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November 01, 2004

イェイツとアイルランド

サリーガーデンズという曲を聴いた。かなり良くて繰り返し聞き続けている。繰り返し聞いても色あせない、心地よい曲です。

で、調べるとイェイツという人の詩らしい。この人はノーベル賞もとった人みたいで有名人っぽい。初めて知った。でも、とりあえずこの人の背景を知る前に、詩などを堪能したい。その後イェイツについて知ろうと思う。文脈を越えた美しさを味わうためにはこの順番がいい。

で、ついでにアイルランド民謡にイェイツの詩がのるとまた美しい。たまんないですよ。アイルランドでこの詩や曲を聴きながら旅したいと思い、調べると、いい国じゃないですか。

http://www.tourismireland.jp/index.htmlスライドショーなんかもうたまんないですよ。

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中国、アメリカ・ボリビア・ペルー、フランス・アイルランドですかな。

何かがある

ウェブページがしょぼい会社、やる気のなさそうな社員、誰でも出来そうなビジネス、はっきり言ってダメダメな会社って感じです。このような会社で本当に業績が悪いところもあるが、しっかり利益を出しているところもある。どうしてだ?どうやって儲けているのだ?

見栄えだけかっこよくて、無駄に力んでいる企業で利益を出せない会社よりすごい。
それは、犯罪チックなことを裏でやっているとか、人脈がすごいとか理由はあるんだろう。でも、こんな理由じゃない部分もあるはずだ。

何が違うのだろう。ビジネスセンスというものはそういうものだろうか?
組織としての何かしらの強さ、会社の習慣、雰囲気いろいろあるんだろうな。
それを掴み取りたいな。

逆上がりが出来る瞬間に何が起こるか

逆上がり、 小学校のときに出来なかった経験がある人も多いと思う。練習して練習して、やっと出来た。そんな思い出があるのではないか。

で、出来なくて何回も繰り返して、やっとはじめて出来た!時があるはずだ。

初めて出来た時と、その一回前の出来なかったとき、何が違うのか?体力もスキルもほとんど同じはず。

何か変化があったはずなのだ。しかし、すべてほとんど変化はないはず。

なんだろう、その瞬間に小さくとも、大きな変化があったのだ。この違いが気になる。

人間が、なんとなく気持ちが変わる瞬間も不思議であると昔書いたが、それと似ているのかも。

色あせないもの

最近書いた気もするが、とりあえず書く。

人間は、同じことを繰り返せば飽きる。つまらなくなることがほとんどだ。いくらうまいものでも毎日食べていれば飽きるし、王様のような生活も毎日だったらつまらなくなる。ありがたみなんてなくなる。

しかし、色あせない気持ちもあるようだ。
先日とある質問をした。舞台の上にたつ人に。年間に何百回も舞台に立つその人は毎年何百回も拍手を受ける。その喜びも薄れるものだと思い、僕は「舞台に立つ原動力や一番うれしいことは何かとたずねた。」するとお客さんの拍手だという。そうかとおもい「毎回拍手をもらうとそれに対する感情は薄れ、原動力としては弱いものになるのではないか?」とたずねると「全くそれはない」と。正直びびった。全く色あせないようだ。色あせない思いがあるようだ。同時に研究者の人も、自分の研究テーマを何年もやり続けてもその思いは全く弱くなることがないといっていた。

やられた。全く色あせない思いがあったのだ。

これが、自分の生きる道という奴だろう。まさに吾人の任務だ。

人間のベースとなる思想の共有とは何か

人と話していると思うことがある。それは、本質的に共感しているときには起こらない感情や思いである。いや、自分と違う意見であっても、起こらないときもある。

じゃあ、何に対してその思いはあるのか。

「何か違う、通じない」と思ったときに起こる感情だ。
それは生きる思想の根底が違うからじゃないかと思う。人間のベースとなる思想が違うってことだ。それは、育ってきた環境が違うから、それまでの経験、その人が社会でとってきたポジション、人にとられた態度、その人が生きることについてどれだけ考えたかなどに関わってくる。言ってしまえば人生のすべてに関係するのだ。

こういうと、すべての人が違う環境で育っている。双子だって違う。みんな違う環境なのだが、分かり合える人と分かり合えない人がいる。通じる人と全く通じない人。なぜだ?それはファーストインプレッションで拒否反応を示したとか、ステレオタイプ的なものがないわけではないと思うが、そう簡単には片付けられない。

自分の考えと違っても、腑に落ちることがある。

しかし、違った考えで腑に落ちなくても、この「何か違う、通じない」と思ったときに起こる感情が起こらないこともある。それは、その相手と長い付き合いでお互いのベースを分かっているからかもしれない。

じゃあやっぱり、ベースを流れる思想が共有できるか出来ないか、ここに行きつく。で、これがあまりにも違う人のことは理解できないのかもしれない。

「人間のベースとなる思想」とは何なのか?

人間はすぐに形あるもの、はっきりと見えるもの、はっきりと分かるものを求めたがる。それはお金でも、偶像崇拝でも、経典でも、座右の名でも、肩書きでも、ブランド物、何でもそうなのだが、そういうものを求める。しかし、それらは僕の考えで言えば「抽象的な考え」と「具体的な例」理論と同じだ。人間は分かりやすかったり、説明しやすいのですぐに具体例で示す。確かに分かりやすいが、自分の思いというのは具体例とは違う。もっと抽象的なのだ。抽象的な思いに本質があるのだ。具体例というのは僕に言わせればブランド物と一緒だ。

僕も、形のあるものを全く求めない人間ではない。形あるものはっきりしたものを求める。しかし、それがすべてではないと思っている。ブッダガヤで今まで僕は何でこんなにも形あるものを求めて、それによりすがってきたのだと思った。この話は誰にもしていないと思うが、僕はブッダガヤにいった。行く前に、釈迦が悟りを開いたところだし、数珠とかお経とかなんか買おうと思っていた。考えるきっかけの思い出として。それも、マハボディ寺院という悟りを開いた菩提樹のあるメインテンプルで。なんか、悟りを開いた寺で買うと「ありがたみ」があるというか、そんな感情を持っていた。しかしだ、実際に行ってみると数珠もなければ、お経もうってない。あーあ、買えないと物足りない感じだった。これは一日目の素直な感想だ。2,3日行って菩提樹の下にすわっていると気がついた。おれは形あるものに頼りすぎていると。それに気がついた時、正直愕然とした。何か自分の今までの人生はなんだったのかと思うくらい。何という安っぽい考えをしていたのか、そんな考えをした人生なんてなんというむなしい人生なのか。衝撃が走った。もともと、ブランド物などに興味のない僕でもそこまでショックを受けた。

目に見える数珠というものを手に入れることのみで満足しようとしていたのだ。それは、何も考えないことにつながる。すぐに手に入って満足して、何も考えなくなってしまう。しかし、そうじゃない。
具体的なものとしての数珠を買うことにより、目に見える思い出を作る。これは、ツアーで観光地まで連れて行かれて、そこを10分でみて、一瞬で忘れる解説を聞いて、写真だけとって返ってくるのと変わらない。ただ、行ったという記録を残すため、そこへ行ったと周りの人に示すためだけに行く。自分の本当の思いと外れている。こんな海外旅行とブッダガヤで数珠を買うことは同じなのだ。

僕は、ブッダガヤで物に頼らないことを知った。自分で考え、自分で感じるそれが大切なんだと思った。しかし、それは目には見えないし、はっきりと一言でいえないかもしれない。そんな不安、それを乗り越える。そこにしかないものがある。

「曖昧なものを曖昧なまま受け入れることの出来る心」コレが出来る心はすごいものだと思う。安っぽい強い心といわれるものよりも、数段と不安だ。しかし、それらを越えたところにこの心があると思う。

で、この共有できるベースを流れる思想は一言では表せない。無常であるし、曖昧なものだ。はっきりと分からないから人間は不安だ。暗闇は物がはっきりと見えないから不安なように。

自分の考えやを一言であらわすなんて不可能だ。そうできないからといって自分がたいしたことないと思うのはおかしい。ただ、文字にしたり、言葉にすることで気づくこともある。そう、吾人の任務を書けばいいのだ。


言いたかったのは、この曖昧なものを曖昧なまま受け入れるそこに意味を感じれるかどうかが人間のベースとなる思想ではなかろうか?「曖昧なものを曖昧なまま受け入れる」ということを少しでも、ある一部分に関しても出来る人は僕と人間のベースとなる思想の共有が出来ているのだろう。


(関係する組織によって、人間のベースとなる思想の共有が出来ない人との関わり方は変わってくる。会社、サークル、クラスメイト、友達、NPO的な活動、旧友など。)

(仏教も昔は偶像崇拝禁止で、お経も釈迦が死ぬまで紙に残されていないらしい、それまでは口頭で説いているだけだったようだ。)

夜回り先生

このエントリーは完全に下書きです。まとまった文章でもなければ、話も飛びまくりです。

教育者というものは、ものすごい仕事だと思っています。世の中にある職業の中で一番大切じゃないかと思うくらいです。特に小学校〜高校までの教師です。前から僕はこう思っていきているわけです。信念をもって本気でやらなければ勤まらない職業だと思っています。答えのない、終わりのないもので、本気で問題に取り組めばと取り組むほど、問題の大きさを感じ、簡単には解決できない地道な努力が必要だと思います。そして、そう取り組む教育者というのは自分の時間も少なくなり、自分の体もオーバーワークでがたが来てしまうのではないかと思います。(僕は何も知らないのに、こんなこということは大変失礼だと思っております。)

ETV特集 「いいもんだよ、生きるって」▽夜回り先生・水谷修の感動の講演会に密着▽薬物乱用・リストカット・援交…眠れぬ子たちの悲鳴と向き合った半生▽「心の闇を越えて」相次ぐ少年少女の事件その背景には一体何が▽ネットいじめに悩む米国▽“群れ遊び”で子どもは変わる▽大人の責任とは

この番組を見て、改めて思いました。この人の言葉には魂がこもっています。この人は本物です。イチローの時も書きましたが、自分で考え、行動し、ある物事に対して思いがある人は、話すと伝わってきます。話すという一連の行動を通して伝わります。まあ、学校の先生が生徒に語りかける口調なので多少オカマくささはあるのですが、そんなことどうでもいいです。含蓄のある言葉ばかりです。ここまでの教育者がいることに感動した。本気で子どものことを考えているなと。こういう人が

この方についてちょっと調べたら、最近学校を辞められたらしい。子どもを思うあまりオーバーワークだし、精神的にもそうとうつらいのだろう。本を書き、ドラマ化され注目を浴びれば講演や相談も増えるし、社会の目もあびる。体にガタがきてしまうだろう。自分に厳しいから体にガタが来てしまうのだろう。そうしたら、救える子どもも救えない。そんなに自分に厳しく、徹底的にならなくてもいいのにとも思う。しかし、もしそうだったら、こういう行動をとる人にはなかったのだろう。非常に難しい問題だ。

人を育てるこれは、相当難しいことだと思う。一人一人違うし、大人の視点から言えば(もちろん、大人以外からも子どもは学んでいます。社会や友達など)、子どもがしていることをすべていっているわけではない、大人の育った環境とは技術進歩、その他社会全体としての大きな思想的流れからしても違っている。大人が育ったことを前提に話しても、子どもには全く通じないことがある。もちろん、育てるということに答えはないし終わりはないし、こういう人間という思い描く人間もそう簡単にはいかない。

死ぬまで育っている、社会では人を育てるという側面の方がメインになるかもしれないが、コレも重要である。組織においても人が重要だから。いくら年をとっても、人から学び育っていく。老人になり介護することもある意味、育てているといってもいいのではないか。もちろん、年下から育てられることも多いにある。


秀才、天才、こころの繊細な人、いわゆる普通の人、ある特定の能力に欠ける人を育てるという分類があるのかと思った。人間なんて分類できないし、一人一人違うというのは分かっています。でも、物事を考えるために、分類訳をします。こういう分類訳をすぐにしてしまう僕は教師には向いていないと思います。って、そんなことはどうでもいいです。

家族的視点、学校、地域社会、これらがベースになると思う。

上記に記した「人の性質別」と「育つ場」の分類でいろいろ考える必要がある。現状の問題を踏まえ、これからどういう社会が訪れるか、作って生きたいか、というのも踏まえて考える必要がある。これについては、また書くときがくるだろう。

先週の木曜日、生物学的視点から人間の発展を話した。UTの助手や博士課程の方々なのでやはり科学的視点というか発想だった。人間が生まれてくることに見る、人の育て方とか、人間の

昨日の夜も面白い話だった。子育てについて、これはどうやって行うべきなのかという話になった。非常に難しい問題であるが、話し好きとしては面白かった。自分で考えたり、敏感に感じ取ることが出来る人と話すのは面白い。

そういえば、2週間ほど前に教職の教育実習に行くといいよといわれた。彼は教職を採っていなかったが、教育実習にいったらしい。彼は、自分の信念をつらぬきとうしたようだ。マニュアルになくても正しいと思ったことをやった。そうしたら、先生からはマニュアルどおりやれと指導を受けたが、盲目的には従わなかったようだ。そうしたら校長のハンコがもらえなかったといっていた。しかし、彼はそれでも納得がいっていた。僕は彼はマニュアルに反抗しようと思ったわけでもないと思うし、彼は常識はずれなことをしたわけでもないと思う。彼はそんな安っぽい人間ではない。しかし、マニュアルどおりには出来なかった。当たり前だ。教員だってマニュアル通りなんかやってない。やっているのは教育実習できている教師になることしか考えなかった学生や、保険として教員免許がほしい学生。そして、こういう人が免許をもらい教員になる。コレじゃダメだ。本当にまずい。