昔よくいたとされる鼻たれ小僧は天才だったと思います。
鼻たれ小僧って、鼻水が出てくると洋服の袖で拭くじゃないですか。
そんなイメージ。
彼らは経験からすごいことを学んでいたんです。彼らは鼻水を服でふき取るだけで、鼻をかんでいないのです。ここが大きなポイント。
鼻をかむと、連鎖的に鼻水が出てきて、永遠に鼻水が止まらないような状況に陥ることがほとんどです。鼻の奥を刺激して、鼻水がどんどん出てくるのでしょうか?まあ、鼻をかむと連続的に鼻水が出てくるというのは、この私の体で実証済みです。
で、鼻をかまずにがまんしたり、ふき取る程度にすると、鼻水がだらだら出て困るということはありません。鼻たれ小僧はこれを経験的に知っていて、鼻を拭いていたのかも。
花粉症が気合で治る理論はこれと通じるものがある。外に出ていると、常に鼻をかんでばかりいるわけにはいかない。だから、鼻をあまりかめない。音を立てて鼻をかめない状況だと鼻を拭く程度。すると、鼻水がだらだらはあまりない。しかし、家に帰ると、鼻をかみ放題だから、悪循環で鼻水だらだら。で、気合がどう絡んでくるかというと、外部にいるときは気が引き締まっている、すなわち気合が入っている状況にある。で、外にいるときは花粉が多いはずなのに、家にいるときに比べ鼻水だらだら度が低いから気合で止まっているのかなと思っていた。しかし、まあ、これは鼻たれ小僧理論だったわけだ。やはり気合ではなかったのか。
やっぱり空はきれいだった。
あの青と、雲の透明感。
ヤフーのトップページからとんだら、こんなページがあった。くもの種類とか書いてあると小学生のときに理科の授業で覚えたことを思い出す。まあ、ほとんど記憶に残っていないのだが、今改めてみるのもいいもんだ。
http://event.yahoo.co.jp/eco2005/sky/index.html
ここに私が取った、日本や世界の「いろんな顔した空」があります。
栗田工業なる会社はやっぱりいい。
以前にもこの会社のCMに関してエントリーしたことがあるが、今回のウェブもいい。aqualoginって言うらしい。
こうやって、会社名を入れるとその会社の広報部の人は未来検索とかで見ているのかな?
ふと思った。思い出した。
俺って、何かを良く記憶するときは曖昧記憶法を利用していた。記憶したいと思って熱心に繰り返し書いたりしても意外と忘れてしまう。しかし、なんとなく読むと覚えていることが多い。なんとなく記憶法ともいう。昔の勉強を思い出しても、公式とかを暗記した記憶がない。はじめは、その公式の意味をおおざっぱに理解する。そのあと、公式をさらっと眺めて終わり。公式を語呂合わせとかして覚えたことはほとんどない。なんとなーく、さらっとよんだほうが覚えている。明確に覚えているとはいえないのだが、ぼんやりと覚えている。ぼんやりとしぶとく覚えているのだ。なぜだろう。でも、これは事実でこっちのほうが記憶しやすかったから、なんとなく記憶法をよく利用していた。昔から、なんとなく記憶法をやっていたので感覚で物事をとらえるようになったのだろうか。
って、考えていたら、これの起源は小学生にさかのぼると思う。それも、学ぶスタイルに起因している気がするのだ。特に小学校の学びスタイル。教育ママとか小学生のときから塾に言っている人は除くが、普通の小学生は学校での学びスタイルによって人生変わる。人生変わるってのは、その時の学びスタイルが、その人の思考方法そのものになってきて人生が定義付けられるようになるのだ。今思い出せば、私は自分勝手な勉強していた。自由ノートなるものがあって、何を学んでも良かった。鳥のことを学んだと思えば、飛行機のこと、魚のこと、農業のこと、算数、自分でやりたいと思ったことをやっていた。この勉強方法はそうとう影響ある。今のなんでも興味がある正確はここから来ているのだろう。あと、制約をあまり踏まえない自分勝手なくらい自由な発想は。それに、日経とか小学生のころから読んでいたから、ニュースとかは今でも好きだし、そんなこと話すの好きなんだろう。前も、小学生のときに人生の大半が決まって、小学生までの生活を見ればその人の将来の大枠は分かると書いた記憶があるが、そんな気がする。
世の中には「あるようでないもの、ないようであるもの」が多い気がします。
あると思い込んでいただけで、実はなかった。
ないだろうとなんとなく思っていたのに、よーく考えると実際はあるもの。
じゃあ、具体的に何かって、前者は「意識」に関するものが多そう。すなわち、夢とか、何かの理由、とか。
後者は、物質的なもので日常に使わないもの。
まあ、それ以外にもあるんだけど。それ以外のものの方が重要なわけで。何で重要かって、何か今思い浮かばないから重要なんです。「あるようでないもの、ないようであるもの」なんだから、どっちにしろ自分では明確に認識していないんですからね。
思うとか、感じるの中間の意味を表すような言葉ってないですか?
これでは現せない領域があるんですけど。
国内16頭目のBSE、北海道で見つかったらしい!!
大変なニュースだ、みんな危険だ牛を食うのを控えよう。
国産牛はとりあえずヤバイ、外国の牛肉がいいんじゃないのか!!
って、お前いまさら何を言ってるんだ。といわれそう。
そんなニュース、まったく大きく取り扱われてないぞ。そんなもの知らないぞといわれるかもしれない。
一頭目が見つかったときの危険性と、16頭目本質的なリスクは変わっていないんじゃないのか?
ただ、ニュース性がなくなっただけだろ。それに、同じニュースで前に聴いたことあるから何も感じないだけだろ。
一頭目が見つかったときは大変なニュースにもなったし、国民も危険だとかどうのこうの騒いでいたのに。本質的な意味において、危険なんだったら今でも騒ぐべきであるのだ。
一頭目であんなにも騒ぐべきではないのだ。一頭目に見つかったときにもっと冷静に分析して判断するべきなんだろう。たぶん、16頭目が見つかったときのことを考えても、本当に騒ぐほど大変な事態だったら騒いで見るとか、そういう思考過程があっていいんだろうな。
まあ、それだけじゃ、だめなときがあるけどね。直感のリスク判断能力ってのもすごいもんだから。
世界遺産を見ていた。
ベルリンをやっていて、空中から都市を撮影している映像の裏でソングオブライフが流れていた。
これを見て、実にいいな。いい。と思っていたのだが、ふと思う。いつものように、ふと思う。一人のときにしかこの感覚はない。人といるとこの、ふと思うことはほとんどないと思う。これもなぜだろう、書いていて不思議になった。これも今度考えるか。
純粋に、私は一人の時間が重要だとかよく言っているし、人に自分の生活を詮索されるのは嫌いだ、俺は俺ほかっとけ、俺がお前に何もしないから、お前も何もするなという考え方だ。まあ、一人が好きで、落ち着く。完全な精神的自由がそこにある。そのような脳がリラックスしている状態でしか、ふと思う脳の部分は働かないのだろうか。
まあ、それはいいとして、なぜ、のっぺらぼうを望むのか?といことだ。上空からベルリンを見た映像は、人間の目線から撮影した町と比べれば、平面だ。で、この前、グライダーからの眺めがいいなと思った。これも、比較的平面というかのっぺらぼうなかんじ。まあ、これだけだと、普段見ない高い始点から見るという珍しさを良いと感じているともいえる。しかし、普段見ない高いところからの視点だけではないと思った。なぜならウユニ塩湖がいいと思ったのだ。ここも、何もない一面塩だ。あと、モンゴルの草原も、海を見るのも好きだ。モロッコのカスバから見た大西洋とか、ロカ岬からみた海とか、ただ単に空を見上げるのも大好きだ。星とか見るのも好きだし。
なんか、平面が好きな気がする。平面等言うかあまりごてごてしていない、なんか、一面さあっーとなっている感じだな。
で、問題はなんでそれを見るといいと感じるのか。いつから感じるようになったのか。
まあ、いいものは言いと感じるんだから、それ以上の理由をああだこうだ言っても意味がない。いいとおもうもの説明するってのは、ただ単にみんなに理解してもらうためだけに後付の理由がおおい。いいと思った本質とは違う。でも、なんでだろう。
一面平面であるということ、特に私が良いと感じるのはかなりスケールがでかい。一面さあっーと同じようなものが続いている状態だ。だから、でかいもの永遠に続くようなものが好き、かつでこぼこしていないものが好きといえるのかもしれない。
で、なんでだ。なんでだ。普段見ていないもの、珍しいものを見たいというのがあるんだろう。それは、いろいろなものにいえる。だから、平面がすきという固有な理由にはならない。
なんだ、なんだ、わからんな。
福島智
東京大学先端科学研究センター助教授
目も見えなくて、耳も聞こえないらしい(盲ろう者)。世界でも盲ろう者で大学の先生はいないらしい。
目も耳も聞こえない人の世界とはどうなんだろう?
言葉とかってどんな感じを持っているんだろう。というか、言葉の位置づけってどんなんだろう?
自分がしゃべっている実感はあまりないらしい。のどが震えるのと体が震えるのでなんとなく分かるらしい。
やれば出来るといっていたが、まさにそうなんだろうな。
私は障害者である、
普通の人間と同じ人間である。
しかし、両社を異なると思う意識を貫く何かを、
見抜かねばならない。
明るくないと生きていけない
面白くないと生きる意味がない
自分の経験とか体験だけで決め付けるんじゃなくて、
教科書の中だけで決め付けるんじゃなくて、
世の中にはいろんな人がいるよって言うことを伝えたい。
ただそれだけ。
純粋にこの人すげぇ。
細かいことなんかどうでもよくって、純粋に盲ろう者が自立できるようにしたいってのと、世の中にはいろいろなことがいることをみんなに理解して欲しいって思ってるんだろうな。
なんか、それがいいこととか悪いこととか、必要とされてるとかされてないとか、そんなことじゃないんだろうな。この人の見ている世界は、生き抜いている世界は。
少し走った。
すると、いつの間にか顔は空を見ていた。
そこにあった空は、あの空だった。
青かった。
そして雲は空を飲み込むような勢いと白さを持っていた。
気分がよろしくないと言うか、少しテンション下がったときにDesperadoを聞くとじっくりいっちょやってみるかと思います。
タイトルからして、非常に危険ですが、実際にそう思ったので。。。
結論からいうと、一見どうでもいい奴はどうでもよくなくて、私にとって非常に重要な人ということです。
どーでもいいヤツをてきとうにあしらうということは自分にとって大きな価値があると思うのです。特に、私の場合はそうだと思うのです。私はしゃべりながら考えるタイプだから。とかそんなような理由があります。
どうでもいい人にたいして話すときは、自分が情熱的にならない。自分が興奮して話すことがないのです。だから、冷静に話しています。情熱的に話すと周りが見えなくなってしまうと思うのです。
で、てきとうにあしらうんだけど、間違っていたり隙があると突っ込まれるから客観的な事実を並べて常識をもとに論理的に話す。すると、突っ込まれないしさっさと話を終えることが出来る。
これが大きな意味を持っている。 自分では真剣にそう思っていなかったり、てきとーにしか思っていないこと、今まで考えてもいなかったこと、そういう発言だ。だが、客観的な事実を元に論理的に冷静に脳を働かせて発言しているので、普段自分が行わない作業である。だから、自分にとって価値があるし、けっこうあたることが多い。将来予測とかあたる。
心の底から思っていない発言だが冷静だけあってあたるのだ。 こういう発言をするときはボイスレコーダーでとるといいんだろうな。
もし、このブログを今日やめたらどうなるだろう?
もし、このブログを売却できないだろうか?
もし、このブログをデザイン変更したらどうだろう?
もし、このブログをアラビア語で書いたらどうだろう?
もし、このブログを私以外の人が書いているとしたらどうだろうか?
「もし、このブログを私以外の人が書いているとしたらどうだろうか?」
読んでいる人はどんな反応をするのだろう。
このブログを書いている奴が”この私”だと思ってよんでいる人、それは実際に”この私”に会ったことがある人だと思おう。そして、その会ったことある人は”この私”が書いていると思って読んでいる。私にあったときの印象や人間性などを踏まえた読んでいる。そして、再びあったときはこのブログの情報が”この私”と言う人間に付加されたという前提で話をする。その繰り返しで、私という人間像が造られていっていると思う。
それは、ブログと実際にあって話すことに整合性があったりするから、ブログを書いている”この私”と実際の私を同じ人物として疑うことなく思っているのだろう。実際の私もこのブログを読んで話をあわせているだけかもしれない。
実際の私とブログを書いている”この私”が違ったとしたらどうだろう?どのような印象を受けるのだろう?
とか、思ってみました。まあ、実際は同一人物だからどうでもいいんだけど。
心のそこからインターネットをスゴイと感じる時というのは、何の変哲もない(有名でない)一般人がインターネットの先っぽにいると感じたときです。
私が、インターネットをすごいと感じるときはもちろん新しく面白いサービスがリリースされたり、この技術がこうやって使われるとすごい面白くなるんじゃないかと考えたりするときもあります。
でも、心のそこからネットってすげーと思うのは、インターネットを介して、何らかの共通することを通じて普通の人とつながったときではないのかと思いました。そいで、なんか助けてくれたり、同じ感動を共有できたりするといいんだよね。
旅先三日目
http://www.teratown.com/blog/archives/001466.html
http://www.teratown.com/blog/archives/001457.html
W31K
http://www.teratown.com/blog/archives/001449.html
これらを通して思ったわけです。はい。
先日某氏と「私」とはどこまでか、極限的に何を指しているのか、って話しているのは面白かったです。私は、哲学史の知識がないんですけど、それだから自分の考えが自分にも面白くうつりました。
先日、かいた角田光代さんの記事。
旅先三日目という作品が究極に良かった。のですが、メモり切れなかった。それで、日曜日からネットにつなぐたびに探していた。すると、見つかりました。さすがネット。
角田さんのオーラと私というテーマの作品です。結局自分にはオーラがないのが当たり前だと思った層です。
以下引用。
旅先三日目
旅に出る。見知らぬ町に着く。
幾度も迷いながら歩き回り、
だいたい三日目に、自分が、まるごと
その町に溶け込んでしまったような
錯覚を抱く。
体が急に軽くなる。
仕事も名前も年齢も
私は、なんにも、持ち得ない
持っていたとしてもここでは
まったくの無用だと気づく
それはちっともさみしいことではなくて、
むしろすがすがしい気分である。
旅から帰ってくると、つい、
何かもっているような気になってしまう。
仕事、家、友、約束、銀行口座、名前、年齢。
実際私たちはそうしたものを背負って
日々よろよろと暮らしていて、
ひとつでも失うとなんとはなしに不安になる。
けれど実際のところ、本当には、
私はなんにも持っていないんじゃないか。
持っている気になっているものはすべては、
思いこみとか、一時的に預かっている
何かなんじゃないか。
そのことを忘れそうになると、
私はいつもあわてて旅に出る。
旅先三日目のあの
空っぽな気分を思い出すために。
角田光代
前も書いたと思うけど、なんとなく気になることをエントリーして、アドセンスの広告もそのページにはっつけておくとなかなか面白い広告が張られることがある。広告を貼り付ける側も、キーワードとか考えているからね、マッチングするんだろう。面白いな。
で、docksonというサービス。写真を撮った人が写真を登録して、写真を買いたい人が変えるという仕組み。そんでもって、写真をとった人にはお金が落ちるシステム。
ネットでは良くあるビジネスモデルだが、知らなかったし、直感的に写真を登録したいと思った。なんか、いいんじゃない。もちろんただで探せばいくらでもあるのだが、安い金で、ある程度の質のものが、どんなジャンルでも大量にあるという状態、かつ宣伝がうまくいってデファクトをとれば、みんな使うようになるんだろうな。がんばって写真を探してただで引っ張ってくるほうが、時間もかかるしめんどくさいということになって。
まあ、こういうサービスががんばってくれることによってネット上の著作権問題なんかは自然に改善されていくのだろう。
ネット時代は個対多が容易に可能な時代だから、副業が本当に多くなるんだろうな。
忙しいとき、しなければならないことがある時って、ほかの事をしたくなったりする。それに、ほかの事の良いアイディアが大量に思いついたりする。
熱中していること意外の頭が無茶苦茶さえる。しかし、普通はこれは邪魔者扱いされる。そして、いかにこの邪念を排除して、mustなことに熱中するかを考える。
勉強を例に取れば分かる。試験の前になると、他のことがやりたくて仕方がなくなる。試験が終わったら、あれをやりたいこれをやりたいと。でも、テストをクリアしないといけないので、部屋の遊び道具を片付けたり、ファミレスで勉強する。
しかしだ、せっかくさえた発想をしたなら、それを活かさないのはもったいない。だって、あれやりたい、これやりたいってテスト中に思っても、テスト後に忘れて時間をもてあますことが多い。じゃあ、メモすりゃいいじゃん。メモ。
俺もそうしよう。これだめだ、ともったり。やりたいけれども、今はやる時期じゃないとか思ったら、メモしたり、せっかくなんだからそれについて考えちゃおう。
イメージ(≒シュミレーション)とメモ(文字でも絵でも書き残す)これがポイントですな。
先日、ジュニアNHKスペシャルで体で覚えると言うことをやっていた。
小脳と脳のどっかが関係しているらしい。そんで、失敗したら電気信号を拒否するから記憶に残らず、成功したときだけ、電気信号を受け入れ記憶に残るとか言っていた。
で、体で覚えると、長期間立っても忘れないジャン。なんでだ?と思っていたら、今日、テレビ東京のサイエンスロマンSP最新科学が解き明かす“天才の脳”の真実!!〜人類の果てなき夢が生んだ…奇跡の物語〜 でやっていた。
小脳は一度記憶したことをほとんど忘れることがないらしい。
これが、答えみたいです。
でも、何でだ?体で覚える、ってのは手とか体とかなんかそういうものを使ったときに、小脳が働くみたいなことをいっていたんだけど、じゃあ、手を動かしたことでも忘れることがあるんだけどな。なんでだろう。その小脳が働くか働かないかの違いは何だろう。それとも小脳は働くけど忘れるのか忘れないのかの違いは何なのだろう?
それにしても、脳って不思議でたまらんよな。
私たちの世代までは、手で書くということを通して学んできた。しかし、最近育っている子供は小さい頃から、PCで入力しているから、PCでも不便なく算数できるようになるみたいな話を聞く。
まあ、手書きのほうが書く自由度があるとかいう話は置いておく。
大人にもこれが当てはまるのかなと思ってみる。まあ、慣れている人は、慣れているのだから当てはまる。
手書きをした時間をPCで打つ時間が超えたぐらいで、PCのほうが打ちやすくなるとか?まあ、子供の頃のほうが影響が大きいから一概にはいえないなぁ。
人間の細胞はどんどん変わる。私は数年前の私とまったく違う細胞だと聞く。すなわち私は私でない。のだが、私は私なはずである。脳の記憶などから勘案すると。
まあ、寝たら新しい人間に毎回変わっているかもしれないがそれを肯定することも否定することも出来ない。出来ないと言うか、わからない。
で、さっきエントリーした情熱大陸での角田光代さんの行動をみてふと不思議に思った。
彼女は最近の直木賞をとった作品のアイディアノートを見せるのは恥ずかしいと言った。しかし、幼稚園の頃の作文は躊躇することなく見せた。別に、どってことないことかもしれないが、不思議におもってしまったのだ。
過去の自分は自分じゃなくなっているのだろうか。と思ったのだ。
作文と言う完成品と、アイデアノートという未完成品という大きな違いがあって、そこが躊躇したかしないかの最大のポイントである可能性は、ちょっと横に置いておいて考える。
どちらも自分が生み出したものである。大きく異なるのは書いた時期なのである。30年ぐらい前のものは躊躇せず見せた。しかし、この1年ぐらいに書いたアイデアノートは躊躇した。
アイデアノートは自分なのである。だから、自分が見られるのは恥ずかしいから躊躇した。しかし、30年前の作文は自分じゃないのである。自分が生み出したものであるが、自分の中に明確な記憶がないので、連続した自分ではない。明確に今の自分と30年前の自分は断絶されている。さらに、記憶にあるないという次元を超えて、過去の自分は今の自分とは関連性がない(非常に薄い)ものだという意識を持っている。いつの間にか持ってしまった。それが、どのくらいの期間で、そういう意識を持つかはその時々だろう。まあ、いずれにしろ、意識の中で過去の自分は自分ではなくなったので恥ずかしくないのではないかな。と思った。
何らかの理由でリアリティがなくなった時点で、自分じゃなくなっている。大雑把に言えば時間がそうさせたんですよ。理由は記憶かもしれないし、その時の脳細胞が全て変わったのかもしれないし、なんかは知らないが。
ヤフーのトップページにある、バイク特集みたいなとこから飛んでいったら国井律子さんって人のページへ行った。この人のページを見ていたら、なんか人生をむっちゃ楽しんでそうだった。やっていることか、考えていることがかなりいい感じで、かなり気に入った。
http://kuniritsu.com/index.htm
で、そこからまたジャンプして、photobackなるページへ行った。これは、自分の撮った写真を写真集というか写真冊子に出来るページだ。多少編集できたりもする。それもウェブ上で出来る。けっこうおもしろい。さらに、1冊から作れて、送料込みで2500円ぐらいから作れる。
作りたくなった。大学時代にいろいろなところへ行ったときにとりためた写真を編集して世界で一冊だけの写真集でも作ろうかな。大学時代が一冊に閉じ込める。みたいな。
脳内っていう何でも書きまくっているノート
ブログ
いろいろなところでとった写真
旅行先で書いた日記
自分の宝ものです。その中に写真冊子も入るかな。
角田光代さん。
直木賞をとった人らしい。
彼女が、今週の情熱大陸。
見る前は、正直つまらないんだろうと勝手に想像していた。
番組を見てパンチ食らった。マジで食らった。
彼女の作品はよんだことがないから、私が好きかどうかは分からない。
だが、番組で話していたことや旅先3日目という、自分とオーラについて書いたエッセイはたまらなく良かった。本当に、マジで、いいよ。旅先3日目とかほんとにいいは。彼女のエッセイでも読んでみよう。
一人で旅に出たり、旅じゃなくても、ふらっと出て行く人。
ツアーとか群れて行くこともあるけど、メインはひとり。
そんな人。なんか好きだ。だいたい、あてはまるな。
「書き続けるために、書かない生活を守る。」って重要ですね。
自分でコントロールできる人はすごいなぁ。
旅では一期一会、二度と会わないから気持ちよく別かれたりする。日常生活でも旅のような印象を持っている。だったら、日々も気持ちよく通り過ぎたほうがいい。
彼女が通っているボクシングジムの輪島さんが「同じことを繰り返す事をやる人間と嫌う人間では、大きな差が出てくる」といっていた。確かにそう思います。肝に銘じておきます。
旅先三日目
大体三日目に、その町に溶け込んでしまった印象をもつ。体が軽くなる。仕事も名前も何も持っていない。無用だと気づく。それは寂しいことではなく、すがすがしいこと。
旅から帰ってくると何か持っているような気がする。名前や、年齢、地位、そうしたものを背負っていて、一つでも失うと不安になる。けれども、それらは自分で思っているだけで、実は何も持っていないんじゃないか。そのことを忘れそうになると旅に出ようとする。
こんなような内容だった。でも、もっと良かった。数段と良かった。どっかのブログに全文ないかなー。
毎日一人、旅人になる。
素人が素人でなくなる時代という表現が良いのか、素人が一瞬で有名になっちゃったり、プロっぽいこと出来る時代と言うのか。
まあ、ネットの時代、個から社会にインパクトを与えられる時代だなと再び思ってみたり。
ワトソン・ワイアット 淡輪 敬三社長
・日本に一番インパクトを与えるの人は経営者
・強い現場×強い経営
・ボトムアップの経営者では次の世界を作り出せない。
・未経験也のリスクを持って、怪我をして成長する。未経験だからイノベーションを起こせる
・日本のビジネススタイルは法律に起因する。判例法のためグレーゾーンが多い。
・ソニーの経営が一般的ビジネスエリートのアメリカ人で経営して成功したら、日本企業をアメリカ人が経営できると認識され、外資が株価が安い企業をTOBしてアメリカ人の経営者を送り込むだろう。そうすると、株高くなる。
・自問自答の経営(経営をまじめに考える、行動の裏にある考えやビジョンを考える)
・将来なりたい姿がビビッドに描かれていて、それを心のそこからやりたいと思うこと。→その中には挑戦があり、成功したら一気に成功できる
・組織には「火」がないとだめ。→活気、エネルギーのある会社。火をつけるのが経営者の仕事
・枠組みの変更を行うには、ボトムアップ経営者では無理
・アメリカではトップが仕切って決めて、リスクをとる。だから、給料が高いし、監視としての社外取締役がいる。
・「なんのために」を深く深く考える
・「誉(存在意義そのもの)」があれば人が集まる。
・「志」が高ければ、顧客を感動させられる
・問題解決の思考p路背巣は基本的にどんな仕事でも同じ。
1現状を率直に、深く構造的に捉える。
2ヘリコプター型タイムマシーンで未来を考える(仮説) 俯瞰する&5年後をリアルにイメージする
3今と未来をつなぐ経路の分岐点(成功するか田舎の最大のボトルネック、ターニングポイント)を定め、そこに集中して行動する。
・ディテールを知り、背景を見て考え、未来を構想する
・具象と抽象を行ったりきたりする訓練を積み重ね、思考の生産性を高める
・プロ=プロ根性 誰が顧客なのかと言う意識を持つ
→顧客には決して言い訳をしない。期限内に最高のものを提供する。
→自律、みずかわをモティベーと出来る
・一流の条件 経営視点、場数=修羅場、課題解決 市場価値がつく
ポテンシャル=地アタマ×素直さ(素直に学ぶ)×価値観(こだわり、自分なりの軸)
メンタルセット ROAのASEET思考 自分のアセットをどう増やすか
・What's your Value?(組織で、行動で常に自分に問いかける)
・自信の変革シナリオを常に検証し、修正する
・組織と個人のwin-winの状態を作り出す。ゴール(利益)の方向性を同じにする
・周りの仲間に徹底的に自分をディスクローズ
・フラットなネットワークを活かす
・「おごり」が成長を止める。謙虚たれ
・「みきる」soul searchを続けても理想はない。理想はないからこそ理想なのである。納得したら、理想を追い続けるのをやめて、こうだと決めて行動する。
・客観視して、自分が何者かを見極める。自我の確立
・「経験から生まれる志」
レーサムリサーチ 田中剛社長
金の奴隷・・・借金を踏み倒してでもベンツに乗る人
金の支配者・・・・連帯保証人になってしまい、それでも必死でお金を返す人(自分のプライドが金に勝っている)
リスクマネジメント大嫌い。ある業務を一人でやっていると、その人に何かあったら、業務が回らなくなる。だから、リスクヘッジとして、その業務にもう一人あてがう。しかし、こんなことされたら、やる気や当事者意識がなくなる。だから、リスクマネジメントは嫌い。
ハーバード卒と中卒の人が一緒に働ける環境を作りたい。機会は平等にあり、それぞれの能力を発揮できる会社。
誰よりも先に、誰もやったことないものに投資をする。
社長になれば自分の思っていることを一番自由に出来ると思っていたが、周囲からの規制や制度など一番制約があるやりたいことができない仕事だ。
出来る出来ないではなく、やりたいかやりたくないか
価値が見出されていない資産の流動化(価値向上)
自分がホンキでよいと思ったものしか、人に薦められない。自分がマジになれないと、客にも伝わらない。
知らなきゃ、やってみなきゃビジネスチャンスは見えてこない。(経験から生まれるもの)
どんなことでもいいから、何か始める前にやっておくこと。
・やり始めることに対する自分のイメージや、考えている問題点、なんでもいいからメモしておく
・感性豊かでかつ分析能力のあると自分が信頼できる人をおく。それは、何か物事を始める前の自分を知っている人に限る。かつ、その物事(プロジェクトなど)に直接および間接的にかかわらない人に限る
そして、一番忙しくなって周りが見えないときに見る。それと、その信頼できる人にコメントをもらう。
タイトルとまったく違うことを書きます。
コメントスパム。相変わらず嵐のようにやってくるコメントスパム。ある程度たまったら、消しているけど、消す気がなくなるほど多い。それに、コメント書く気がなくなるであろうとも思う。まあ、仕方ない。
まあ、それはいい。コメントスパムなんですけど、意外といいんですよ。何がいいってね。コメントスパムの意味を考えてくださいよ。コメントを打ちまくって、RECENT COMMENTSのところに表示させて、本文のページへ飛んで、コメントのところから自分のサイトへクリック誘導することでしょ。そうそう、RECENT COMMENTSのところに表示させて、本文のページへ飛ぶ。ここで終わるとすごいメリットがある。私はエントリーしまくっているので、昔の記事を読もうと思っても、はじめから読むのも面倒だし、あえてランダムに読むに気もならないけど、コメントスパムがあればそのエントリーを読むきっかけになる。そして昔に書いた文章を読めるのです。ああ、やっぱり俺ってこうやって思っているんだなと納得したり。けっこう面白いです。
物事はとらえようだなぁ。本当につくづく思う。
天邪鬼道か不器用なまっすぐな人間か。
この両者は違うキャラクターのように感じるかもしれないけど、持っている要素は似ている感じがする。
あと、価値観が同じと言うか、物事の捉え方およびそれに伴う単語(言葉)の意味が共有できる人はいいねぇ。マジで。
私の物事に対する感じ方は人とはちょっと違うみたいで、理解されない場合がある。それを共有できる人はいいね。まあ、そういう人は社会からちょっと外れた、でも自分に正直すぎる人なんだよな。
やっぱり、ブランドとか金とかだけには興味がいかない。もっとワクワクすることやワクワクする人のほうが断然プライオリティ高い。じゃあ、何にワクワクして、そのワクワクさせる源は何かと考えると難しい。そこのところ考えてみるか。
また、CMの音楽かよって。
そうです。
京セラのW31K とW21KのBGMが良い。そして、どんな曲なのかを探していたら、分かりました。
W31KのCMは「COME BABY」という曲で 「Q ft.アマドリ&SCLL (キューフィーチャリング.アマドリ&エスシーエルエル)」が歌っているらしいです。
W21KもQ ft. アマドリみたいです。
この曲って売ってないし、ネットからもゲットできない。。。何とかして欲しいものです。
方法はないですかね。
原理主義的で、感覚的にこれだと思うときと、
批判的なときがある。
これだとおもうと、いつの間にか、行動している。本当にやりたいことはいいわけとかしなくて、やっちゃう正確なんだな。
私は、けっこう温厚なほうだと思う。でも、嫌いなものは嫌いだ。絶対に嫌いだ。それを聞くだけでも、自分の近くにあるだけでも嫌いだ。
理想はないからこそ理想なのである。ある程度でみきることも重要
初めて聞いたからこそ感じる心地よさ、
何度も聞いているから感じる心地よさ、
音楽に限らず、そう感じることがある。
心地よいといっても、違うものに、違う心の反応が起こっているのだろう。
同じ音楽と言うものでも、心地よいと感じる理由は違うのだろう。
それに、音楽って何度も聴いたことある曲だとさびを聴くだけで全部を聞いたぐらいの効用があるときがある。それは、脳がイメージしているからで、それが心地よいのだろう。
あと、2倍速で聞いたら心地よさは少なくなるんだけど、倍速で心地よさを感じれないのは、そのリズムだからこそ感じるからなんだろうな。
高校2年の頃だろうか。4年ぐらい前かな。
この日、情熱大陸で、松井 龍哉 さんをみて一人でワクワクしていた記憶がある。そして、メールを送って返信をいただいた。
そして、ROBODEXでは、直接お会いすることも出来た。PINOとかデザインした方です。
そんな松井 龍哉さん、何気なく情熱大陸の過去データを見ていたら、思い出した。そして、ググッタら、いろいろインタビュー記事が出てきた。それをよんでいると、すげー共感すると言うか、しっくり来る。やっぱり、おれが、これだと思う核は変わっていないのだろう。
ああ、なんか今日はワクワクすることが多い。
こんなことが書かれていた。
今も僕、バックは肩から下げるやつ。要するに両方の手は、物を創るために空けてある。
物を創る人は、本質を知っている
それに、デザイナーの基本というのは、現場に足を踏み入れた瞬間、平行・垂直・水平をわからないといけないんですよね。ものが曲がっているかどうかを一発で指摘できないと職人さんになめられるんですね。
平行・垂直・水平を瞬時に判断するためには、常にその訓練をやっておかないといけないんです。だから机の上にものを置くときは、90度で置く。自分のやりたいことというのは、生活のバックグラウンドがないとできないんですよね。ほんとにすべてが生活ですものね。
長い間の知り合いには、俺という人間はある固定的な見方をされる。
俺は、こういう奴だとか。
それが、生きるうえで制約になりかねない。その期待にこたえるように。行動を期待されると言うことだ。まあ、っそれが、社会一般で言う世渡り上手の人が出来ることなんだろう。みんなからの人気者なんだろう。
ま、そう生きるか、そんな相手の見る、想像する俺なんか無視して、生きるか。それは個人の自由なわけである。
おれは、そんな他人の見方はどうでもいいと思っているが、完全にそうとはいかない。まんま。まんまをあらわせれるようになったら、個人的に一番楽(らく)で楽しいだろうな。
で、ジミー大西先生がすげーいいこと言ってる。
期待へのプレッシャーは?と言う質問に対して。
そんなことはどうでもいいんですよ。
僕にしてみたら
新しいものが出来ていくほど
僕はうれしいことはない
ジミー大西
テレビつけてたら、何か耳に心地よく入ってきたCMがあった。以前も少し気になっていたCM。
横浜タイヤのCMだ。
http://www.yokohamatire.jp/yrc/japan/library/tvcm/
これは、デンマークの海洋風力発電の映像が出ているのと、砂漠の一本道が出ている。この映像もなかなかいいもんだ。そんで、BGMもなかなかよかった。
「地に足付け 頭雲抜け 進む前に前に前に」
歌詞の一部。なかなかうまいこと言った歌詞ですなぁ。
ので、早速聞いています。もちろん一極連続リピート。
Def Tech / My Way
僕は、しぶとい。
そう思う。
スポーツをやっていたわけではないが、小学校の文集のクラスのページのランキングでは長生きする人で常にランクインしていた。それくらいしぶとい、ウザイ奴と小学生の頃も周りから見られていたのだろう。笑
そういえば、小学校6年生の文集のクラスページを何にするかの学級会で、先生が子供に質問した。
先生「クラスのページ何にしたいですか?」
僕「白紙、メモ帳がいいです。」
先生「てらまち君の意見は置いといて、他の意見ないですか。」
僕「(心の中で:ふざけんなボケ)メモ帳にして、みんなお互いに好きなこと書いたほうが思い出になると思います」
って、それっぽい理由を付け焼刃で言った。そんな思い出がある。
文集で思い出したけど、こんなこともあったな。今思っても、すごい案だと思うんですけど。面白いと思うんだけどな。なんで、先生は考慮もせずに切り捨てたのだろう。切り捨てるから、こんなひねくれた子が育つんだよと言いたいね。笑、逆にそういう発言をしたときに、先生が全て真剣に受け止めていたら、どういう風に育っていたのだろうか?さらにひねくれた可能性があるな。ということは、それを踏まえたうえで、先生は対応していたのだろうかと考えてみる。
で、しぶとさは、ずっと昔からこんなことを思っていたことでも、分かるかもしれない。
一対一で綱引きをしたとする。そうしたら、僕は体力では負けるかもしれないから、綱引きのゲームでは線を割って負けるかもしれない。でも、僕は、綱に必死で捕まって、皮膚がすりむけて血が出ても、ついていく自信がある。
人に言わないと決めたことは、殺されても意地でも口をあかない。とか。頑固だな。頑固爺だ。
で、そんなことが言いたかったわけではない。しぶとさ。
ちょいと違うが、往生際の悪さを言いたかったのだ。
僕は花粉症だ。今週からすごい。鼻が詰まるし、目は痒い。マスクはしているし、薬も飲んでるし、のど飴も。
僕は、周りの人には花粉症でつらいといってきた。だが、心の中で認めてきたかというと、断じて認めていなかった。認めてやるかという感じだ。俺は花粉症じゃない。とか思って、気持ちだけでも花粉症になりたくなかった。某氏が花粉症にならないのは、気合が入っているからとぶっ飛んだことを言っていたが、それと基本的に同じだ。
しかし、ついに、自分の中でも、花粉症と言うのを認めることも仕方がないのかなという気持ちになってきた。。。
まんま、そのまんま。
僕と同じキャラの人が、世の中にはいる。
それは、まったくではなく、核が同じ人。
あっているかどうかは知らないが一方的に、そういう人を感じる、分かる。
その人の細かい行動。しぐさ。
一呼吸おいた一言。
それらに、ふむ、とうなずける。
せこいことはしたくない。
今日は、久しぶりに東横線に乗った。
1年ちょっと前まで日吉に住んでいた。そのころは使う電車といったらイコール東横線。
みなとみらい線が開通する直前ぐらいに東横線にはサヨウナラをした。
乗っていて懐かしかった。懐かしいと言うか、なんだろうか。うーん、東横線だと思った。ってそのままじゃん。
で、チングの初個展に行き少し話した。少ししか話していないんだけど、なんかよかった。
失敗したからこそ、分かったという話はふむふむと思った。
で、一番しっくり来た言葉。
せこいことはしたくない。
僕もそうだと思った、たいしたない言葉ですが、なんかそうだと思った。俺の人生を振り返ると自分がせこいと思ったことは許せなかった。
そっか、せこいことはしたくない。
そーいえば、ちょいと前、ソニーのトップ人事があった。
私は、久夛良木健さんが次のトップになると予想していましたが、外れました。この方は、もともと相当自分の道を貫く人で、プレス手で成功しました。その後本社の副社長になって、バランス感覚もつけてきたように感じた。それになんといっても、頭が良くてファンキー。こういう人がトップになればさらにソニーも面白くなると思っていた。
あと、個人的に徳中暉久さんがソニーのブレーンだと思っていた。と言うのも、2003年株主総会での言動を見ていたらそう感じた。言動と言うのは徳中暉久さんだけでなく、出井さんの言動を含め、徳中暉久さんが前に出ないが重要なポジションだと思っていた。出井さんが分からないと、徳中暉久さんに聞いている感じだった。出井さんと徳中さん以外が話しているときに、こっそり耳打ちしたり。それは徳中暉久さんの専門でないことでも。CFOの方はイマイチだったし。、しかし、徳中暉久さんが話すことはなかった。だから、この方はもう少し続けるのかと思ったら、取締役を退任されるらしい。
まあ、ハワード・ストリンガーさんという、外国の方がトップになったわけだが、どうなるか面白いと言うのはある。大賀さんが、裏で操ったとかマスコミの報道はありますが、面白い人事ですね。ソニーどうなるんでしょう。設立趣意書の精神は貫いて欲しい。
そういえば「正義」というなまえや「正」「義」さらに「健」という文字が入っている人が好きだ。好きと言うよりも、いろいろな尊敬する人を考えてみたら、このような文字が入っていた。「孫正義」「柳井正」「堀義人」「久夛良木健」「茂木健一郎」などなどね。いっておくと、私は正義(せいぎ)なるものがあるかどうか知りません。いわゆる社会一般の正義は、ない可能性が高いです。ただ、個人にとっての正義はあるのかもしれません。
WBSでゴーンさんが出ていた。日産で6年やっていたらしい。そんなにもかぁ。と感じた。はじめはたたかれていたけど、今はたたく人なんていない。国民の大半なんて、そんなもんだ。まあ、批判されると言うのは、すごい人、能力のある人の証拠であるのも事実。
一番はマインドセット、行動、基本的ものの見方を変えられた。らしいです。
友達が、南米から帰ってきたというメールと写真を送ってくれた。
たまらんで、本当にたまらん。何気ない短いメールなのに伝わってくる。もともと、僕が南米に対してワクワク感を持っているから、そう読み取るのであろうけれど。
いやー、すげー。南米行きたい。
治安も悪くなく、飯もうまく、物価もそこそこ安く、いいらしい。送られてきた写真の青がいいです。空と海の青。そして白い雲。たまらんです。
もう一度行きたいと書いてあった。いや、いい。たまらんです。
やっぱり、一人で貧乏旅行しないと分からない地域と言うものはあるのだ。
まさに、そのひとつが南米であろう。
学校(学校じゃなくてもそれに類似するもの)
美術館(有名人のを置くのではなく、自分が好きな売れる前のアーティストの作品とか友達の作品とか、自分の撮った写真や作品を展示する、家とは分離されてて、美術館はそんなに大きくない、カフェが一回にあって芝生に面したオープンカフェ、図書館も併設してる。友達がいつでも集まってこれたり、食事できるスペースがあるといい。世界中のビールとかが置いてあったりするといい感じ。毎月一回ぐらい特定の日に集まる日なんか作りたい。サックスとかオーボエとか篳篥とかピアノとかバイオリンとかの音色が好きだからそれらの演奏する部屋も欲しい。アトリエ的な工作できたり汚したりしてもOKな部屋も欲しい)
すっごい古風な家(中身も外見も)
すっごくさい先端技術をすべて取り入れたような家(中身も外見も)研究所のような未来の生活を先取りした部屋
山とか海とか(無邪気に遊べるところ)。それの近くに家があるといい。ログハウスっぽいの。
秘密基地っぽいものを作りたい
みんなが心踊る仕事が出来る場
アートしたい、なんか作品作りたい。
みんなで遊びっぽくなんかしたい。
って、国が作りたいのか?ええって。
宗教かって話になっちゃう。
まあ、そのところ、踏み外さないように自己満足と社会性のエッジで生きるのがポイントだな。