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October 17, 2004

奏でる音

僕は、いわゆる楽器と言うものは演奏できない。
澄み切った音を奏でることは出来ないかもしれない。

しかし、僕は脳という楽器を持ち、
想像というしなやかな音色を奏でることができるだろう。

これはすべての人、すべてのことに当てはまるだろう。

「文字と想像」、脳の質感はある種のアウトプットであり言葉による表現は意味がない

何かひとつのことを考えると連鎖的にどんどん考えが浮かんだりすることがある。書きとめておこうとメモをいくつも残す。そして、いま頭の中で創造したことや考えの中心となることはだいたい書いたな、と思いメモを終わる。そして何日かたってから、メモを見る。何か物足りない。あれ、これだけだったっけ??もっといろいろ考えてメモした気がするなーと感じる。

僕の過去の記憶というものは僕という人間自体を過大評価しているから、メモはもっと書いた=もっといろいろなことを想像した、考えたと思うのかもしれない。確かにその面もあるだろう。しかしそれだけではないと思う。脳というものは、字にならない、脳の中で論理的プロセスを経ない、なにやら感覚的なものが大きな役割を果たしていると思う。それが自分の脳の中に記憶として残っており、字ではそれはあらわせないから、何か物足りない感じを得るのだと思う。

そう考えると、脳って不思議だな。自分の脳自体で考えていることをその自分ですら分かっていない。同じ脳のはずなのに分からない。同じ脳だから分からないのかもしれない。

いや、人間は脳の中にあるものをすべて明確な形で認識できると思ってしまっていること自体が間違いなのかもしれない。僕の頭の中にそう前提条件があるのがいけないのかも。だって、言葉としてはあらわせない、脳から発生した感じ、そのなにかしらも、言ってみればアウトプットな訳だ。元をたどればその感覚、質感もなかった、それらが生まれて僕の脳は感じた。ということは言葉にはならなくてもその質感自体がアウトプットなわけだ。思えば、アウトプットの表現方法が言葉に限られている必要もない。というか、アウトプットの方法が言葉という一つだけの方がありえない。その質感は言葉で表そうということ自体が意味がない。そうなのかもしれない。

形式的なことは言葉で伝えられても、それ以上の意味において言葉はあまり意味が伝えられていないのだろう。まあ、他者がいてこそ、言葉には意味があるのだが。

ぼくみたんだ

最近、幼稚園とか小学校時の感覚や脳の思考を感じたいといっている訳です。僕の脳はその時も踏まえた上で今の脳が作られているので、今でも少しは感じているというか、延長線上だともいえるわけです。でも、何か違うかもと自分が今にして作り上げた記憶でそう思っていた。

で、今日は日曜日なのに早く目が覚める。で、テレビをつける。すると、クボジュンのえいごっこという番組がやっていた。この番組は幼稚園児向きの英語番組。で、番組の最後に「ぼくみたんだ」という本を朗読。(これは日本語の本です。)

ミスチルのANYがオルゴールバージョンでBGMとしてながれはじめた。そして「ぼくみたんだ」、と朗読が始まる。「ぼくみたんだ おひさまの なかにいたんだ ぼく みたんだ やまとやまの あいだに かくれたよ…。ぼくみたんだ・・・ゆうひにうつるきょうりゅうのかげを」ゆっくりとしたテンポで朗読されるこの本。めがねもかけないでテレビを見ていたので、はっきりと見えない。クレヨンで書かれたような線だけの恐竜と真っ赤な太陽。なんか、懐かしいというか、昔に脳が戻れた様な気がした。

「ぼくみたんだ」といってある少年は朝日を見たり、葉っぱについている小さな虫を見たり、夕日を見たり
といろいろな経験をする。その前に「ぼくみたんだ」というフレーズが常に入る。朗読が終わった後、なんだろうこの感覚と思った。そしてふと考える。幼少のころの喜び、これはまさに「ぼくみたんだ」だったんだと思う。それが純粋な楽しみだった気がする。今まで知らなかった物を見る。そして親や友達に「ぼくみたんだ」という。この一連の行為が純粋な喜びだったと思う。この感覚が人間の喜びの原点なのかなと思った。大人になってもそれは続いていて、新しいことを知るとか、見る、体験する、作り出す、これらには喜びを感じるのだろう。そんな気がした。

ぼくみたんだ
くろだ せいたろう

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