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June 12, 2005

現代社会という文脈においてのみ価値ある「天然」

「天然」といったらどんなイメージを持つのだろうか。天然ボケとかもあるが、魚とかの天然を思い出す人もいると思う。

スーパーや料理屋さんへ行くと、天然の鯛とかそんなコピーで価値をあげている。一方で養殖物といえば無駄に油っぽくてあまり高い評価は受けない。天然>養殖、こんな構図だ。これは疑う余地はないだろう。だって、天然と養殖が同じ値段だったら天然を頼むだろうし、普通天然のほうが高価であるから。

しかし、本当に天然というものには価値があるのか。まあ、価値はあるのだがそれ現代一般社会という状況・文脈においてのみだ。少なくとも僕はそうでした。

無人島で網にアナゴが引っかかった。言ってみれば、究極の天然ものだ。しかし、食べるときに、工場排水で汚染されていないかとか、食べても問題ないかとかいろいろ考えた。食べるのに勇気がいった。しかし、魚屋へ行けば、その魚がどこで取れて安全かどうかの保証もないのに安心して買って食べる。それも人為的に作られた養殖よりも、天然を好む。不思議だ。究極の天然は食べるのが怖いのに、スーパーにある天然は無条件に安心し、好んで選択する。これは社会という文脈、社会という安心感によっているのだろう。

とおもった。少なくとも僕はそういう思考回路の人間だ。

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