どもは骨折などを繰り返す。ぶつけても痛くない、だからこけることは危険だと学習できない。この病気からも分かるように、ぶつけたこと自体が痛いわけではない。痛いというのは脳が痛いと判定しているわけだ。物を見るということも目が見ているように感じているが、脳が見ている。脳で目から入った情報を合成している。

でも、ぶつけた場所が痛く感じる。それは脳からまた情報がぶつけた部位に戻りその場所をいたいと感じているのだろうかな。なんか不思議だ。

脳は同時にいろいろな情報を処理している。目で見た情報を処理し、音を処理し、手を動かす情報を出し、と。で、これをやっていると認識している脳の部位もあるはずだ。脳が各部位が動くことをコントロールしている脳もあるはず。

これは脳について勉強すれば分かりそう。それを踏まえたうえで、答えの出ない脳のことについて考えてみたい。


こういうこと(意識とは?脳と心の関係、クオリア)に興味のある人って少ないのかな?
たまに時間を気にせずこういうことを語り合いたいモンです。
そんなことしたい人いたら、語らいましょう。

人間とは不思議なものだ

あることをうまく出来ない時、人間はもどかしく感じる。できるようになったり、達成することを願う。しかし、ひとたび達成するとその時はうれしいが、成功してしまって当たり前のようになるとつまらなく感じる。

不思議なものだ。結局満たされているのは一瞬だ。

まあ、すべてが無常であるからなぁ。

出来ない→出来る

この間には何があるのか?おおきな違いがあるのか。大きな違いがあるとしたら、脳の認識のみの問題であろう。たとえば運動系だったら体力面とかテクニック面からしたらほとんど同じはずだ。

認識、そうだと思う、思い込む、そう見る。これは人生に最も大きな影響を与えているのかもしれない。物の見方というか、見えてしまう、自然にそう見えてしまう。それが一番大きいのかも。

コンテクストがなくなった上で価値のあるもの

馬鹿なことが出来る会社、って強いな。

最近ユニクロとか、楽天とか出てきていますがソニー。この会社も好きです。有名企業で何とかでとか言う理由ではないです。馬鹿をしてそうだからです。クオリア。SDR。負け続ける映像メディア対決。特にクオリア。だいぶ昔に発表されたものなんだけど、このコンセプトいいねー。それに、本質を出井さん分かっていらっしゃる。(えらそうですいません)


本田も好きです。足も作っちゃったり、ジェット機を作っちゃったり。そういう、一軒無駄に思えることを出来る会社って強いと思います。そういう文化がある。そこが強い。文化というものは一日で創れない、習慣ともにている。そいう文化がある会社って強いなー。一回どん底を味わっても這い上がってくると思う。

October 12, 2004

同じような感覚

同じような感性というか感覚を持っている人がいる。ああ、俺の思っていることをほんわかと感覚的に分かってくれているなという人がいる。

自分がうまく言葉で説明できなくても、分かってくれる人がいる。

茂木さんのブログを見ていると僕の考えていることと同じようなことを考えていそう。というか、寝ている時に見る夢についてのエントリーをほぼ同時にしていたり、文系理系に関する関するエントリーをしていたり。

考えている方向性も似ている。失礼かもしれないのだが。
今日も大学に茂木さんはいらっしゃっているのだが、時間が合わなかった。お会いする機会をつくろうと思えば作れるのだが、なぜか日程が合わない。今週の木曜日はぜひ、芸大の授業に出よう。

子どものころの経験、過去の回想(想像)、体験の喜び

人間は喜びを味わえる。ワクワク、ココロオドルことがある。
今が楽しい、過去の思い出が楽しい。どうなるか、どんな感じか想像して楽しい。

人間は、何か面白いことをする。そのときは楽しいが、時間が経つと何かむなしさや、寂しさ、ぽっかり穴の開いた感じを得ることがある。楽しい思い出は時間が経つと寂しい思い出になる。そういう場合もある。

しかし、そうでない場合もある。子どものコロに遊んだもの。今思い出すと楽しい。ワクワクしてきてまたやりたくなる。子どものコロの遊びは比較的単純で、この年になればくだらないことのように感じることが多いように感じるが、そうではないこともある。ミニ四駆、これを思い出しワクワクしていようにミニ四駆をコースでは知らせて競争したくなったり。

そう思うと意外と覚えている、体に刷り込まれている子どものころの経験(思い出)は、大切だ。記憶というのは子どものときの事実とは異なることも多いが、大きくは違わないだろう。こんな遊びをした、こんなことを知った、けんかした、怒られた、うれしかった思い出、悲しかった思い出、びっくりしたこと、などなどいろいろな思い出がある。人間は意外とと覚えているものだ。そして、その過去を一つ一つたどる。すると大きな影響を与えていることがる。(昔)あの時は、何も考えず、将来の自分に大きな影響を与えることはないと思っていたことが、今振り返るとこんなにも影響がある!と思うことがある。些細な一言、そんな一言を覚えていて、その一言によって自分が作られることもあるし。些細な日常の一場面をなぜか覚えていることもある。子どものころの記憶というのは、一秒一秒が後の自分に大きな影響を与えるのだ。そう思う。子どものころの経験やまたそれに伴う記憶は大切なもんだ。

たとえば、ボクが中学の時について考える。クラスの友達といろいろと話、遊び、何気なくすごしていた。別に深い意味を考えることなく。そんな友達が一生の友達になるとも思わず。中学から、6年ぐらいたった。中学の友達、今でも友達な奴がいる。多分一生の友達だろう。そう考えると、中学の一日がボクの一生に大きな影響を与えている。友達と出合って初めて交わした一言、その印象が違えば仲良くならなかったかもしれない。クラスが違えば知ることもなかったかもしれない。なんか偶然性とか運命の問題になりそうだが、中学の友達が今も友達である。中学のころはたいしたことはないと思っていた日常が、実は一生の友達とまでなる大きな意味を持っていたのだ。小さいころの日常は大きな価値を持つし、重要なんだ。といって、小学生とかがそんなこと考えていたら、頭でっかちで面白くない生活だろう。偶然、何があるか分からないからオモシロイコトがおおいのだ。

日常が大きな価値と書いて思い出した。(もちろん話し外れます)何気ない生活、ありふれたもの、特に生活で気にも留めないことや物、これらも人が年をとるごとに、生活が変わるごとに、技術進歩するごとに、なくなっていくことがある。珍しいものこれはみんな大切にしたり、保存しようと行動する。だから、珍しいものは意外と残っている。しかしありふれたものは残っていないのだ。そんなものに気づいて、保存したいな。日常で気づいていない、歩数とか心拍数、瞬きの数など、またありふれたもの、ペンとか爪楊枝とか、袋とか、小学校の算数セットとか、もっと上に書いたものに適したものはあるだろう。(ありふれていて、自然すぎて気づかないから簡単には的確な例が挙げられないのだ。)それらを保存すると、時間が経って意味を持つだろう。また、データを取ってみると気づかないことに気づくだろう。

これはインドから日本に帰り思ったことでもある。帰国して取った写真を眺める。何か物足りない。なぜだろうと考えると、日々歩いていた道路の写真がなかったり、一番良く話した人との写真をとっていなかったりと、よく食べた一番スタンダードなカレーの写真がなかったり、露天の写真がなかったりと。当たり前のように毎日見ていたもの、毎日使っていたものの写真がない。最も日常的なものそれがない。特別で、珍しいものだけある。(もちろん、ホントにピンチのときなどは写真なんて撮っていられないし、感動しすぎてとり忘れることもある。)そう、みんなが当たり前と思い、当たり前に受け入れ、ありふれているものに価値があるのだ。それは、時間の経過で感じることもあるし、場所の違いによっても感じることがる。

話がそれまくってパラグラフごとに書いてあることが違うが、言いたいことは、子どものころの日々がケッコウ記憶に残っていて、それを振り返って思い出すのも面白い。過去のワクワク感を回想することはとても面白い、それにいまだ知らぬこと、旅行の前、何かほしいものを買う前の想像はとても楽しく喜びがある。実際それを体験したり、見たり、感じたりした瞬間、心のそこから突き上げてくる喜びがある。ココロオドル。人間は想像と体験という喜びを持っている。

当たり前のことには気づかないけど、意外と重要でそれをいかにして見つけるか、そして保存したりデータを取って分析したりすることも重要だなと。

客観的にみる

自分という存在が何かを考えるということは、何かを見るということは、主観的なわけです。これ当たり前、いくら客観的に見るといっても本質的には出来ない。努力することは出来るが、その努力に意味があるかどうかは定かではない。

自分の基準で何でも考えて、理解する。そうせざるを得ないし、それでいいと思う。しかし、もともと考えている人が違う、考えている脳が違う、考える思考プロセスが違う、考える価値観が違うということは踏まえておかなければならない。

自分の基準だけでこの人はたいしたことはないと思っても、自分の考える領域を超えていることを言っているかもしれない。簡単に他人を軽蔑しない方がいいな。それに脳が違うんだから簡単に理解しあうということも相当難しいものだ。

相手の言っていることをすべて受け入れるべきとも、好き嫌いをするなとも言っているわけではないです。

ブログとして書いて、公開しているが、(人間が他人に話したり、書いて公開したりする、)これは自分に対して言い聞かせていることが多いのです。そして、外部に言ったり書いたりすることで、自分の考えがより強くなるのです。そう思います。

October 10, 2004

順番

順番、順序。
物には順序というものがある。
何かをするにしても、何かを作るにしても、人生にしても。
それは考えて導き出すときもあれば、何か感じて順番を決めることもあれば、何も考えずにやって結果として順序が良かったことなどある。

定量的に測れないので、これが一番順序が良くてこれが一番ダメとかはいえないが。自分でこれは良かったと思うことも、悪かったと思うこともある。それは他人や他のことと比較してとは別にして。

自分も他人から見てもよい順序というのがイイと思う。しかしいつもそうは行かない。問屋が卸さない。で、順番はイイに越したことはない。いいものが出来たり、手早く出来たりと。しかし、順番を間違えても何か出来なかったり、達成できなかったりするわけではない場合が多い。順番を間違えても、そこで修正したり、戻ってやり直したり方法はある。順番にこだわることもいいことだ。でも順番にこだわりすぎないってのもいいモンだろう。

順番というものは絶対ではないと思う。

自分は自分という人間の経営者であると。
正確には経営者プラス執行役員ですかね。

理系と文系

僕は今文系の学部に通っている。でも、技術的な話とかが大好きだ。こんなのが出来たら世の中どうなるのだろうとか、この技術はどうなんだろうと疑問に良く思う。文系的というか、哲学的というか(簡単にこういうのは問題だが)そういったことの空想にふけるのも好きだ。

理系の人で文型は馬鹿で、技術的なことを何にも知らないと馬鹿にする人がいる。文系にも理系は技術のことしか知らない、文系が理系を操るみたいな考え名人がいる。それおかしいよ。絶対におかしいよ。マジで。

古い新聞

さっきのエントリーで書いたように古い新聞を読んでいた。

人間発見では、イチローや三木谷さんのも切り取ってあって読んでいた。どちらの方もふむふむと思いながら読んでいた。

日経エレクトロニクスという雑誌の30周年の一面広告があった。

テクノロジーは、ノンフィクションだ。

「いつか暗闇から抜ける、そう信じるしかない」(出井伸行氏)
「僕は技術者、いつまでもワクワクしていたい」(Linus Torvalds氏)
「ロボットは、缶ビールを取ってこられるくらいがちょうどいい」(広瀬真人氏)

「未来はもう占うものじゃない。創りあげるものだろう」(Bill Gates氏)
「技術者として、こんなに面白い時代はないよ」(久多良木健氏)
「現状を打破するには、みんなが日本を飛び出すしかない」(中村修二氏)

学生

イメージで語る。
(こう書いて、字を見た瞬間に書こうと思ったことと違うことを考えた。そっちのエントリーもしたくなった。)自分の思い描くことをイメージで語れるってカッコイイ。

最近の学生は、昔の学生よりいろいろなことをしていると思う。昔の学生って遊びほうけていた気がする。(それはそういう時代だったからべつにいいんだけど。)今はNPOとか、芸術系のエキシビジョンだったりとか、旅だったりとか、ボランティアとか、投資だとかいろいろしている人がいる。それは経験としてすごくいいと思う。それに対する思いとか、いろいろ考えて行動しているなと考えると、今後の日本も明るいと思う。しかし、その学生は本当に魂がこもってやっているのか?周りがやっているからとか、なんか流される感じでやってないかな。そうだとすると寂しい。今後いい社会が来ると楽観的にはいえないかも。

まあ、どっちにしろ絶対よい社会が来ると思い続けてるんですけど。

笑顔と真剣な顔

人の顔を見ればその人の性格とかが分かるということがある。顔は口ほどに物を言うとかね。で、特に笑顔と真剣な顔で分かると思う。本当に楽しそうに笑っているかってのはすぐ分かる。人生を楽しんでいるなとか。真剣な顔も物事に対する姿勢とかが伝わってくる。多分これだけじゃない。でも、感覚的に笑顔と真剣な顔でその人ってのが分かる気がする。まあ、言い方次第では、絶対に他人の性格なんてわかりっこないので、分かる気がすると書いたんです。そう言い出すと自分の性格も分からないので。

答えがないことが答え。
絶対的に正しいことがないのが答え。
自分が何かって分からない、それが答え。
そういっている答えも、答えかどうか分からないんですけど。
結局堂々巡り。

結局すべてが分からない。本質なんてない。分からない。
そう。そうだと思う。

仏教で言う「空:クウ」の概念。
無常なんですよね。

そう思うと仏教の考えってすごい。

October 09, 2004

ユニクロ

ユニクロが、単なる安いものは売らなくするらしい。

ユニクロは安さを期待される店から、品質の良さを期待される店に変わると柳井さんが言っていた。

この会社に対する賛否両論はあると思う。(服がいいかどうかとは別の話で。)僕はけっこうこの会社が好きだ。戦略に一貫性がないかも知れない。服のファーストフードを目指しているとか昔は言っていたと思う。質重視に変わればその路線とは変わるかもしれない。でも、ここの対応の早さとか、変わっていくスピードは半端ない。昔は男物の安い服が中心だった。しかし、女性ものの服が増えたり、質路線になったり。ユニクロの店頭に行くと、毎回何か変化に気づく。それが面白い。ここまですぐに変われるのはやっぱすごいよ。変わるって難しいことだからね。

それにユニクロはニュース性がある。何かすればテレビや雑誌でも注目されている。何かをやってくれるし、社会にインパクトがある証拠だ。

柳井さんを少し深く知ったのは、日経の夕刊に載っている人間発見だったと思う。この人間発見と言う記事は相当読んだな。そうとう昔から日経を読んでいる。昔の記事とかでも相当記憶している。今になってそれを実感する。5〜10歳ぐらい年上の人と話しても、昔のニュースで話が合うことがある。今起こっている背景をたどると昔のニュースと関係していることがある。その昔のことを、ああ、そういえば新聞に書いてあったなと思うことが最近多い。昔は日経で面白い記事を切りファイルに入れていた。これ、今読んでも意外と面白い。それに、自分の興味の対象はあまり変わっていないことが分かる。それにしても、昔から日経を読んでいて良かった。今になって本当に実感する。その当時は純粋に面白いなと思って読んでいただけなのに。小学生のころは意味の分かんない単語も多かったけど、読んでいた。自然にやっていたこの読み方が良かったのかも。分からないことがあってもとりあえず進める、そしてやり続けるという能力。この世の中はじめっからすべて分からないことばかり、それでも進め続けないといけないことが多い。日経は僕の人生に影響を与えただろうな。小さなコロから日経が読める環境にあったのは親のおかげだと思うと、親に感謝しないとなと思う。こう書いていると昔の日経の記事が読みたくなったので、ちょっと探して適当な記事を読もう。

相変わらず、話がそれましたが。。。
一勝九敗やプロフェッショナルマネージャーを読もうかな。

そういえば、話は変わるが、というかユニクロも批判する人が多いと思ったら、ふと思った。宇多田ヒカルが全米デビューしたらしい。で、売れないとか批判が多かったりする気が。まあ、売れるって人も同様にいるんだけど。(同様って打ったら童謡って出た。童謡が好きだからなぁ。よく打つからそう出たんだろう)ぶっちゃけ、そんなのどうでもいいじゃん。自分が表現したいものをして、それでいいじゃん。売れようが売れまいが。飯食っていかないといけないから売れるに越したことはないんだけど、そればっかに気をとられると魂がなくなるからね。魂が入っていないものに誰も魅了されないよ。

一勝九敗
柳井 正

おすすめ平均
有名会社の成り立ち
店長は会社の主役だ!
本家ユニクロ商法解説本

Amazonで詳しく見る4104642010




プロフェッショナルマネジャー
ハロルド・ジェニーン

おすすめ平均
別の感想
読んで損なし
売れるべくして売れた。

Amazonで詳しく見る483345002X

October 08, 2004

純粋に衝撃を受ける

何かを見たり、聞いたり、体験して衝撃を受け、どうしようもない感情になる。どうにも表せない気持ち。心のそこから湧き出てくるようなもの。その心踊り、脳の興奮状態。

これを感じることが出来る人は幸せだ。
なんか、生活が面白い。
これが、ひとつのことをする大きなモチベーションになる。

「本当の美しさというのは、一人称で生きる中で
こみ上げてくる美しさのことなんだな、と思った。」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2004/10/post_12.html

この言葉、いいですね。
かなり的確に短い言葉で言い切っていると思う。

最近茂木さんにかんすることが多い気がする。
まあ、それだけ面白い人です。
僕の考えていることと近かったりするし、性格も似ているかも。

求められる人物像

会社が、リクルーティングのためのセミナーを開くとき、わが社の求める人物像なるものをプレゼンすることがアル。

まあ、それは問題ない。
こんな会社にしたいというのがあれば、それを目指すために必要な人材がいるからだ。

しかし、学生はおかしな捉え方をしている。というか、何かへんだ。ある学生は、A社に行きたかったとしよう。そして、そのセミナーに行く。すると、A社の社員が求める人物像をプレゼン。すると学生はメモ。まあ、ここまではいいだろう。学生は求める人物像になるべく、自分を仕向ける。そう装う人もいるだろう。あれれ、おかしくないか?自分があって、自分の考え、自分という個性があってそれにあう企業に行けばいいのではないか?会社の求める人物像に性格をあわせたり、装ったりする必要はないのではないか?っていうか、そもそも逆だろ。まず自分ありきで、会社があるはず。会社が先で、自分の考え・個性は二の次っておかしくないか?そうやって装ったり、逆の考え方で、企業に入るから、入社してから社風とあわなかったりするんじゃないかな?

じゃあ、なぜA社に行きたくなったのか?それは周りの評価だったり、イメージだったりとそんなようなものだろう。求める人物像と会わなかったり、社風と会わなかったら志望からはずせばいいのに、初めに決めたから志望からはずすなんて考えもしなかったりするわけだろう。

自分ベースで行きたいものだ。

October 07, 2004

青空は気分がいい

なんか、ここ数日毎日雨だったじゃないですか。
で、空も雲でどんより。

特に、雨で気分が悪いわけではなかったが、
今日の朝起きて、青空を見たらすごい気持ちよかった。
すがすがしい朝だった。

いやー、ただ朝起きて青空を見るだけで人間は気分が良くなるんだな。
青空が続いていると、スカッーとする。
一日頑張ろうって言う気になる。

やっぱ、青空が好きだな。

ああ、でも、寒くなったね。
それも一気に寒くなった。

秋を通り越して冬じゃないかと思う。


そういえば、インドの人と話していたら、springとautumnが伝わらなかった。インドにはsummerとwinterしかないみたいだ。やっぱ、ないものを想像するって難しいんだろうな。それも、何かが発展したproductなら想像しやすいかもしれないけど、感覚的に理解しないといけないものや、概念的なものこれは分かりづらそう。

というか、概念的なものは分かるというよりも、それに実際ふれ、何回も体験することによって慣れる、そして感覚がつかめるようになるのだろう。単に分かるというよりも、感覚的に分かるという表現があっていそうだ。

October 02, 2004

イチローが普段メディアにそっけないわけ

普段イチローはメディアに対してそっけない。
実際は面白く、明るい面も持っている人だと思う。
気の会う人とはケッコウ盛り上がりそうな人だと思う。
勝手な想像だけどね。

メディアは自分の意思と反して、てきとうに報道することが多い。
そんなメディアが嫌いという理由でイチローはそっけないのかもしれない。

しかし、これだけではないのではと、ふっと思った。
勝手な推測なんだけどね。

こんな感じ。
自分の精神のコントロールをメディアを利用して行っている。
ということだ。
これだけでは、意味が分からないかもしれないので詳しく書く。

イチローぐらいの選手になると、節目節目でインタビューなどを絶対に受ける。
ニュース性があるから、イチローはあまりコメントをくれないから記者はコメントがほしくてたまらない。
そんな節目は記録達成の目前だったり、優勝するなどの前だったりする。
このとき、すごくワクワクしていたり、ありえないほどのプレッシャーを感じていたり、緊張しているだろう。
でも、イチローはそんなそぶりを見せない。
淡々と、冷静なコメントする。
このコメントは自分のためにしているのだ。
冷静なコメントをあえてすることで、自分を高揚した状態から落ち着ける。この意味があるだろう。
(外部に宣言するって感じの意味もあるだろう。
外部に公言して自らを追い込むみたいな。)
精神を落ち着けて、次の試合に臨むことが重要だと知っているから。
平静を保つこの大切さを知っているから。
で、この冷静なコメントには他の意味もあると思う。

インタビューを受けたものはテレビで放映されたり、新聞記事になる。
見たくなくても、テレビで自分のコメントを聞くかもしれないし、記事が目に入るかも、周りからコメントに対する感想などを言われるかもしれない。インタビューのコメントは、ほかっておいても自分の耳に入ってくる。

自分の発言をメディアを通して聞く。
これは自分の発言なんだけど、いったん記者のフィルターを通り、メディアというものを通して聞くと、客観的な発言のような感じで自分で感じられるだろう。自分の発言を聞いて、改めて自分で実感するというか、発言したときとは違った意味を持って自分の中に入ってくるだろう。

ここに意味があるんじゃないかな。
いったん自分の発言が外に行き、もう一回自分に戻ってくる。そこで、自分にもう一度言い聞かせる。高揚した状態から我に返らせるような意味があるのではないか。精神を落ち着けて、また次の試合に臨む。

そうやって、メディアを利用しているのかなとふと思いました。

それにしても、達成したときのイチローの笑顔は本当にいい。
それだけの積み重ねがあるからあそこまで、いい顔で喜べるのだろう。

September 30, 2004

BRICs

なんか、昔日経でBRICsというのを読んだ気がする。

これは、Brazil,Russia,India,Chainaの頭文字をとったはずだ。
何十年かたつとこれらの国が世界の中で大きな役割を果たすようになるって話だったと思う。
ここであげたそれぞれの国は役割とは違ったものになるだろう。
どんな役割を果たすのか、考えたり、勉強したり、議論するのも面白そう。
10年後の世界、そして我々の生活ですら、想像できないからとっても難しいんだけど。
簡単に言えば、我々が創造していくんですよってね。

これ以外にも、2、30年後に大きな役割を果たす国はいくつか出てくるだろう。
勢いがあって、トップを追いかけるときは面白いだろうなとも思う。
がむしゃらにやる感じがね。
まあ、日本はその段階をすぎ今のような快適な生活を送れているわけで、そこは先人に感謝しなければならない。
日本はそれらの国とは違ったアプローチでやっていかないといけないのは明らかで、それを考えるのもワクワクする。

それは、おいといて
僕の行きたい国、というのは
・年をとったら行きづらい国
・今、詩か味わえないものがある国(成長真っ只中など)
・日本と全く違うものがある国
・世界でナンバーワンのものがある国
・美しいものがある国
・昔からの憧れ

今しか味わえない、今しか出来ないってのが大きいかも。
これは、僕がという面も、その国がという面もある。
僕が今この年だから感じれること、それを体験することが僕にとって大きな意味、影響を持つこと、
それとその国が、今成長途中だったり、その国の何かが世界でNo.1だったりと、国の状態が今しかない。この2つの面で今しか出来ないという意味です。

なんで、今しか味わえないことを重要視するかというと、
簡単に言えば、自分で体験しないと、肌で感じないと気がすまない性格だからだ。
今しか体験できないなら、今体験しようと。

この考え方から来ているんですけど、歴史をあまり信じれない。
自分がすべて正しいとか、見たもの、実際に体験したことがすべてだとは思わない。
自分が実を持って体験したこと以外を信じて行動しなければならないこともあるだろう。
大昔の歴史は、書物とかを証拠として正しいとされていることがアある。
でも、書物にすべて正しいことが書かれているとは思えない。
(その部分も考慮して、研究者はいるだろうけど。)
たとえば、僕みたいな性格の人が大昔、権力を持って書物を記したとする。
実際になかったことでも、あったことかのように書き記す。
すると、時代が経ち、その書物を分析した研究者は、実際にはなかった出来事を昔実際にあったと謝った理解をするだろう。
実際このようなことがあると思う。
だから、歴史をいまいち信じれない。
古代史が好きな人は、こうやって分からないことが多くて、今までの説が覆ることもあるから、面白いと思っているのかもしれないけどね。
まあ、話が進まないのでこの話は終わり。

結局は自分の目で見て、耳で音を聞き、肌で風を感じ、鼻でにおいをかぎ、その場を共有して納得したいということです。だって、9/11のテロだってテレビや、話、ネット、写真、本から得る情報、や感じることと実際にその時、その現場に行って感じるものは全然違うと思うから。

こうやって昔から思っていたなと、引用。
2003/01/21に書いた自分の文章より一部引用
「本物志向?違うな現場主義?実物主義?まあとにかく本物を見ないとだめだと。感じ方がぜんぜん違う。同じ空間を共有して、生で本物を見ることは、ブラウン管を通してみることや本で学ぶこととはレベルが違うということです。」

ここでは例として、アシモを生で見たときの衝撃(テレビではそこまで衝撃を受けなかった)、海外で味わう体験(噂やテレビからの情報とは比較にならない)について書いてある。

で話をBRICs関係に戻す。

最近友達との間で中国の発展の話や、インドの話、などをした。
ニュースではG7にも中国が夕食会に参加するとかいう話も出ている。
旅先で、韓国からインドまで陸路で旅している人に聞いた話も思い出した。
(彼はトルコまで行って、シベリア鉄道で帰る予定らしい)
僕が、中国とインド今後どうなりそうか、どう感じたかと聞いた?
簡単に書くと、彼曰く、中国はすごい。勢いがありドンドン成長しそうだと。肌で感じた。
インドも今後成長するといわれているが、中国のような勢いは感じないといっていた。

これを聞いて、僕はこの成長真っ只中の中国を見たいと思った。
その勢いを肌で感じたいと。

南米にも生きたい。
それは純粋に美しい景色を見たいのと、日本から見て地球の裏側。
文化も違うだろうなと思って、行ってみたい。
そこでふと思った。

まあ、激動の世界を自分の目で見たいと。
そしていろいろ考えたいと、そして何が出来るのかを考えたいと。
そういうことでした。

目が輝いて、心が躍って、ワクワク、こんな日々を送れる人生。
こんな人生を望む。
ネパールはアジアでもNo.1の最貧国らしい。

注目される有力新興国
 BRICsは、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)の頭文字をとったもので、アメリカの大手証券会社、ゴールドマンサックスが昨年秋に発表した「BRICsと夢見る――2050年への道」と題する投資家向けレポートで初めて使いました。以来、有力新興国を表す言葉として、しばしばマスコミで取り上げられるようになってきました。
 証券会社ゆえ、投資判断に視点を置いていることもあり、多少割り引いて考える必要もあるかもしれませんが、かなり衝撃的な内容が含まれていたため、次第に取り上げられる機会も増えてきたようです。
 このレポートによると、今後、現在のペースで経済発展をつづけると、2039年までにBRICs4カ国のGDP(国内総生産)の合計が、アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア(現在のG6)のGDP合計を上回り、さらに2050年には、GDPの順位が、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシア、イギリスの順になると予想しています。現在の超大国アメリカが首位の座を明け渡すとされていることもショッキングですが、日本についても、まだ4位の座にとどまっていると肯定的にとらえるのか。それとも、ついに2位の座を守れなくなったと否定的にとらえるのか、人によって、かなり受け取り方も異なることでしょう。
 ここで、BRICsの4カ国の共通点をあげてみます。すると、"なるほど"と、肯ける点も多いのではないでしょうか。

(1) 国土が広い

・ B … 851.2万平方キロメートル(日本の約22.5倍)
  ・ R … 1,707万平方キロメートル(日本の約45倍、アメリカの2倍近く)
  ・ I … 328.7万平方キロメートル(日本の約9倍、現在の係争地を含む)
  ・ C … 960万平方キロメートル(日本の約26倍)

(2) 人口が多い(大きなマーケットになる)

・ B … 1億7,600万人(世界5位、2002年)
  ・ R … 1億4,550万人(世界8位、2002年10月
  ・ I … 10億2,702万人(日本の約8.6倍、世界2位、2001年)
  ・ C … 12億6,583万人(日本の約10倍、世界1位、2000年11月)

  合計、26億人を超え、世界の人口の4割以上を占める。

(3) 産業の発展を支える豊かな鉱産資源をもつ

・ B … 鉄鉱、ボーキサイト、錫など
  ・ R … 石油、天然ガス、石炭、鉄鉱、銅、ニッケル、金、タングステン、ウランなど
  ・ I … 鉄鉱、宝石、石油など
  ・ C … 石炭、石油、天然ガス、鉄鉱、ウラン、タングステン、錫、亜鉛、モリブデンなど

  また、各国のGDPまたはGNP(国民総生産)と経済成長率は、次のようになっています。

(4) GDP・GNP、経済成長率

・ B … 4,510億ドル(GDP、2002年)、0.1%(2003年)
  ・ R … 4,517億ドル(GDP、2003年)、7.3%(2003年)
  ・ I … 4,774億ドル(GNP、2001年)、4.4%(GDP成長率、2002年)
  ・ C … 約1兆2,300億ドル(GDP、2002年)、8.0%(2002年)

  合計、約2兆6,000億ドルになりますが、現段階では、まだアメリカの1/4に過ぎない。
                       *資料…外務省各国・地域情勢ほか
 さらに、これらの4カ国は、1990年代以降、自由主義改革を進め、国外からの直接投資を積極的に導入し、産業基盤の整備や法体系の整備、技術力の強化につとめているという共通の特徴があります。

BRICs4カ国


▲top
■ 日本を中心とする経済的な結びつき
 ここで、BRICs4カ国と日本を中心とする経済的な結びつきについて概観します。
 中国は、地理的に近く、歴史的、文化的にも結びつきが深いので、まず日本企業は、豊富な労働力を見込んだ生産基地として利用しました。さらに現在では、旺盛な消費者ニーズを見込んで、中国市場の開拓に力を注ぐようになっています。すでにメーカーばかりでなく、流通業やサービス業なども盛んに中国に進出していることはよく知られています。
 これだけ深い結びつきがあることから、日中貿易額は、対中輸出399億ドル、対中輸入617億ドル、合計1,016億ドル(2002年)になっています。また中国から見た貿易では、日本は輸出相手国として第3位、輸入相手国として第1位(2002年)を占めています。

 インドについては、一般の人々の関心がそれほど高いといえませんが、IT業界では以前から、中国と並ぶソフトウェア開発基地として、大きな注目を集めていました。実際、ソフトウェア開発をインドに委託する日本企業も次第に増えています。こうした傾向は、さらにつづくと考えられ、英語圏でもあるインドは、今後、世界のITセンター化すると予想する人もいます。
 日印貿易額は、対印輸出約25億ドル、対印輸入約22億ドル、合計47億ドル(2002年、1ドル105円換算)と、中国と比べて圧倒的に少なめです。インドから見た貿易では、日本は輸出相手国として7位、輸入相手国として8位(2000年)です。
 中国とインドの2国については、日本では、まだ問題がさほど顕在化していませんが、アメリカでは、現在オフショアリングが社会問題にもなっています。オフショア(offshore)は、「沖の方へ」を意味し、オフショアリングとは、業務を沖のほうへ、つまり海外へ移管・委託することを表します。この目的は、企業が、海外の優秀で低コストの労働を積極的に活用し、収益性と生産性を向上させるため、適地で最適な業務を分担する国際分業を進めることにあります。
 オフショアリングでの業務移管先は、とくにインドや中国が多く、先に述べたソフトウェア開発をはじめ、コールセンター、会計や法務、研究開発までも移管・委託する企業が増えています。この結果、アメリカでは、1990年代の「雇用なき景気回復(ジョブレスリカバリー)」と同じような現象が起こるようになってきました。今後10年間に、アメリカでは、オフショアリングによって、300万人以上の仕事が海外に移ると予想されています。

 ロシアについては、日本との領土問題があり、1つの交流阻害要因になっています。また地理的関係もあり、日本側は、エネルギー資源確保を目的としたシベリア開発に目が向きがちです。ロシアでは、急速な経済改革の結果、ハイパーインフレに見舞われ、その後1998年には金融危機が発生するなど、経済の抜本的な建て直しが急務の課題になっていました。また、社会主義から資本主義への移行にともなう各種法体系の整備などに追われていたこともあり、両国の経済交流は活発とはいえません。しかし、次第に経済基盤の整ってきたロシアは、WTO(世界貿易機関)への加盟を検討し始めており、意外に早期に加盟を実現すると予想されています。
 ロシアの貿易総額は、2,113億ドル(2002年)であり、貿易相手国としての日本は16位を占めるに過ぎません。

 さらに地理的に遠いブラジルに関しては、かつては、日本からの移民受け入れ先でもありましたが、南米=停滞のイメージがつきまとっているせいか、日本企業は進出にきわめて消極的な姿勢を示しており、ブラジルでのビジネスチャンスを失う危険性を指摘する声もあります。
 ブラジルの貿易総額は、1,076億ドル(2002年)であり、対日貿易総額は、44.45億ドルと少なく、相手国として上位に顔を出すことはありません。
                       *資料…外務省各国・地域情勢ほか


▲top
■ 長期的、国際的視点で将来を展望する
 BRICsが注目され、経済的にも発展してくるに従い、国際的な政治力学にも当然変化が現れています。
 国際連合安全保障理事会の常任理事国である中国、ロシアは、もともと政治的、軍事的にも大きなプレゼンスがありましたが、これに経済力が加われば、さらに存在感を増すことになります。またブラジル、インドも本格的な経済成長の軌道に乗ることで、発言力を増してきます。そして、BRICs 4カ国間がさまざまな問題に関して、国際政治の舞台で連携する動きも増えています。

 たとえば、2004年5月のブラジル大統領の日本を飛び越した中国訪問や、FTAA(米州自由貿易地域)交渉での農業自由化をめぐるアメリカとの対立。また、2003年のWTOにおける決裂要因ともなった、アメリカ、EU(欧州連合)対ブラジル、中国、インドの連携。インターネット管理を国連へ移管せよと主張する中国に対するブラジル、インドの同調など、次第に従来の国際政治の力学の変化を促す動きも急になっています。
 こうした動きを後押ししているのが、フランス、ドイツ、カナダなどのサミット参加国の首脳であり、今後、サミットへの参加を他国に働き掛けています。

 アメリカ1極体制から、一枚岩でないにせよ、これに対抗するかのように発足した拡大EU、さらにプレゼンスを増すBRICs4カ国の存在を考えると、日本も改めて経済的、政治的に進むべき方向性を真摯に模索する必要があると考えられます。
 かつてアーノルド・トインビーは、過去6000年の歴史を振り返り『歴史の研究』のなかで、文明は内部要因によって栄え滅びゆくとし、ボール・ケネディは『大国の興亡』のなかで、経済の変遷と軍事闘争の相互関係を解き明かしましたが、眼前の国益、企業収益の拡大ばかりを目指すのではなく、一歩距離を置き、長期的な視点に立った展望も、ときには必要ではないでしょうか。


▲top


(2004年 6月 23日掲載)
http://www.sw.nec.co.jp/biz_hint/keyword/brics/

テレビ

あんまりテレビは見ない。

ただ見る番組は、
食べ物の番組、料理番組、旅番組、きれいな景色の番組、ニュース、情熱大陸、世界遺産、世界の車窓から、こんな感じのテレビが好き。

他はほとんど見ない。
見てもつまらない。
ああ、最近はイチローのニュースは見てます。
何回でも見てます。
彼はかっこいい男ですから。
野茂とイチローは特別です。
個人的にそう思ってます。

たけし&マチャミ!の世界に誇る日本の技術に驚いてみませんか?
▽実写版ロケットパンチ▽絶叫流しそうめん機vs自動お好み焼き機▽剛速球300キロに大興奮!!

こんな番組を見た。すごいね。
あまり知られていないけど、世界に誇る技術を持った会社ってあるんだよな。
かっこいい。

日本中にこういう会社がたくさんあれば、日本もちょっとやそっとじゃ中国にやられない。

テレビで取り上げると、働いている人もうれしいだろうし、モチベーションも上がるだろうな。

日本を支えて、世界を支える、カッコイイな。

September 29, 2004

航空会社のCM

なんか、旅行ネタとかそんな関連のものが続きますが。
気にしない。

最近、航空会社のCM多くないですか?
今、ブリティッシュのCMをやっていた。
この前はキャセイも見た気がする。
エールフランスも確か。

この時期は飛行機乗る人少ないんですかね?

9月は一年で一番飛行機に乗る人が多いと聞いたことがある。
その反動で10月とか11月は少ないのか?
学生も使わないしなー。
出張とかも少ないのかな?

チケットの値段を見ると確かに安くなっている。

ヨーロッパとかってもう寒くなっているのかな?
まあ、よー分からんけど。

September 28, 2004

些細なことに気づく

変化に気づく、
客観的な視点。
これは、見失いがち。常に心に留めておかないと。

信頼の置ける外部アドバイザーを置くとか、
何かを始める前の自分の素朴な疑問や、思いをメモしておくとか。
集中して一気にやった後、他ごとをして、一歩下がってみてみるとか。
そうやることが重要だな。
ルーチンで何も考えずにやるのではなく、
何のためにやっているのか、一番初めの思いやビジョンなんかも途中で何回も振り返ったり、
どうすれば、改善できるかと常に考え、メモしたり。
こういう細かいことが大きな差というか、意義あるものを作り出す原動力になるのだろう。


自分が疲れているとか、なんか自分の頭の回転が鈍っているとか昔は分からなかった。
高校や大学一年までは分からなかった。
でも、ああ、今疲れてるとか、だるいとか感じるようになった。
ああ、水分が足りないなとか。
昔は全くその感覚が分からなかった。
年をとったのか、その変化を敏感に感じるようになったのかはわからないが。

視覚、聴覚では伝わらない何か

言葉では伝わらない。
まあ、伝わらないから面白い部分も非常に多いわけだが。
伝えたいけども、無理なのは分かっていながら、
体験を共有できないのはどうももどかしい。

同じような体験をした人なら比較的理解しやすいのだが。

今回の旅の一番印象に残っていることといえば、
ダントツで、ネパールのがけ崩れ登り。

しかし、これを伝えようと思っても伝えられない。
ピンチナ状況で写真が取れるはずもないし。
たとえ写真を撮っていたとしても、分からないと思う。
もちろん、ビデオでも伝わらないとおもう。
においが加わっても。

肌で感じる、その感覚、
実際目の前にそれがある、それを自ら体験しない限り伝わらない。

難しい。
まあ、すべての人にその感覚を分かってもらう必要もないのだから、
そんなにこだわる必要もないのだが。

でも、体験したからといって、そのことについて分かったというのも違うかもしれない。
今書いたがけのぼりは体験したら、そのまま分かるという感じるのだが。

体験して、一部だけを知ってみて、
すべてを知ったつもりになってしまう場合もある。
そのあたりを気をつけないと。
肝に銘じておこう。

September 26, 2004

徐々に書けばいいのに

インド旅行記。
徐々に書いて、
少しずつアップしていけば、
毎日更新されてアクセス数もアップするだろう。

でも、やっぱ俺には出来ないな。
一気に書いて、一気にアップして終わる。
どうも、そういう性格らしい。

細かいことというか、
少しずつこまめに分けてやるという能力は兼ね備えていないらしい。

面白いと思ったら一気にやってしまう。
いい面もあるけど、悪い面もあるな。

それはいいとして、アクセス解析を見ると面白い。
au オーストラリア
np ネパール
edu 北米4年制大学
th タイ
my マレーシア
at オーストリア
ca カナダ
ir イラン・イスラム共和国
mil 米軍
mx メキシコ
tr トルコ
uk イギリス
il イスラエル
pk パキスタン
fr フランス

世界中から見ていてくれているんだな。
まあ、経由しているだけで、その国から見てない人もいるだろうけど、
少なくとも、何人かは海外から見てくれている。
ネットって面白いね。

旅先で知り合った人も見てくれているんだろうか。

September 25, 2004

直接会った印象は正しいのか

メールやブログ、などでのSNSなどでの他人の印象は実際と違うというときがある。
それに、出会い形が批判される理由も、実際あったことなくて、
メールなどで嘘のキャラクターを装うことによりだますということがあるからだ。
そんなイメージがある。

だから、メールなどよりも実際あって話した方が本当のキャラクターが分かると一般的に思われている。
僕も、そう思ってきた。
直接会うことは重要だと。

そう思うには理由があると思う。
実際にその人の目が見れる。
身振り手振り、時間の間、口調、抑揚、これらからも情報を得ることが出来るから。
さらに、メールなどよりも実際あう経験のほうが今までの人生で多く、
その経験の多さから、人の性格を見抜く力がメールからよりも優れている。
直接会って、目を見て話すと相手は嘘をつきにくい。とか、
質問をして返事をもらい、自分の疑問を解消できる。
などなどあるかもしれない。

ちょいと待て、これって本当か?

口では恥ずかしかったり、きまずくて言えないような本音を、
ウェブなら書けたり、メールなら書けるのかもしれない。
するとなると、メールの方が本性が現れている?
メールの印象と直接会った印象が違うというのは、
メールが本当のその人で、実際は猫をかぶっていたとか。

いや、いや難しい。
両方ともをあわせた付き合いが一番分かるって結論で。
って、結局何も言ってないじゃん。
まあ、いいとしよう。

August 25, 2004

ふと、振り返る東京の岐阜人集団

なんか、寝ないといけないんですけど、ふとサミットのことが頭によぎる。
というか、4月にはじめてあってから、今までのことが頭をよぎった。

はっきり言って、みんなキャラクターがばらばらです。
やってきたこともばらばらです。

そんな人たちが4月の頭ぐらいに集まった。
そこから、始まった。
実はまだであって半年も経っていない。
正直、あの時はここまで来るとは思わなかった。

それにしても、いろいろあったなと。
この4月からの5ヶ月弱も、アユプロ含めなんかいろいろありました。

過去のメールを見たり、ブログ見たりして思いました。
初めは、なんとなくぎこちなメールでしたねー。
まあ、あって間もなかったから当たり前なんですけど。
今見ると、少し面白いです。
それと、メールではその人のホンの一部分しか分からないんだなとも再認識しました。

さらに、初めの頃は毎回とふろにいってたなと。
秋元さんとマニア話で爆裂した記憶も。。。

自分の自己紹介で、行きたい国ってことで、
「今、行きたいのはインド、ネパール、モンゴル、カンボジア、タンザニア、ペルーなどなどです」
って書いてありました。
そのインドに行くわけですね。あんまり気にしてなかったけど、なんかいい感じに行ってますな。

そういえば、毎週ミーティングやってましたね。
みなさん遠方から、本当にお疲れ様です。

大岐阜パーティーって名前で企画が始まったり、してました。
いつのまにやらサロンって言葉もなじんだなと。

さらに、ツアーやカンファレンスについても話してましたかね。
BFTもG-netTourになったし。

毎回毎回、初めての人が着たりして面白かったです。
でも、残ってくれる人が少なかったのが残念かなぁ。
まあ、全員は絶対に無理なんだけど、途中からでも入りやすい仕組みも必要なんだろう。

で、このブログがkaoringoさんの思い付きから始まったり。
このブログも面白い。
一つのプロジェクト参加者が書いている。
すると、性格が分かる。
もちろん、オフラインであってもいるから、さらに面白い。
書いている人は、書いているメッセージから、
そして継続的に書いているというメッセージも伝わってくる。
書いていない人も、書かないことによってメッセージを発信している。
その人の性格が伝わってくるし、
ああ、今忙しいんだろうなとかもなんとなく分かる。

そのころから、ミーティングが煮詰まって、長くなったなぁ。
終電逃したり。
うちにみんな来ていた。
伝説の昼まで耐久のしゃべりとかもあった。
今考えてもあれはすごい。

それが、2,3回あったのかな。
すると、もうサロンが迫ってきた。
ギフベストへいった。
するとnaoさんに出会う。
これも偶然というか、必然というか。
いい出会いでした。

はじめはサロンに人が集まらなかったり、
でも、最終的に人が集まった。めでたし。
直前になって、というか前日の夜、
一気にやった感じがありました。
でも、みんなの最後のラストスパートの勢いと、
処理能力の高さには驚かされました。
前日の読売にも乗せていただいたなぁ。

サロン当日も、面白かった。
いろいろなアイデアが出た。
僕が大失態を犯してしまったけど。。。反省
で、このサロンでも面白い人に出会えた。
今はもうニッチマンは最高の友達です。
飲み会も楽しかったな。

その裏ではカンファレンスの準備やコンセプト作り、
ツアーの日程、宿が着々と決まっていった。

そのころから、水うちわの話も出てきて、
しばらくしてから出来上がった。
あれって、本当に涼しそうな団扇で、
見ているだけで、落ち着きます。

サロンが終わってからはサミットとツアー。
これに絞られた。
週1のミーティング以外にも各自でミーティングが行われていった。

ゲストのアポが取れだした。
むちゃくちゃ、豪華。
すごい人が岐阜に来てくださる。
すごい。

でも、ここからが大変だった。
でも、いろいろあってこの頃、ちょいと参加できなかった。
合宿もあったんだけど、いけなくて残念。
でも、みんな楽しんでいたみたいで良かった。

このあたりから、メールの量が今までにも増して増えた。
みんな、すごい勢いだった。
自分が突っ走っていて、周りも突っ走っていると、
自分が突っ走っているのを忘れるという感覚に似ているんだろう。

資料等も出来上がり、岐阜ミーティングもあった。
って、つい最近な気がする。
場所の確認なんかをした。

あ、花火を見た。
きれいだったな。
本当にきれいだった。
火薬になって空を飛びたかった。
そんな感じ。
なんか自分に降り注ぐ、花火を飲めるかとも思ったくらい。
あのときのビールマジでうまかったです。

このちょっと前、いろいろな人の誕生日があった。
毎回祝い方は違ったけど、みんなハッピーな誕生日そうだった。

で、いつの間にか最後のミート@新宿。
本当に準備は出来たのかと、
みんな不安を残していた。
最後、秋元さんの登場の仕方は、
演出がうまいなと思った。
ああいうところが、人をひきつけるんだろうなと。

で、前日岐阜入りして、買出しとか、
会場設営。
音響の使い方とかも聞いた。
夜はビラも配った。
もらってくれたけど、効果は薄かったみたい。
ツアーもそうだけど、岐阜まで来る、2万5千円ということを考えると、
以前参加者ではまった、もしくは声を掛けた人を相当慕っている、尊敬している、
一対一で思いを伝えた、それぐらいじゃないと参加してもらえないのかなと思った。

で、当日、朝岐阜駅に集まる。
それぞれ、分かれた。
会場に行く組。
僕は迎え組み。
船橋さん野村さんと僕、3人のタクシーはちょっと緊張した。

で、会場に着く。
パワポをいろいろな人からかき集め、何とか一つにしたな。
あと、ビデオの音が出なかったけど、ピンマイクで何とかカバーした。
すると、東京組みが到着。
そんなこんなで、サミットが始まった。
中身のレベルはかなり高く、面白い。

僕もパワポいじりながら聞き入っていました。
サミットは、大きな問題も起こることなくすんだ。
さらに、片付けも30分で終わり、
十八楼の懇親会に参加できた。
懇親会には想像以上の人がいた。
かなりうれしかった。
その後、村坂さんを駅までお送りした。
タクシーの中での話はカナリ面白かった。
いろいろ話した。
村坂さんの昔の話はすごい。
話が盛り上がり、昔作ったビデオをいただいた。

それから、バスで鵜飼へ。
鵜飼も良かった。
みんなカナリ楽しんでいた。
そんなこといって、僕もカナリ楽しみすぎていたくらい。
面白かった。

その後、作業をいろいろ行ってから、飲み。
なんか、ここでもやばいくらい盛り上がった。
某記者さんとか盛り上がりすぎた。
僕も盛り上がりすぎた。
楽しすぎた。
なんかまた握手をしていた。笑

そのせいで、大失態。
日の出金華山に起きれず。。。
まじで、ダメですよね。
人間失格です。
ご迷惑をおかけしました、すいません。

で、朝は岐阜観光。
久しぶりの岐阜観光。
大仏とか何年ぶりだろう。
その後、自由行動では金華山へ。
6時間ぐらい遅れで金華山です。。。とほほ

景色は良かったなー。
それから、ビーンズへ。
お金計算や、お酒配りなどお手伝い。
FDMの抽選会もあったな。

一人一人によって作られているんだなと実感。
その後、日タクの荷物搬入もいろいろ考えた。
考え方のベースの違いというのを感じた。

それから、金公園の片付け。
途中から、雨。
それもすごい雨。
1年に数回ぐらいだろって感じ。
もう、びしょぬれ。
パンツから、携帯から、財布から、もう大変。
服を着たままプールに入った感じ。
それでも、みんなテントを解体したり、
荷物を積んだりと。

で、東京組みが帰る時間。
さみしいねー。
で、雨の中お見送り。
僕は馬鹿だから、バスが走りだしたら、ついて雨の中を走った。
もう、びしょぬれどころじゃありません。

それから、また作業を行った。
そして、終わった。
なんか本当に終わった感じだった。

そして帰宅。

思い出に残る5ヶ月弱、そして2日間でした。
むっちゃよかったは。
こんな、いい仲間に出会えて幸せモンです。
これからもよろしゅう。
10月が楽しみです。

August 12, 2004

それぞれの道

岐阜で中学からの友達に2人会った。
どちらも、俺とは比べ物にならないくらい個性的。
個性的とは何かと聞かないでください。
社会一般の認識で。。。

いやー、人生っていろいろだな。
おもしろいな。
2人ともどうなるか、全く予想が付かない。

太陽と写真

昨日、鶴ヶ島に行ったときに友達から一枚の写真をもらった。
彼は一枚の日の出の写真をくれた。

インド・ガンジス川の写真だ。
もちろん、僕が今年の夏インドに行くと知ってのこと。

この写真、何がすごいって、見れば一発で分かります。
朝の沐浴したくなるほどの写真です。

で、富士山の頂上から見た日の出と同じ太陽なはず。
でも、富士山の頂上とこの写真では目に映る太陽は全く違う。
もっといえば、街中で昼間見る太陽とは全く違う。

それは、その環境や、心理状態、天候、対象物などによって違う。

でも、本質的には一緒である。
太陽自体は同じものであるはず。

ここで、日の出とは太陽をメインとして、それを見に行っているはず。
でも、同じものならどこでも見れる。
ではなぜ、特殊な場所に見に行くのか。
それは、周りの環境を見に行き、
その環境が作り出す、太陽との相乗効果を見に行っている。
当たり前ですよね。

August 10, 2004

本質的満足

自分のしたことに対して本質的に満足できない。

自然や僕以外のものが作り上げたものを見て、感動する、
すごいと思う、心のそこから思うことがあります。
本質的満足がそこにあります。
これは、自分以外の人や自然が作り上げたからです。

でも、自分がしたことを心のそこから満足できない。
もっと、こうやればよかった。
なんで、もっと頑張らなかったんだ。
そう、後悔ではないんですが、
もっとこうすればよかったと常に思います。

でも、その時は、そう判断するしかなかった。
とも思います。そのときの判断はそれで正しかったと。

でも、満足は出来ない。
自分の能力を過大評価しすぎなのか、
上昇志向なのか知りません。
こうやっていうと、聞こえがいいです。

でも、何をしても満足できない、
死ぬまで満足できないかわいそうな人間。
こういうと、寂しい人間みたいです。

ものはいいようです。

でも、死ぬほど努力というか、
死ぬほど何かに打ち込まなければ満足出来ない。
もっと、言えば何かに打ち込み死ななければ、
満足できない。
過労死しなければ満足できない。
しかし、これには大きな問題がありまして、
死んでしまったら満足できないのです。
そのような感情を抱くことも、
そのように考えることも出来ないのです。
だから、永遠に満足できないのです。
悲しい問題です。

悲しい問題といいながら、
そんな性格の自分が好きなんですよね。
この性格を思う存分楽しんでいる。
確実にそういいきれます。

言葉の定義

個人によってかなり言葉の定義が違う。

多分これです。
よく言われるけど、この問題は未来永劫解決されることはなさそう。

たぶん、おれが先輩、後輩という世界に属していないというのは嘘。
特に多くの年上の人に育てられました。
確実にいえます。
ありがとうございます、と心のそこから言いたいです。
感謝感激雨あられって感じです。どんな感じかは知りませんが 笑
たぶんそのような環境は、相当恵まれていて、
すごいと思う人が大量発生しています。

でも、そのような人を先輩と思っていない。
失礼な奴ですいません。

前にも書いたんですが、こう言うことです。
(自分の昔のエントリーから引用)


僕は、年上の人にもため口を聞いてしまうときがある。
でも、そこには大きな理由がある。
境界線を越えた話をするため。
敬語というものは、二人の間に大きな溝を作る。
だから、その溝を取り去ってマジで話したいときはため口を使わざるをえない。
みなさん、すいません。
この場を借りて、僕の言葉使い「ため口」を謝ります。
本当に、すいません。
それと、僕の意図を理解してくれたらうれしいです。

この文章から、先輩後輩という関係についての僕の考えがあふれている、
と自分で勝手に思ってます。

自分がおぉ、すごい、面白い、と思った年上の人を先輩と定義していない。
先輩とは、たいしたこともないのに、えらそうなことを言ったり、
知ったかぶりをする、こんな人を先輩と定義しているような気がします。
(この意味で先輩を使わないこともあるので、あまり気にしないでください)
もちろん、後輩という言葉に関しても、同じようなことがいえます。

自分がおぉ、すごい、面白い、と思った年下の人を後輩と定義していない。
すなわち、同じ生物というか、年の差だけで分類できない、
仲間として捕らえています。

先輩・後輩という言葉は年齢差だけによって、
もっと言えば生まれた時期を人間が無理やり切り分け、
その差だけにより、人を分類したもの。
それが先輩・後輩である。
こう思ってます。
簡単に言えば、年の差ってのだけを強調したのが先輩・後輩で、
僕はその年の差だけによる分類が好きじゃない。
だから、先輩後輩という言葉も好きじゃない。
これだけのことです。
そんな感じでご理解ください。


年齢というものは人間の性格や、心理状態、
もちろん体力、体調にも大きな影響を与えるもので、
年齢なんて全く関係ない、なんていいません。

でも、年齢関係なく通じるものがある人はいます。
3歳とかでは通じるもの、何か同じものを感じるかどうか分かりませんが、
ある程度の年になり、
自分で物事を考え始めた、その段階からは通じるもの、
感じるものがあると思います。

その年代から、通じるもの感じるものあったら、
先輩も後輩もない。
そう、個人的に思っています。

たぶん、この僕の考えは中学の時には明確にありました。
小学校の頃は先輩後輩なんてなかった。
(スポーツ少年団っぽいものに入っていなかったからかも。)
でも、中学校に入ると部活というものがある。
小学校までは、横の繋がりの組織しかなかった。
でも中学校では、この部活というものを通して、
上下の関係が生まれる。
そこで、多くの人が中学校になると「先輩」という言葉を使うようになる。

先輩にかわいがられたいと、「せんぱ〜い」と年上の人にこびへつらう奴が生まれる。
こういう人間は世渡り上手かもしれない、
でも僕はそのような行動が絶対出来なかった。

さらに言えば、「先輩」という言葉を発することに相当な抵抗を感じた。
もっといえば、この言葉を発することが恥ずかしく、いやだった。
何か変な言葉だと思っていた。

このときから、先輩後輩という言葉があまり好きではないらしい。

こんなバックグラウンドが「先輩後輩」という言葉だけにあったんです。
自分で書いていて再認識した部分も多少あります。
こんな感じです。

August 07, 2004

大学生の年の差

1年生若いなぁ。
俺も一年生のときあんな感じだったのかな?

まあ、3年生でも若くて純粋な人はいるわけですけど。
ワしみたいに。(焼き殺されそう。。。)

逆に考えると、大学生って時期はすごい吸収する時期なんだなと。
たった2歳しか違わないのに、あんなにも経験値が違うのか?
(個人差大の可能性ありあり)

でも、時間があり、何でもできる環境なんだから、
なんでも経験しておけと。
そういうことですな。
リスクがあっても、まあ社会的にまずいと言われることでも、
ちょいと犯罪のにおいがすることであっても、とりあえずやろうと。

こうやって、自己肯定をして好きなことや、
やったことないことをとりあえずやってみる。と。

たった、2年間であんなにも変わるかな?
汚い世界に染まってしまった、大学生になっていくのだろうか。

先輩とか後輩とかそんな世界には中学校から一回も属したことがないんですけど、
後輩という人は先輩という人を尊敬というか、すごいと思いすぎでは?
先輩のアドバイスとやらを、後輩は信じすぎ。
俺が唯一後輩とやらに言えること、
「先輩のアドバイス信じない方がいいよ」
それだけです。

だって、先輩って人たちは、どうせ自分のことじゃないから、いい加減なこといいすぎ。
後輩にすごいと思われたいとか、カッコイイとか、できると思われたいがために、
あることないこといいすぎ。誇張しすぎ。

俺に聞いたら、汚い部分とか、夢のない部分もそのまま言ってしまいそう。
後輩の夢を奪うなとか、文句言われそうだが、
そんな、本当の姿を知っても、這い上がってきたり、やりたいという気持ちがなければダメです。


August 05, 2004

深い眠り

さっき目を覚ました。
本当に、昼なのか、朝なのか、夜なのか、
もっと言えば、寝てから何日経ったのか、
いったい今いつなのか?
寝ていて良かったのか、
全く分からなかった。

それほど、深い眠りだったみたいだ。
こんな深い眠りだったのはとても久しぶりだ。
それだけ、疲れきっていたのだろう。

でも、寝ていたのは実質2時間ぐらいだけなのに。
完全に深い眠りに落ちていた。
富士山、恐るべし。

起きると、平成9年のトップ10をやっていた・。
7年前らしい。
曲を見て、もっと最近だと思った。
あれから7年かぁ。
早いなぁ。
なんか、音楽や映像の記憶って、
日々の生活を基準をした時間軸と違うのかなと思った。
それと、7年という月日の重みを感じた。
7年かぁ。

August 04, 2004

時間と場所

時間と場所って不思議です。
音もない、

何もないところへ行きたい。
現実が怖いだけなのだが。

August 03, 2004

ディベート

全国大会が終わった。
いつもの夏の始まりだ。

毎年同じで、
毎年違う。

それが、ディベート甲子園。

1年生の人が若く見えた。
話していることが若かった。
年をとったのだ。
成長化、老化か。

楽しいことは、時間が経つと寂しくなる。
そんなもんですか。

関係者の皆さん、
ありがとうございました。

今までやってきたことは確実に成果です。
どれだけ、人が批判しようが、私はそう思います。
あなたは、それだけのことはしました。

すくり−んの皆さん、
落ち着きがあってすごいです。
さすがです。先生。
名前が違っても、動揺しません 笑

映像最強でした。
正直、クオリティ高いです。
3ヶ月のものだけあります。
自分のときにもあれがあったら、良かったなと思います。

今年初めての人は、これからも楽しくやってください。
あそこにいる人たちは、能力が高くて面白い人が多いですから。

何事も、引き際と、受け継ぎ。
これ重要。でもって難しい。
受け継ぎは後継者育成という、
人を育てるという、最も重要で、
もっとも難しいこと。
なんだよな。

August 02, 2004

なんかよく分からんが

なんかよく分からんが、
そわそわするというか、何かにおびえているというか、
何かが足らない、何かすることを忘れている、
何かへん。

体調が悪いとか、何かがうまくいっていないというわけではない。

これって何なのか気になる。
ってか、こういうのは理由を追求したいな。
おもしろいから。

忙しい中、ふと時間が出来るとこんな感じになるのか?

まあ、全然なんともないんですが。

July 30, 2004

自分の性格に気づくということ

自分のある性格に気づくということは、それについての能力(特徴、性格)はたいしたことなくなったという証拠

相変わらず、まっすぐに物事を考えられない性格です。
なんか、これは生まれ持った性格らしいです。
確実に幼稚園のころにはそうだったみたいです。

自己分析とか流行です。
占いというか、診断系、IQ、EQ,PQも流行です。

これらによって、自分の性格について、
知らなかった部分が分かるかもしれません。

それで、その強みを活かせるようになるかもしれない。
これはこれでいい。

でも、なんか自分の性格というか、
特徴で気づいていなかったが、
それが他人にはその人の強みに見えた。
これを、他人から言われる。
でも、これだけで自分の心のそこか、その通りだと気づくことはすくない。
で、その後も普段の生活を送る。

そして、はっと気づく。
友達から言われた、自分の気づいていなかった特長に。
ああ、俺って今まで言われても実感してなかったかもしれないけど、
本当に言われたような性格かも、と。

実は僕がこれが好きじゃない。
というよりも、怖い。

なぜかって、この感情分かる人います?
いなさそう、、、

なぜかって、気づいた時点で、その性格的強みが強みでなくなる気がするから。

僕が思うに、
その人の強みはその人が気づいていないから本当のその人の強みなんです。
経験則的に、本当に暴走している人は自分が暴走していると思っていない。
暴走していると思っている人は、大して暴走し切れてない。
本当にオカシナ人って、自分がおかしいと思っていない。
おかしいと思ったら、おかしな行動できないというか。

自分の性格に気づくと、思う存分出来ないというか、
俺ってこういう性格なんだという認識によるフィルターが行動の前に入る気がする。

まあ、これは単純な性格ではなく、
簡単に伸ばすことが出来るような性格、知識、能力、行動パターンについての話ではなく、
人間が生まれ持った特徴、性質について当てはなることなのかもしれない。

人と話す

僕は人と話して考えるタイプ。アイデアが出てくるタイプ。

人と話すことによって考える。
書くことによって考える。
考える物についてひたすら考える。

いろいろなパターンがいると思う。

僕は面白いアイデアが出てくるときは、人と話しているとき。
なんの関連もなくというか、論理的に思いついたわけではないが、
いきなり面白いアイデアが思いつくことが多い。

まあ、このブログも思いつきで書いているわけですが。。。

July 25, 2004

飛ぶ夢を見た

先日、茂木さんの日記で一枚の写真を見た。
その写真はすごかった。
美しかった。
それは、無駄がない美しさだったのかもしれない。

tobuyumesmall.jpg

その写真を生で見たいと思い、
調べると原美術館で開催されている「飛ぶ夢を見た」という写真展。
23日に知って、最後の日が25日。
24日は無理だったのでいけるのは25日だけ。
明日はテスト2つある。
とはいっても簡単なテストだから、正直どうにでもなる奴です 笑

そして、さっき行ってきた。
非常にに良かった。
原美術館の立地、建物の大きさ、庭、流れる音楽、部屋のつくり。
どれをとってもすばらしい。
疲れたときは、ここでぼーっとしてみたい。
これからもちょくちょく来たい。

で、写真も非常に良かった。
やはり、ここにはっつけてある写真が一番良かったが、
展示の仕方が天才的に良かった。
写真禁止だったので取れなかったが、
個室に写真が2つ並んでいる。
廊下から見ると2枚の写真が見える。
その部屋には扉、窓とかがない。
壁は白色。
こんな感じです。
2枚あった写真は1枚は上の写真。
もう一枚は、微妙に違う。
それは、小さく写っているロケットの位置が違う。

そんな2枚だった。
これは、目の前で見るよりも、
少し離れて、廊下から見ると最高です。
一人で、ボーっと見てました。
ほんとうに美しい。
2枚あること、この配置、この部屋。
この明り、この空気。
何が欠けてもいけない。
何も余分でない。
そんな感じだった。
非常に良かった。

以前エントリーした「芸術はしゃべることだ」で書いた本、「千住博の美術の授業 絵を描く悦び」を思い出した。
この本の初めのあたりに、「りんご二個を描くとは、りんご二個の「あき」を描くこと」という章がありました。ここでは、メインと思われがちな「りんご」だけでなく、そこにある余白、さらにはりんご二つの関係が重要である。と書かれていた。これを実感。

「飛ぶ夢を見た」という写真1枚よりも、ロケットの位置が微妙に違うもう一枚の写真、これがあり、2枚が配置される。それによって新たな意味が生まれていた感じがした。
結局どうのこうの言うよりも、2枚一緒に並べてある方がきれいというか美しいというか、なんていうんだろうな、その空間にマッチしていたというのかな。オーラが出ていたというか、すっきりとした空間が生み出されていた感じがした。無駄がなかった。自然だった、あるがままの姿だった。あるべきものがあるべき場所にあるというか。違和感がなかった。飾ってあるという感じがなかった。あたかも地球が出来た初めからそこにあったかのような感じ。表現できないのが悔しいですけど、なんとか感じを掴み取ってください。

複数になることにより価値が生まれる。
もともと価値があったものは別の価値が。価値というか別のよさ、面白さ、意味が生まれる。
それは、単純に片方にあったものと、もう片方にあったものが合わさった良さではない。
全く新しいよさが生まれる。
これはすごい面白い。
1+1じゃなくて、1×1か割るか、累乗かしらないけど、足し算では想像できない、ものが生まれる。
もっと言えば、掛けるでも割るでも違う。
論理的に考えては生まれてこないような面白さ、よさが生まれる。
これ面白い。

これは価値のあるもの、意味のあるものが複数の場合だが、
価値や意味のないようなものが複数集まっても非常に面白い。
これは、人間の細胞→人間、とか酸素→空気とか、分子→本、パソコンなど。
情報に関してもいえることだ。2chもその一つかな。
単語(あ、い、う)→単語→文章ってな感じで。
意味のないものに意味が生まれる。
タダ集まっただけで。
これって面白い。
だって、なんか話とかしていて、それ意味ないじゃんとか言った人がいたら、
たくさん集めてみればおもしろいかもよってことが言える。
でも、論理的にどうしてかとはいいずらい。
まあ、とりあえず引っかき集めるってのも一つの方法です。
そう感じました。

これと関連して、根拠のない明確な根拠。
これがある。
理由はないんだけど、そこに理由がある。
論理的ではないけど、確信に満ちたものがあるときがある。
これっていったいなんだろう。
それに、これが当たっていることが多い。
僕はこういう感がケッコウ鋭い方だと思う。
なんか、こうなるだろうなとか、感じる。
そのプロセスは自分の意思で論理的に考えいたったものではない。
ふと、思うもの。
これってなんだろう。
昔からこのことについては考えているけど、いまいちピンと来ない。
まあ、論理的なプロセスによって生まれたものではないから、
冷静に論理的に考えても答えはでないのかも。
でも、空想にふけるのは好きなので暇なときに考えよ。

まあ、そんな感じです。
この写真展始まったのが僕の誕生日。終わったのが今年(2004年)の7月25日。
両方とも意義深い日ですね。
なんていうんですかね、偶然なんだけど必然性を感じました。
さらに、この写真を見て「人生はロケットだ」と思いました。
これは、長くなりそうなので別エントリーします。

ただ一つ、今回の写真展で残念なことが。
それは感動を共有できなかったこと。
人間は他人と何か同じことがある、体験、思い、趣味、
共通点に喜びを感じる。
それに、感動を共有したがる。
するとワクワクうれしい。
今回は一人で行ったのでそれを共有できなかった。
まあ、美術館とかは一人で行ったほうが自分のペースで見れるからいいんですけど。
でも、僕が紹介して他の人が見に行って、
この写真展について話せたら面白かっただろうなと思う。
でも、もう今日で終わりなので無理です。
ともうと、ネットってすごいな、
感動を共有できるツールとしては。
トラックバックとかも感動共有ツールとしては最適だ。
アクオスのCMの時もこれを感じた。
次、またいい情報があったら流します。
ぜひその時は思いを共有したいものです。

July 23, 2004

信頼

信用、信頼は重要です。
ミスをすることはあります。
でも、出来るだけしない方がいいよな。
当たり前。
一度失った信用を取り戻すのは大変だ。
さらに、信用を失い、サービスがストップしたら、お客さんも逃げていく。
競合企業もそのときをチャンスと見て攻勢をかける。

ミスをしても最低限の被害に抑える。
リスクヘッジが重要だ。
でも、大企業は金があって人がたくさんいて、
リスクヘッジできるかもしれないけど、
ベンチャーは金も人も足りない。
そんな状況でいかに、ミスを減らすか、
リスクヘッジをするか。
重要です。
まあ、リスクヘッジをしないからこそ生まれる、
文化、があるかもしれない。
それがベンチャーっぽさを出すのかもしれない。
リスクヘッジしないから生まれるサービスがあるかもしれない、
これは可能性としては小さいと思うけどね。

リスクヘッジを資金的、人的にしにくいベンチャーが、
いかにこのハードルを乗り越えて、成長するか。
大きな問題です。

でも、だからこそ面白い。
そう思います。
これは、某社のブログで感じました。

自分の目で

やっぱり、自分の目で見る、自ら体験するって重要ですね。

何かフィルターが入ると、良くないです。
自分で確信をもてない、
不安になる。

自分で見るってのは重要です。
当たり前なんですけど、最近感じたので書いておきます。

情報に関しても、いかにして当事者やそれに近いところから情報を得るか、
ソースの信頼度の高いとこから情報を得るか、
そして、どう見極めるか。

難しいですけどね。
だからといって、無理ではないので。
そうします。

熟成

夏休みのキーワードは熟成と孤高。そして一人で、邪魔なもの情報から逃れまったり考える。


熟成させよう。
自分をね。
自分の考えをね。

今日ブログの感想として、
なんに関しても熟成期間を設けよう
というアドバイスを伝え聞いた。
考えをちょっと放置しておいて、
また時間が経ったらゆっくり考えよう。

本を読んだら、その倍の時間考え、
人と話したら、その倍の時間考え、
新しいことをしたり、衝撃を受けることがあったらその倍の時間考える。
この精神です。

前々から、人と話した後とか、
人とよく群れた後は、
自分の時間、一人の時間をとる必要があると思って、
自分に言い聞かせてきた。

人と群れていたりすると、
自分を見失う。
自分で考えることを忘れてしまう。
これは一番怖いことだ。


実は、今年になって少し経ってから、考えていた。
自分ひとりの時間を作って、
自分ひとりで考える。
特定の何についてとか、
そういうことではなく。

でも、5月ぐらいに思ったときから、
またいろいろなことが起きた。

それを通して学んだが、
やはり自分の時間というものを取れていない。
普段の生活では、
Eメールに携帯に、ウェブに実際に会ったりと。
もちろん、時計(時間)やテレビ、雑誌なんかも邪魔だったりする。

このように自分の時間をとることは必要だが、
普段の生活では難しい。
ということで、夏休みはちょっと出かけます。
そこに行けば、何か答えがあるわけではない。
そこに行けば、何か考えられるわけではない。
そこに行けば、答えが見つかるわけではない。
そこに行けば、考えられる時間が取れるわけではないかもしれない。
それは分かっている。
でも、行きます。

邪魔なものがない、
そんなところに行きたい。

夏休みのキーワードは孤高ですね。
さらなる飛躍のためには、
こういう時間が必要です。

高く飛ぶ前には助走が必要なように、
僕にとってこの夏休みは助走期間です。

で、夏休み後に吾人の任務を書きます。
これは非公開にしよっかな。
見たい人はあらかじめメールください。

とある人とは吾人の任務を見せ合う事としましたが。

July 21, 2004

メキシコ検事局、職員にICチップを埋め込む

メキシコ検事局、職員にICチップを埋め込む
[ Nikkei Net ]
○ニュース&レビュー海外編
(NIKKEI NET ITニュースメール 6/22/2004掲載)

 今回は、160人以上ものメキシコの検察職員が腕にICチップを埋め込んでいたという衝撃的なニュースを取り上げた。米国でも以前、チップを埋め込んだ家族のことが話題になっていたが、今回は自分の意思ではなく入退室管理のために組織的に導入されたという点で大きく異なっている。今後、GPS機能とともに個人の追跡システムが当たり前になる時代が来るのだろうか。その他、減少しつつあると思われていたファイル共有ソフトによる違法ダウンロードが、実際には増加しているというニュース、IT業界と映画業界が協力して導入を図る新たなコンテンツ管理技術、性犯罪者にGPSブレスレットをつけて監視するシステムの実証実験について取り上げた。(長野弘子/ITジャーナリスト)

おお、驚いた。

意識的に無意識でいる


意識的に無意識でいる。これは人間にとって非常に重要であると。

意識的に無意識でいる。
精神統一って言うんですかね。
イメージ的には無の状態です。 
ただボーっとしているのとは違う。
自らの意思で、無意識状態、何も考えない、状態を作る。
僕は、普段、気になることばかりだ。
町を歩いていても、あれって何だとか思ったり、
以前も書いたが、小学生のときに本とかなにも持っていなくて、暇なとき、
このときに、どうするかってので、「生きる」ってなにかなどについて考えれば、
答えはないから、いくらでも考えられ時間が過ぎると思って依頼、
生きるってこと以外にもなんか暇なときは、空想にふけっている。
だから、脳が無の状態でいることが少ないと思う。
でも、これだけでは良くない。
脳を休ませる意味や、普段の思考とは一つ飛び越えた、
ブレークスルー的なことを発想を求めるには、
意識的に無意識状態を作る必要がある。
それに、精神を統一したり、
この忙しい社会で、落ち着きを保つためにも必要だ。

昔から、風呂に電気を消して真っ暗にして入ることがある。
すると、ケッコウ落ち着く。
何も考えずに。

これって意識的に無意識でいることは難しい。
しかし、こういった時間もとっていこうと思う。

何がモチベーションだ

気だ。何がモチベーションだ。「気」に見習え。
  モチベーションとか言って、西洋にだまされているだけ。

もっと奥深い「気」というものを忘れたのか!
ぼくはこれについて深く知らないからなんともいえないが、
日本の宗教的というか、古くからある、
こういった文化をもっと調べれば、
最近モチベーションとか言っている人たちが、
将来どんなことを言うかなんて分かりそう。
かなりレベルの高いことを昔の人は考えていたと思う。

「気」というものをキーワードにいろいろ調べるのも面白そうだ。

思ったことメモ

とりあえず、メモです。
思ったことを、つらつらと。

話が飛びまくるのでご注意を。

・昔はよく言葉を作ったなぁ
 のめのめしい、なよなよしいなどなど言葉を良く作った。
 何で作っていたかは不明だけど、自然にその言葉を使っていた。
 で、社会一般に使われていない、地方独特の言葉でもないと知り、自分が作ったのだと。
 あのころの方が、発想豊だったな。
 幼稚園のころの自分を見てみたいです。
 もちろん、空の上から眺める感じで。
 その後、脳の中身も見てみたいです。
 そういえば、脳の中身を見てみたいと、巷で使われるけど、
 これは、その人の立場にたって、今までの経験を知り、その上で思考回路をたどってみたい。
 ってことですよね。
 ふと、頭の中を見てみたいってどういうことをさすのかなと思って。

・暑い暑いって言うけど、さほど暑くない
 心頭滅却すれば火もまた涼し
 って。でも、周りが言うほど暑くないと思う。

・夏が好きだ
 これは冬には夏がすきといい、夏には冬が好きというだろうと、言われることがあるので今書き残す。  40度を越えた地域もある今日、書き残す。夏が好きだ!
 夏が好きだ!
 カマキリリュウジ知ってますか?
 夏だぜ、暑いぜ、カマキリリュウジ。

・じつは、googleの採用方法と同じ方法をとっていた。笑
 googleと同じレベル。
 ってのも、僕たちの名前を検索すると会社の広告が出るようにアドセンスでやっ
 てます。
 CNETの記事と同じだ

 自社の検索広告サービスを使って、人材を集める方法も実施しており、たとえばAmazon.comの検索技術部門「A9」を率いるUdi Manberの名前を検索すると、Googelの人材募集広告が表示される。

http://www.japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20069765,00.htm


・QRL.jp 先にやっとけば良かったね。
 これからは作ることができるんだったら、外国のパクリでも先にやっちゃった方がいいかも。
 実際、なんともいえないですけど。

・パラドックス野郎
 一見矛盾することを、論理的に証明するのがうまいといわれた。
 いつも、天邪鬼っぽいからそう見えるのか?
 でも、あえて天邪鬼っぽくした記憶はない
 心のそこからそう思ったから言っているだけなんだけど。

・G-mail便利かも。
 友達から、ちょいと前にgmailにメール送ったけど見た?と、
 テラタウンに届いた、その友達からの別件メールに書いてあった。
 おお、見ていない!と思い。gmailをチェック。
 teratownに届くメールをgmailに転送しているので、メールが埋もれてしまうのです。。。
 でも、gmailはその点便利。
 ヤフーメールだと探すのはひと苦労だが、gメールでは一瞬であった。
 検索が便利便利。
 ただ、なんか全然関係ないメールに対する返信と認識してしまってるのが問題。
 でも、ヤフーのアドレス長からもインポートできるようになったみたいだし、
 今後の進化に期待です。

月の満ち欠けを見て日にちが経つのに気がつく日々もいいもんです.


http://www.japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20069765,00.htm
グーグル、謎の人材募集広告--シリコンバレーのビルボードに
Stefanie Olsen (CNET News.com)
2004/07/12 08:40 Trackback (8)

 先週、シリコンバレーの中心を走るハイウェー101沿いのビルボードに、複雑な数学の問題を載せた広告が現れた。これを目にする通勤客の多くは、Googleを使って調べないとこの答えが分からないだろう。

 真っ白な背景に黒い文字で書かれたこの匿名の広告は、そもそもGoogleで検索しなくてもこの答えが分かるような、数学に関心ある人々を集めるための同社の求人広告だった。

 この広告は、数学者Paul Erdosの「数学者はコーヒーを定理に変える機械だ("A mathematician is a device for turning coffee into theorems.")」という有名な言葉に掛けたものであるのは間違いない。

 この広告には、「{eの値中の、最初の連続する10桁の素数}.com」と書かれている。この答えの「7427466391.com」にアクセスすると、そのウェブページにはさらに別の問題が用意されているが、ここにもGoogleが関与していることを示すものは全くない。

 この問題を解くと、Googleの研究開発部門「Google Labs」へのページに辿りつく。このページには、「Googleの構築を通して我々が学んだことの1つに、自分が何かを探しているとき、向こうも自分を探している場合のほうが見つかりやすいということがある。我々が探しているのは、世界最高のエンジニアであり、あなたこそその人なのだ」と書かれている。

 「ご想像の通り、我々のもとには連日実に多数の履歴書が届く。そこで我々は『SN比を上げる』ために、このちょっとしたプロセスを開発した」

 Googleの人材募集のやり方は実に入念なものだ。3月31日時点で1907人の従業員を抱える同社は、創立初日から厳格な採用方法をとり続けている。GoogleがまだPalo Altoのガレージで事業を行なっていた頃に採用された初期の従業員の話によると、同社の共同設立者Sergey BrinとLarry Pageは、面接中に人材雇用に関するハウツー本を近くの机の上に少なくとも8冊置いていたという。同社に採用された他の人々も、多数の面接と、時には数学やビジネス戦略に関するテストなどに耐えた末、ようやく採用通知が来たと述べている。

 また、Googleはここ2年ほど、才能のある人物を発掘する方法として、プログラミングコンテストを実施している。しかしながら、同社に採用された人々によると、同社のコンピュータ科学者の多くはスタンフォード大学コンピュータ科学科出身者だという。さらに同社は、自社の検索広告サービスを使って、人材を集める方法も実施しており、たとえばAmazon.comの検索技術部門「A9」を率いるUdi Manberの名前を検索すると、Googelの人材募集広告が表示される。

July 20, 2004

対策を打たれてからの一歩

---インターネットをマーケティングに利用する人間が、自社サイトに大量のリンクが張られているように見せかけることでPageRankの仕組みを悪用しているため、一部のコンピュータ科学者はPageRankは破綻しているのではと疑っています。この点についてはどうでしょうか。PageRankは改良されたのでしょうか。それとも、あまり重要な役割を果たさなくなってきているのでしょうか。

 PageRankが破綻しているという見方は、非常に固定的なものの見方です。PageRankは今後もページをランク付けする手法の1つであり続けます。しかし、ランク付けの新しいアイディアを思いついたら、既存のアイディアを修正したり、両者を組み合わせて新しい方法を考案したりするうちに、PageRankに限らず、現在使用している技術が果たす役割は当然変化していきます。
http://www.japan.cnet.com/interview/story/0,2000050154,20067323,00.htm

どんなものでも有名になると、それの一部だけ、ベースとなる部分だけの要素の対策を始める。
すると、それを修正しないと、もともと予期していた効果が発揮できなくなる。

AO入試。初めは面白い奴を取ろうとして、やり始めた。
自分をアピールするだとか、面接だとか。
でも、それ専用の対策塾ができる。
型にはまった奴、面白くない奴が合格し始める。
これは悪循環。

ここで、なんか変化を与えないといけない。

グーグルのページランクもそう。
はじめは、リンク数でぺ^地を評価する検索エンジンがなかったから、
非常に有益な方法だった。
しかし、それが広まることにより、リンクを増やす対策をはじめた。
だから、だめになった。

有名になったり、その価値が大きく認められると
対策が出てくる。
すると、価値が下がる。
そこで、いかに対応できるかが真の力の見せ所。
そう思う

July 19, 2004

何も知らない

僕は、何も知らない。
生きていく楽しさ、つらさ、苦しさ。
表面的なものではなく、本当の生きるつらさ、喜びを知らない。

自分ががむしゃらにならないとそれを感じることはできないだろう。
そう思う。

でも、世の中の心が締め付けられるまでのつらさを味わわなければいけないのだろうか?
将来つらいことがあるかもしれない。
大人になってからそれを始めて経験すると、
取り乱すというか、
ショックが大きすぎるから、
予防接種みたいな感じで、免疫を作っておく。
そういって、若いころの苦労は買ってでもしろと。

でも、人間そんなにつらいことなんて味わいたくない。
一生死ぬまでつらさから逃げられるなら、逃げ続けてもいいのではないか。
いや、逃げ続ける人がいてもいい。
その人を批判すべきではない。
そう思います。

僕は、若いうちにそんな経験をすべきかどうなのか、まだ判断がつきません。
でも、いつもなんでもやろう!
とか、どんなことでもやりたい、
どんなことでもやる。といってきた。
ビビリだから、怖い物だらけなのだけれど。
こういってこれたのは、本当の辛さ、怖さ、悲しさを知らなかったからなのかもしれない。
でも、話で聞くよりも、
自分の目で見るほうが衝撃は少なかった。普通は逆だ。
これ(間接衝撃と、直接衝撃)に関する、ブログは以前も書いた。
なぜなのだろう。
直接、目の当たりにした方が安らぎを感じた。
なんか、ありのままの姿を感じた。
それが、自然なのかもしれない。
自然なことに人間は、美しさを覚える。
美しさというか、自然の中に自然(の流れ)を感じる。
これには違和感がないのだろう。


明日は明日の風が吹く。
日本には日本の風が吹く、
チリにはチリの風が吹く
スペインにはスペインの風が吹く
インドには生暖かい風が吹く。

自分の感性にあった人ってのが感覚的にわかるようになってきたかも。
それは実際に話したことがなくても。

たとえば有名人で行くと、
茂木健一郎さん。この人と話したい。
この人の完成と僕は近いと思う。
ってかなり恐れ多いことを言ってしまいました。
彼は、脳科学でも、認知科学でも、哲学でもない中間領域に興味を持っている。
この表現がすごい。
ってか、この領域は今までなかった。
でもすごく気になる領域。
これをといているのは彼ぐらいでは?

あと、山口智子さん。
最近テレビに出ていないけど、
スマスマに出ていた。
で、ネットで検索すると、http://www.letters.co.jp/
こんな番組をやっていた。
トルコ→スペイン・ポルトガルの順に旅行している。
笑った。
世界の車窓と、テロの時と同じ感覚だった。
さらに、トークのテンポとか話し方、話す内容がなんか僕の感性にあっていた。
そんな感じがした。
あつかましくてすいません。

で、男のブログにはあまり面白いものがない。
単に批判するわけではないが、社長日記と題するものが多い。
これは、会社のトップとして、顔として、
外に向けて情報発信する意味では価値のあることだ。
でも、そこに書いてある文章は面白くない。
だって、誰にでも公開できるレベルの話だからだ。
表面的過ぎる。
その人の心のそこからの文章でない。
だから、嫌いだ。
あと、新しい製品情報とかのページもあまり。
情報収集のみの価値しかない。
まあ、それを目的に作っているわけだから、問題ないのだが。

個人的にすきなのが、
自己満足のブログ、
思ったことをがぁーーと書いてある。
こっちにも伝わってくる。
考えるきっかけにもなる。
面白い。

女は豆に日記を書くと前何かにあったが、それが真実かどうかはしらない。
でも、僕は比較的続いている。
女っぽい性格なのか?
いや、そうじゃない気がする。

自然

自然ってすごい。
美しいです。
自然の自然のままの姿が美しい。

山にしろ、海にしろ、草原にしろ、空にしろ。
なんにしてもです。
朝日とか、夕日、夜の星、月なんてのもたまりません。

なんで僕(人)が自然を美しいと思うのだろう?

人の作り出すものは、自然を越えられるのか?
そもそも、比較すべきものなのだろうか?
比較可能なのだろうか?
人が作り出すものでも「自然」はあるのだろうか?

自然が一番美しいとすれば、
人間も自然のままが一番いいのではないか。
外見的なメンも、内面的な部分においても。

それにしても、自然が作り上げるものは壮大である。
人間が作ろうとしたら、いくら人を動員しても、
いくら金をかけても、いくら知恵を絞っても、
できないようなことを、
自然は作り上げる。
もちろん、人間が作り出すもので、
自然が作れないものもたくさんあるわけだ。

これは、ないものへの憧れか?
人間が作れない、自然が作り出した自然、
これにあこがれる。

よくわかんないけど、自然は偉大です。
キリマンジャロ行ってみたいです。

唯一素人でもいける、5000m以上の山らしいです。
2015年には雪が解けてしまうらしいので、
行くなら早くしないと。

ああ、ネパールではヒマラヤ山脈をしっかり見てこよう。
太陽が昇るヒマラヤとか、
月が昇るヒマラヤ。
すげーだろうな。

July 15, 2004

ビビリ

ビビリはビビリでない。 度胸アル奴はビビリ

僕はビビリです。

そこで思う、
ビビリな人のほうがリスクをとった行動をする。
自分がビビリでなくなるためであったり、自分を強く見せたかったりするから。
それに、リスクをとると怖いから面白いってな理由で。

逆にビビリじゃない人(自分でそう思っている、いろいろな経験をしていないからかも)は、
全然怖くないと口で言う。
そんなことヨユウで、できるよってな感じで。
でも、それは自分で思っているだけで、
やったことない場合も多い。
ヨユウと思い込んでいるから、やろうともしない。

最終的な行動で見れば、
ビビリじゃないと思っている人のほうがアクションを起こさずにビビリに見え、
ビビリのほうがアクションを起こすので度胸があるように見える。

なんかこんな考え方もあるのでは。

パラダイムシフト

意識のないものが多く集まることにより、 まったくあらたな意識が生まれ、 新たな社会(流れ)が作られていく。

よく分からないんですけど、
思ったこと。

社会(仕組み・考え方のベース・ライフスタイル)の根本から変わる。
このことだと思うのです。パラダイムシフトとは。

で、このパラダイムシフトを起こしているのは一人一人の市民なわけです。
でも、彼らはその変化に気づかない、
気づいたとしても遅い。

実際に彼らは社会を変えているまさにその原動力になっているにもかかわらず、
そのときには気づいていない。

自分の意識の外の行動で、
社会が変わっていっている。
だから、気づかない。
で、変わりきったころとか、
変化に対応するにはおそくなりすぎてから、
その変化に気づく。

不思議なことだ。

じゃあ、この変化を一番最初に引き起こしたのは何か?
新たな技術を持ってきたり、それを使った何か(サービス)などを始めた人。
ブームを作る人に似ているかもしれません。

でも、彼らにも明確な未来社会は見えていないかも知れない。
信じている人はいると思うけど。

すると、誰もその変化を分からないのか?
というとそれも違う。
早く変化に気づき、それを利用したり、その流れを踏まえ、
新たな流れを作る人がいるわけだ。
このような人は、新たなことが起こることに敏感だったりするわけだ。

ということは、未来がどうなるかははっきりとはすべての人が分からない、
だけれども、自分なりにいろいろな変化を感じ、調べ、考え、
それにあったことをする、さらにその変化を踏まえて新たなことをする。
これしかないのではないか。
もちろん、これは判断を誤って失敗することも多いにある。
なぜなら、最終的に未来を作り上げていくのは、
そのような新たな変化に気づいていない一人一人の人間だからだ。
変化に気づいて、新たなことをした人が
未来を作るわけではない。
このマジョリティの流れが最終的に社会を作るからだ。

じゃあ、このマジョリティにどうしたら新たなものサービスをうまく広められるか。
そこが重要になる。
しかし、彼らに根本的な変化を察知されたらいけない。
察知されれば、彼らは自ら行動を起こし、
その根本的な変化に対応したことを始めるからだ。
すると、変化を早く察知して新たな行動を起こした人が描いた未来像とは、違った社会が生まれると思う。
だから、多くの人に察知されたらまずい(変化に早く気づいて新たなことを始める人の立場)

となると、成功するには変化を自ら見極め、
それを踏まえたこと(サービスなど)をする。
しかし、多くの人にはその変化を感じ取られないようにする。
これか?

なんか、あんまり面白い文書にならなかった。

言いたかったのは、変化などに対して鈍感な人がたくさん集まることによって、
実は大きな変化が生まれている。
もちろん変えていることは、気づいていない。
変化が終わるころに気づく。
これって不思議。

カブも一緒なきがする。
みんながあがると思っていても下がったりとか、
多くの人の意思に反して動くときがアル。
ってか、それの方が多い。
じゃあ、最終的には何が決定要因なんだろう。

意識のないものが多く集まることにより、
まったくあらたな意識が生まれ、
新たな社会(流れ)が作られていく。
これ不思議。

じゃあ、これからの社会を作り上げていく我々は
何を見て、何を感じて、何をどう判断すれば良いのだろうか。
そして、その判断に基づいて何かを始める場合はどのように行うべきなのだろうか。
難しい問題だ。
意識のないものの集団化による新たな意識・流れをつかむのか?!


なんか、田坂さんが昔いっていた、
複雑なものに生命が宿るという言葉を思い出した。

あと、僕がいつも言う
権利とか何とかで守られた組織とかでは変化が一気に起こる。
というか、外部に対して既存の支配した物を使って一気にアピールするから、
大きな変化に見える。
でも、規制のない社会とかでは毎日変化が起こり続けている。
こっちの積み重ねは徐々に起こる変化だから気づきにくい。
でもちりも積もれば山となるで、最終的にはこっちの変化の方が大きいって話。
それを昔の僕のブログから引用
確か、地上はデジタルが始まった日のテレビを見て思ったことです。
全局いっせいに、カウントダウンをやっている会場からの中継を流して、
総理大臣とか総務大臣も着てカウントダウンしていた。
それを見て、違うだろ!と思って書いた文章です。
以下引用


January 28, 2004
見えないからこそ、大きな変化
前も書いたかもしれないけど、また書きます。

変化っていうのは見分けるのが難しい。
そもそも、変化しているのかどうか、また良いほうへ変化しているのか、悪いほうなのか?そのスピードも分かりにくい。
まして、内部にいると分かりやすいように感じるんだけど、実は見えないことが多い。
だから、常に外部に視点を置くことが重要であると。

でね、ネットとかみたいにみんなが自由にいろいろ手を加えていけるものは日々変化している。新しいことが起こり、機能が付け加わり、徐々にそれが浸透していく。ある、スパンで見ればかなりの変化が起こっている。でも、毎日起こっているので、日々その変化に気づくことはない。気づきにくい。大きな変化だとは感じにくい。

しかし、規制で縛られているものはみんなが自由に手を加えることができない。権限を持っているものだけが、システムや仕組み、規則を変えることができる。ちょこちょこ変えればユーザーにとってはウザイ。だから、一気に変える。大きなチェンジをさせる。だから、一般人はとても驚き、変化がおきたー、と思う。でもじつは規制のないもののほうが大きな変化が起こってるんだよね。

そんでもって、これも思い出した。楽天の田中さんの話から


田中氏は、ブログで何ができるか?という議論の盛り上がりを、90年代にインターネットが登場したときの議論と対比した上で、ブログの「新しさ」として3つのポイントを挙げた。1つは、単純なことだが「Web作成が簡単になったこと」。eBayや楽天が、オークションやショッピングモールという、従来から存在していたサービスを簡素化しただけでインターネットの世界を変えたように、特定の機能を「簡単にする」ということが時に非連続なインパクトをもたらすと述べた。

ほんの少しの変化、一見すれば何もたいしたようなことではないこと。
これ、ほんの少し便利になるだけで、大きな変化が起こる。
うんうん、これを見極めれたら最強です。

July 14, 2004

就職ってやつ

前にも書いた気がする、
読んだことアル人がいるかも。

ホントのこと言うと絶対書いたと思うんだけど、
探してもなかったのでメモ程度に書きます。

・具体的な職業ではなく、面白い奴と働きたい。これも理由だ。
・リクナビになってエントリー増大、学歴で切る


・具体的な職業ではなく、面白い奴と働きたい。これも理由だ。
世の中では、医者とかケーキ屋とかそういう具体的な職業につきたいというと、
明確な目標があっていいと言われる。
それに、なんかそれっぽい理由もつけやすい。
でも、そういう、具体的な職業じゃなくても
面白い奴や互いに尊敬できる奴と働きたいってのも、
十分職業を選択するメインの理由になると思うんですが。
これを言うと、それで具体的に何がやりたいのとかいわれそう。
そういう、具体的じゃないけど、明確な理由でも十分な志望理由だと思うんですが。


・リクナビになってエントリー増大、学歴で切る
昔は、手書きで履歴書を書いて会社に出していた。
しかし、今はネットで送る。
性別とかを選択して、志望理由をコピペ、
それで、行きたくもない会社でもとりあえずエントリー。
みんな簡単にエントリーできるので、
有名な会社にはエントリーの山。
そんなもの一つ一つ読めるはずもない。
となると、大学名とかで一気に切り捨てる。
まあ、仕方のないことです。
でも、こうなると学歴を重要視しないって言われている時代の流れとは逆ですね、
それも、自らその現象を作り出している学生たちなんです。

小学生の時に、将来の夢って題で、
小さな像を作った。
将来なりたい職業を表す自分を像にするみたい。
そのときおいらが作ったのは、
大きな椅子に座ったスーツを着た男?
何だと思いきや、社長らしい。
へんな小学生だな。

July 12, 2004

感動→アウトプット

今日、こんなこと言われました。

「感動の蓄積みたいなものをして、それが貯まって整理できたら、がーっとアウトプットできると思う」

うん、すごい気づかされた。
なんか、先が見えた感じ。

今までも、いろいろな感動をしてきた。
心のそこから、感動したり、すごいと思ったりしてきたけど、
さらに、そんな体験をいっぱいして、
これだぁ、と思ったら、気が済むまでやろうと思います。


この方とお話しすると、何か楽しいです。
これは、何が、どうだったからとかいう楽しさじゃないです。

楽しいとか、好きとか、面白いって、
そもそも理由なんてありませんから。

やっていて純粋に、楽しいんです。
それです。

理由は他人に説明するために、
後付した場合が多いです。

そこに本質はない。

なんか、自分の思いを説明するために、
具体例とか、比喩が良く使われる。

これは、自分とは違った感覚を持っている人に説明するためには仕方がないかも。
おなじ、感性を持っていなかったり、
同じ知識がなかったり、
育ってきた環境が違うから。

でも、この具体例には本当に言いたいことはない。
もっと抽象的な、ほわーんとしたモノに、
思っている核があるはず。

だって、算数でも1+1=2とか
4+5=9って教えたいんじゃない。
そん何よりも、足し算の概念を教えたいはずだ。
足し算とはこんなものだ、こんなことができるんだ。
こんなことにも役立つかもってことが教えたいんですよ。

それと同じです。
僕の言いたいことは。

好きなもの、やりたいことに、無理やり理由をつけるな。
理由をつけると、本当に自分のやりたいことではなくなって、
他人の目があるから、自分がそれを好きと思わせるようになってしまうかもしれない。
そんな風に、自分を縛るのは良くない。
もっと、自分の思いを大切に。

具体的とか数値とかが重要視される時代に、
天邪鬼的に、抽象的な思いの大切さを提唱します。

まあ、好きな理由を分析するのも面白いんですけどね。
好きなものの共通性なんかも見れて。

July 10, 2004

いろんなキャラがいるわけで

今日は夜、水道橋で某社の投資家さんとお話。
電話があって、会いたいといってきた。

彼らは超アーリーステージの会社を探して投資するらしい。
そんな会社さんです。

僕もたまに使う某IT屋にも投資して、
上場後に株を売ってケッコウ儲かったみたい。

それはいいとして、その投資家さんとお話。
今まで何人かの投資家さんとお話をしたことがあって、
今日も、今まで会った投資家のイメージを持っていた。

僕の投資家のイメージは、なんか、ズバズバ
厳しい突込みをしてくる。
そんな感じ。
ちょいと馬鹿にした感じで、
ビジネスモデルとか、
PVがいくつかとか、登録者は何人か?
何人が仕事に結びつくのか?
プロモーション方法は?
金はいくら必要でどのように使うのか?
とか、ガンガン聞いてくるイメージ。

しかし、今日の投資家さんは違った。
向こうから声をかけてきたくせに、
特にその経緯を話すわけでもなく、
なんか特に聞くわけでもなく。
不思議だった。
でも、投資家って言ったっていろんな人がいるわけで、
こんなキャラの人もいる。

この人はW大を卒業後、銀行→ベンチャーキャピタルらしい。
銀行とVCは投資とういうか融資というか、
金を出すスタイルが全然違うイメージがあったが、
実際の仕事は同じ部分も多いみたい。

まあ、この人が若いこともあって、
けっこうラフな感じで話ができました。

ぶっちゃけ、1千万もらっても何もできないけど、
1億もらったらオモシロイコトできるとかほざいてしまった。

ありえなくもないリアクションだったというのも笑えます。

まあ、どうなるんでしょうね。

携帯の面白いビジネスがあれば、連絡してくれるみたい。
ってか、携帯ならまだどこもやっていないいいビジネスがあるんですよね。
それは、今後の定額制、フルブラウザなども踏まえたビジネスです。

あと、
うちの会社も会社案内をしっかりしようと思った日でした。
前から行ってるのに作っていないという、ダメダメですね。

July 08, 2004

はじめてみる驚き

ふと思う、はじめてみた驚きってスゴイなぁと。
衝撃が違います。

その中でも、初めて間接的に見たときの衝撃、
直接的に見た衝撃がある。

具体的に言えば、
間接的に見た衝撃=写真、テレビ、ネットなど
直接的に見た衝撃=本物を自分の目で見る

で、初めて間接的に見た時の衝撃が大きい場合に、
直接的に見ようと考えます。

では、このような場合、
自分が感じる衝撃はどう違うのか?
またその大きさはどちらの方が大きいのか?

(間接的に見て衝撃を受けることなく、本物を直接的に見て衝撃を受けた場合は除く)

間接的に見た場合は、
純粋にそのモノの凄さ、に衝撃を受ける、
次いで、直接的に見たときは、
間接的に見て、大きな衝撃を与えられたものが目の前にあると実感して、
衝撃を受ける。

言いたいことは、直接見た場合は、
自分自身の思いに対して衝撃を感じているということ。
自分の達成感に衝撃を感じているのだなぁと。

あったりまえのことです。

これを書き終わって思うこと、
初めなんとなく書きたいと思ったことと、
違うことを書いています。

この文章しっくり来てません。
こんなことを書きたかったわけではないけど、
書き残します。

それは、2つの意味があるからです。

・デジタルデータとしてネットに公開して残す
・言いたいことの3分の1も表現できないことの例として

1点目

デジタルデータとしてネットに公開して残す。
これには大きな意味が2つあります。

・自分の過去を振り返れる(検索用)
・多くの人に見てもらい、僕を知ってもらう&フィードバックをもらう

・自分の過去を振り返れる(検索用)
これは、僕の中でとても大切。
昔の文章を読み直して、こんなことを考えていたのかと振り返る。
原点に戻る感じです。
岐阜に帰って、小学校へ行ってボーっとするのと同じです。
原点に戻ってから、現在の自分を見つめなおすのにはいい材料です。
あと、検索としての意味があります。
昔こんなこと書いたな、どんなことだったけ?
というときに、デジタルだとキーワードですぐ検索できます。
先日も、西村さんのASHIMOを生で見て衝撃を受けた、
というエントリーを見て、僕も昔同じことを書いたと思い検索。
すぐ見つかり、それを共有できる。
これは、凄い面白いことです。

・多くの人に見てもらい、僕を知ってもらう&フィードバックをもらう
これは、そのままです。
さらにネット上においておくと、バックアップにもなります。
フィードバックはコメントを書いてくれたり、
直接会って話してくれたり、メールでくれたり、
メッセで教えてくれたり、ブログに書いてもらったり
いろいろですけど、どんどん膨らんでいく感じがいいです。

生ぬるい文章だな。
うーん、いまいち。

・言いたいことの3分の1も表現できないことの例として
これです。
言いたいことの3分の一も伝えれていません。
どんな人でも自分の考えたことのすべてを相手に伝えれていない。
これは、人それぞれ育ってきた環境が違い、
思考回路が違い、言葉のイメージが違うから仕方がない。

自分の気持ちがすべて伝わってなくても、
凄くその人のいいたいことが伝わってくる人、
これ凄い。
作家にしろ、絵描きにしろ、写真家にしろ、普段の話にしろ。

しかし、僕は普通の人よりも伝わっていない気がする。
伝えることをもっと学ばねばならないと、
こう思います。

July 03, 2004

本を買う動機

なんか、今日は本に関することでいろいろと思った。

さっきのR25も雑誌だけど本みたいなもんだしね。
今日は、とある理由でアマゾンのアソシエイトの売り上げを見た。
売り上げというか、僕のブログを通して誰かが本を買ってくれたかどうか。

僕は、トップページにアマゾンアソシエイトのリンクを貼ってないし、
購入しないと紹介料は入ってこないから、1円にもなっていないだろうと思っていた。
しかーし、8冊も買ってくださった人がいた。
総額155円。
額自体はたいしたことないが、
買ってくださった人がいるということに驚きだった。

ブログを見て、ふと横(アソシエイト)を見たときに「これだぁ」と思って買ったのか、
親切な方が、私のところからクリックして買ってくださったのかは定かではありません。
改めてネットのパワーを実感しました。

で、今日はふらっと上野の本屋に。
そこにR25がおいてあったわけです。

そこで、地球の歩き方をちょっと見る。
それから、本屋をふらつくと、18きっぷに関する本が多い。
あのJTBまで出版している。
売れるのか?
18きっぷでゆったり旅するのがトレンドですかね?
まあ、北海道往復とかははやらないと思いますが。。。

その後、またふらつく。
すると、通路に飾ってあった本が目に留まる。
道のむこう
で、ぱらぱらめくるとこれはイイです。
基本的に道の写真です。
いろいろな道の写真がありました。
どの写真にも人はいませんでした。
この写真が妙に気に入りました。
2500円だったので買うのはためらったわけですが。。。
今度、また偶然この本とであったら多分買います。
そこには偶然という必然がある訳ですから。
30980202.jpg

で、またふらふら。
はじめてのインド哲学なる本をぱらぱらと読む。
ケッコウ面白い。
興味深いです。夏休みに入ったら、すぐにでも読みたいです。
他にもインドとか仏教に関する本を読んでみたいです。

そう思っていると、ふと思い出す。
CNETの梅田さんのブログ。
この方のブログのクオリティは天下一品です。
一度、恵比寿でお会いしたときのお話もとても面白かったです。
メモを取ってじっくりお聞きしました。
vatage pointの話が特に興味深かった記憶があります。
まあ、それはいいとしてこの方のブログは基本的に(簡単に言えば)ITネタが多いです。
このブログで、先日一冊の本が紹介されていました。
その本は千住博の美術の授業 絵を描く悦びです。
それを思い出して、探すとすぐ見つかりました。
こちらもパラパラめくると面白そう。
かなり、一気に読める感が僕は感じたので買うことに。

そこで思ったわけです。
人のお勧めってパワーがあるなと。
特に今回の場合は、
梅田さんはいつもクオリティの高いブログを書いている=僕の中でスゴイ人(尊敬の対象)
いつもは本を薦めることはないが、今回は進めている=よっぽど面白い本なのだろうという推測
このような思考が僕の頭の中であったわけです。
いつも(毎日)、本を紹介している人よりも重みがあるんですよね。

これはSNSやアマゾンのマイリストにもいえるんですかね。
個人が全員に対してお勧めの本を紹介している。
これは上の表現で言えば、「毎日本を紹介している人」にあたり、特定の個人に対してインパクトが小さい。
しかしですね、ある特定の人に、ある特定の日にその人のために本を紹介すれば、紹介された人にとってのインパクトが大きい。
こうすれば、購買意欲は格段にあがるはずです。
このようなことを、ウェブの本屋にしろ、SNSにしろやればいいのに。
馬鹿みたいにどこも個人→全体の紹介しかやってない。
って、これやってるところあります?
この案を公表するとどっかにパクられるかも。(笑)
ここを通して知った場合は、お知らせしてもらえるとありがたいです。はい。
なんかネット上の在庫を抱えない(リスクを抱えない)MLMというかネットワークビジネスのにおいがプンプンします。

そんなこと思いつつ、本屋をまたふらふら。
すると、今話題のスペイン発のGood Luckがあったのでパラパラ。
すると、あのコトラーが推薦とか書いてあった。
それにも驚いたが、この本は星の王子さまに似ているといったらしい。
へーお思い、昨日、何かで聞いたか見て、
星の王子さまという本を読んでみたいと思っていた。
そこで、探そうと思うが、その店には本を探す端末がなかった。
うーん、普通ここで店員に聞く。
しかし、ふと思う。
AirH"phoneを持っているぞ。
ネットでアマゾンを見てもタダだぞ。
出版社が分かれば見つかるだろう。
さらに価格が分かれば、買うかどうかの判断もつく。
ということで、PHSでオペラを起動してアマゾンで検索。
早速出てきました。
便利だなぁ。
で、結局その店にはおいてなかったので変えませんでした。

なんかユビキタスというか、時代は変わった、ライフスタイルは変わったと思いました。

全く話は変わるんですけど、ネットワーク図書館構想があります。
こちらも近日中に、ご報告できると思います。

こちらも夏の前になるといろいろな人に尋ねることです。
お勧めの本でもありましたら、教えてください。
進めていただけたら、その本を基本的に読みます。
昨年も薦めてもらった本をスペインにもって行き読んでいました。
ジャンルは問いません、いろんな面白い本を教えてください。

アールニジュウゴ

創刊される前から多少話題になっていたR25。
これが創刊されたらしい。

毎週木曜日にでるみたい。
週間でいつまで続くんでしょうか?リクルートさん。
いくつかの編集チームに分けたとしても、常にフルで働き続けてないと無理じゃないのかな?

で、僕はなぜ話題になっていたのか知らない。
ターゲットが男で25歳ぐらいのフリーペーパーがなかったからなんですかね?

まあ、どうでもいいです。
話題だったのでとりあえずもらってみました。

今日はいつもにもまして、ぬるいエントリーでした。

本を買う動機

なんか、今日は本に関することでいろいろと思った。

さっきのR25も雑誌だけど本みたいなもんだしね。
今日は、とある理由でアマゾンのアソシエイトの売り上げを見た。
売り上げというか、僕のブログを通して誰かが本を買ってくれたかどうか。

僕は、トップページにアマゾンアソシエイトのリンクを貼ってないし、
購入しないと紹介料は入ってこないから、1円にもなっていないだろうと思っていた。
しかーし、8冊も買ってくださった人がいた。
総額155円。
額自体はたいしたことないが、
買ってくださった人がいるということに驚きだった。

ブログを見て、ふと横(アソシエイト)を見たときに「これだぁ」と思って買ったのか、
親切な方が、私のところからクリックして買ってくださったのかは定かではありません。
改めてネットのパワーを実感しました。

で、今日はふらっと上野の本屋に。
そこにR25がおいてあったわけです。

そこで、地球の歩き方をちょっと見る。
それから、本屋をふらつくと、18きっぷに関する本が多い。
あのJTBまで出版している。
売れるのか?
18きっぷでゆったり旅するのがトレンドですかね?
まあ、北海道往復とかははやらないと思いますが。。。

その後、またふらつく。
すると、通路に飾ってあった本が目に留まる。
道のむこうで、ぱらぱらめくるとこれはイイです。
基本的に道の写真です。
いろいろな道の写真がありました。
どの写真にも人はいませんでした。
この写真が妙に気に入りました。
2500円だったので買うのはためらったわけですが。。。
今度、また偶然この本とであったら多分買います。
そこには偶然という必然がある訳ですから。
30980202.jpg


で、またふらふら。
はじめてのインド哲学なる本をぱらぱらと読む。
ケッコウ面白い。
興味深いです。夏休みに入ったら、すぐにでも読みたいです。
他にもインドとか仏教に関する本を読んでみたいです。

そう思っていると、ふと思い出す。
CNETの梅田さんのブログ。
この方のブログのクオリティは天下一品です。
一度、恵比寿でお会いしたときのお話もとても面白かったです。
メモを取ってじっくりお聞きしました。
vatage pointの話が特に興味深かった記憶があります。
まあ、それはいいとしてこの方のブログは基本的に(簡単に言えば)ITネタが多いです。
このブログで、先日一冊の本が紹介されていました。
その本は千住博の美術の授業 絵を描く悦びです。
それを思い出して、探すとすぐ見つかりました。
こちらもパラパラめくると面白そう。
かなり、一気に読める感が僕は感じたので買うことに。

そこで思ったわけです。
人のお勧めってパワーがあるなと。
特に今回の場合は、
梅田さんはいつもクオリティの高いブログを書いている=僕の中でスゴイ人(尊敬の対象)
いつもは本を薦めることはないが、今回は進めている=よっぽど面白い本なのだろうという推測
このような思考が僕の頭の中であったわけです。
いつも(毎日)、本を紹介している人よりも重みがあるんですよね。

これはSNSやアマゾンのマイリストにもいえるんですかね。
個人が全員に対してお勧めの本を紹介している。
これは上の表現で言えば、「毎日本を紹介している人」にあたり、特定の個人に対してインパクトが小さい。
しかしですね、ある特定の人に、ある特定の日にその人のために本を紹介すれば、紹介された人にとってのインパクトが大きい。
こうすれば、購買意欲は格段にあがるはずです。
このようなことを、ウェブの本屋にしろ、SNSにしろやればいいのに。
馬鹿みたいにどこも個人→全体の紹介しかやってない。
って、これやってるところあります?
この案を公表するとどっかにパクられるかも。(笑)
ここを通して知った場合は、お知らせしてもらえるとありがたいです。はい。
なんかネット上の在庫を抱えない(リスクを抱えない)MLMというかネットワークビジネスのにおいがプンプンします。

そんなこと思いつつ、本屋をまたふらふら。
すると、今話題のスペイン発のGood Luckがあったのでパラパラ。
すると、あのコトラーが推薦とか書いてあった。
それにも驚いたが、この本は星の王子さまに似ているといったらしい。
へーお思い、昨日、何かで聞いたか見て、
星の王子さまという本を読んでみたいと思っていた。
そこで、探そうと思うが、その店には本を探す端末がなかった。
うーん、普通ここで店員に聞く。
しかし、ふと思う。
AirH"phoneを持っているぞ。
ネットでアマゾンを見てもタダだぞ。
出版社が分かれば見つかるだろう。
さらに価格が分かれば、買うかどうかの判断もつく。
ということで、PHSでオペラを起動してアマゾンで検索。
早速出てきました。
便利だなぁ。
で、結局その店にはおいてなかったので変えませんでした。

なんかユビキタスというか、時代は変わった、ライフスタイルは変わったと思いました。

全く話は変わるんですけど、ネットワーク図書館構想があります。
こちらも近日中に、ご報告できると思います。

こちらも夏の前になるといろいろな人に尋ねることです。
お勧めの本でもありましたら、教えてください。
進めていただけたら、その本を基本的に読みます。
昨年も薦めてもらった本をスペインにもって行き読んでいました。
ジャンルは問いません、いろんな面白い本を教えてください。

July 01, 2004

パブリックにするということ

公にするということは、
それだけ他人に対して影響を与えるということなんですよね。

そこに表されていることが、
真実であろうとも、なかろうとも。

考えのほんの一部であろうと、
すべてであろうと。

どんな記述の仕方をしても、されても、
読み手の人生経験によって、
またそのときの状況によって、
それぞれ捕らえ方が違う。

当たり前のことなんですけど、
難しい問題です。

まあ、このブログも読み手によって捕らえ方が違ってくる。
それは当たり前。

少しでも、現在の僕のことをわかってもらえれば、
とは思うんですけど、そうまくはいきません。

このブログによって話が長くなることも。
まあ、このブログを踏まえての話なんだから、
ブログを読まなかった場合よりも、
一つ進んだ話をしているってことにもなるんですかね。

関連してなんですけど、
まあ、これからははじめて合う場合はSNSで下調べと言うのも一般化するんでしょうね。
相手の企業と始めて商談するときは、
相手の企業について下調べするのが当然。
有名な方にお話しをしに行くときも、
事前にその方について調べる。
当たり前。
これからは、SNSによって一般人の中でも
下調べをするようになる。
そうすれば、初め会ってから無駄な時間がない。
こういうと、プライバシーがとか言われるんですけど、
それは変なところで気にしすぎです。
自分が気にしていないだけで、もっと個人情報は漏れています。
まあ、他で漏れているからといって、
この場合も情報が流れてもいいというわけではないですが。

そのへんは、SNSの場合、個人で設定できるものもあるので、
気にしなくていいと思います。

昨日もとある方に言われたんですけど、
これは他人が読むことを前提に書いてません。
自己満足ですので、あしからず。

June 24, 2004

できる男と馬鹿な男

モブログで写真もアップしたんですけど、
今日、家の近くのK's電気がオープンした。

家から近いのに知らなかった。
だれから、聞いたかというとうちの社長。
4人で作業をしていたら、
明日、K's電気が近くでオープンすると。言った。
大型電気店の開店には決まって目玉商品がある。
で、富士通のデスクトップ(なかなかのスペック)が2万円!!!

じゃあ、行くしかないだろう。
という話になる。
その時、中学のときに岐阜のギガスカンサイ(電気店)のオープンに並んだことを思い出した。
夜中に一人で自転車を飛ばして、行った。
しかし、テントで寝ている人がいて目的のものは買えず。
100円でアイロンを買うことに、、、
とほほ。

こんな経験があった。
昔から、馬鹿なことが好きだったなと。
で、今回はリベンジだぁと思い話を聞いてすぐ行くことに。
夜の10時。
正直微妙な時間。
買えるかもという淡い期待を持ち、K's電気に向かう。
その途中、買って売ればPanasonicのレッツノートが買えると、
テンションがあがる。
で、どこかもいまいち分からなかったのでタクシーに。
タクシー代980円。4人で乗ったので一人250円。
電車やバスと変わらない。
で、目的のK's電気に到着。

あまり人がいないぞ!
コレは買えるかもと思い、
販売する場所を探す。
すると、ぱらぱら人がいた。
じっくり見ると、パソコンの前には5人いた。
パソコンは5台限定だ。
ショック。ショック。
やっぱり、朝からかなぁ、、、
またも、負けました。
他に、DVDプレイヤーとかテレビとかあったけど、
大して安くなかった。
広告をチェックして、他にも安くないことを確認して
帰りは歩きで戻った。

タイトルの「できる男と馬鹿な男」と何が関係ある?
と、お思いかもしれない。
上で書いた話は馬鹿な男の話です。
でもですね、この馬鹿なことできる人が少ない。
この話を知った社長は大学で行こう!といったらしいが、
あまりは乗り気じゃなかったらしい。

それを聞いて、僕も大学の周りを見て、
何かをやろうといって、いきなり実行できる人は少ないかもと思った。

僕がいつも言う、
人生は、運と、勢いと、ノリ
この精神を正しいと思うか否かの違いなのかもしれない。
この考えがすべてとは言わないが、この精神がないと、
面白くないし、物事を始められない。

で、この考えを理解しながら仕事できる男は強い。
前も書いたが、できる男だけではダメ。
面白みがないし、レールに沿ったことしかできない。
(もちろん、このような人がいないと社会が回らないので必要なんですけど。)

僕がいつも言う、頭が良くて馬鹿な奴
こんな人たちが好きです。
さらに、こんな人たちと一緒に仕事とかしたい。
と再認識した今日この頃です。


あと、関係ないんですけど、
メールの返信のスピード。
メールを送るとすぐ返信が返ってくる人がいる。
スゴイ。
ついついためてしまうと、メールが埋もれていって、
返信が遅くなったり。。。
メールは即レスを心がけます。
ちょっとできる男っぽくないですかね(笑)

June 18, 2004

仕事でない仕事

仕事でない仕事

日本語が矛盾していると言う突込みが、
ありとあらゆるところから来そうですが、
「仕事でない仕事」
通じる人には通じるでしょう。

前者の「仕事」は、
あまり好きでないけど、お金をもらうために日々行っていること
という意味。

後者は、前者のようなネガティブな意味はない、
楽しんでやっていて、趣味と融合しているような感じ、
でもって、お金がもらえると言う意味。

ここで、大辞泉から引用

し‐ごと 【仕事】
1 何かを作り出す、または、成し遂げるための行動
2 生計を立てる手段として従事する事柄。職業。
3 したこと。行動の結果。業績
4 悪事をしたり、たくらんだりすること。しわざ。所業。
5 《「針仕事」の略》縫い物。裁縫。
6 力学で、物体が外力の作用で移動したときの、移動方向への力の成分と移動距離との積。単位はエネルギーの単位ジュール、その他ワット秒・ワット時など。

ここでいうと、2番の仕事でしょうな。

なんで、こんなことを書くかと言うと、
いろいろな社会人の方を見ていて、イロイロ考えたから。

別に、前者の仕事が悪くて、後者の仕事がいいとは思わない。
人にはそれぞれの人生があって、
好きなように生きればいいのだから。

世の中、生きていかないといけないし、
お金も必要だから。

それに、戦後はキャッチアップの時代で、
好き嫌いで仕事をやりたい、やりたくないといえなかったと思う。
というか、そんなこといっていたら、
今のような豊かな日本はなかった。

そう思うと、今の豊かな日本を作った、
50,60歳代は偉大だ。

しかし、時代が変わったのも事実。
これからの世代は、自分で自分の道を考え
歩んでいかなければならない。
成功が確実な道はないし、
その過程で、何があるか分からない。
当たり前ですけど、
大企業だって、資格だって、公務員だってどうなるか分からないですよ。

じゃあ、自分で考えて、納得した道を歩むしかないんじゃないかと思うわけです。
その過程を思う存分楽しんだ方が、ココロオドル日々がおくれるでしょう!

で、この記事を書こうと思ったきっかけ。
今日、はとある記者の方に取材を受ける。
とはいっても、夜の9時から。
ジャーナリズムの世界に休みはないなと。

純粋にその記者さんは楽しそう。
趣味でやっていたNPOのことが記事になったりとか、
そのネタで特集組めたりとか言っていた。

趣味と仕事の境がない状態。
まあ、社会部の方だからってのはあるからだろうけど、
さらに、年齢的にも一人前となり、
自分の裁量で記事が書けるからかもしれけど。

印象に残ったこと。
「現場主義」
ネットで見るのと、
実際に見るのは違う。
ネットに情報はあるが、
特種はないと。
フェイストゥーフェイスでのみ伝わる情報とかがありますからね。


また、一方でパリダカに4回出ている方と以前お話をした。
その方は、お金がないからパリダカに出れないのではないと。
出たいと本気で思ったら稼ぐのだと。
仕事が終わったら、バイトを夜中にして金をためたらしい。
すごい。
この人にとって、仕事事態は面白くなかったかもしれない。
でも、これが悪いとも良いとも思わない。

それぞれの生き方だ。

人生っていろいろあるなと。
自分の人生だから、自分で決めないといけないんだなと、
それと、これは無理だとか、ダメだとか考えちゃいけないなと。

改めて思うのは、
大学の時代にいろいろなことをして、
一つのことをしなかったと批判する人がいる。

でも、大学までは社会に出ていなくて、
これだぁと一つのことに決めて何かに取り組めることの方がまれだ。
そんなことにめぐり合った人は幸せなのか、勘違いをしているのか。

でも、僕はいろいろなことをして、いろいろな人を見たい。
と思い、見てきたつもり。
偏りはあるだろうけど、やっぱ人それぞれ全く違って面白い。
そのような、先人の方の生き様、職業をみながら、
自分の人生を考えよう。

June 14, 2004

テレビ

よく、テレビを見るとアホになるとかいうけど、
それは違うよね。
まあ、当たり前だけど。

見る人の見方次第です。

今回はそんなことを言いたいんじゃなくて、
テレビでしか得られない情報がある。
テレビでしか、味わえない感動がある。

って、最近、情熱大陸と世界遺産が見れてないから
見たいだけなんですが。。。

ってか、来週の世界遺産まじよさそう。
ボリビアです。
南米はアツイ。

フラッシュがあまり好きでない僕ですが、
世界遺産のトップのフラッシュ
だけはいいともいます。
って、タダの自分勝手ジャンってね。

June 08, 2004

人間の考え

人間の根本の考えは変わらないなと。

大学1年の時に書いた文章を久しぶりに読みました。
これは、ウェブで公開していた奴です。

さらに、2年生のときに書いていたブログ
(こちらは、カナリ読みにくいかも。)

で、僕を僕たらしめているものは何も変わっていないのかなぁと。
昔から、こんなこと考えていたんだとか、
こんなことで悩んでいたんだぁと。

やっていることとか、他の人に映る僕は
変わったかもしれません。
しかし、根本的に考え方のようなものは変わっていないのかな。

考え方というか、
その時々によって、変わるようなれべるの物ではなく、
自分のいき方に対する態度とかについての考えは、
何も変わっていないのかなと実感。

June 07, 2004

顔色

今日は夜、大学の友達と焼肉。
カナリ久しぶりです。
まじ、うまかった。

肉にビールは最高です。
最後に豚足を食べてしまった。
初めて食べたけど、別にうまくはない。
まずいわけでもない食べ物でした。

で、焼肉に行ったのは大学の友人2人といってきました。
かなーり、気の会う3人です。
周りから見たら、バランスの全く取れていなさそうな3人だろうけど、
この3人はかなり気が合う、おもろい3人です。

それは、どうでもいいんですけど、
2人から印象深いことをいわれた。
GWのあと岐阜から帰ってきた後に、
すぐこの2人に会ったときも、
同じことを言われた。

「顔色が良くなった」

彼らとはよく会うから、
感覚で分かるのだろう。

東京で過ごして、忙しい日々を送って
不規則で、栄養のバランスの取れない食事をしている。
疲れがたまっているのだろう。
だから、顔色が悪くなっている。

でも、岐阜にたった1日帰っただけ、
さらに、夜行で往復したので
疲れも取れていなはず。
さらにさらに、夜行で帰ってきたその日、
昨日の夜から、今日の朝まで徹夜で飲んでいた、
東京に戻り、こんな生活になっているにもかかわらず、
顔色が良くなったまま。

不思議だ。
というよりも、岐阜のパワーってスゴイ。
きれいな岐阜の空気と、
生まれ育った岐阜が、
栄養とエネルギーと安らぎを与えてくれるんだろう。

故郷の力って偉大です。
やっぱ、俺の体は岐阜で生活するのに適しているのかと実感。

May 29, 2004

結局すべてが分かりませんでした

生きてれば、
新しい人に会う。
みんな、イロイロな人生を送っている。

それが、成功とか幸せとか他人が言っても意味がない。

よく分からないので、
また、エントリーします。

なんか、外へ外へといっている気がする。
外へ出て行くことは非常にいいことだが、
外に出続けていては、
自分で考える時間がない。
情報だけ入って、
自分で考えない、
それでは、自分の意見や、自分のものにならない。
自分で一人の時間を取り、
咀嚼することが大切だ。

自分で思うのは、
僕は何でも自分でやりたがる性格、
だから、どこへでも行く。
体験する。
しかし、体は一つ。
自分ひとりですべてを体験できるわけではない。

僕は、八方美人な人が好きではない。
こういう人がいるのも当然だし、
こっちのほうが日本社会でうまく行くかもしれない。
で、人に対して八方美人な性格の人が嫌いなくせに、
僕は、物事に対して八方美人な政策を採っていたのかもしれない。
とりあえず何でもやってみる。

取捨選択しないといけないのかな。

うーん、でもやっぱり、とりあえず、
情報でもあるだけ仕入れて取捨選択するように、
一回やってから取捨選択するのがありかなと、
思ってします。

と、もともとある場所に戻ってきました(笑)

May 22, 2004

批判

いろいろ最近のニュースを見て思うこと。
って、いうか昔から私が言い続けてること。

批判は簡単である。
肯定は覚悟がいる。

批判は簡単である。
どんな考え、事業や法律でも問題点はある。
すべて完璧なことなんてない。
だから、とりあえず批判しておけば、物事がある程度成功しても、問題点は多少なりともあるのであそこがダメだったとかいえる。
批判しておけば楽だ。

でも、肯定するのは難しい。
自分が直接関係していないことだったら、情報も十分に入らない。
でも、総合的に判断して、自分が意義があると判断したら肯定する。
肯定する場合は、自分で真剣に考え抜かなければならない。
そんでもって、肯定した物事にも何らかの問題はある。
だから、批判する人は、その問題について批判するだろう。
肯定した人はそのことについて、なぜ肯定したのか論理的に明確に説明する必要がある。
コレは大変だ。
でも、サポートする意味でも意義のあることだ。

肯定は覚悟がいり大変なこと。
だから、どんなときでも批判し続ければ一見、不利になることはない。

でも、批判し続けていたら世の中、何も進まない。
100点ではないにしても肯定するべきことは多くある。
それを肯定することにより、物事を推し進める助けになる。
80点でも意義のあることは肯定しても良いんじゃないでしょうかね。
タダ批判するだけでは、何も変わらなかったり(0点)やマイナスになるだけかもしれないし。

自分も、これを忘れてはならない。

May 09, 2004

デザイン

今さら、岐阜に帰ったときのエントリー。
(BGMならぬ、BG"TV"は「映像の世紀」)関係ないですけど、考えさせられる番組です。必見!
もちろん、「変革の世紀」も。

kaoringoさんが岐阜から来て鮎菓子を持ってきてくれたので、岐阜のことを思い出しました。(サンキューでした)
で、岐阜に帰った時のエントリー。

僕は岐阜に帰るとかなりの確率で、小学校、中学校、高校に行く。
中でも小学校が一番多い。
中学はなぜかあまり行かない。(高校は部活に顔を出す程度)

なんで、小学校に良く行くかはわからない。
けど、今考えると小学校のときに自分というものの基礎が形成されていった気がする。

僕が岐阜に帰るのは、休みの期間が多い。
だから、小学生は学校にいない。
まあ、当たり前だ。
もちろん、他に卒業生も来ていない。
で、ほとんど人がいない小学校の遊具の上で、寝っころがる。

小学校のとき(確か4年生の放課後だったはず)に初めて小学校の校庭で寝た。
そのときに、はじめて雲の流れを感じ、周りでは友達がわいわいがやがや遊んでいるはずなのに、空を見ていると自分だけ違う次元にいる感じがした。自分だけの時間というか、時間が止まっている感じがした。

そして、大学に入ってから岐阜に帰ると小学校へ行き寝る。
ああ、時が経ったなと思い、小学生のときは何をしていたかを思い出し。
どんな夢を抱いていたかを思い出し、再度今の自分を振り返る。
なんか、原点に戻る感じ。

小学生のときはそれなりに、社会を知らないがゆえにいろいろ考えて悩んでいたなと。
それと、今小学校を歩くと昔は気がつかなかったことに気がつくことも多々ある。
これも面白い。

鬼ごっこで花壇の後ろに隠れたなぁとか思いだしたり。
で、花壇が記憶していたより小さい。
ああ、自分も年をとり大きくなったのだなぁと。
精神年齢だけあのときのままだなぁと。

ぜひ、実家に帰ったときはふらっと小学校とかに行ってみてください。

あと、今回は名古屋の高島屋へ。
かなり、ってか初めて?かも、母親と姉と行くのは。
そこで、「星野道夫の宇宙」という写真展に。
この人アラスカで写真を取っていた人みたいです。
いい写真を撮ります。純粋にキレイ。
動物の写真が多かった気がした。

でも、どちらかというと景色の写真がすき。
これは、昔からなんだけども。

見終わった後に、絵葉書を三枚買いました。
で、自分ではなんも意識してなかったけど、
母親がその3枚の絵葉書を見て、「青色が好きだね」
「動物が乗ってない景色しかない写真、寂しい写真が好きだね」
といいました。
自分では意識していなかったので新鮮な感じでした。

人間の感性に関することは、なにか目に見える形にしてから、他人に評価されるとはっと気がつくことがあります。

写真でも人がいないのがすきですけど、人が嫌いなわけではなく、人が大好きです。
ただ、人がたくさんいることを想定して作られたものや場所に人がたくさんいても気にしないんですけど、人がたくさん来ることを想定せずに作られた場所に、今観光スポットとかになって人があふれかえっているのが嫌い。人があまりいないのを想定して作られたんだから、人が少ないほうがその場所がきれいだったり、楽しめる気がします。

関係ないですけど、絵葉書をかなり持っています。どこかに行ったら必ず買うかも。
でも整理していないので、旅の思い出とともに一回整理してみよう。
家を絵葉書ライブラリーにしよっかなー。

これまた、関係ないけど一眼レフカメラ欲しい。

May 08, 2004

テレビ

誰も聞きたくないと思うんですけど、好きな番組を二つ。
「情熱大陸」日曜日23時からTBS「世界遺産」日曜日23時30分からTBS

両方ともTBSそれに、連続。TBSが好きなわけではありません、ご注意を!
それは、いいとしてこの二つの番組は最高です。

「情熱大陸」これは毎回ある人に迫る番組。なんか、身近な感じを覚えさせる演出です。
私生活っぽいところまでうつしているので、興味深く、その人の本心に近い考えが知れるのかなと思ってます。この番組によっていろいろな人生があるなと中学・高校の時に思いました。どんな人生でもありなんだと思ってしまった番組。
演出の仕方とか、人の選択が毎回違うので明らかに何個かのグループが独立して人を選び番組を作っていると思います。

「世界遺産」これは、映像がきれい。曲がまじでいい。「song of life」これを聞いていなかったら聞くべきです。言い切れます。心が安らぎます。美しい映像と、曲が重なり合うとコレ最高。
前の前のブログでこのへんについては書きまくったのでもういいかも。。。世界遺産DVDもいいですよ。


言いたかったのは世界遺産の「世界遺産」400回記念イベントが5月5日にあったらしいですけど、いけなかった。悔しい。相当良かったみたいです。
言いたかったのはコレだけです。鳥山 雄司さんがsong of lifeを生で演奏したらしい。行きたかった。
慶應の三田会に続きショック。。。(ああ、鳥山さんは慶應出身で三田会に来て演奏したのです。それを三田会が終わってから30分後ぐらいに知ってマジで凹だ過去がありました。)次にチャンスがあったら何があろうと行きます。

あと、NHKスペシャルも好きだったりします。そういえば「変革の世紀」のビデオありますよ。
「変革の世紀」鑑賞会@寺町宅やりますか?
ワインと焼酎、ビールつきですw
これも、どうでもいいです。

November 02, 2003

脳が動いていると感じる

何かを考えているとき、頭を使っているときに頭を使っていると感じる。
脳が働いていると感じる。
血流が活発になっているからなのか。

それを感じるのも脳であるはず?
本当か?
意識的に何かを考えるなどして使っている脳、それを感じる脳。

物質(細胞)の集合であるはずなのに、その結びつきによって働きがまったく違う。
不思議。脳は不思議なことだらけです。

脳外科とか脳関係の医者に脳の疑問を聞きに医者に見てもらいに(質問しに)行ったら精神科にまわされますか?

November 01, 2003

between 3 and 4

10月1日からはじめたblogちょうど一ヶ月がたちました。
一ヶ月で41書いたんですね。

それは、置いておいて3と4の違いについて。
みなさん、3と4の違いについて考えたことありますか?

3と4といっても、私が言いたいのは3時と4時について。
もちろん、朝の話です。

3時に寝ると、夜寝たという感じがする。
そして体もそこまでだるくない。
しかし4時に寝ると、朝になって寝た感じがする。
なんか、だるい感じ。

3と4の間には大きな違いがあるのです。

皆さんは、どの間に違いを感じますか?


それと、私は夜中ずっと起きていて外が明るくなるのを見るのがイヤだ。
イヤだと言うか、なんかいい気分でない。
すがすがしさがない。
気分が重い。
まだ寝てない、しかし朝が来てしまった。寝るタイミングがずれたそんな感じ。

では、なぜこのときあまり良い気分でないのか?
まあ、寝てないから疲れているというのもあるだろう。
それに、ついてもう少し考える。

以前、人は光によって体内時計を調整するみたいなことを聞いたことがある。
それと、jet lagのときは光をふくらはぎとかに当てると体が起きるというか、朝のように感じるらしい。
朝のようになると言うことは、体の活動する準備が整うと言うこと。

と言うことはですね、朝まで起きていて光を見たりすると、私の体は朝の準備をする。
しかし、私は寝ていない。
そこで、体や脳がお前なんか生活リズムおかしいYOと訴えかけてくるのでしょう。

私は朝日や鳥の声、新聞や、牛乳配達、温度の変化、時計、テレビなどによって朝を知り、時間を認識する。

しかし、その意識的なトキ(時間)の認識とは別に、私の体とか脳は時間を認識している。それは、さっき書いた光とかでもあるだろう。足に光を当てると、朝だと認識して体が準備を始めるということは、脳がそう命令を出したと言うこと?なのか。すると、私が意識的に使えない脳の部分を使ってそれが行われている、もしくは同じ場所で行われていても私が意識的に考えたり感じたりするのとは違ったプロセスと言うか経路をたどって脳が働いている?と言うことなんでしょうか?
それとも、脳は働いておらず、時を刻む細胞(以前そんなことを聞いたことあるかも)が何らかの指令を出しているのか?うーん、よく分かりません。

人間の体はすごいね。分からないことが一杯です。

October 30, 2003

頭に”ふんわあり”とあるもの

この文章を読んでも、いつも以上に私の言いたいことは分からないでしょう。
なぜなら、私が分かっていないから。

しかし、私は言葉にできないしはっきりしないが、私の頭には思考の外側にそのことがある。
なんとなく自分で分かる。イメージできる。

で、言いたいことは
たとえば、私が24時間後ぐらいにはにベネズエラに行こうとしたら飛行機を乗り継ぎいくことができる。
しかし、実際は私は行かないだろう。ベネズエラにはいないだろう。なぜだろう?

私が意識の中でそう思っていないから。
そう、意思決定しなかったから。
それから、いくための手段を確保していないから。

そりゃそうだ。

しかし、そんなことが言いたいわけではない。
ましてや、機会費用について言いたいわけでもない。

Ghost Marriage

今日は朝まで起きていた(正確には日付変わって昨日)

で、眠い目をこすり大学へ。
二コマの授業で興味深いことを聞いた。

Ghost Marriage

この言葉を聴いたことがありますか?

その授業の教授はアフリカとかの文化の研究をしている人で、アフリカには結構訪れるらしい。
それも、何ヶ月か部族と一緒に生活しているらしい。

この先生からは面白い内容が聞けると思った、が話が下手である。
持っているものは面白いがうまく伝えれていない。

まあ、そんなのどうでもいい。

今日の話題はGhost Marriageです。
この先生がアフリカのどっかの部族には、死体と結婚することがよくあるという。

みなさん、想像できますか?
私はこれを聞いてかなり衝撃を受けた。
まったく自分の脳にない考えというか、死体と結婚ということなんか考えたこともなかったので驚いた。

これは、進行宗教団体が死体を保存しておくのとは違う、共通するものがあるかもしれないが。

なぜ、そのようなGhost Marriageをするのだろう。
これはいろいろ考える材料を与えてくれそうだ。

October 28, 2003

ありがたさ

年をとるとありがたいと思うことがある、
世間知らずだった少年時代は

昨日の自分と今日の自分

細胞が常に死に生まれると言う。
数年で私の細胞はすべて代わるらしい。
しかし私は私のまま。

さらに、成長している、
情報(知識や知恵)は細胞が変わってもあり続ける。
形のないものなのだ。

October 25, 2003

感覚がおかしくなった

私の感覚がおかしくなった。
こういうと、皆さん「どうした?」と思うかもしれない。
(もともと、おかしいぞと言う人がいるかもしれないけど)

というのも(以下の話は私がよく言っていることです)、ここのページを見に来ている人の多くもそうだが、生活するコミュニティが限られている。
限られていると言うのは、いわゆる「みんな頭のイイ集団」の中にいると思う。

中学まではその地域に住んでいる人が誰でも来ている。
だから、さまざまな人がいる。
しかし、高校は入試がありテストの成績で区別される。
その学校には一定の地域で一定のテストのスコアを取った人しかいない。
大学は地域による区別はないがテストによっている。

高校以降はテストによる制約がある。
もう、そんな組織に属して4年半。
汚れとか、しみとかと一緒で徐々にわれわれの感覚もその組織用に染み付いてくる。

さらに、大学に来ていろいろな組織や、人に出会った。
しかし、この出会いも自らが乗り込んだもなどは偏っている。
自分が一番まともに思えるような組織や人にしか出会っていない。
(まともを、何とするかは重要な問題だが。)

で、最近、いわゆる、一般的といわれる組織に行った。
一般的というのは、テストなどによる制約がなく、あらゆる人がいるところ。

そんなところでは、私がおかしく見えるらしい。
どうおかしいかは、彼らには説明しえもらえなかったが・・・

一般的な考えにもたまには振れて、その考えも理解できるようにしよう。
私は社会の中で生きているのだから。

October 24, 2003

実は

今日ちょっと気がつきました。
今日も、数人の面白い奴と知り合ったんですけど。
そのときに気がつきました。

ぱっと見て、一瞬見て自分と会わない、こいつ嫌いだなと思った奴のほうが実はじっくり話すときが合う。
ぱっと見て、気が合うと思った奴のほうが実はあわない。

これは、ぱっと見て気が合いそうな奴は八方美人なやつ。
だから実は気が合わないことが多い。

今日そう思いました。

October 23, 2003

あなたはなぜ?

単刀直入に言うと、あなたはなぜこのページを見ている?

私のページや日記をなぜ見る?

あなたにとってここを見るのは時間の無駄ではないか?
あなたにとってそれはどんな意味があるのか?
なぜ見るのか?
何かしらのメリットがあるのか?
どんなときに見ようと思うのか?
どのくらいのペースで見るのか?
何かしていてこのページをふと思うときはあるのか?
このページを見てどんな思い、考えを膨らませるのか?
どうして、多くの人はそう思ったりしたことを書き残したり、伝えようとしないのか。

そもそも、見ているあなたは私にあったことがあり、直接話したことがあるのか?
よく分からん。

もし、このページにBBSもblogもなくてメールアドレスも書かれていない。
そんなページを私が作っていたとする。
普通に考えれば、それでもくるはずだ。
だって、BBS等に何も書き残したりしないから。

でも、BBSやメールアドレスがなかったらこない可能性もあると思う。
その理由はこうだとはいえないし、分からないがなんとなくそう感じる。


ただの人の心を除き見る喜びから見てるだけとかね!?

(ホームにしてあるとかいったら逝ってよし

特殊部隊

料理人、旅人、思想家(宗教家)、芸術家、学生

この5つの分類に入る人は特殊部隊です。

以上終わり。

ごめん、仙人も入るかも。(爆)

October 22, 2003

人間なんだなと思う

私は人間らしい。

いわゆる人って香具師。

なんでかって、寒くなるこの時期になるとなぜかあったかい紅茶やコーヒーをなんとなく作ってる。
そして飲んでる。あったかい物を飲んだ瞬間に人間と感じるのではなく、作っているときにふと思う。
今年も作ってる。寒いと自然と意識の外で作っている。
性格には人間と感じるのではなく、人間として動物としての感覚が備わっているんだと。
私と言う生き物は生きていたのだ。

雨かYO

雨かYO。
まじテンション下がる。
本気で。

新しいことがよく起こる。
というか、起こしていると言う表現が正しいか。

自分は自分のCEOなので。
うまくやっていこうと思います。

それにしても、人間って考え方違うな。
まあ、十人十色、当たり前だけど。

私はいろいろな考え方と言うか、いろいろな本能の人(求める欲求の違い)がいることを認めているけど、自分と違う考え方(本能)をおかしいとかいって、自分にうそをついているとか勝手に言ってくる人がいる。
それは、おかしいよ。
君たちと私は別な固体なのだから。

あと、人が何してたとか事細かに聞く奴は逝ってよし。
まじ、私はあんたらに私の行動のすべてを教える必要はない。
私が何をしようと私の勝手。

聞いてくる奴は、自分に自信がなくて、心配なのであるとおもう。
それとか、友達といることがすばらしいことみたいに言ってくる奴。
あいつ週末完全に暇らしいよって、別に良いじゃん、そいつの人生だから、お前がとやかく言うことじゃない。友達といてそれだけで安心感を求める奴は逝ってよし。
自分ひとりでいる時間(自分のための時間)がどれほど大切で、その時間がいかに自分を成長させるか、その時間を楽しむことで本当の意味で自分の人生を楽しむことになる。

私はそう思います。

October 19, 2003

情熱大陸

トラブルが起こる。どうしようもないこともなことも起こる。
そんなの起こってもいいんです。

最終的に達成したい唯一のことさえうまく行けば。
それを、持っている人は強い。
ほかのことがどうなろうと、一つのことの成功に命をかける。

トラブルこそが人を強くする。

原因が自分にあったら挫折でも苦労でもない。

日本人で本当にすごい人がいる。
世界で活躍している人、日本で活躍している人。
有名じゃなくても、輝いて楽しんでいる人。
日本って神業を持ったやつが多いな。

そう神業。
立ちはだかる試練は栄養でしかない

抽象性の中の美しさ

あのですね、「視覚と聴覚について」と「抽象性の中の美しさ」について。
今日はソングオブライフという曲のさまざまなバージョンをゲット。
この曲は昔から大好きでした。

でね、ある方法で今日ゲット。
それを聞いて思ったのは、視覚と聴覚(五感すべて)を使って感じるのと、聴覚だけで感じるのは違うと。まあ、当たり前。
同じ曲(バージョンも)でも、テレビで映像ついで見るのとは、こみ上げてくるものが違う。
映像と音が合わさりあうことによって掛け算になってます。
かなり感じるものが違う。
で、本当にきれいな場所とかそれこそ世界遺産のところに言って、頭の中をあの曲が流れると最高。
頭の中で流れていてもかなり耳から入ってくるレベルと同じ。
多分理由は、音は耳から入り脳で信号に変換されて人間が聞いている(理解している?)から、その鼓膜の振動がなくなっただけで、脳の感じ方は一緒?勝手な私の推理です。
で、その場所では風が吹いたり(触覚)、街のにおい(嗅覚)なども感じ取る。
人間の神経をより多く使ったほうがより心地よい。
第6感というものがあるとしたら、それを使ったほうがさらに心地よいのか?
第六感を解明してください。

あとね、私は抽象的なものがすき。
それは、絵も音楽も。
そこには何かほんわかして、未知な部分がある。
音楽でも宗教音楽といわれるものとかが結構好き。
絵に関しても、マドリッドで気づいた。抽象画が好きだと。
マドリッドって世界のトップクラスの美術館がごろごろ転がってる。
で、それをずーーーと見てりゃ自分がなんとなくこんなんが好きかなと言うものに気がつく。
で、それが抽象画。
抽象的なものには何か美しさを感じるね。
抽象的なものには速さ(speed)というか焦っている感じがない。
それもまたいい。
抽象的なものを見ると写実的なものと違い、現実の世界をそのままあらわしていないから、現実逃避ができるから?
そんなにも私は現実の世界に疲れているのか?
なぜかはいまいち分からないけど、抽象的なものには美しさを感じます。
まあ、私の今までの人間形成において抽象的なものを好むようになったのはどのような経験からなのかとも考えたり、遺伝とも思ってみたり。

October 18, 2003

ブルジョワして思うこと

昨日と今日、めったに体験しないブルジョワ体験をしてきました。
そこで、まあいろいろ思いました。
むちゃくちゃ快適。
不便なことはない。
こんな世界もあるのかと思いました。
六本木ヒルズの森美術館にも行きました。

六本木ヒルズにあるグランドハイアット東京に行きました。
部屋はかなり広い、風呂はでかい。
設備は新しく、かなりこった家具やインテリア。
風呂の水量はいくらでも出せる、アンド風呂がハーブの匂い。
ミスとシャワーもあったし。
トイレの水は音がむちゃくちゃ静かに流れる。
洗面所にも液晶テレビが。
クローゼットは開けると電気がつく・・・
ベッドもすごく寝やすい。
フロントでアンバサダーという声が、私は、えっ大使?と思い振り向くと、前の駐米大使、柳井元駐米大使を発見、さらに外国の大使らしき人も。
ターンダウンとか言うことをしてくれたり、朝、アールグレイが届いたり。
まあ、一泊一人4万6000円の部屋だから。
これでも、このホテルで最も安い部屋らしい。

確かに、快適で満足。楽。
でも、私は金やステータスのようなものにあまり興味がないというか、金や地位に興味がないというか。
あまり、そういったことに重きを置かないんだなと思います。
それで、欲求が心の底から満たされるわけではない。
それよりも、ボロ宿の狭い部屋でちょっとビクビクしながら寝れない夜のほうが好きかも。
安心して、楽なのも必要だがスリルがあって、なにが起こるかわからない。それがそそる。
別に金があってもこういうところには泊まらないだろう。
それに、ブランドの名前を前面に出した物をを持ってアピールすることもないだろう。
私は、そういったことにまったく興味がないみたいだ。
あらためて、実感した。

October 16, 2003

遊ぶ?楽しむ?

これに尽きます。
何でも、楽しんじゃいます。
やぱーり、私は自分勝手かもしれません。
しかし、楽しいことにしか人間力を発揮しません。

アフォなことをすることが大好きだ。
その、奥にある心理は何だろう。
アフォなことをするとなぜか面白い。
別に人に見られていなくても、自分だけでありえないアフォなことをして喜ぶ。
一般にこういう人間を変態というのか?
まあ、いい。

October 11, 2003

腹のそこから

心のそこから。bottom of my heart.

どんなことでも、心の底からが重要だよな。

心の底から、何の疑いも無く、何の邪魔も無く、なんの邪念も無く、感動できたり、尊敬できたり、旨いと思えたり、美しいと思えたり、信じてそれにすべてをかけたり、かっこいいと思えたり、楽しめたり、つらい事にぶち当たったり、大きな困難に遭遇したり。

そうすれば、何か感じるものがある。最高のものに出会える気がする。たとえそれが勘違いでも、間違っていても信じたなら中途半端ではいけない、限界まで、極限までやってみないと。

振り子の理論だ。マイナスにマックスまで振れるやつは、プラスにもマックスまで振れる可能性がある。

キーフレーズ

今日、情熱大陸を見て再認識した。
キーフレーズの持つ意味の大きさ。
「冒険する胃袋」、「情熱は発酵し伝染する」「60を過ぎ人生の発酵時間が終わりここから熟成に入るのだ」
・・・などなど

今回は東京農業大学の発酵学者、小泉武夫。
世界中の珍しいものを食べまくっている人だ。それを「食の冒険家」と表す。
この前に、冒険家の植村直美さんに大学生のときにあこがれたと言う前置きがあった。
旨い表現だ。

こういう、最も伝えたいことをわかりやすく・的確に表現できるといいな。

生理描写をしろと、言葉では表せないは逃げだ。
だめだったら、私が昔作ったみたいに自分で言葉を作ればいい。