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November 16, 2004

理想の家と近くにあると良いもの

ゲオとブックオフは近くにあると良い。

超ハイテクな部屋と純和風ですごい落ち着きのある部屋が欲しいな。

あと、理想は小さな美術館があるといいかも。

希望格差社会の到来

RHEOS REPORT の記事を見て。

僕は、小さいころ自分は何も出来ない人間だと思っていた。しかし、中学ぐらいのある日、思った。僕よりも物事ができない大人っているよな。その人たちが世の中で一人で生きていけるんだったら、俺もなんだって出来るジャンって。(この考えが、いかがなものかと今は思うが。)で、昔は本当に何も出来ないと思っていた。自分で世の中にインパクトのあることは出来ないとおもっていた。小さいころはテレビの世界はどっか別世界で、国を動かしているのはとてつもなくスゴイ人と。しかし、年を重ねるごとにやろうと思えば何でもできるというように思ってきた。ドンドン、希望が出てきた。特に高校・大学になってからはそれが顕著だと思う。いまや、超楽観的と言われてしまうほど、、、

しかし、みんながこう思っていないのが現実みたいだ。高校のときだったと思うがこんなことを友達から言われた。小さいころは夢があった。何でも出来そうな気がした。でも年を重ねるごとに何にも出来ないんだと気が付き始めたと。さらに、成人式のときに地元に帰って地元に残っている人と話しても同じようなことを言われた。

コレは大問題だ。特に地元に残った人がこのような思いの人が多い気がする。何をやっても意味がない。努力しても何も変わらない。そう感じていそうだ。もともと、そういう考え方の人が地方に残る気もする。希望を持っている人は東京に流れている気がする。このままじゃ地方の希望はまさになく、絶望だ。

僕の聞いた感じから推測すると、年を重ね絶望してしまった人でも、小さいころは希望があったり、夢があったり、何でもできると思っていた可能性が高い。しかし、生きていく中でさまざまな経験をして壁を感じた。その積み重ねにより希望をなくした。ココが問題だとする。

コレを何とかすれば、希望を持つ人が増えるのではないか?すると、やっぱり教育だろう。コレは無理だとか、それはやってはいけないとか、先生を神聖化した・絶対的存在とした教育をやめる、マイナス方式の教育をやめる。出来たらほめるとか、努力したら出来るレベルの問題を個別に出すとか、一つの答えを絶対とする問題ばかりをやめるとか、加点方式の教育をする。思いつきだけどこうすればいいんじゃないかな。

こういう教育をすれば、絶望する人が少なくなり希望を持つ人が増えそうだ。それに地方の状況も絶望から希望に一歩進みそうだ。

中央公論12月号の「希望格差社会の到来」は目を引いた。パラサイト・シングルの山田昌弘先生の論文である。

詳しくは一読をおすすめするが、この中で特に目を引いたのが「希望の社会心理学」という言葉である。もともとはネッセという社会心理学者の開発したものらしいが、「希望という感情は、努力が報われると感じるときに生じる。絶望は、努力してもしなくても同じだと感じるときに生じる」と規定しているそうだ。

現在の日本は、少数の「努力が報われる」と感じている層と何をやっても変わらず「努力が報われない」と考えている大多数に分化しているかもしれない。それが希望格差社会である。中核・専門労働者になれる可能性がある特定の学校で勉強できる者と、いくら勉強してもフリーターという「ステイタス」にしかなれない学校で勉強している者では、学習意欲がある生徒とない生徒に分かれるインセンティブ・デバイドが生じてしまうという。

インセンティブ・デバイドの問題を解決せずに、「がんばれ」を連呼しても意味がないのだろう。希望を信じている人には希望がない人に対する想像力が欠けてしまう。健康な人が不健康な人の気持ちがわからないように。酒が飲める人が酒が飲めない人の気持ちがわからないように。人の気持ちを踏み潰すのは、多くは想像力の欠如である。

山田先生は社会学の先生だが、投資の世界にはこれからは社会学の素養も必要になってきているように思える。フリーターやニートの問題から目をそらすわけにはいかなくなってきている。


情報の感染-曖昧な世の中を生きるということ-

今日、養老さんの番組を見て、そして昔のことを思い出し、シリーズ系のNHKスペシャルが頭をまわり、過去に読んだ本を思い出したり、自分の考えを頭でぐるぐるさせたり、ITやその他の技術進歩、芸術・仏教なんかも少ない知識と足らない頭で考えちゃったりした。

私は言いたい。「曖昧」これだ。コレだといっている時点で曖昧でないという突込みがくるだろうけど。まあ、少なくとも今僕はそう思う。まあ、コレだと正確には頭では感じていない。そう感じる、キターって感じの時になる、なんか不思議な脳の感じが起こっている。

「曖昧」というキーワードが頭に浮かんだ。で、なんとなく自分のブログで検索。すると相手には伝わってなさそうだけど、自分が何かしら感じたけど言い切れていないエントリーがいくつかヒット。そこで、自分の中で強い思いになった。

で、曖昧、曖昧って何がいいたいか。

僕が、生きる今後の世の中はこの考えがさらに大きな波として押し寄せてくる。そんな世の中をどう生きるか。そう、これは僕にとってすごいことです。今後の社会の生き抜き方を梅田さんや大前研一さんはサバイブという言葉で表現している。僕はそう短い言葉ではまだいえないが、この文章のようなことを踏まえた上での生き方ということが言いたいのです。

パソコン・インターネット・携帯電話などのデジタル製品の普及、いわゆるIT革命によってアナログ時代よりもモノの移動、情報の移動など、世の中のもののデータを取りやすくなり、それを集約して分析することなどが可能になり、より精度の高い分析になると思われていた。しかし、実際は違うと思う。ありとあらゆるところで、情報はうまれ、流れ、その情報は変化している。1年か2年ぐらい前一度僕が使った言葉「情報は感染する」こんな感じだと思う。まさに感染なのだ。どこでどう移ったかもはっきりしない。そして、ウイルスは変化もする。そしていろいろな場所で、また同時にどんどん増える。このようになっていては集約することも出来なければ、精度の高い分析も出来ない。今後なんてより情報量は増え、さらに今までの情報もたまっている。情報があふれている時代といわれる。同じ物事に対しても、さまざまな立場の意見、事実は一つなはずなのに証拠があるとされる事実とやらがいくつも出てくる。そんな時代だ。そんな情報があふれた次代を越え、その次にくるのはこれらを踏まえた「曖昧な時代」だ。同じものでも形を変え、どこにあるかも、その数も、分からない、そして定まらない時代だろうと思う。

よく言われることだが、お金というものが絶対的な指標ではなくなって来ている。この考えはより多くの日本人の中にやどるであろう。もちろん、いわゆる高偏差値大学が人間の価値も決めない。明確な順位が現れない、すると人間は何を指標にするのか、何を支えにするのか。

コレだと、明確なものが物質的にも、情報でも、自分の中の思いなどでも少なくなる、ほとんどなくなる、明確かどうかなんて分からず、判断が付かない、判断が付いたとしてもそれはすぐ別の判断に変わってしまうかもしれない時代。こんな時代をどう生きるのか。

量子論は答えを教えてくれるのかも知れないと思った。量子論は理論では分からない部分がある、しかし応用では実際に使えるものとして役立っている。じゃあ、理論は完璧に分からなくてもまあいいんじゃないかと。科学というものの中でこのような考えは珍しいというか斬新なのではないかと思う。

曖昧なものを、抽象的なものを、しっかりと定まらないものを、ほんのちょっとの変化を、自ら感じ、知り、受け入れて、見極め、行動する、こうすることが重要な時代になるのではないか。明確な答えを求めるのも良いが、そうしたら死ぬまで明確なものなんて見えてこないだろうから。「曖昧なものを曖昧なままでも受け入れる覚悟を持って生きる」ってことがポイントじゃないかな。

曖昧、抽象的なんだから結局人に伝わらないような文章になった。といって逃げるつもりはない。より、僕の脳の中のものを伝えられるようにしていきたい。この文章はただ単に人間が曖昧な不安をもって日々暮らしているってことが言いたいわけじゃないですよ。それだけしか伝わってないかもしれないけど。

「漠然とした不安」というのは、芥川龍之介が自殺の理由として残した言葉だとインドで聞いたのだが、先をいっていた人なんだろうなと再認識。


人間は固定した川ではないと養老さんが表現したが、人間は雲って言った方が分かりやすい気がする。雲なら形が変わるのも、流れているのも目に見やすいから。ああ、そういえば小学生のころ校庭に寝っころがって流れる雲を見たときの衝撃は今でも忘れない。南校舎の非常階段とボール置き場の間だったな。

曖昧の検索結果