今日、散歩した。
ケイタイを家に置いて。
ケイタイなる物とは、高校一年生の頃からだから7年目の付き合いになる。
たぶん、眼鏡の次に長い付き合いであると思う。
たまに、家に忘れて出かけることはあった。
でも、ほぼ毎日一緒にいた。
初めて長期間離れたのはトルコへ行ったときであったであろうか。
あの時、少し違和感があった。物足りなさといったほうがよいのかもしれない。
ポケットにあるものがない。そんな感じだ。
この頃はケイタイへの依存度が高かったのだろう。
だからそんな気持ちになったんだと思う。
しかし、今日あえてケイタイを家に置いて散歩した。
雲取山の筋肉痛が続き、歩く姿がぎこちない。
だから、3時間ぐらいの散歩になった。
だいたいケイタイなんてものは家に置いて出たすぐの時だけ何か物足りなさを感じるもの。
今日は、その家を出てすぐも物足りなさを感じなかった。
ケイタイへの依存度が少なくなったからであろう。
ケイタイを持っていないということは時間も失う。
時計をもっていないからだ。
だからなんだという話だ。
ケイタイも時計もない生活。
食べられることがどれだけ素晴らしいことか、
安心して生活できるということがどれだけありがたいことかを感じたい。
で、散歩をしていて思ったこと。
旅と散歩と移動は何が違うのか。
旅と旅行の違いはなんか前に書いたことがあると思う。
たぶん、世界一周している人は旅をしていると第三者は思うはずである。しかし、その人の目的地がパリだとする。その人は日本を出発して陸路でパリまで行く。普通この人は旅をしている。しかし、目的地のパリにしか興味がなく、パリへ行く陸路の過程にも興味がないとする。するとこの人にとっては、パリまでの道のりは単なる移動なんだろう。
移動というのは、最終的な目的地以外に興味がなく、その目的地へ行く過程を移動というんじゃないのだろうか。だから、ツアーで旅行に行くときの交通手段を使った行為は移動であるのかもしれない。一方で、個人で旅をする人これは交通機関に乗っているときも旅なのであろう。
散歩、これと旅を区別するのは難しい。「世界一周の散歩」であっても問題ないと思う。散歩は日帰りとか、気軽に出かけるものであると思うのだが、世界一周するのにすごい少ない荷物で出かける人もいる。
僕も18きっぷがあれば、日本中どこへでも散歩気分でいける。
まあ、何が言いたいわけでもない。
なんとなく、旅ってことが頭から離れないだけである。
Lie Fu
「Life is like a boat」
という歌が非常にいいです。
旅はまだ続いてく 穏やかな日も
つきはまた新しい周期で 舟を照らし出す
中略
運命の船を漕ぎ 波は次から次へと私たちを襲うけど
それも素敵な旅ね どれも素敵な旅ね
まあ、人生という名の旅路を歩んでいるということだ。
まあ、このブログのタイトル通りであるわけだ。