僕は自己満足は生きるうえで最重要だぐらいで言ってきた。自分が納得するということは今でも、もちろん重要だと思う。もっといえば、考え方事態は変わっていないが表現が変わったと思う。で何かというと、完全な自己満足と、自己満足ではない外部に対して意味のあることの境でいることの難しさ、意味を言葉として感じたからだ。僕は前から自己満足が最も重要だといってきた、しかし、僕の周りにいる人の目には、僕という人間が完全に自己満足のみという風にはうつっていなかったと思う。少なくとも、そう思っている人がいると、僕は思っている。その点で、今までは、口では自己満足がすべてのような言い方をして、行動・その他の言動などでは、完全にそうなっていなかった。でも、完全なる自己満足と、社会的に意義のある、インパクトのあること(自分の信念を伝える。)の狭間でいることの難しさと意義を言葉として感じた今としては、言葉と行動を一致させる必要があるのかもしれない。行動を言葉に一致させる必要がある。それがまさに「完全な自己満足と、完全な自己満足ではない外部に対して意味のあることの境でいることの難しさ、とその大きな意義」という表現だ。これが行動と似ている。
完全な自己満足を極めるのも難しいが、言ってみれば世捨て人的な、はずれた人といってもいい。具体的に言えば、何かあっても、俺にはどうでもいいことだ、って言ってしまえば、自己満足をベースにする人はすんでしまう。ある種、逃げのようなものが自己満足にはある。一方で、自己満足とそうでない境にいるということは難しい。バランス感覚が非常に重要だ。このポジショニングを取れる人はめったにいないと思う。しかし、非常に重要な人である。自己満足を踏まえ、そうでない外部に対しての意義も踏まえなければならない。どんな問題があっても、それを放り投げることは出来ず、問題と正面から戦わなければならない。しかし、このポジショニングでしか出来ないことがたくさんあるし、僕もそのような立ち位置を目指している。
もちろん、自己満足であるということは重要で、それを踏まえた上での境のポジショニングを取ることの意味を感じた。
みんなに、こうなれといっているわけでなく、コレがベストだとも言っているわけではなく、僕がそうなりたいと思っただけです。これは、僕が前から芸術家だけは自己満足だけでイイといっていたが、この立ち居地を取れる芸術家も非常に面白い存在だと思う。
「みんなに、こうなれといっているわけでなく、コレがベストだとも言っているわけではなく、僕がそうなりたいと思っただけです。」本当はこんなこと書きたくない。理由は2つあって、一つは僕が書くことというのは、僕の考えで、そんでもって「今」の考えだ。だから、何も言わなくても、すべての僕の言葉の前に「僕が今思うのは、」ってことが付くのが当たり前であるからです。2つ目に、言い訳をしているみたい。あらかじめ防御している。それは、めんどくさいことがいやだからリスクヘッジといえばそうだが、なんか個人的に逃げは嫌いだ。昔、どんなことにも例外があると思っていたので僕の発言にはいつも、「基本的には、」って言葉がついていた。しかし、あるとき、そんなの必要ないと思って最近は言っていない。なんかあったときの逃げだと思うからだ。言葉だけだったらいいのだが、その言葉が僕の心のそこにある考えに通じていて、行動にも影響を与えると思う。だから、逃げの言葉は使いたくない。だが、最近書いてしまう。
僕にとってはどうでもいいことに関して、興味を持っていたりする人がいる。そりゃ当たり前だし、いた方がいいと思う。ここで言う関心のあるなしの対象は個物具体的なとあるブランドだったり、好きなテレビ番組とかそういうことでは全くない。生きるうえでの話である。これじゃ、曖昧すぎるが、生きるうえで大切にすることってな感じだ。
その人の生きるベースとなるものが安っぽいなという人とは話してこなかった。話そうと思ってはいたが、話してきたとは自分なりに思っていたが、腹を割っては話すことはなかった。僕にとってはどうでもいいことに関してだったからだ。もっと言えば、そのような人間自体に興味を持っていなかった。
しかし、それだけでは足らないと思った。腹を割って話してみて分かることがあるかもしれない。
自己満足と自己満足ではない狭間、エッジを生きる
理念や、最終的に達成したいことなどの思想的な面に興味がある。その考えに共感するタイプだ。はっきりいってそれを達成する手段にはそこまで気にしない。理念が達成できるものであるならば、絶対コレでないといけないということはあんまりない気がする。
それに、同じ思いを持っていた、同じような感情を抱いているけどそれを今まで共有できなかったが、共有できたことに喜びを感じた。その人に会えたからというのではなく、感情を共有できたことがうれしかった。
岐阜を出てきた人は、岐阜を見捨てたわけではないが、見切りをつけた人もいれば、外からみるためにって理由もあるだろう。未練があるにしても岐阜にいないわけである。その人たちが本当の意味で岐阜のために何かできるか?やっぱり地理的に岐阜にいないと難しいと思う。それか、東京にいても、覚悟を決めるということが必要だと思う。その活動をメインにおくという覚悟。それぐらいの決断を出来ないと思った。
岐阜の方々と一緒にいて気がついたこと。
実は岐阜を出てきて、岐阜に思いがある人はたくさんいる。
普段はそんなこと言ってなくても、その思いを行動に移していなくてもたくさんいる。
話していて気がついた。
これは難しい。完全に自分の立ち位置というものを自分で決めてしまって、その檻に入ってしまう可能性もある。
しかし、全体を見て、考えるそのうちに立ち位置が見えてくるのかもしれない。その立ち位置を踏まえた上で発言し行動する。それは大きな制約にはならないかもしれない。
自らの立ち位置。コレは難しい。覚悟とか吾人の任務とも関わってくる。
今日、それは僕にとって面白い日。楽しい。辛くもあるのだが、それだからこそ楽しさがある。自分が何も知らないことを知り、自分が何も考えていないことを知り、自分とは全く違った考えを聞ける。こんな機会を持てた僕は、自分でも幸せだと思う。大学のうちにもてたのも非常にうれしい。
前にも書いたと思うが、(草稿のままの可能性あり)「覚悟」これが重要なポイントになってくると思う。それは人生においてだ。これは他人から見てもなんとなく感じるものかも知れないが、やっぱり本人だけしか分からない。人生において、いつ「覚悟」を決めるか。とある同じ道を選択した、二人がいたとしても、片方は覚悟していて、片方は覚悟してないこともある。覚悟というのは単純に行動として現れるものでもないと思う。日常の些細なこと、考えの根底には覚悟が大きな影響を与えると思うが。
で、この「覚悟」をいつするかってのが人生でポイントになると思う。早く覚悟したからいいとも思わないし、一生覚悟できなかったから悪いとも思わない。しかし、僕の人生には「覚悟」することが必要だと思うし、覚悟したいと思っている。それでしか、見えないものがあると思う。覚悟というのは吾人の任務とも大きな関係があると思っている。
覚悟する日まで。
本質、なんてない。ブランド物をまとっていることだけでしか自分を表現できない人。この表現は完全に否定的な表現だ。僕はこういう人たちをあまりたいした人間とは思っていない。基本的に十人十色って考え方だから、そういう人がいることも分かるし、いてもイイと思っている。でも、僕の中では安っぽいとか思っているけど、実はそう簡単に言い切れない。
同じにおいのする人、なんか通じる人。この人は分かってる。そう感じる人が何人かいる。
酒が飲めるとかいう歌があった、月曜日は何チャラで酒が飲める、火曜日は何チャラでって感じで。僕の言いたいのはこの歌と正反対のような人を同じにおいのする人といっている。というのも、なんかイベントだとかプロジェクトだとか組織だとか、それらにかこつけないと一緒にいられないような仲ではなく何もないのに一緒に入れる仲の人は比較的通じている人なのだと思う。
具体的にこの条件を満たしているとかそういうことではない。