もし、このブログを今日やめたらどうなるだろう?
もし、このブログを売却できないだろうか?
もし、このブログをデザイン変更したらどうだろう?
もし、このブログをアラビア語で書いたらどうだろう?
もし、このブログを私以外の人が書いているとしたらどうだろうか?
「もし、このブログを私以外の人が書いているとしたらどうだろうか?」
読んでいる人はどんな反応をするのだろう。
このブログを書いている奴が”この私”だと思ってよんでいる人、それは実際に”この私”に会ったことがある人だと思おう。そして、その会ったことある人は”この私”が書いていると思って読んでいる。私にあったときの印象や人間性などを踏まえた読んでいる。そして、再びあったときはこのブログの情報が”この私”と言う人間に付加されたという前提で話をする。その繰り返しで、私という人間像が造られていっていると思う。
それは、ブログと実際にあって話すことに整合性があったりするから、ブログを書いている”この私”と実際の私を同じ人物として疑うことなく思っているのだろう。実際の私もこのブログを読んで話をあわせているだけかもしれない。
実際の私とブログを書いている”この私”が違ったとしたらどうだろう?どのような印象を受けるのだろう?
とか、思ってみました。まあ、実際は同一人物だからどうでもいいんだけど。
心のそこからインターネットをスゴイと感じる時というのは、何の変哲もない(有名でない)一般人がインターネットの先っぽにいると感じたときです。
私が、インターネットをすごいと感じるときはもちろん新しく面白いサービスがリリースされたり、この技術がこうやって使われるとすごい面白くなるんじゃないかと考えたりするときもあります。
でも、心のそこからネットってすげーと思うのは、インターネットを介して、何らかの共通することを通じて普通の人とつながったときではないのかと思いました。そいで、なんか助けてくれたり、同じ感動を共有できたりするといいんだよね。
旅先三日目
http://www.teratown.com/blog/archives/001466.html
http://www.teratown.com/blog/archives/001457.html
W31K
http://www.teratown.com/blog/archives/001449.html
これらを通して思ったわけです。はい。
先日某氏と「私」とはどこまでか、極限的に何を指しているのか、って話しているのは面白かったです。私は、哲学史の知識がないんですけど、それだから自分の考えが自分にも面白くうつりました。