February 2006 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28

October 15, 2004

世界遺産展

世界遺産写真展新シリーズ

「世界遺産写真展III」が11/10より, 東京で開催されます。
期間:2004年11月10日(水)〜15日(月) 10:00〜19:30(20:00閉場)
<最終日は17:30閉場>,
会場:新宿タカシマヤ10階


こんなんがあります。ボクはいつか決めていないんですけど、行きます。
11日の木曜日か、14日の日曜日に行こうかなと思ってます。
もし、行く予定の人や行きたい人がいたら一緒に行きましょう。

貨物列車の駅付近で紙を見て思う、言葉の認識

駅から家に行く間に踏切がある。その踏み切りは貨物の倉庫のちょっと手前の踏み切りだ。だから、そこを通る電車はスピード遅い。貨物の車庫から出て行ったり、入ってきたり。その踏み切りを渡ろうとする時に、電車が通りかかることがある。ケッコウ長いので、あー引っかかった。と思う。しかし、どうせなんで、なんかオモシロイコトをしたり、普段は貨物をじっくり見れないので見てみようと思う。

それで、ぼーっと貨物を見ていた。いろんな会社の貨物があった。それはいいんだけど、コンテナの左下あたりに紙が張ってある。それはコンテナの仕分けに使われる紙だと思う。

名古屋とか地名が書いてあり、5,6桁の数字が3箇所ぐらいに書いてある。で、それを見ていた。初めはどこへ行く貨物が多いんだろうとか思いながら。すると、地名に関してなんだが、読める地名と読めない地名がある。それは漢字が読めないということではなく。で、何でかなと思う。名古屋とかは読めるのに梶ヶ谷は読めなかった。さっきから読めると書いているが、おそらく読める読めないではないと、貨物列車が去ってから思った。だって最終的に梶ヶ谷って読めてるから。「名古屋」この文字は列車が通る一瞬で認識できたのに、「梶ヶ谷」はすぐに認識できず、あとから「梶ヶ谷」だぁ。と思った。これはなぜか?それは「名古屋」この文字を普段読みなれ、聞きなれているからだろう。この文字を一文字一文字読んで名古屋と理解したのではなく、「名古屋」これを3文字セットで一文字というか一つの記号、絵のように認識している。だから頭を自らの意識で働かせて「名古屋」と読んだのではなく、経験などから言葉以上のもの(もっと感覚的なもの)として認識しているんだなと思った。「梶ヶ谷」この言葉はめったに使ったことがない。だから、その文字を一文字一文字読んで、一つの単語と認識して、読み方を脳のデータベースからひっぱてきて、一つの言葉として僕は理解でき、ああ梶ヶ谷かぁとなったんだと思う。列車が去るときは何って書いてあるか分からなかったけど、コンテナに張ってある紙が写真のように映像で脳に残っていて、列車が去った後に、映像から文字を引っ張り出したんだろうなと思う。

こう考えると、普段話している言葉でも、普段使いまくっている単語と、普段使っていないけど分かる単語、これらを使ったり聞いたりするときに使う脳の部分は違うんだろうなと思った。それに、使いまくっている単語は意味なんて知らなくてもその言葉を聴けば感覚的な意味が分かるが、あまり使わない聞かない単語は前者のようには理解していないんだろうなと思った。一単語ずつ脳を意識的に使って理解しているんだろうな。感覚的に理解可能な単語に置き換えて理解しているのかもしれない。

この二種類の単語は、同じ言葉とはひとくくりに出来ないような感じがした。

もちろん、人それぞれある特定の単語に関する理解は違う。それはその単語を自分で使ったり、聞いたりした経験が違うから。その単語以外の人生も違うのだから。でも、これとは違う次元で、上記のことは同じ言葉と人くくりに出来ない気がした。明確な理由は説明できないがそんな気がした。
ある言葉を使いまくって、感覚的に認識するようになる単語もあるだろう。

対談の本

一概には言えないのだが、対談を本にしたものは何かつまらない。

対談形式の本を読んだ。書いてある内容自体は好きなんだが何か物足りなさというかつまらなさを感じた。何でだろうと思う。対談は最低でも2人以上で行う。その対談を本にしてあるわけだ。対談というのは話している間(ま)、顔の表情、その日の天気、部屋の照明、さまざまなものを対談している人同士は共有している。それらを無意識のうちに踏まえた上で対談している。その言葉にはならないものがあって対談は成立している。しかし対談を本にした時点で、文字だけが切り取られる。すると、何かしら伝わってこないものがある。それで物足りなさを感じているのだろう。もちろん、編集して補足していると思うが、完全に補完できているわけではないんだろう。

普通の本は、作家が一人で筆を持って書いている。対談とは違い文字以外の要素が少ないように感じる。だから普通の本の方がよみやすいのかな。 

ただそう思っただけでした。ちゃんちゃん。