みんなが言う、私の印象はけっこうバラバラだ。それも僕のことを分かってくれていると思っている人からの印象が。しかし、ばらばらだからといって外れているかといえば違う。それぞれが的を得ている。
でも、珍しく共通することがある。起こった事を見たことがない。ってこと。
確かに、怒らない。別に、怒りの感情もたいしてこみ上げてこない。
大学一年生のころ、自分がもっと感情的になりたいと思った。怒りたいと思った。なんかすごく人間的な気がして。しかし、怒りの感情はこみ上げてこない。
怒った時にうまれるパワーってのがすごいと思う。一方で負の力も大きいと思う。
どんな理由からなのだろうか
小さいころあまり怒る機会がなかった。そんな育てられ方をした。
平生の会話でも違うと思ったら批判することが他の人より多い。批判するという行為には、怒ったときと同じ精神的な作用がある。僕は徐々にそのストレスを解放しているから、たくさんたまることがなく怒りにならない。
僕の性格はビビリで常に殺されることを考える。で、自分が怒って相手が怒るとけんかになって収拾がつかなくなる。すると相手が何をするか予測不可能になるかもしれない。そうするとぼこぼこにされて殺されるかもと考える。そのリスクをはじめからなくしている。
まあ、怒っても仕方ないと思ってしまう考え方なのだろうか。
俺の思考パターンというか、ブログに書くときのパターン。
逆説的なことを論理的に正しいとする、新たな気づき系、
ある自分がした経験とか、知ったことをまったく関係なさそうなことに当てはめてみたりする一般化、
いたって当たり前のことを、再度自分の体験を通し気づく系。
なんか、サッカーという競技は天才が目立ちやすいのかと思った。
それは、野球と比べるとルールが少ないからだ。細かいルールが多いか少ないかではなく、自由度が高いという表現なのかもしれない。野球だと、ファースト、セカンド、サード、ホームという順番に走ると決まっている。守りと攻撃が時間によって完全に分けられている。などなど。サッカーは、同時に責め同時に守る。というように、自由度が高い気がする。
自由度が高いと、一人ひとりの裁量権が大きいというか、一人ひとりの動作が大きな影響を与える。だから、天才が目立ちやすい。
これは、組織とか他のものにも当てはまりそうだよなー。
風の旅人という写真が多い雑誌がある。この創刊号を偶然渋谷のブックファーストで買った。偶然というのは、売れ残っており100円だったから。だから以前から読んでいた。といっても一回だけ。なんか、変わっている印象。なにか得体の知れない感じをこの本から得ていた。寂しさの中にある殺伐さといえばいいのか、現実の中の寂しさの中の現実離れした感じ。
しかし、編集長の話を直接聞く機械があった。すると印象が変わった。なんか、あいまいな点の印象が、線につながったというか、ああ、そうなんだと思えた。
言葉で明確にコンセプトを知ったから。
作っている人柄を知ったから。
なんでだろうか。まったく同じものを見るのにこれほどまでに印象が違う。
最近、期待と落胆について思った。それは子供のころの遠足のようなそわそわする感じがしたから。でも、実際に遊ぶとそのそわそわする期待以下だった。つまらないことを言ってしまえば、そわそわしているときから、期待以下なんだろうなとうすうす感じていた。それは、今までの経験上、事前にそわそわ期待した時は、実際に行動してみると落胆してきたから。
そこで思う、あの感情をコントロールできないのか。何かする前のそわそわ感をコントロールできないのであろうか。そわそわしないように。
落胆のメカニズム解明 脳の特定部分が活発化
期待している大きな報酬ではなく、やむを得ずほかのものしか選べない場合には、脳の特定の部分が活発に活動していることを木村実京都府立医大教授(神経生理学)らがサルの実験で解明、米科学誌サイエンスに17日、発表した。
木村教授は「この部分は葛藤(かっとう)や落胆などの感情や試行錯誤することと関係がある」としている。
木村教授らは、ランプの色によって報酬となる水の量が多い場合と少ない場合の2種類が表示され、正しいボタン操作をすると水が得られるようにして実験した。
すると水の量が多い表示の場合はサルは素早く行動しミスは少なく、自分の行動と得られる結果の関係を学習していた。
サルの脳の視床にある正中中心核(せいちゅうちゅうしんかく )(CM核)という部分に電極を入れると、期待を裏切る少ない量の表示が出た時にだけ、CM核で活動電位が高まっていることが分かった。(共同通信) - 6月17日6時12分更新